歎異抄 第六章
 親鸞は弟子一人ももたずそうろう

 慚愧 深く自らを省みる心
 親鸞聖人が関東におられた当時からも、いくつも門弟のグループが形成されていました。門弟が住んでいる土地ごとに形作られていたようです。栃木県の真仏をリーダーとする高田門徒、茨城県南部の性信をリーダーとした横曽根門徒、福島県の会津門徒、愛知県の三河門徒、滋賀県の木部門徒などが大きな門徒集団でした。そのほかにも大小さまざまなグループがあったことでしょう
 また、親鸞聖人の教えをどのように受けとっているかの違いによっても、さまざまなグループができていたようです。極端な主張をするグループもあり、親鸞聖人から破門された人たちもいました。
 集団ができたときに勢力争いが始まるのは、人間である限り逃れることができないことでしょう。たとえ宗教者であっても対立が生まれるのはどうしようもないことかもしれません。
 蓮如上人の『御文』の最初に取り上げられているのもこの問題です。

 親鸞聖人は『教行信証』に次のように述べておられます。
  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべしと。(聖典 東二五一頁 明三六四頁)

 親鸞聖人ご自身、執著心や名誉欲が抜けないことに気づき、そして、そのような自分自身を深く慚愧しておられたことが、この文章から感じられます。
 しかし、親鸞聖人は自己否定に止まっておられたのではありません。理想的な人間には到底なることのできない自分自身の限界を感じるとともに、そんな自分であっても、阿弥陀仏はあきらめることなく手を差し伸べてくださっていることを感じとり、自分の心の中に阿弥陀仏の心が立ち上がってくださっていることを感じとっておられたことが、『正信偈』にあらわれています。

 極重の悪人はただ仏を称すべし。
 我またかの摂取のなかにあれども、
 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
 大悲、倦きことなくして、常に我を照らしたもうといえり。
 罪深い悪人はただ念仏するよりない。私もまた、阿弥陀仏の光明につつまれていながら、煩悩にさえぎられて心の目を閉ざしていたために仏に出会うことができなかった。しかし、阿弥陀仏は大慈悲をもって、いつまでも諦めずに、常に私を照らしつづけてくだる。

 信心の平等性
 親鸞聖人は「弟子一人ももたずそうろう」といわれましたが、実際には親鸞聖人には多くの弟子があり、その弟子たちにとって親鸞聖人はたいせつな師でした。なぜ、「弟子は一人もいない」といわれたのでしょうか。
 一つには、人はどのようにして念仏するようになるかということがあります。
 親鸞聖人は「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろう」といわれ、蓮如上人は「(師となる人は)ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり」といわれました。
 念仏は、阿弥陀仏の力・働きかけによって念仏できるようになるのであって、人の力で念仏するようになるのではないということです。ですから親鸞聖人にとって、弟子たちは平等に念仏する人たち(同行)であって、念仏においては師と弟子という上下の差別はないことを強調されるのでしょう。
 もう一つは「如来よりたまわりたる信心」です。
 『御伝抄』第七段に「他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏の方よりたまわる信心なれば、源空(法然上人)が信心も、善信房(親鸞聖人)の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。我がかしこくて信ずるにあらず」(聖典 東七二九頁 明七六九頁)とありますように、法然上人と親鸞聖人とは師と弟子ですが、信心においてはまったく平等であるといわれます。

 次のようなたとえ話が昔から伝えられています。
 馬子が馬に水を飲ませようと水辺に連れていったところ、馬は飲みたくなかったのか、水を飲もうとしない。そこで、馬子は力いっぱいに馬の首をひっぱって水面に近づけたが、それでも馬はまったく水を飲もうとしなかった。水を飲むか飲まないかは馬次第である。

 のどが渇いていれば、馬はすぐに水を飲むでしょうが、のどが渇いてない馬は水を飲もうとはしません。
 親鸞聖人は「のどが渇いて水が飲みたくなる」ことは「弥陀の御もよおし」であると受けとられます。「のどが渇く」ことを阿弥陀仏から与えられたご縁といただくところに親鸞聖人の念仏の精神があります。