歎異抄 第五章
 念仏は他力  他力は本願力回向


 『歎異抄』第四条から第五条へ
                                      曾我量深『歎異抄聴記』から
 『歎異抄』第四条では、念仏こそが大慈悲心である、如来の大悲回向の南無阿弥陀仏である、それ故に「念仏もうすのみぞ」そればかりが如来真実の大慈悲心であると示された。

 しからば、そんな尊いお念仏ならば、自分でお念仏を回向して亡くなった父母の追善供養でもしたらどうか。つまり何か自分に縁のあるような親兄弟、夫婦友達、師弟なりに、そんな尊いお念仏をこちらの方から回向したらどうかとの問題が出て来る。

 ところがそうではない。お念仏はもと如来の御回向で、我らが善にもあらず、行にもあらず。だからそれを我がものとして他のものに回向しようとする考えは自力のはからいである。

 お念仏そのものに自ら回向の徳を持っている。先ずもってお念仏は自分が仏となる道、如来の回向によって仏になる道である。我れ無上仏になるならば、願わざれども念仏の行の徳によって還相回向あり、また往相回向あり。だから父母孝養、追善供養のために念仏を用いるは間違いである。念仏には往相回向の徳の外にさらに還相回向の徳がある。念仏の行体に自然にその徳を持っている。だから、我々がまず仏になり、娑婆世界に還相して「煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入って応化を示す」といえる。

 これは歴史の力、南無阿弥陀仏は仏法の歴史の力を現したものである。個人意志の無効ということを明かにして、そして歴史の力を強調するものが南無阿弥陀仏である。本願力回向は歴史の力である。


 浄土から来た人
 この穢土から浄土に向かって求道することを往相回向、浄土から再び穢土に帰って人々を救うことを還相回向と言います。『歎異抄』第五章には、往相回向と還相回向とが簡潔に述べられています。

 抜き書きすると、「この順次生に仏になりて」は往相回向、「(一切の有情を)たすけそうろうべきなり」は還相回向、「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」は往相回向、「六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり」は還相回向となるでしょう。

 この文章を読むと、親鸞聖人や私たちが往相回向し、還相回向すると説かれています。しかし、親鸞聖人にとって往相回向と還相回向は、ご自身のことであるより、まず法然上人のことであったでしょう。

 親鸞聖人の『高僧和讃』源空(法然)章に次の和讃があります。

 曠劫多生のあいだにも
  出離の強縁しらざりき
  本師源空いまさずは
  このたびむなしくすぎなまし
〈意訳〉
 長い長い年月迷いつづけ、何度も何度もこの世に生を受けてきたにもかかわらず、
 今まで迷いの闇から救ってくださる真実の念仏のご縁に会うことができなかった。
 もし源空上人がおられなかったら
 この一生もむなしく終わることになったであろう。

 源空三五のよわいにて
  無常のことわりさとりつつ
  厭離の素懐をあらわして
  菩提のみちにぞいらしめし
〈意訳〉
 源空上人は十五歳のときに
 この世の無常をさとられて
 この濁りきった世界を離れ、真実の世界に生まれる願いをいだかれて
 さとりをもとめて仏道に入られた。

 命終その期ちかづきて
  本師源空のたまわく
  往生みたびになりぬるに
  このたびことにとげやすし
〈意訳〉
 いのち終わるときが近づいたことをさとられて
 本師源空上人は弟子たちに語られた。
 浄土に往生するのは、今回が三度目になるけれども
 今回は心残すことなく、浄土に帰っていけると。

 本師源空の本地をば
  世俗のひとびとあいつたえ
  綽和尚と称せしめ
  あるいは善導としめしけり
〈意訳〉
 本地源空上人の本来のお姿を
 世の人々はいい伝えて
 道綽禅師の生まれかわりといい
 また善導大師であるとも話しつたえていた。

 智慧光のちからより
  本師源空あらわれて
  浄土真宗をひらきつつ
  選択本願のべたまう
〈意訳〉
 人々の心の闇を破りひらく阿弥陀仏の光によって
 本師源空上人は現れてくださって
 浄土のまことの教えの真髄をひらき
 阿弥陀仏が凡夫のために選び取られた本願の教えを述べあらわしてくださった。

 この和讃を読むと、親鸞聖人が、法然上人こそ阿弥陀仏の浄土を実証する人と確信しておられたことが感じられます。その実証があるからこそ、親鸞聖人は念仏の道を歩むことができたにちがいありません。

 法然上人はご自身のことを「愚痴の法然房」といっておられますから、自分のことを、人々を救うために浄土から帰ってきたとは思ってはおられなかったでしょう。しかし、親鸞聖人は、法然上人の上に阿弥陀仏の働きを感じとっておられたのでしょう。阿弥陀仏が法然上人となって浄土からこの娑婆世界に来られ、また浄土へ帰って行かれた、法然上人の求道(往相回向)と教化(還相回向)は、阿弥陀仏の本願力回向であったと、親鸞聖人は受けとられたのでしょう。