蓮如上人 帖外御文 第3冊(5冊の内の3) |
帖外御文 第三冊 |
蓮如上人帖外御文章 三 (第27)chougai03-42R_43L それ当流念仏のこころは信心ということをもってさきとするがゆえに、まずその信心のとおりをよくよくこころうべし。さればその信心というは、なにのようなるこころぞというに、このこころ世の中にあまねく人の沙汰しあつかうおもむきは、ただなにの分別もなく念仏ばかりをおおくもうせば、ほとけにはなるべきと、みなひとごとにおもいはんべりぬ。それはあまりにおおようなることなり。されば往生極楽の安心ともうすは、ただ南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりわけたるをもって、すなわち信心のすがたとはもうすなり。まず南無という二字は衆生の阿弥陀仏にむかいまいらせて、後生御たすけさぶらえともうすこころなり。さてまた阿弥陀仏ともうす四つの字のこころは南無とたのむ衆生を阿弥陀如来のあわれみましまして、あまねき光明のなかにおさめおきたまうこころを、すなわち阿弥陀仏とはもうすなり。まことに浄土に往生して、ほとけにならんとおもわん人は一向に阿弥陀仏をふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行雑善にこころをかけずして、ただ一心に阿弥陀仏に帰命して、たすけたまえとおもう一念おこる時、往生はさだまるぞとなり。ただ念仏をももうし、弥陀如来はとうときほとけぞとおもうばかりにては、それはあまりにおおようなることなり。ひしと我が身は十悪五逆の凡夫、五障三従の女人なればとおもいて、かかるあさましき機をば、弥陀如来ならではたすけたまわぬ本願ぞとふかく信じて、一すじに阿弥陀如来に帰して、二心なくたのみたてまつるべし。この心の一念もうたがわずおもえば、かならず弥陀如来は大光明をはなちて、行者をてらして、その光明のうちにおさめおきたまうべし。かくのごとく決定のおもいをふかくなさんひとは、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、更々そのうたがいあるべからず。かようにこころえたるひとを信心とりたるとはもうすなり。されば信心さだまりてのうえの念仏をば弥陀如来のわれらをやすくたすけましましたる、その御ありがたさ御うれしさの御恩を報じまいらする念仏にてあるべしと、おもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十年二月日 (第28)chougai03-43L_44L 文明十年初春下旬之比より、河内の国茨田郡中振郷山本之内、出口の村の里より、当国宇治の郡、山科の郷之内、野村柴の庵に、昨日今日と打ち過ぎ行く程に、はや盂蘭盆なりにけり。これに依りて無常を観ずるに、誠に以て夢幻のごとし。然而して今日までもいかなる病苦にもとりあわず。されども又いかなる死の縁にかあいなんずらん。今日無為なればとて、あすもしらざる人間なれば、ただ水の上の泡、風の前の灯ににたり。此の故に仁倫の身としては、いそぎてもいそぎてもねがうべきものは、後生善所の一大事にすぎたるはなし。たといこの世は栄花にふけり、財宝は身にあまるとも、無常のあらき風ふき来たらば、身命財の三つともに、一も我が身にそう事あるべからず。この道理をよくよく分別して後生をふかくねがうべし。しかるに諸敎の修行はもとより殊勝にしてめでたけれども、末代の根機には叶いがたければ、ここに幸いに未来悪世のためにおこし給える弥陀如来の他力本願を一向にたのみたてまつりて、信心決定して長時不退に仏恩報尽のために、行住座臥をえらばず、称名念仏申すべきものなり。 時に文明十年盂蘭盆会、筆の次でにこれを書し訖る。あらあら。 (第29)chougai03-44L_47R それ人間を観ずるに、有為無常はたれの人かのがるべき。ただ一生は夢幻のごとし。まことに人間の寿命は、老たるはまず死し、わかきはのちに死せば、順次の道理にあいかなうべきに、老少不定のさかいなれば、ただあだなるは人間の生なり。これに依りて爰に去んぬる八月十七日、物のあわれなる事ありけり。生年三十一歳なりし人の産生の期すぎていくほどなくして死す。総じてこの人は多年病者の身たりしかば、その期にのぞみては、腹中にありしおそろしきおい物むねへせきあげて、身心苦痛せしことかぎりなし。いろいろの良薬をあたうといえども、まことに先業の所感にてもありけるか、また定業のがれがたくして、ついに八月十七日申の剋のおわりにむなしくなりぬ。中々ことの為体をみるに、にわかに今日このごろかように一大事の出来すべきとは誰人もおもいよらざれば、ただ亡然としたるありさまのあえなさあわれさ、たとえをとるに物なし。さればそばにつきそう人々も、天にあおぎ地にふしてなげきかなしめども、その甲斐ぞなき。まことにこころもことばもおよばざる風情なり。しかるにかの如勝禅尼の由来をたずぬれば、天下一乱について牢人の身なりけるが、事の縁にひかれて不思議に先世の約束もありけるか、かりそめながらこの五六年の間、京田舍随逐せしめ、なにとなくなじみしたしみてまた年月のつもりにや、仏法の聴聞耳にふれしいわれによりて、朝夕のひまには和讃聖敎をこころにかけ、そのいわれを人にもくわしくあいたずね、ついに信心決定の身となりて、あまっさえ人の不信なるをなげき、ことには老母のありけるを、なにとしてもわが信心のごとくなさばやなんど、おりおり物語しけり。かえすがえす不思議なりしことなり。このゆえにかの如勝禅尼つねに人にかたりしは、わが身ほど世に果報の物はよもあらじとおもうなり。そのいわれはかかる宿縁にあいて、あまっさえ今生も活計は身にあまり、後生はもとより申すにおよばず。されども人間は老少不定のならいなれば、千にひとつもわがおくれて、もしひとりこの世にのこりてあらば、かかるとうとき法もやわすれなん。、その時後悔すともかなうまじ。ただねがわくはとても仏の御たすけならば、あわれわれさきにたたばやと、知音なりし人にはつねにこの事をのみかたりはんべりし。まことに仏の御はからいか、また定業のかぎりか、かねてねがいおきしことばのごとくなりしこと不思議なり。また今度は一定死すべきと覚悟ありけるか、そのゆえは老母のかたへ遺物どもをかねて人にあずけおき、そのほか少々の物どもを人のかたへゆずりつかわしけり。かかるときは死期をよく覚悟ありけるともおもいしられたり。されば最後臨終の時には他事をまじえず、後生の一大事を申し出しけり。また光闡坊をよびよせ善知識とおもいなし、苦痛のありし中にもこころの底に念仏をもうすけしきみえて、すなわち小声にも大声にも念仏を申す。これただごとにあらずとみおよべり。これをおもいかれをおもうにつけても、あわれさの中にも今度往生極楽は一定かともおもえば、またよろこびともいいつべきか。しかれば彼の禅尼の平生の時の身のふるまいをみおよぶにも、ただ柔和忍辱の風情ありて、誰人にむかいてもただおなじすがたなりし人なり。今これをつくづくとおもいつづくれば、かように早世すべきいわれにてありけりとおもいあわせられて、一しおあわれにもいととうとくもおもいはんべり。さればこれにつけても女人の身は、今このあえなさあわれさをまことに善知識とおもいなして、不信心の人々はすみやかに無上菩提の信心をとりて、一仏浄土の来縁をむすばんとおもわん人々は、今世後世の往生極楽の得分ともなりはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 于時文明十年九月十七日 (第30)chougai03-47R_48R それ今月二十八日の聖人の御恩徳のふかき事、なかなか申せば大海かえりてあさし。これに依っていかなる卑夫のともがらまでも彼の御恩をわすれんものは、誠に以て畜生にひとしからん歟。然れば忝くもせめてかの御影御座所をなりともたずねまいりて、恩顏をなりとも拜し奉りて、御恩徳をも一端報謝申さばやと、いかなる遠国のものまでも此の志をはこばぬ人はなきところに、幸いに御近所堅田と申すは、その間三里ばかりある大津に、しかも生身の御影眼前にあらわれ給うところに、その御影をみすてまいらせて、遙かの河内の国において、しかも水辺ふかきあしわらの中へ尋ねまいられて伺候あるは本意とも存ぜぬ由、空念、法住に対して申し候う所に、法住その返答にいわく。御影の事はいずくにましますも、ただ同事なれば相かわるべからざる由を申す間、しからばなにとて江州堅田辺にも御影はたれたれも安置申し候う事なれば、はるばるの遠路をしのぎ、是〈これ〉までまいられんよりは、ただ御影はおなじ事ならば、そのまま江州堅田に御わたり候べしと申せば、かさねて返答もなくてそのまままけたまいけり。あら勝事や、おふおふ。 (第31)chougai03-48R,48L その方にみなみな申されさぶろうなるは、信心をうるとき、はやほとけになりさとりをひらきたるよし、うけたまわりおよび候。言語道断、くせ事にて候。それはあさましくこそそうらえ。聖人の御一流には定聚滅度とたてましまして、雑行をすてて一心に弥陀に帰したてまつるとき、摂取不捨の利益にあずかり正定聚のくらいにさだめたまう。これを平生業成となづく。さて今生の縁つきていのちおわらんとき、さとりをひらくべきものなり。これをすなわち大涅槃をさとるとも、滅度にいたるとも申すなり。かくこころうる人を信心決定の人とは申すべしと、我々は聴聞申してそうろう。されば和讃にいわく。如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり 凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべしとうけたまわり候。よくよくこのむねを御こころ得あるべく候。あなかしこ、あなかしこ。 (第32)chougai03-48L_49L それ当流親鸞聖人勧化之一義に於いては、なにのわずらいもなく、在家出家もきらわず男女老少をいわず、一すじにねがうべき趣は、あさましき我等ごときの愚癡闇鈍の身なれども、弥陀如来の他力本願をたのみて、偏に阿弥陀仏に帰命すれば、即の時、必定に入らしむるなり。爰を以て不思議之願力とは申しはんべれ。このゆえに弥陀に帰入するをこそ、他力の一心を決定せしめたる真実信心の行者とはいえるなり。これすなわち南無阿弥陀仏の意なり。されば南無阿弥陀仏の体をよくこころえわけたるを、信心決定の念仏行者とは名づけたり。この上には弥陀如来の摂取不捨の益にあずかりたる御うれしさの御恩を報ぜんが為に行住座臥に称名念仏すべきばかりなり。然れば則ちこの上には知識帰命なんど云う事も更に以てあるべからず。ちかごろ参河の国より手作りに云い出したる事なり。相い構え、相い構え、これらの儀を信用すべからざるものなり。 文明十一年十一月 日書之 (第33)chougai03-49L_51L それ開山聖人の尋本地既号弥陀如来化身〈本地を尋ぬれば既に弥陀如来の化身と号し〉、又曇鸞大師之再誕といえり。然れば則ち生年九歳にして、建仁之春の比〈ころ〉、慈鎭和尚之門下になり、出家得度してその名を範宴少納言の公と号す。それより已来た、しばらく山門橫川之末流を伝えて天台宗の碩学となりたまいき。その後二十九歳にして、遂に日本源空聖人之禅室にまいり合いて、既に三百余人之内に於て上足之弟子となりましまして、浄土真宗一流をくみ、専修一向之妙義をたて、凡夫往生之一途をあらわし、殊に在家四輩之愚人をおしえ、報土往生之安心をすすめたまえり。抑も今月二十八日は祖師聖人之御正忌として、毎年をいわず親疎を論ぜず、古今の行者この御正忌を事とせざる輩、不可有之者歟〈これあるべからざる者か〉。因茲〈ここによりて〉当流にその名をかけ、ひとたび他力の信心を獲得したらん人は、この御正忌をもって報恩謝徳之志を運ばざらん人は、まことにもって木石にことならぬ者歟。然る間、御恩徳の深きことは迷慮八万之頂、蒼瞑三千之底にこえすぎたり。不可報不可謝〈報ぜずんばあるべからず、謝せずんばあるべからず〉。このゆえに毎年之例時として一七箇日之間、如形〈形の如く〉一味同行の中として報恩謝徳のために、無二の丹誠をこらし勤行の懇志をいたす所なり。然らばこの七箇日報恩講之砌において、門葉のたぐい毎年を論ぜず国郡より来集すること、于今無其退転〈今にその退転なし〉。就之〈これに就きて〉不信心之行者の前においては、更にもって報恩謝徳之義、争在之哉〈争でかこれ在らんや〉。如然之輩〈然る如きの輩〉はこの七箇日之砌に於いて当流真実信心の理をよく決定せしめん人は、まことに聖人報恩謝徳の本意にあいそなわるべき者也。伏して惟れば、それ聖人之御遷化は年忌遠く隔りて、既に二百余歳の星月を送るといえども、御遺訓ますますさかりにして、于今〈今に〉敎行信証之名義、耳の底に止まりて人口にのこれり。可貴可信〈貴むべく信ずべき〉は唯この一事なり。依之〈これに依って〉当時は諸国に真宗行者と号すやからの中において、聖人一流の正義をよく存知せしめたる人体、且て以てこれなし。又真実信心の行者もまれにして、近比はあまっさえ自義を骨張して、当流になき秘事がましきくせ名言をつかい、わが身上のわろきをばさしおき、かえりて人の難破ばかりを沙汰するたぐいのみ国々にこれおおし。言語道断の次第なり。唯人並仁義ばかりの仏法しりがおの風情にて、名聞の心をはなれず、人まねに報恩謝徳の為なんど号するやからは徒事也。如此之輩は更にもって不可有所詮者〈所詮あるべからざるもの〉なり。然れば未安心の行者に於いては、今月聖人御影前参詣之儀は、誠に誠に、水入て垢おちずといえる、その類なるべき者歟。されば聖人の仰せには、唯平生に一念歓喜の真実信心をえたる行者の身の上に於いて、仏恩報徳の道理は可在之〈これ在るべし〉とおおせられたり。因茲〈茲に因りて〉この一七カ日報恩講の中に於いて、未安心の行者は速やかに真実信心を決定せしめて、一向専修の行者とならん輩は、誠にもって今月聖人之御正忌の本懐に可相叶〈相い叶うべし〉。これ併しながら真実真実、報恩謝徳の懇志たるべきものなり。 文明十一歳十一月二十日 (第34)chougai03-51L_57L 去んぬる文明七歳乙未八月下旬之比、予生年六十一にして、越前国坂北の郡細呂宜の郷の内、吉久名之内、吉崎之弊坊を、俄に便船之次〈ついで〉をよろこびて、海路はるかに順風をまねき、一日がけにと志して若狹之小浜に舟をよせ、丹波づたいに摂津国をとおり、この当国当所出口の草坊にこえ、一月二月、一年半年とすぎゆくほどに、いつとなくみとせの春秋を送りしことは、昨日今日のごとし。この方において居住せしむる不思議なりし宿縁あさからざる子細なり。しかるにこの三カ年の内をばなにとしてすぐるらんと覚え侍りしなり。さるほどに京都には大内在国によりて、同じく土岐大夫なんども在国せる間、都は一円に公方がたになりければ、今のごとくは天下泰平ともうすなり。命だにあればかかる不思議の時分にもあい侍り、目出たしというもなおかぎりあり。しかる間、愚老年齡つもりて六十三歳となれり。いまにおいて余命幾ばくならざる身なり。あわれ人間はおもうようにもあるならば、いそぎ安養の往詣をとげ、速やかに法性の常楽をもさとらばやとおもえども、それもかなわざる世界なり。しかれども一念歓喜の信心を仏力よりもよおさるる身になれば、平生業成の大利をうるうえには、仏恩報尽のつとめをたしなむ時は、また人間の栄耀ものぞまれず、山林の閑窓もねがわれず、あらありがたの他力本願や、あらありがたの弥陀の御恩やとおもうばかりなり。このゆえに願力によせてかようにつづけり。 六十あまりおくりし年のつもりにや 弥陀の御法にあうぞうれしき あけくれば信心ひとつになぐさみて ほとけの恩をふかくおもえば、と 口ずさみしなかにも、又善導の釈に自信敎人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩の文意をしずかに案ずれば、いよいよありがたくこそおぼえ侍れ。又ある時は念仏往生は宿善の機によるといえる当流の一義にかぎるいわれなれば、我等すでに無上の本願にあいぬる身かともおもえば、遇獲信心遠慶宿縁と上人のおおせにのたまえば、まことに心肝に銘じ、いととうとくも思い侍り。とにもかくにも自力の執情によらず、ただ仏力の所成なりとしらるるなり。もしこのたび宿善開発の機にあらずは、いたずらに本願にもしあわざらん身ともなりなんことのかなしさをおもえば、まことに宝の山にいりてむなしくしてかえらんににたるべし。さればこころあらん人々はよくよくこれをおもうべし。さるほどに今年もはや十二月二十八日になりぬれば、又あくる春にもあいなまし。かかるあだなる人間なれば、あるとおもうもなしとおもうもさだめなし。されども又あらたまる春にもあわん事は、まことにうれしく目出たくもおもい侍るものなり。 いつまでとおくる月日のたちゆけば また春やへん冬のゆうぐれ、と 打ち詠じてすぎぬるに、はや文明九年の冬も十二月二十八日になりぬれば、愚老も六十三歳なり。さるほどに改年して、又文明十年正月二十九日、河内の国、茨田の郡、中振郷山本之内、出口村中之番と云う所より上洛して、山城国宇治の郡、小野の庄、山科之内、野村西中路に住すべき分にて、しばらく当所に逗留して、その後、和泉之堺に小坊のありけるをとりのぼせて作りおき、とかくしてまず新造に馬屋をとりたて、そのまま春夏秋冬なにとなくうちくれぬ。しかれば愚老は年齡つもりて今は六十四歳ぞかし。前住円兼には年はふたつまされり、しかる間くるる月日の立ち行くほどなさをつらつら案ずるにつけても、仏法世法のなにごとにいたるまでも、祖師開山の御恩徳のふかきこと雨山のごとくして、まことにたとえをとるにものなし。これによりてあまりのことにせめて詠歌にもよそえて加様に思いつづけたり。 ふる年もくるる月日の今日までも いずれか祖師の恩ならぬ身や、と 思いなぞらえても、我が身の今まで久しく命のながらえたることの不思儀さを又おもいよせたり。 六十あまりおくりむかうるよわいにて 春にやあわん老の夕暮れ、と 打ちずさみければ、はやほどなく天はれ、あくる朝の初春にもなりぬ。正月一日のことなれば、上下万民祝言以下事すぎて、俄に天くもり雨ふりて、なる神おびただしくなりわたりければ、年始とはいいながら人々もみな不思議の神かなといいける折節、風度〈ふと〉心にうかむばかりに、とりあえず発句を一つはじめけり。その句に云く、 あらたまる春になる神はじめかな、と ひとり連歌をしてぞありける中にも、又案じ出だすよう。愚老はかんがうれば当年は六十五歳になりければ、祖父玄康は六十五歳ぞかし。しかれば予も同年なり。不思議に今までいきのびたるものをやとおもえば、親父にも年はまされり、祖父には同年なれば、一つはうれしく思い、又は冥加といい、旁〈かたがた〉以てまことに命果報いみじとも謂うべき歟。これにつけてもかくのごとく口のついでに片腹いたくも又つづけたり。 祖父の年とおなじいのちのよわいまで ながらふる身こそうれしかりける、と 心ひとつにおもいつづけて行くほどに、なにとなく正月も二日すぎ、五日にもなりぬれば、竺一検校当坊へはじめて年始の礼にきたりけるついでに、祝言已後申し出し、さても正月一日の神のなりける不思議さをかたり侍りしに、その時件の発句を云い出だしければ、やがて検校当座にわきを付けけり。 うるおう年の四方の梅がえ、と ぞ付け侍りき。そののちとかくするほどに正月十六日にもなりしかば、春あそびにもやとて、林の中にあるよき木立の松をほりて庭にうえ、又地形の高下をひきなおしなんどしてすぎゆくほどに、三月初の比かとよ、和泉の堺に小坊のありけるをとりのぼせて、これを新造と号してつくりおき、そののち打ちつづき造作するほどに、又摂州和泉の堺に立おきし古坊をこぼちとり、寝殿に作りなしけるほどに、とかくして同四月二十八日にははや柱立をはじめて、昨日今日とするほどに、なにとなく八月比はかたのごとく周備の体にて庭までも数奇の路なれば、ことごとくはなけれども作り立てければ、折節九月十二夜のことなるに、あまりに月おもしろかりければ、なにとなく東の山をみて、かように思案もなくうかむばかりにつらねけり。 小野山やおおやけつづく山科の ひかりくまなき庭の月かげ、と われひとり打ち詠ぜしばかりなり。さるほどに春夏もさり秋もすぎ冬にもなりぬれば、すぎにし炎天の比のことどもを思い出でしにつけても、よろず春の比より冬のこのごろにいたるまで、普請作事等に退転なく、みなみな心をつくせしこと、いまに思いいだすにみなゆめぞかし。これにつけてもいよいよ予が年齢つもりて、今はかみひげしろくなりて、身心逼悩して手足合期ならずして、すでに六十有余のよわいに及べり。さればおやにも年齢はまさりたるばかりにて、さらになにの所詮もなし。これについても、あわれ人間は定相なきさかいとは覚悟しながら、我が機にまかする物ならば、かかるあさましき世界にひさしくあらんよりは、早速に法性真如の城〈みやこ〉とて目出たき殊勝の世界にむまれて、無比の楽をうけんことこそ、まことに本意としてねがわしけれども、それもかなわぬさかいとて、昨日もすぎ今日もくらすことのかなしさくちおしさよ。されば老体の身のならいとして、昼はひねもすに万事にうちまぎれ、夜は又暁方の鳥なく比より目もさめて、そのままいねいる夜はまれなり。これに依りて朗詠の詩にこのことをかかれたり。その詞に云く、 老眠早覚常残夜 病力先衰不待年〈老眠、早く覚めて常に夜を残し 病力先に衰えて年を待たず〉といえり。まことにいまこそこの詩のこころに身をも思い合わせられてあわれなり。これに就いていよいよ三国の祖師先徳の伝来して、仏法の次第をしらしめ給うこともおもわれ、別しては聖人の勧化にあう宿縁のほどもことにありがたく、又六十有余のよわいまでいきのびしことも、ひとえに仏恩報尽の儀もますますこれあるべき歟ともおもえば、なおなお心肝に銘じて、いととうとくも又よろこばしくも思い侍るものなり。 文明十一、十二月 日 (第35)chougai03-57L_59R 抑も三川の国に於いて当流安心之次第は、佐々木坊主死去已後は、国の面々等も安心の一途さだめて不同なるべしとおぼえ侍り。その故は如何というに、当流の実義うつくしく讃嘆せしむる仁体あるべからざるが故也。たとい又その沙汰ありというとも、ただ人の上の難破ばかりをいいて、我が身の不足を閣〈さしお〉きて、我慢偏執の義を以てこれを先とすべし。此の如き心中なるがゆえに、当流にその沙汰なき秘事法門と云う事手作にして諸人をまよわしむる条、言語道断之次第也。此の秘事を人に授けたる仁体においては、ながく悪道にしずむべき者也。然れば則ち自今已後においては、以前の悪心をすてて当流之安心をききて、今度の報土往生を決定せしめんと思うべし。且て以て当流之一義において秘事の法門と云う事あるべからざる者也。それ当流聖人の一義は、ことに在家止住の輩をもって本とするがゆえに、愚癡闇鈍の身なれども、偏に弥陀如来の他力本願に乗じて一向に阿弥陀仏に帰命すれば、即時に正定聚之位に住し、又滅度に入るとこそつたえたり。此の故に超世の本願とも不可思儀の強縁とも申し侍り。これ則ち摂取不捨の益にあずかりぬる真実信心をえたる一念発起の他力の行者とは申す者也。此の上にはただ弥陀如来の御恩徳のふかき事をのみおもいて、その報謝のためには行住座臥をいわず、南無阿弥陀仏ととなえんより外の事は、なお以て此の上になきなり。わずらわしき秘事ありというやからこれあらば、いたずら事とこころえて信用あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十二年六月十八日書之就而浄光真慶良全上洛之時渡之畢 陰士御判 (第36)chougai03-59R_62R 抑も大津山科両所の人々の体たらくをみおよぶに、さらに親鸞聖人のすすめたまう正義にしみじみと決定せしめたる分もなしとおもえり。しかれば愚老このあいだ連日の病悩におかされて、まことにこのまま往生のいでたちにてもあるやらんとおぼゆるあいだ、心底におもうおもむき、苦痛のうちにつくづくひとびとの心中をはかり案ずるに、うるわしく今度の往生極楽をとげしめんための他力の大信心を弥陀より発起せしめられたる、そのうれしさありがたさを不可思議にこころにおもいいれたるすがたは、かつてもってみえずとおぼえたり。そのゆえはいかんというに、弥陀如来の御恩徳のきわめてふかきことをも、さらにこころにもかけずして、ただいにしえより今日にいたるまでも、わが身ひとり信心のとおりよく覚悟せりとおもうばかりの風情なり。いまの分のこころえにては、わが身の安心のかたもいまだ不定なりとおもいやられたり。その信心を決定せずとおぼえたるその証拠には、一遍の称名もこころにはうかまず、また父母二親の日にあたらば、親というものあればこそかかる殊勝の本願をばききはんべりとおもわば、などかその恩のあさからぬことをもおもいて、などかふかくとぶらうこともあるべきに、そのこころすくなきがゆえに、まして仏恩報尽のおもいもさらになし。このゆえにくちに称名をとなうることもなし。またいたずらにあかしくらせども、一巻の聖敎を手にとり、一首の和讃をもそらによみおぼえて、朝夕の勤行に助音せんともおもわず、ただひとまねばかりにうなりいたる体なり。またわが身をすくいたまえるいわれをときあらわせる浄土三部経なれども、これを堪能の機は訓ごえにもせめてよむべき道理とも思わず。あまっさえいにしえは仏前に三部経をおくひとをさえ雑行のひとなりといいはんべりき。いまもその機類あいのこる歟とおもうなり。あさましあさまし。また和讃正信偈ばかりを本として、三部経をば本とはおもわず、たまたまもこころざしありてよむひとをばあながちに遍執せり。言語道断の次第、本拠をしらぬひとのいえることばなり。たといわが身文盲にしてこれをよまずとも、かたじけなくわれらが浄土に往生すべきいわれをばこの経にときあらわしたまえりとおもいて信ずべきに、つねの人の覚悟には三部経ということをもしらねども、ただふかく聖人のおおせを信ずるこそ肝要よ、あらむつかしの三部経の文字沙汰やといえり。これまたおおきなる本説しらぬえせひとのいえることばなり。くれぐれ信ずべからず。また正信偈和讃をもっては朝夕の道俗男女、仏恩報尽の勤行にこれを修すべきこそ肝要といえることなり。総じて当流聖人の一義をたてんにつきて、和讃正信偈ばかりをもって一流の肝要という名言、かえすがえすもしかるべからざることばなり。これによりて当流の信心を決定せんひとは、あいかまえて、あいかまえて、仏恩のふかきことをつねにおもいいて称名すべし。されば善導和尚、所々の解釈にも、ただ仏恩のいたりてふかきことをのみ釈したまえり。ことに親鸞聖人も敎行信証六巻をつくりて、三国の祖師先徳相承して、浄土の敎をおしえたまう恩徳のふかきことをひきのせて、とりわけ仏恩窮尽なきおもむきをねんごろにおおせられたり。ことしげきによりて、今ここにはのせず。そのなかにもやすくきこえたる正信偈の文にいわく。 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩ともいい、また和讃には、弥陀大悲の誓願を 深く信ぜん人はみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべしといえり。この文のこころは、ひとつねに沙汰せしむる文なれども、さらにこころそれにならざるあいだ、総じて弥陀如来の他力本願のひとすじに殊勝なるありがたさをも別しておもわず。また信心のしかとさだまりたる分もなきとみえたるあいだ、一遍の称名をおもいいだすこともなし。さらにもってこれらのひとの風情は聖人の御意にそむけり。当流の正義にあらず。已前いうところのおもむきを今日よりして回心改悔のこころなくは、まことにもって無宿善の機たるべきがゆえに、このたびの報土往生は大略不定とこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明十二年七月二十七日 |