歎異抄 第七章
神々と念仏者
天神地祇
親鸞聖人の『現世利益和讃』に次のような和讃があります。
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか
天神地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり
願力不思議の信心は
大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神
みなことごとくおそるなり
今回の『歎異抄』第七章にある「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」に通ずることばです。
「天神」は帝釈天・梵天・毘沙門天・焔魔天などをさし、「地祇」は万物を生み育てる大地の神で、堅牢地神などをさします。それぞれ仏教を守護するインドの神々です。しかし、親鸞聖人はインドの神様のことだけではなく、日本の神々のことも感じておられたことでしょう。
親鸞聖人の伝記である『御伝鈔』に箱根大権現の話があります。
この出来事は、箱根大権現が親鸞聖人の徳をたたえ、大切に迎えられたことを伝えています。『歎異抄』第七章や『現世利益和讃』に通じる内容です。
神々が念仏者を敬い守るとはどのようなことでしょうか。
魔界外道
魔界とは悪魔のことです。悪魔というと角を生やした魔物が人をかどわかすように感じますが、しかし、仏教での悪魔は煩悩魔・五蘊魔・死魔・他化自在天魔です。悪魔の第一は自分自身の心です。
『蓮如上人御一代記聞書』
善きことをしたるが悪き事あり、悪きことしたるが善き事あり。善き事をしても「我は善き事をしたる」と思い、「我」ということあれば悪きなり。
悪しき事をしても、心をひるがえし、本願に帰すれば、悪き事をしたるが善き道理になる由仰せられ候。
しかれば、蓮如上人は「参らせ心が悪き」と仰せらるると云々。
良いことをしても、けっして良いといえない場合がある。逆に、悪いことをしても、結果と
して、良かったという場合もある。
良いことをしても、問題は「私が良いことをした」という気持ちがあり、「私が」とか「我が」
という心があると、良いことをしても、悪いことになるわけです。
また、悪いことをしても懺悔(ざんげ)し、心をひるがえして、阿弥陀仏の本願の道には
いることができれば、悪いことがかえって、良い結果となるものです。
ですから、「してやるという心が悪い」と、蓮如上人は仰せになりました。
無碍の一道
無碍の一道とは何ものにも障げられることのない真実の道という意味です。
曇鸞大師の『論註』に次のようなことばがあります。
菩提をば道に名づく。・・・道は無碍道なり。(華厳)経に言わく「十方無碍人、一道より生死を出でたまえり」。一道は一無碍道なり。無碍は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごとき等の入不二の法門(五念門)は無碍の相なり。
(聖典 東一九四頁四・九行 明二一九頁三・七行)
大道と小路
『教行信証』
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」というは、
白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
道の言は路に対せるなり。道はすなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路はすなわちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。
四五寸というは衆生の四大五陰に喩うるなり。
「能生清浄願心」というは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩うるなり。
(聖典 東二三四頁十一行 明二五五頁六行)
『愚禿鈔』
「白道四五寸」と言うは、
白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。黒はすなわちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
四五寸とは、四の言は四大毒蛇に喩うるなり。五の言は五陰悪獣に喩うるなり。
「能生清浄願往生心」と言うは、無上の信心・金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。
(聖典 東四五四頁六行 明四五四頁十三行)