蓮如上人 帖外御文
  第5冊(5冊の内の5)


帖外御文 第五冊
蓮如上人帖外御文章 五

(第63)chougai05-101R_102R
 当流のこころは一念発起平生業成とたてて、諸の雑行をすてて一心に弥陀如来後生たすけたまえとふかくたのまん人は、かならず報土に往生すべきこと決定なり。これすなわち当流の平生業成の義なり。この上に念仏申すは、弥陀如来のやすく御たすけにあずかりたる御恩の念仏なりとこころうべきものなり。これ則ち当流の真実の義也。又は正覚の一念というもこのこころなりとしるべし。
 一 鎮西には当得往生とたてて、来迎をたのむ家なり。これ観経の意也。
 一 西山には即便往生とたてて、三心だにも決定すれば、自余の雑行をゆるし、来迎を本とする也。これも観経の意也。
 一 長楽寺には報土辺地をたてて、報土を本とするなり。こればかりは当流におなじきなり。これも雑行をばゆるすなり。
 一 法性法身方便法身のこと、法身というは無体の相也。
 一 方便法身というは応身如来のことなり。浄土の弥陀はみな方便法身なりとしるべし。
 一 補処というは弥勒のことを申すなり。世尊のあとをつぎて可有出世菩薩〈出世あるべき菩薩〉なれば、補処の菩薩と云うなり。総じて仏のあとをつぐによりて補処と云うなり。いまの念仏の行者も、弥勒の三会のあかつきさとりをひらくべきように、念仏者も一期のいのちつきて極楽に往生すべきこと、弥勒におなじきがゆえに、弥勒にひとしとはいうなり。
  明応六年

(第64)chougai05-102R,102L
 御文くわしくみまいらせ候。それにつきては信心の事うけたまわり候。十劫正覚の時、我が身の往生さだまるなんどいう事はいわれぬ人の申し事にて候。これによりて日比のわろき心をうちすてて、これよりのちはただ一心に阿弥陀如来後生たすけたまえとふかくたのみ申さば、いかなるつみふかき人なりとも、かならず弥陀の御たすけにあずからん事、さらにつゆほどもうたがいあるべからず。かように心えてのちは、ねてもさめても申す念仏の心は、やすくたのむ一念の人を御たすけ候事のありがたさよと申す心なり。これすなわち当流上人のすすめまします信心決定の人とはおおせられたる事にて候。よくよくこのむねを心えわけられ候べく候。あなかしこ、あなかしこ。
  明応六年七月四日書之

(第65)chougai05-102L_103L
 それ親鸞聖人のすすめたまう安心のおもむきというは、無智罪障の身のうえにおいて、なにのようもなく、ただもろもろの雑行をすてて、一心に阿弥陀如来後生たすけ給えとふかく弥陀をたのみたてまつらんともがらは、たとえば十人も百人も、みなながら浄土に往生すべきことは、さらさらうたがいあるべからず。このいわれをよくしりたる人をば、他力の信心を獲得したる当流念仏者と申すべし。かくのごとく決定せしめたる人のうえには、朝夕仏恩報謝のために称名念仏すべし。ただしこれに不審あり。そのいわれは一念に弥陀をたのむ機のうえには、あながちに念仏申さずともときこえたり。さりながらこれをこころうべきようは、かかるつみぶかき我等を、なにのわずらいもなくやすく弥陀を一念たのむちからにて、報土に往生すべきことのありがたさとうとさよと、くちにいだしても申べきを、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申せば、おなじこころにてあるなりとしるべきものなりとこころうべし。あなかしこ、あなかしこ。
  明応六年丁巳拾月十四日書之
     年齢八十三歳 在御判
 あつらえしふみのことのはおそくとも
 きょうまでいのちあるをたのめよ

(第66)chougai05-104R_105R
 それ親鸞聖人のすすめまします安心のおもむきは、無智罪障の身のうえにおいて、なにのわずらいもなく、ただもろもろの雑行をすてて、一心に阿弥陀如来に今度の一大事の後生たすけたまえとふかく弥陀を一念にたのみたてまつらん人は、たとえば十人も百人も、みなおなじく浄土に往生すべきことは、さらさらうたがいあるべからざるものなり。このいわれをよくしりたる人をば、他力の信心を獲得したる当流の念仏行者というべし。かくのごとくよく決定せしめたる人のうえには、ねてもさめても仏恩報謝のために称名念仏もうすべし。ただしこれについて不審あり。そのいわれをいかんというに、一念に弥陀をたのむうえには、あながちに念仏もうさずともときこえたり。さりながらこれをこころうべきようは、われらごときのあさましき身の、なにのようもなくやすくただ弥陀を一念にたのむちからにて、報土に往生すべきことのありがたさとうとさよと、くちにいだしてもうすべきを、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうせば、おなじこころなるがゆえにとしるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  明応六年十月十四日至于巳剋書之〈巳の剋に至りて、これを書く〉
          八十三歳釈蓮如
 弥陀大悲の誓願をふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし
 八十地あまりおくる月日はきょうまでも
 いのちながらう身さえつれなや

(第67)chougai05-105R_106R
 それ当流聖人のすすめまします安心のおもむきは、在家無智の身のうえにおいては、なにのわずらいもなく、ただもろもろの雑行をすてて、一心に阿弥陀如来をたのみたてまつりて、後生たすけたまえとふかく弥陀を一念にたのみまいらせんひとは、たとえば十人も百人も、みなことごとく浄土に往生すべきことは、さらにうたがいあるべからず。このいわれをよくこころえたるひとを、他力の信心を獲得したる当流の念仏の行者というべし。かくのごとく真実に決定せしめたるひとのうえには、ねてもさめても仏恩報謝のために称名念仏もうすべし。ただしこれにつきて不審あり。そのいわれはいかんと云うに、すでにはや一念に弥陀をたのみもうすうえには、あながちに念仏もうさずともときこえたり。さりながらこれをこころうべきようは、かかるあさましき罪業のわれらを、なにのわずらいもなくただ一念に弥陀をたのむちからにて、やすく弥陀の浄土に往生すべきことのありがたさとうとさよと、くちにいだしていくたびももうすべきことなれども、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうせば、おなじこころにてある道理なれば、かようにこえにいだしてももうすべきものなりとこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
  明応六年拾月十五日書之
      八十三歳在御判

(第68)chougai05-106R_107R
 それ開山聖人のすすめまします当流安心と申すは、一念発起平生業成とたてて、いかなる愚癡無智の身のうえにおいても、なにのわずらいもなく、ただもろもろの雑行をすてて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまえと、ふかく弥陀を一念にたのみたてまつらん人は、たとえば十人も百人も、みなことごとく浄土に往生すべきことは、更にそのうたがいあるべからざるものなり。この道理をよくこころえたる人をこそ、信心獲得せしめたる当流の他力の行者とは申し侍るべきものなり。かくのごとく決定したる人は、かならず行住座臥に仏恩報尽の称名念仏申すべし。ただし就是〈これに就きて〉不審あり。その謂われはいかんというに、すでに一念に弥陀をたのむ機のうえには、あながちに念仏申さずともときこえたり。さりながらこれをこころうべきようはいかんというに、すでにかかる罪障のふかき身のうえにおいて、一念に弥陀をたのむちからばかりにて、なにのわずらいもなくやすく報土に往生すべきことのありがたさとうとさよと、いくたびもくちにいだして申すべきことなれども、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申せば、則ちおなじこころにてあるなりときけば、なおなおとうとくおもいたてまつりて申すなりとしるべし。穴賢、穴賢。
  明応六年十一月中旬
 なきあとに我れをわすれぬ人もあらば
 なお弥陀たのむこころおこせよ

(第69)chougai05-107R_108R
 それ開山聖人のすすめましますところの一流の安心ともうすは、無智罪障の身のうえにおいて、なにのようもなく、ただもろもろの雑行をすてて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまえとふかく弥陀を一念にたのみたてまつらんひとは、たとえば十人も百人も、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらさらうたがいあるべからざるものなり。この道理をよくしりたる人こそ、信心獲得せしめたる当流の他力行者とはもうしはんべるべきものなり。かくのごとくよくよく決定したる人のうえには、ねてもさめてもただ仏恩報尽のために称名念仏もうすべし。これについて不審あり。そのゆえはすでに一念に弥陀をたのむ機のうえには、あながちに念仏まうさずともときこえたり。さりながらこれをこころうべきようはいかんというに、すでにかかる罪業の身ながら、一念に弥陀をたのむちからばかりにて、やすく極楽に往生すべきことのありがたさとうとさよとおもいて、くちにいくたびもいだしてももうすべきを、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうせば、それがおなじこころにてあるなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  明応六年十一月二十日

(第70)chougai05-108R_109L
 抑も報恩講の事、当年より毎朝六ツ時より夕〈ゆうべ〉の六ツ時において、みなことごとく退散あるべし。このむねをあいそむかんともがらは門徒たるべからざるものなり。それ当流開山の一義は余の浄土宗にはおおきに義理各別にしてあいかわりたりとしるべし。されば当流の義は、わが身の罪障のふかきにはこころをかけずして、ただもろもろの雑行のこころをふりすてて、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまえともうすひとをば、かならず十人も百人も、みなともにたすけたまうべし。これすなわち弥陀如来のちかいまします正覚の一念といえるはこのこころなりとしるべし。このこころを当流には一念発起平生業成とはもうしならうなり。しかればみなひとの本願をばたのむとはいえども、さらにおもいいれて弥陀をたのむひとなきがゆえに、往生をとぐることまれなり。このゆえに今日今夜より一心に弥陀如来今度の後生たすけたまえとひしとたのみまいらせんひとは、のこらず浄土に往生すべきこと、さらにもってそのうたがいあるべからずとしるべし。このうえには行住座臥に称名念仏すべきものなり。これについて不審あり。そのいわれいかんというに、一念に弥陀をたのむところにて往生さだまるときは、あながちに念仏もうさずともときこえたり。さりながらこれをこころうべきようは、かかる罪障のあさましき身なれども、一念に弥陀をたのむちからばかりにて、やすく報土に往生すべきことの、身にあまるありがたさとうとさよと、くちにいだしていくたびももうすべきことなれども、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうせばすなわち仏恩報尽のこころにあいあたれりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  明応六年丁巳十一月二十一日

(第71)chougai05-109L_110R
 抑もこの在所大坂においていかなる往昔〈むかし〉の宿縁ありてか、既に去んぬる明応第五の秋のころよりかりそめながらかたのごとく一宇の坊舍を建立せしめ、又当年明応六年の仲冬下旬の冬にいたり、かずかず周備満足の為体、まことに法力のいたりか、又念仏得堅固のいわれか、これしかしながら聖人の御用にあらずや。これによりて門徒の輩一同に普請造作にこころをつくして粉骨をいたさしむる条、真実真実、往生浄土ののぞみ、これあるかのいわれ、殊勝に覚え侍んべりぬ。しかれば当年聖人の報恩講より来集の門徒中、一向に往生極楽の他力信心をとらしめて、今度の一大事の報土往生をとげしめたまわば、これしかしながら今月二十八日の聖人御本源にあいかなうべきものをや。信ずべし、よろこぶべし。それ当流聖人の御勧化の安心というは、あながちに罪障の軽重をいわず、ただ一念に弥陀如来後生たすけたまえと帰命せん輩は、一人としても報土往生をとげずということあるべからずと、各々こころうべし。このほかには更に別の子細あるべからずとおもうべきものなり。穴賢、穴賢。
  明応六年十一月二十五日

(第72)chougai05-110R_111R
 侍能工商之事
 一つに、奉公宮仕〈みやづか〉いをし、弓箭を帯して主命のために身命をもおしまず。
 二つに、又耕作に身をまかせ、すきくわをひさげて大地をほりうごかして、身にちからをいれてほりつくりを本として身命をつぐ。
 三つに、或いは芸能をたしなみて人をたらし、狂言綺語を本として浮世をわたるたぐいのみなり。
 四つに、朝夕は商〈あきな〉いに心をかけ、或いは難海の波の上にうかび、おそろしき難破にあえる事をかえりみず。
 かかる身なれども弥陀如来の本願の不思議は諸仏の本願にすぐれて、我らまよいの凡夫をたすけんという大願をおこして、三世十方の諸仏にすてられたる悪人女人をすくいましますは、ただ阿弥陀如来ばかりなり。これをとうとき事ともおもわずして、朝夕は悪業煩悩にのみまとわれて、一すじに弥陀をたのむ心のなきはあさましき事にはあらずや。ふかくつつしむべし。あなかしこ、あなかしこ。

(第73)chougai05-111R_112R
 親鸞上人御勧化の信心の義は、あながちに我が身のつみの軽重をいわず、また妄念妄執のこころのやまぬなんどいう機のあつかいをさしおきて、ただ在家止住のやからは一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念おこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまうなり。これすなわち仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ信心を如来よりあたえたまうこころなり。さればこのうえには、名号をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず。弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり、弥陀如来の大悲御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。これまさしく専修専念の行者なり。これまた当流にたつるところの一念発起平生業成ともうすこころなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第74)chougai05-112R,112L
 後生を一大事とおぼしめし候わば、ただ一すじに弥陀をたのみまいらせて、もろもろの雑行、物のいまわしき心などをふりすてて、一心にふたごころなくたのみまいらせ候いてこそ、ほとけにはなり候わんずれ。さように人に物をまいらせ候いて、そのちからにてなどとうけ給い候。なにともなき事にて候。よくよく御心え候べく候。後生ほどの一大事はあるまじく候。文をよくよく御らんじ候べく候。返す返す御心えのとおりどもあさましく候。これよりのち、いよいよよくよく御心えわけましまし候べく候。あなかしこ、あなかしこ。

(第75)chougai05-112L,113R
 それ五障三従の女人の身は、もろもろの雑行をうちすてて、一心に弥陀の本願をたのみ、阿弥陀如来このたびの後生たすけましませとふかく弥陀をたのまん人は、みなながら極楽にかならず往生すべきこと、さらさらうたがう心つゆほどももつべからず。そのうえにはねてもさめても後生たすけまします弥陀如来の御恩のほどのありがたさとうとさよとおもいて、つねに念仏もうすべくばかりなり。このほかには別の子細あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第76)chougai05-113R,113L
 南無阿弥陀仏の六字を善導釈していわく。南無という二字はすなわちこれ帰命なり、又これ発願回向の義なり。阿弥陀仏というはすなわちその行なり。この義をもってのゆえにかならず往生することをうるなりといえり。このこころはいかんというに、罪業深重の凡夫なりというとも、阿弥陀仏後生たすけ給えと一念にたのみ申さん衆生をば、よくしろしめして無上大利の功徳力をたのみ申す我等に回向しましますなり。このゆえに無始已来〈このかた〉の罪障一時に消滅して正定聚不退の位にいたるべきなり。これすなわち弥陀如来の他力本願のこころなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第77)chougai05-113L,114R
 南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にてさぶろうや。又なにと弥陀をばたのみて報土の往生をばとぐべくや。これを心得べきようは、先ず南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよくこころえて、弥陀をばたのむべし。抑も六字の体は、すなわち我ら衆生の後生たすけ給えとたのみたてまつる心なり。すなわちそのたのむ衆生を阿弥陀如来のしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたえましますなり。これをすなわち衆生に回向し給えるといえるはこのこころなり。これによりて弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまう法なるがゆえに、機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこの義なり。あなかしこ、あなかしこ。
 南無という二字の内には弥陀をたのむ
 こころありとはたれもしるべし
 ほれぼれと弥陀をたのまん人はみな
 罪は仏にまかすべきなり
 つみふかく如来をたのむ身になれば
 法のちからに西へこそゆけ
          八十四歳御判

(第78)chougai05-114L_116R
 それ南無阿弥陀仏と申すはわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえず候。しかれどもこの六字の内において無上甚深の利益の広大なるよし、内々うけたまわりおよび候。くわしく愚癡の我等におしえましまし候わば、忝き御慈悲と存ずべく候。また他力の真実信心とやらんもこの六字にこもりたるなんど御流安心決定の面々も一同に御物がたり候間、くわしく存知仕り候て、今度の一大事の報土往生を治定仕り度存じ候間、あわれ慈悲哀愍をたれましまして、ねんごろに御おしえにあずかり候わば、然るべき御慈悲と存じおき申すべく候なり。答えて云く、我等もくわしく存知せしむるむねは候わねども、このごろ凡そ聴聞のおもむきを、かたのごとくかたり申すべきにて候。おぼろげに御きき候いては、我等が後日のあやまりにもまかりなるべく候。解脱の耳をそばだてて、ふかく歓喜の思いを御なし候いて、よくよく御聴聞あるべく候。抑もまずこの南無阿弥陀仏と申す六字を大唐の善導大師釈していわく。南無というは帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というはその行なり。この義をもってのゆえにかならず往生することをうといえり。さればこの釈のこころをばなにと心得べきぞというに、これに二の義あり。一には帰命、二には発願回向の義なり。これをこころうべきようは、たとえば一生造悪の愚癡の我等なれども、ただなにのようもなく一念に阿弥陀仏を後生御たすけ候えと一念にふかくたのみまいらせんものをば、一定御たすけあるべきこと、さらにうたがいあるべからず候。さてこそ不思議の願力とはこれをもうすなり。かように一念に弥陀をたのみたてまつるものには、殊勝の大利無上の功徳を我等にあたえましますいわれあるがゆえに、無始よりこのかたの罪障ことごとくきえはてて、正定聚不退転のくらいにかない候ものなり。このいわれこそすなわち南無阿弥陀仏の六字が我等が往生すべき支証にては候え。別に南無阿弥陀仏をこころうべき道理にてはなきものなり。他力の大信心というもこの六字の名号をこころうるいわれなりとこころえらるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第79)chougai05-116R_117L
 それ南無阿弥陀仏と申すはわずかにそのかず六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えず候。しかれどもこの六字のうちには無上甚深の利益の広大なるよし、内々うけたまわりおよべり。あわれくわしく愚癡の我等におしえたまい候わば、忝く存ずべく候。また他力の安心と申すもこの六字のこころにこもれりなんど仰せられ候あいだ、くわしく存知せしめたく候。答えて云く。我等もくわしく存知つかまつりたるむねはなく候えども、このごろおおよそ聴聞を耳にふれおき候おもむき、かたのごとくかたり申すべきにて候。おぼろげに御きき候いては、我等が後日のあやまりにもなるべく候。かえすがえすも解脱の耳をそばだてて、ふかく歓喜の思いを御なし候いて、よくよく御ききあるべくさぶろう。抑もこの南無阿弥陀仏と申す六字を善導釈していわく。南無というは帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは行なり。この義をもってのゆえにかならず往生することをうといえり。さればこの釈のこころをばなにとこころうべきぞというに、これに二の義あり。一には帰命、二には発願回向の義なり。これをこころうべきようは、たとえば一生造悪の愚癡の我等なれども、南無と帰命すればやがて阿弥陀仏のそのたのむ機をしろしめすなり。また帰命というはたすけたまえと申すこころなり。この帰命の衆生を弥陀のすくいましますこころが、すなわち発願回向のこころなり。また発願回向というは阿弥陀如来の御かたより大善大功徳をあたえたまうこころなり。この大善大功徳を我等衆生にあたえましますゆえに、無始曠劫よりつくりおきたる悪業煩悩を一時に消滅したまうゆえに、すでに我等が悪業のおそろしきつみことごとくみなきえて、すでに無上涅槃のくらいにひとしきがゆえに、正定聚不退のくらいにいたるとはいうなり。さればこそ、この南無阿弥陀仏の六字はわれらが往生すべきすがたなりとよくよくしらるるものなり。又他力の信心をうるというも、ただこの南無阿弥陀仏の六字のうちにみなこもれるものなりとおもうべし。さればかずはただ六字にてすくなけれども、その功能ふかきことはさらにきわほとりもなきいわれあるがゆえなりとしるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第80)chougai05-118R,118L (聖全)
いまの時の世にあらん女人は、あいかまえてみなみな心をひとつにして、一心に阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるべし。そのほかにはいずれの法を信ずというとも、後生のたすかるという事ゆめゆめあるべからずとおもうべし。されば弥陀をばなにとようにたのみ、後生をばなにとねがうべきぞというに、なにのわずらいもなくただ一心に弥陀をたのみ、後生たすけたまえとふかくたのみ申さん人を、かならず御たすけあらん事は、さらさら露ほどもそのうたがいあるべからざるものなり。このうえには、しかと御たすけあるべき事の御うれしさよとおもいて、仏恩報謝のために念仏申すべきばかりなり。あなかしこ、あなかしこ。
  八十三歳 御判

(第81)chougai05-118L
 それ末代悪世の男女たらん身は、なにのわずらいもなく、もろもろの雑行をうちすてて、一心に阿弥陀如来後生たすけ給えとひしとたのみたてまつらん人は、たとえば百人も千人も、のこらず極楽に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第82)chougai05-118L_119L
 吉藤専光寺門徒中面々安心之次第大略推量せしむるに、念仏だに申して毎月道場寄合において懈怠なくば、往生すべきなんどばかり存知候歟。但しそれは今少し不足に覚え候。抑も当流聖人のさだめおかるるところの一義はいかんというに、十悪五逆の罪人、五障三従の女人たらん身は、ただなにのわずらいもなく一心一向に弥陀如来を余念もなくふかくたのみたてまつりて、後生たすけたまえと申さん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、ことごとくみな報土に往生すべきこと、さらさらうたがいあるべからざるものなり。これすなわち他力真実の安心決定の行者といいつべし。かくのごとくこころえたる人をなづけて、一念発起平生業成の当流念仏の行人と号するものなり。この外にはことなる信心とても別の義ゆめあるべからずと、よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(第83)chougai05-119L_120L
 信心のようたずねうけたまわりそうろう。なにのわずらいもなく阿弥陀仏を一心にたのみまいらせて、そのほかはいずれの仏も神も阿弥陀一仏をたのみまいらするうちにこもりたる事にてそうろうとおぼしめして、一心一向に弥陀を信じまいらさせたまいさぶらわんずるが、すなわち他力の信心をよくこころえたる人にてあるべくさぶろう。このほかにはなにのようがましき事もそうろうまじくさぶろう。むかしは阿弥陀仏をもとうとくおぼしめして、おろそかなる御心もさぶらわねども、それは浄華院の御心えのとおりにてさぶろうほどに、わろく候。いまは阿弥陀仏の御たすけによりて極楽に往生すべしとおぼしめしさだめ候べく候。もとは我御申し候念仏のちからにてほとけにならせたまい候わんずるようにおぼしめして候。それは自力にてわろきこころにて候。いまは阿弥陀ほとけの御ちからにて御たすけありたりとおぼしめし候べく候。さるほどに阿弥陀如来の御ちからにて御たすけありつる御うれしさをば、念仏を申して報じたてまつるものなりと御心え候わんずるが、すなわち報謝の念仏と申す事にて候。弥陀如来の他力本願のことわり、信心をとると申すもこの事にて候。なにのようもなき事どもにて候。御こころやすくおぼしめし候べく候。五障三従の女人、十悪五逆の悪人は、この弥陀如来の本願にあらずは、極楽に往生するという事あるまじく候。かかる殊勝の本願にあいまいらせて候事、まことに宿縁のもよおすところとありがたくこそさぶらえ。よくよくこのとおりをまことと御心え候いて、報恩報徳のために御念仏候べく候。あなかしこ、あなかしこ。

 堀川通高辻上町 植村藤右衛門
 高麗橋壱町目  植村藤三郎