歎異抄 第三章
 善人と悪人

 『歎異抄』第三章のはじめにある「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということばは、『歎異抄』の中でもっとも衝撃的なことばだといえるでしょう。
 阿弥陀仏は悪人こそ救わなくてはならないと誓われたという教えを「悪人正機」といいます。二十年ほど前に韓国から尹晩栄先生が来られたとき、「悪人正機」を「悪人正客」といいかえられました。阿弥陀仏の目の前に、悪人が正客として招かれているような感じられ、なるほどと感じたことを思い出します。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということばは、親鸞聖人が初めて言われたのではなくて、親鸞聖人の師・法然上人のことばです。親鸞聖人は法然上人から聞いた教えとして、しばしば弟子たちに語っておられたのでしょう。
 『歎異抄』にいわれる「善人」「悪人」とは、どのような人を指すのでしょうか。
 『醍醐本 法然上人伝記』に次のような一節があります。

 一、善人なおもて往生す、いわんや悪人をやの事。
 私に云う、弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便ある善人のためにおこしたまわず。極重悪人にして他の方便なき輩をあわれみておこしたまえり。
 しかるを菩薩賢聖もこれにつきて往生を求め、凡夫の善人もこの願に帰して往生を得。いわんや罪悪の凡夫、もっともこの他力を憑むべし、というなり。悪しく領解して邪見に住すべからず。
 譬えば、本は凡夫のためにして、かねて聖人のためと云うが如し。よくよく心得べし、心得べし。

 はじめの一行が法然上人のことばで、「私に云う」から後は、法然上人の弟子が説明として書きくわえられた文章です。
 わかりにくい文章ですが、「善人」は菩薩や聖人や凡夫の善人をさし、「悪人」は極重悪人をさしています。
 また、善導大師の『観経疏』に次のようなことばがあります。

 諸仏の大悲は苦ある者においてす、心ひとえに常没の衆生を愍念したまう。これを以て勧めて浄土に帰せしむ。
 また水に溺れたる人のごときは、すみやかに、すべからく、ひとえに救うべし、岸上の者、何ぞ済うを用いるをなさん。

 この二つの文章から考えると、「悪人」は水に溺れている人のように、五濁の世界に沈みきって苦しんでいる人、「善人」は水に落ちていないから自由に歩ける人のように、自分で道を定め、仏道を進んでゆく能力がある人をさしているようです。
 しかし、『歎異抄』第三章には次のようなことばがあります。

 自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
 (自力の善行を積み重ねて浄土に往生しようと願っている人は、ひたすらに阿弥陀仏の他力をたのむ心が欠けているから、阿弥陀仏の本願の趣旨からはずれている。しかし、自力の心をひるがえして、他力をたのむ心へと変われば、阿弥陀仏の真実報土へ往生をとげることができる。)

 ここでは「善人」を「自力作善のひと」といい、阿弥陀仏の本願からはずれた人であって、自力を捨てて他力をたのむようにならなければ阿弥陀仏の救いを受けることはできないといわれます。つまり、「善人」とは自力の立場に止まっている人です。
 『正信偈』で龍樹菩薩と天親菩薩の教えを学びました。一般的に考えると、龍樹も天親も菩薩と呼ばれるように、優れた能力がある聖人です。しかし、二人が仏道に入られたとき、念仏に出会われたときは、自分自身が罪悪深重の凡夫であることを深く自覚されたときでした。
 このことから思うことは、ほんとうに能力がある「善人」がいるのかということです。
 善導大師の師・道綽禅師は『安楽集』に次のように述べておられます。

   我が末法の時の中に、億億の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得る者あらずと。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。

 道綽禅師は今から千四百年前、中国が分裂をくりかえした南北朝から、統一された唐にかわっていく混乱の時代に生きた方です。その中で、廃仏毀釈がおこり、僧の地位を剥奪され、もしかしたら、強制的に徴兵されたことがあったかもしれません。後に再び出家されて、念仏の道に入られました。
 道綽禅師にとって「五濁悪世」「行を起し道を修すれども、いまだ一人として得る者あらず」ということは、身にしみて現実のことであったでしょう。「善人」はひとりもなく、「悪人」ばかりの時代世界のなかで、自分自身も「悪人」として生きてゆかなければならない現実。親鸞聖人も同じように感じておられたにちがいありません。

 それでは、『歎異抄』でいわれる「悪人」とは、どのような人でしょうか。たとえば、犯罪者のように悪事を行った人という意味ではありません。もっと自覚的なことば、信心から現れでたことばです。
 善導大師は『観無量寿経』によって「機の深信」と「法の深信」との二種深信を明らかにされました。

 深心とは、すなわち深く信ずる心である。深い信心には二つある。
 一つは自己を深くかえりみる心である。自分自身はじつに罪重く迷いの生死を重ねてきた凡夫、はるかに遠い過去世よりこのかた、常に沈み、常に流転して、みずからの力によってはこの罪悪と迷いの世界から逃れることはできないと、心の底から気づく心である。
 二つめの深い信心は阿弥陀仏の本願を信じる心である。たとえ罪悪と迷いの世界に沈んでいる者であっても、阿弥陀仏は四十八願をおこして救いとり、浄土に迎えてくださると、はからいも疑いもなく信じる心である。