興撰
無量寿経連義述文賛
巻下の1(5の内の4)


無量寿経連義述文賛 巻下之一
[経] 仏告阿難。其有衆生。生彼国者。皆悉住於正定之聚。所以者何。彼仏国中。無諸邪聚及不定聚。
[経] (仏、阿難に告たまわく、それ衆生ありて、彼の国に生ずる者は、皆悉く正定の聚に住す。所以は何〈いかん〉。彼の仏国中には、諸の邪聚及び不定聚なければなり。)

 経曰。仏告阿難至及不定聚者。述云。第二弁衆生往生因果。即遂摂衆生願而申往生。往生有四。一凡小往生。二大聖往生。三双以得失勧凡小生。四歎彼土勝令大聖求。初又有三。此初彰正定令物仰求也。JMS03-01R
 (経に曰く「仏告阿難」より「及不定聚」に至るまでは、述して云く、第二に衆生の往生の因果を弁ず。即ち摂衆生の願を遂て往生を申ぶ。往生に四あり。一には凡小の往生。二には大聖の往生。三には双べて得失を以て凡小の生を勧む。四には彼土の勝を歎じて大聖をして求めしむ。初にまた三あり。これは初に正定を彰して物をして仰求せしむるなり。)JMS03-01R

 有説。有涅槃法名正定聚。無涅槃法名邪定聚。離此二者名不定聚。非也。離有種姓無種姓外更無衆生聚。応唯二故。JMS03-01R
 (有るが説かく。涅槃法あるを正定聚と名づく。涅槃法なきを邪定聚と名づく。この二を離るる者を不定聚と名づくと。非なり。有種姓・無種姓を離れて外に更に衆生聚なし。応に唯二なるべきが故に。)JMS03-01R

 有説。善趣已前名為邪定。善趣位中数退数進名為不定。習種已去分位不退名為正定。如其二乗外凡常没名為邪定。前六方便名為不定。忍法以上名為正定。故生彼国者。勿問三乗皆住正定更無余聚故。此亦不然。彼三聚義違諸教理。応如理思。善趣已前既名邪定。若生彼土即住正定者。応越十信即入習種。必無此義故。若生彼土不即入習種位故。無此咎者。還有彼土不定聚故。JMS03-01R,01L
 (有るが説かく。善趣已前を名づけて邪定と為す。善趣位の中にしばしば退し、しばしば進むるを名づけて不定と為す。習種已去の分位不退を名づけて正定と為す。その二乗の如き外凡の常没を名づけて邪定と為す。前の六方便を名づけて不定と為す。忍法以上を名づけて正定と為す。故に彼の国に生ずる者は、三乗を問うことなく皆、正定に住して更に余聚なきが故にと。これまた然らず。彼の三聚の義は諸の教理に違す。応に理の如く思すべし。善趣已前は既に邪定と名づく。もし彼の土に生じて即ち正定に住せば、応に十信を越えて即ち習種に入るべし。必ずこの義なきが故に。もし彼の土に生じて即ち習種位に入らざるが故に、この咎なしといわば、還りて彼の土に不定聚あるが故に。)JMS03-01R,01L

 有説。依中辺論。正位習起既在初地故。此中菩薩往生者。唯是初地已上者非也。若唯菩薩者。即違経云皆悉故。亦応有不定聚故。JMS03-01L
 (有るが説かく。『中辺論』に依るに正位習起こることは既に初地に在るが故に、この中の菩薩の往生は唯これ初地已上というは、非なり。もし唯菩薩ならば即ち経に「皆悉」というに違するが故に、また応に不定聚あるべきが故に。)JMS03-01L

 有説。住正定聚者即同小経中皆是阿[ビ01]跋致。阿[ビ01]跋致即不退故。依本業等。十解第七心已去諸位是也。雖有下位従勝言皆是故。此亦不然。既第七心已上名不退者。即諸下位非不退位。応有不定故。JMS03-01L,02R
 (有るが説かく。住正定聚とは即ち『小経』の中の「皆是阿[ビ01]跋致」に同じ。阿[ビ01]跋致は即ち不退なるが故に。『本業』等に依るに、十解の第七心已去の諸位これなり。下位にあると雖ども勝に従いて「皆是」というが故にと。これまた然らず。既に第七心已上を不退と名づくることは、即ち諸の下位は不退位に非ず。応に不定にあるが故に。)JMS03-01L,02R

 今即余教所説三乗皆是穢土。有此三乗故。若生浄土不問凡聖。定向涅槃。定趣善行。定生善道。定行六度。定得解脱故。唯有正定聚而無余二也。JMS03-02R
 (今は即ち余教に説く所の三乗は皆これ穢土なり。この三乗あるが故に、もし浄土に生じぬれば凡聖を問わず、定めて涅槃に向い、定めて善行に趣き、定めて善道に生じ、定めて六度を行じ、定めて解脱を得るが故に、唯、正定聚のみありて余の二はなきなり。)JMS03-02R

[経] 十方恒沙諸仏如来。皆共讃嘆無量寿仏威神功徳。不可思議。諸有衆生。聞其名号。信心歓喜。乃至一念。至心回向。願生彼国。即得往生。住不退転。唯除五逆誹謗正法。
[経] (十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳、不可思議なることを讃嘆したまう。諸有〈あらゆる〉衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまえり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。唯し五逆と誹謗正法とを除く。)

 経曰。十方恒沙至誹謗正法者。述云。此第二挙諸仏歎令増物生去心也。諸仏説既共歎。聞名欲生必得往生故。JMS03-02R
 (経に曰く「十方恒沙」より「誹謗正法」に至るまでは、述して云く、これは第二に諸仏の歎を挙げて物をして去心を生ずることを増せしむ。諸仏は説きて既に共に歎ず。名を聞きて生ぜんと欲すれば必ず往生を得るが故に。)JMS03-02R

 有説。此経拠正定聚故。除逆謗法。観経中邪定聚所生故。五逆亦生。非也。若如所言。下下生人生彼浄土応非正定故。JMS03-02R
 (有るが説かく。この経は正定聚に拠るが故に、逆と謗法とを除く。『観経』の中には邪定聚の所生なるが故に五逆もまた生ずと。非なり。もし言う所の如きならば、下下生の人は彼の浄土に生ずるも、応に正定に非ざるべきが故に。)JMS03-02R

 有説。雖作五逆若修十六観即得往生。即彼経意也。若不能修十六観者。雖作余善必不得生故此経除之。此亦非也。下品下生亦修十六観必違彼経故。JMS03-02R,02L
 (有るが説かく。五逆を作ると雖ども、もし十六観を修すれば即ち往生を得。即ち彼の経の意なり。もし十六観を修すること能わざれば、余善を作すと雖ども必ず生ずることを得ざるが故に、この経はこれを除くと。これまた非なり。下品下生もまた十六観を修すれば必ず彼の経に違するが故に。)JMS03-02R,02L

 今即此文前已釈故不須更解。而前十念。此言一念者。最少極多互綺挙故不相違。JMS03-02L
 (今は即ちこの文前に已に釈するが故に更に解を須いず。而るに前には「十念」、ここには「一念」ということは、最少と極多と互に綺挙するが故に相違せず。)JMS03-02L

[経] 仏告阿難。十方世界諸天人民。其有至心。願生彼国。凡有三輩。
[経] (仏、阿難に告げたまわく、十方世界の諸天人民、それ心を至して、彼の国に生ぜんと願ずることあらば、凡よそ三輩あり。)

 経曰。仏告阿難至有其三輩者。述云。此第三申往生因令人修生有二。此初総標也。JMS03-02L
 (経に曰く「仏告阿難」より「有其三輩」に至るまでは、述して云く、これは第三に往生の因を申べて人をして生を修せしむるに二あり。これは初に総標なり。)JMS03-02L

 有説。此中三輩皆生他受用土故。不同観経生変化土之九品也。仮使不能作功徳是仮設故。十念亦是弥勒所問之所説故。非也。仮使之言縦余功徳令発菩提心故経言仮使。応如余言亦是実説故。又若十念即非凡夫念。如何於上中二輩不説。唯在下輩故。JMS03-02L,03R
 (有るが説かく。この中の三輩は皆、他受用土に生ずるが故に、観経の変化土の九品に生ずるには同じからざるなり。「仮使不能作功徳〈たとい諸の功徳を作ること能わざれども〉」とは、これ仮設の故に。十念はまたこれ『弥勒所問』の所説の故にと。非なり。「仮使」の言は余の功徳を縦〈ゆる〉して菩提心を発さしむるが故に経に「仮使」という。応に余言の如くまたこれ実説なるべきが故に。またもし十念は即ち凡夫の念に非ざれば、如何ぞ上中二輩に於いて説かざる。唯、下輩にのみ在るが故に。)JMS03-02L,03R

 今即合彼九品為此三輩故其義無異。不応難言。彼経中上中中二品。皆作沙門。亦見真仏不発大心。中下一生不作沙門。都不見仏不発大心。而此中輩非作沙門。亦見化仏発菩提心。義必相違者中輩之内自有多類。二経各談其一無違。而言当発菩提心者欲顕生彼必発大心。以簡定性不得生故。余相違文皆此類也。JMS03-03R
 (今は即ち彼の九品を合してこの三輩と為すが故に、その義に異なし。応に難じて言うべからず。彼経の中上と中中との二品は皆、沙門と作るも、また真仏を見るも大心を発さず。中下一生は沙門と作らず、都て仏を見ず、大心を発さず。而るにこの中輩は沙門と作るに非ざるも、また化仏を見、菩提心を発すと。義必ず相違することは中輩の内に自ずから多類あり。二経おのおのその一を談ずれば違うことなし。而るに「当発菩提心〈当に無上菩提の心を発して〉」というは彼に生じて必ず大心を発すことを顕さんと欲す。定性の生まるることを得ざるに簡ぶを以ての故なり。余の相違の文は皆この類なり。)JMS03-03R

 有説。更有往生而非三輩。謂下文中疑五智人。疑惑心中修諸功徳。亦信罪福少修善本。願生彼土。以信不定故非前六。少修福故。亦非後三。由此不入九品所摂。此亦不然。帛謙皆云。中輩之人孤疑不信。雖生彼土在其城中於五百年不見仏不聞経不見聖。必不可言疑智凡夫不在九品故。JMS03-03R,03L
 (有るが説かく。更に往生ありて而も三輩に非ず。謂く下の文の中の五智を疑う人、疑惑心の中に諸の功徳を修し、また罪福を信じ少し善本を修して彼の土に生ぜんと願う。信不定を以ての故に前の六に非ず。少し福を修するが故にまた後三に非ず。これに由りて九品の所摂に入らずと。これまた然らず。帛と謙と皆云う。中輩の人は孤疑して信ぜず。彼の土に生ずと雖ども、その城の中に在りて五百年に於いて、仏を見ず、経を聞かず、聖を見ずと。必ず疑智の凡夫は九品に在ずというべからざるが故に。)JMS03-03R,03L

 有説。不決四疑雖生彼国而在辺地。別是一類非九品摂。是故不応妄生疑惑。此亦不然。二経所説。中下之属所止宝城既五百。応如此経。疑智凡夫所在宝宮殿。亦是辺地故。不爾便違経云。所居舍宅在地不能令随意。高大在虚空中。復去阿弥陀仏甚大遠故。JMS03-03L
 (有るが説かく。四疑を決せざれば、彼の国に生ずと雖ども而も辺地に在り。別にこれ一類にして九品の摂に非ず。この故に応に妄に疑惑を生ずべからずと。これまた然らず。二経に説く所の中下の属〈たぐ〉いの所止の宝城、既に五百なり。応にこの経の疑智の凡夫所在の宝宮殿の如く、またこれ辺地なるべきが故に。爾らずんば便ち経に、所居の舍宅は地に在りて、意に随いて高大にして虚空の中に在らしむること能わず、また阿弥陀仏を去ること甚だ大きに遠きというに違するが故に。)JMS03-03L

 有説。疑仏智人即此中輩観経中品。故帛謙経中輩云。持戒布施飯食沙門作寺起塔。後疑不信。其人暫信暫不信。続結其善。願得往生。雖生彼国。不得前至無量寿仏所。還道見仏国界辺自然宝城。於五百歳。不得見仏聞法等故。不応非法護経中疑仏智人故。此亦不然。JMS03-03L,04R
 (有るが説かく。仏智を疑う人は即ちこの中輩と『観経』の中品となり。故に帛と謙との経の中輩に、持戒し、布施し、沙門に飯食し、寺を作り、塔を起こして、後には疑いて信ぜず、その人は暫くは信じ、暫くは信ぜず、その善を続結して往生を得と願い、彼の国に生ずと雖ども前んで無量寿仏の所に至ることを得ず、還〈また〉道に仏国界の辺の自然の宝城を見て、五百歳に於いて仏を見て法を聞くことを得ず等というが故に、応に法護の経の中の仏智を疑う人に非ざるべからざるが故にと。これまた然らず。)JMS03-03L,04R

 帛謙下輩亦在路城於五百年不得見仏。如何疑智唯在中輩而非下耶。若言中輩疑智修因相似故。故雖属中品而非下者。亦可下輩受果似中品故摂疑仏智。果雖相似不摂疑智因雖復同何容疑智。JMS03-04R
 (帛と謙との下輩にまた路城に在りて五百年に於いて見仏することを得ず。如何ぞ疑智は唯、中輩に在りて下に非ざらんや。もし中輩と疑智と修因相似するが故に、故に中品に属すと雖ども、而も下には非ずといわば、また下輩は果を受くること中品に似たるが故に疑仏智に摂すべし。果は相似すと雖ども疑智に摂せずんば、因はまた同じと雖ども、何ぞ疑智なる容けんや。)JMS03-04R

 又彼所言九品之内属於中上理必不然。観経中中上。此経疑智。華開見仏聞法獲利皆不同故。若言中上自有多種故無此過者。豈不中下亦有多種故摂疑智故。JMS03-04R
 (また彼がいう所の九品の内には中上に属すというは、理必ず然らず。『観経』の中の中上と、この経の疑智と、華開、見仏、聞法、獲利、皆同じからざるが故に。もし中上に自ずから多種あるが故にこの過なしといわば、豈〈いずく〉んぞ中下にまた多種あるが故に疑智に摂せざらんが故に。)JMS03-04R

 今即疑仏五智中下下上二生所摂。由此帛謙後之二輩皆言。在城於五百年。不得見仏聞法見聖故。若三輩若九品。皆無寛狹摂往生尽。然彼三品集善為上止悪為中造悪為下。其間委悉応如理思。JMS03-04R,04L
 (今は即ち仏の五智を疑うは中下と下上との二生の所摂なり。これに由りて帛と謙との後の二輩に皆、城に在りて五百年に於いて、仏を見、法を聞き聖を見ることを得ずというが故に。もしは三輩、もしは九品、皆、寛狹なく往生を摂し尽くす。然るに彼の三品は集善を上と為し、止悪を中と為し、造悪を下と為す。その間の委悉、応に理の如く思すべし。)JMS03-04R,04L

 此中三輩別有三義。一身心異。心即倶発菩提之心専念弥陀。従多同也。身即出家為上。在俗為中下。二修因異。即具修諸行為上。少分修福為中。称念彼仏十念一念為下。三生縁異。即弥陀観音真身来迎為上。化身迎接為中。夢見仏身為下。JMS03-04L
 (この中の三輩に別して三義あり。一には身心の異。心は即ち倶に菩提の心を発して専ら弥陀を念ず。多に従いて同じなり。身は即ち出家を上と為し、在俗を中下と為す。二には修因の異。即ち具に諸行を修するを上と為し、少分に福を修するを中と為し、彼の仏を称念すること十念一念を下と為す。三には生縁の異。即ち弥陀と観音との真身の来迎を上と為し、化身の迎接を中と為し、夢に仏身を見るを下と為す。)JMS03-04L

 帛延三輩別有四義。一身心異。即出家発菩提心為上。在俗至誠心為中下。二修行異。即備修衆行夢見諸聖為上。少分修善日夜不絶夢見諸聖為中。唯断愛怒念仏十日十夜不絶為下。三見仏異。即同此三種也。四受果異。即生彼土作阿維越。宅舍在空。去仏亦近為上。路止宝城舍宅在地。去仏大遠為中下。JMS03-04L,05R
 (帛延の三輩は別して四義あり。一には身心の異。即ち出家の菩提心を発すを上と為し、在俗の至誠心を中下と為す。二には修行の異。即ち備に衆行を修し夢に諸聖を見るを上と為し、少分に善を修して日夜に絶えず、夢に諸聖を見るを中と為し、唯、愛怒を断じて念仏すること十日十夜絶えざるを下と為す。三には見仏の異。即ちこの三種に同じきなり。四には受果の異。即ち彼の土に生じて阿維越と作り、宅舍は空に在り、仏を去ることまた近きを上と為し、路に宝城に止まり舍宅は地に在りて、仏を去ること大遠なるを中下と為す。)JMS03-04L,05R

 支謙経中。従多雖同而有異者。欲生彼国。懸雑[ゾウ02]綵。作仏寺起塔。飯食沙門者。当断愛怒。斎戒清浄。一心念仏。十日不絶。為下輩耳。JMS03-05R
 (支謙の経の中に、多に従いて同じと雖ども、而も異あることは、彼の国に生ぜんと欲して、雑[ゾウ02]綵を懸け、仏寺を作り、塔を起て、沙門に飯食する者、当に愛怒を断ずべし。斎戒清浄にし、一心に念仏して十日絶えざるを、下輩と為るのみ。)JMS03-05R

 将彼二経対法護本。上輩雖同。中下即異。彼之二品。疑心在懐不発道意。此中二輩。皆発道心決定信故。所以有此参差者。蓋彼梵本雖復備有。帛謙但翻疑信往生之者。法護唯訳浄信修因。其疑智人在後示過故。言雖鉾楯。理必無異。欲釈三輩行位之別。還如前解故不復論。JMS03-05R,05L
 (彼の二経を将いて法護の本に対するに、上輩は同じと雖ども、中下は即ち異なり。彼の二品は、疑心、懐に在りて道意を発さず。この中の二輩は、皆、道心を発して決定して信ずるが故に、この参差ある所以は、蓋し彼に梵本にはまた備にありと雖ども、帛と謙とはただ疑信往生の者を翻し、法護はただ浄信の修因を訳す。その智を疑う人は後に在りて過を示すが故に、言は鉾楯すと雖ども、理は必ず異なることなし。三輩の行位の別を釈さんと欲わば、還りて前に解するが如きの故に、また論ぜず。)JMS03-05R,05L

[経] 其上輩者。捨家棄欲而作沙門。発菩提心。一向専念無量寿仏。修諸功徳。願生彼国。
[経] (その上輩というは、捨家棄欲して沙門と作り、菩提心を発して、一向に専ら無量寿仏を念じ、諸の功徳を修して、彼の国に生せんと願ず。)

 経曰。其上輩者至願生彼国者。述云。此後別釈有三。此初釈上輩有二。此初正釈有四。此初本有修因也。JMS03-05L
 (経に曰く「其上輩者」より「願生彼国」に至るまでは、述して云く、これは後に別して釈するに三あり。これは初に上輩を釈するに二あり。これは初に正釈に四あり。これは初に本有の修因なり。)JMS03-05L

[経] 此等衆生。臨寿終時。無量寿仏与諸大衆。現其人前。
[経] (これ等の衆生、臨寿終時に、無量寿仏、諸の大衆と、その人の前に現ず。)

 経曰。此等衆生至現其人前者。述云。此第二死有相顕也。JMS03-05L
 (経に曰く「此等衆生」より「現其人前」に至るまでは、述して云く、これは第二に死有の相顕るるなり。)JMS03-05L

[経] 即随彼仏。往生其国。
[経] (即ち、彼の仏に随いて、その国に往生す。)

 経曰。即随彼仏往生其国者。述云。此第三中有逐仏也。JMS03-05L
 (経に曰く「即随彼仏往生其国」とは、述して云く、これは第三に中有の、仏に逐〈したが〉うなり。)JMS03-05L

[経] 便於七宝華中自然化生。住不退転。智慧勇猛。神通自在。
[経] (便ち七宝華中より自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。)

 経曰。便於七宝至神通自在者。述云。此第四生有獲益也。JMS03-05L
 (経に曰く「便於七宝」より「神通自在」に至るまでは、述して云く、これは第四に生有の、益を獲るなり。)JMS03-05L

 有説。此三輩如其次第。即九品中上中中上下下。故彼経云経一七日得不退転。非也。JMS03-05L
 (有るが説かく。この三輩はその次第の如く、即ち九品の中の上中・中上・下下なり。故に彼の経に、一七日を経て不退転を得というと。非なり。)JMS03-05L

 有説。此言住不退転即初地已上不退転位。観経所言悟無生忍得百法明皆初地故。此亦非也。彼経中生得不退已経一小劫得無生忍。必不可言不退転即初地故。JMS03-05L,06R
 (有るが説かく。ここに「住不退転」というは即ち初地已上の不退転の位なり。『観経』に言う所の「悟無生忍〈得無生忍〉」「得百法明」は皆初地なるが故にと。これまた非なり。彼の経の中生に不退を得已りて一小劫を経て無生忍と得と。必ず不退転は即ち初地なりというべからざるが故に。)JMS03-05L,06R

 今即上品三生雖有遅疾皆入十信得無生忍悟百明門故云住不退。JMS03-06R
 (今は即ち上品の三生は遅疾ありと雖ども皆、十信に入りて無生忍を得、百明門を悟るが故に「住不退」という。)JMS03-06R

[経] 是故阿難。其有衆生。欲於今世見無量寿仏。応発無上菩提之心。修行功徳。願生彼国。
[経] (この故に、阿難、それ衆生ありて、今世において無量寿仏を見たてつまつらんと欲〈おも〉わば、応に無上菩提の心を発して、功徳を修行して、彼の国に生ぜんと願ず。)

 経曰。是故阿難至願生彼国者。述云。此後結勧也。JMS03-06R
 (経に曰く「是故阿難」より「願生彼国」に至るまでは、述して云く、これは後に結勧なり。)JMS03-06R

[経] 仏語阿難。其中輩者。十方世界諸天人民。其有至心。願生彼国。
[経] (仏、阿難に語りたまわく、その中輩というは、十方世界の諸天人民、それ心を至して、彼の国に生ぜんと願ずることありて、)

 経曰。仏告阿難至願生彼国者。述云。此第二釈中輩有二。此初総標也。JMS03-06R
 (経に曰く「仏告阿難」より「願生彼国」に至るまでは、述して云く、これは第二に中輩を釈するに二あり。これは初に総標なり。)JMS03-06R

[経] 雖不能行作沙門。大修功徳。当発無上菩提之心。一向専念無量寿仏。多少修善。奉持斎戒。起立塔像。飯食沙門。懸[ゾウ02]燃灯。散華焼香。以此回向。願生彼国。
[経] (行じて沙門と作り、大に功徳を修すること能わじといえども、当に無上菩提の心を発して、一向に専ら無量寿仏を念ずべし。多少善を修して、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、懸[ゾウ02]燃灯、散華焼香して、これを以て回向して、彼の国に生ぜんと願ず。)

 経曰。雖不能行至願生彼国者。述云。此後別釈有四。此初本有修因也。JMS03-06R
 (経に曰く「雖不能行」より「願生彼国」に至るまでは、述して云く、これは後に別して釈するに四あり。これは初に本有の修因なり。)JMS03-06R

[経] 其人臨終。無量寿仏。化現其身。光明相好。具如真仏。与諸大衆。現其人前。
[経] (その人、終に臨みて、無量寿仏、その身を化現す。光明相好、具に真仏の如し。諸の大衆と、その人前に現ず。)

 経曰。其人臨終至現其人前者。述云。此第二死有相現也。JMS03-06R
 (経に曰く「其人臨終」より「現其人前」に至るまでは、述して云く、これは第二に死有の相現ずるなり。)JMS03-06R

[経] 即随化仏。往生其国。
[経] (即ち化仏に随いて、その国に往生して、)

 経曰。即随化仏往生其国者。述云。此第三中有往趣也。JMS03-06R
 (経に曰く「即随化仏往生其国」とは、述して云く、これは第三に中有の往趣なり。)JMS03-06R

[経] 住不退転。功徳智慧。次如上輩者也。
[経] (不退転に住す。功徳智慧、次いで上輩の者の如し。)

 経曰。住不退転至如上輩者也者。述云。此第四生有獲利也。依観経上中下皆云弥陀自現其前不言真化故此文尽理。JMS03-06R,06L
 (経に曰く「住不退転」より「如上輩者也」に至るまでは、述して云く、これは第四に生有の獲利なり。『観経』に依るに、上中下皆、弥陀自らその前に現じたまうといいて、真化をいわざるが故に、この文は理を尽くせり。)JMS03-06R,06L

[経] 仏告阿難。其下輩者。十方世界諸天人民。其有至心欲生彼国。
[経] (仏、阿難に告げたまわく、その下輩というは十方世界の諸天人民、それ心を至して彼の国に生ぜんと欲すること、)

 経曰。仏語阿難至欲生彼国者。述云。第三釈下輩有二。此初総[ヒョウ04]也。JMS03-06L
 (経に曰く「仏語阿難」より「欲生彼国」に至るまでは、述して云く、第三に下輩を釈するに二あり。これは初に総[ヒョウ04]なり。)JMS03-06L

[経] 仮使不能作諸功徳。当発無上菩提之心。一向専意。乃至十念。念無量寿仏。願生其国。若聞深法。歓喜信楽。不生疑惑。乃至一念。念於彼仏。以至誠心願生其国。
[経] (たとい諸の功徳を作ること能わざれども、当に無上菩提の心を発して、一向に意を専にして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生ぜんと願ず。もし深法を聞きて、歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、彼の仏を念じたてまつりて、至誠心を以てその国に生ぜんと願ず。)

 経曰。仮使不能至願生彼国者。述云。此後別釈有三。此初本有修因也。当発菩提心者即簡定性終不向大故不違観経之文。JMS03-06L
 (経に曰く「仮使不能」より「願生彼国」に至るまでは、述して云く、これは後に別して釈するに三あり。これは初に本有の修因なり。「当発菩提心」とは即ち定性の終に大に向かわざるに簡ぶが故に『観経』の文に違わず。)JMS03-06L

[経] 此人臨終。夢見彼仏。
[経] (この人、終に臨みて、夢のごとくに、彼の仏を見たてまつりて、)

 経曰。此人臨終夢見彼仏者。述云。此第二死有相現也。JMS03-06L
 (経に曰く「此人臨終夢見彼仏」とは、述して云く、これは第二に死有の相現ずるなり。)JMS03-06L

[経] 亦得往生。功徳。智慧。次如中輩者也。
[経] (また、往生を得。功徳・智慧、次いで中輩の者の如し。)

 経曰。亦得往生至如中輩者也。述云。此第三生有得利也。将彼九品応別配釈。恐言煩故不須備録。JMS03-06L
 (経に曰く「亦得往生」より「如中輩者也」に至るまでは、述して云く、これは第三に生有の得利なり。彼の九品を将いて応に別して配釈すべし。言の煩しきを恐るるが故に備に録することを須いず。)JMS03-06L

[経] 仏告阿難。無量寿仏。威神無極。十方世界無量無辺不可思議諸仏如来。莫不称歎於彼。
[経] (仏、阿難に告げたまわく、無量寿仏、威神無極なり。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称歎せざるはなし。)


 経曰。仏告阿難至称歎於彼者。述云。第二大菩薩往生有二。初略標。後広頌。初又有二。此初諸仏共歎也。JMS03-06L
 (経に曰く「仏告阿難」より「称歎於彼」に至るまでは、述して云く、第二に大菩薩の往生に二あり。初には略して標し、後には広く頌す。初にまた二あり。これは初に諸仏の共歎なり。)JMS03-06L

[経] 東方恒沙仏国。無量無数諸菩薩衆。皆悉往詣無量寿仏所。恭敬供養。及諸菩薩声聞大衆。聴受経法。宣布道化。南西北方四維上下。亦復如是。
[経] (東方恒沙の仏国より、無量無数の諸菩薩衆、皆悉く無量寿仏の所〈みもと〉に往詣して、恭敬供養すること、諸の菩薩・声聞・大衆に及して、経法を聴受して、道化を宣布す。南・西・北方・四維・上・下、またまたかくの如し。)

 経曰。東方恒沙至亦復如是者。述云。此後勝聖共生也。総而言之。欲令凡小増欲生之意故。須顕彼国土之勝。JMS03-06L,07R
 (経に曰く「東方恒沙」より「亦復如是」に至るまでは、述して云く、これは後に勝聖共生なり。総じてこれを言わば、凡小をして欲生の意を増さしめんと欲するが故に、須く彼の国土の勝を顕すべし。)JMS03-06L,07R

[経] 爾時世尊。而説頌曰。
[経] (その時世尊、而も頌を説きて曰く。)

 経曰。爾時世尊而説頌曰者。述云。第二広頌有二。此初瑣文也。JMS03-07R
 (経に曰く「爾時世尊而説頌曰」とは、述して云く、第二に広く頌するに二あり。これは初に瑣文なり。)JMS03-07R

[経] 東方諸仏国。其数如恒沙。彼土菩薩衆。往覲無量覚。
[経] (東方の諸仏国、その数、恒沙の如し。彼の土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。)

 経曰。東方諸仏国至往覲無量覚者。述云。此後正頌有二。初頌勝聖共生。即十五頌也。後頌諸仏皆歎。即十五頌也。初又有三。初勝聖皆生有二。此初頌東方往生也。覲者見也。諸侯見天子曰覲是也。JMS03-07R
 (経に曰く「東方諸仏国」より「往覲無量覚」に至るまでは、述して云く、これは後に正しく頌するに二あり。初には勝聖共生を頌す。即ち十五頌なり。後には諸仏皆歎ずることを頌す。即ち十五頌なり。初にまた三あり。初には勝聖皆生ずるに二あり。これは初に東方の往生を頌するなり。「覲」とは見なり。諸侯の、天子に見ゆるを覲という、これなり。)JMS03-07R

[経] 南西北四維。上下亦復然。彼土菩薩衆。往覲無量覚。
[経] (南・西・北方・四維・上・下、またまたかくの如し。彼の土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。)

 経曰。南西北四維至往覲無量覚者。述云。此後余方往生也。JMS03-07R
 (経に曰く「南西北四維」より「往覲無量覚」に至るまでは、述して云く、これは後に余方の往生なり。)JMS03-07R

[経] 一切諸菩薩。各斉天妙華。宝香無価衣。供養無量覚。咸然奏天楽。暢発和雅音。歌歎最勝尊。供養無量覚。
[経] (一切の諸菩薩、おのおの天の妙華、宝香・無価衣を斉〈も〉て、無量覚を供養したてまつる。咸然として天楽を奏し、和雅の音〈こえ〉を暢発して、最勝尊と歌歎して、無量覚を供養したてまつる。)

 経曰。一切諸菩薩至供養無量覚者。述云。此第二供敬修福有三。此初外事供養也。JMS03-07R
 (経に曰く「一切諸菩薩」より「供養無量覚」に至るまでは、述して云く、これは第二に供敬修福に三あり。これは初に外事供養なり。)JMS03-07R

[経] 究達神通慧。遊入深法門。具足功徳蔵。妙智無等倫。慧日照世間。消除生死雲。恭敬遶三匝。稽首無上尊。
[経] (神通と慧とに究達して、深法門に遊入して、功徳蔵を具足して、妙智、等倫なし。慧日、世間を照して、生死の雲を消除す。恭敬して遶ること三匝して、無上尊を稽首したてまつる。)

 経曰。究達神通慧至稽首無上尊者。述云。此次内業供敬也。JMS03-07R,07L
 (経に曰く「究達神通慧」より「稽首無上尊」に至るまでは、述して云く、これは次に内業供敬なり。)JMS03-07R,07L

 究者究竟。達者洞達。若通若智究竟洞達故云神通慧。則神通究竟。智慧洞達義也。傍観曰遊。窮原称入。深法者即智所入。深門者即通所遊。故即通智双也。福行円備故具功徳蔵。慧行殊妙故智無等倫。福是慧資慧是福道故即福智双也。JMS03-07L
 (「究」は究竟、「達」は洞達なり。もしは通、もしは智、究竟洞達するが故に「神通慧」という。則ち神通究竟、智慧洞達の義なり。傍観を「遊」といい、窮原を「入」と称す。「深法」とは即ち智の所入。深門とは即ち通の所遊なり。故に即ち通・智の双なり。福行円備の故に「具功徳蔵〈功徳蔵を具足して〉」という。慧行殊妙の故に「智無等倫」という。福はこれ慧の資、慧はこれ福の道なり。故に即ち福・智の双なり。)JMS03-07L

 有説。此之二双皆歎仏自徳。非也。通是化物之妙術故。又彼所言智為通本通是智用。亦非也。通既世俗智必有体用故。慧日者即従喩之名。惑業苦三。能覆真空及智日月。即同雲覆虚空日月。故云生死雲。仏智達真能。除自他惑業苦障。故云慧日。令生物解故云照世間。JMS03-07L,08R
 (有るが説かく。この二双は皆、仏の自徳を歎ずと。非なり。通はこれ化物の妙術なるが故に。また彼がいう所の智は為〈これ〉通の本通はこれ智の用なりとは、また非なり。通は既に世俗智、必ず体用あるが故に。「慧日」とは即ち喩に従うの名なり。惑業苦の三は能く真空及び智の日月を覆うこと、即ち雲の、虚空と日月とを覆うに同じ。故に「生死雲〈生死の雲〉」という。仏智、真に達して能く自他の惑業苦の障を除くが故に「慧日」という。物の解を生ぜしむるが故に「照世間」という。)JMS03-07L,08R

[経] 見彼厳浄土。微妙難思議。因発無上心。願我国亦然。
[経] (彼の厳浄土の、微妙難思議なるを見て、因んで無上心を発す。願わくば我が国もまた然ならん。)

 経曰。見彼厳浄土至願我国亦然者。述云。此第三見土欣求也。無量心者即四無量心也。JMS03-08R
 (経に曰く「見彼厳浄土」より「願我国亦然」に至るまでは、述して云く、これは第三に土を見て欣求するなり。「無量心〈無上心〉」とは即ち四無量心なり。)JMS03-08R

[経] 応時無量尊。動容発欣笑。口出無数光。遍照十方国。回光囲遶身。三匝従頂入。
[経] (時に応じて無量尊、容〈みかお〉を動かし欣笑を発す。口より無数の光を出だして、遍く十方国を照す。回光、身を囲遶すること、三匝して頂より入る。)

 経曰。応時無量尊至三匝従頂入者。述云。此第三頌聞法生智有四。此初現相発起也。遍照者済之無二故。遶身者集徳円満故。三匝者必兼二大士故。頂入者即三尊中為上故。JMS03-08R
 (経に曰く「応時無量尊」より「三匝従頂入」に至るまでは、述して云く、これは第三に聞法生智を頌するに四あり。これは初に現相発起なり。「遍照」とはこれを済〈すく〉うこと無二なるが故に。「遶身」とは集徳円満するが故に。「三匝」とは必ず二大士を兼ぬるが故に。「頂入」とは即ち三尊の中を上と為すが故に。)JMS03-08R

[経] 一切天人衆。踊躍皆歓喜。
[経] (一切天人衆、踊躍して皆歓喜す。)

 経曰。一切人天衆踊躍皆歓喜者。述云。第二衆見生喜也。JMS03-08R
 (経に曰く「一切人天衆踊躍皆歓喜」とは、述して云く、第二に衆、見て喜を生ずるなり。)JMS03-08R

[経] 大士観世音。整服稽首問。白仏何縁笑。唯然願説意。
[経] (大士観世音、服を整えて稽首して問て仏に白さく、何に縁ありてか笑〈えみ〉たまう。唯然なり願わくば意を説きたまえ。)

 経曰。大士観世音至唯然願説意者。述云。此第三観音請説也。JMS03-08R
 (経に曰く「大士観世音」より「唯然願説意」に至るまでは、述して云く、これは第三に観音、説を請うなり。)JMS03-08R

[経] 梵声猶雷震。八音暢妙響。当授菩薩記。今説仁諦聴。
[経] (梵声、雷震のごとく、八音、妙響を暢ぶ。当に菩薩に記を授くべし。)

 経曰。梵声猶雷震至今説仁諦聴者。述云。此第四如来酬請有二。此初略標許勅也。JMS03-08R
 (経に曰く「梵声猶雷震」より「今説仁諦聴」に至るまでは、述して云く、これは第四に如来、請に酬うに二あり。これは初に略して許勅を標するなり。)JMS03-08R

 梵声者総挙。八音者別歎。如梵摩喩経中説。一最好声声哀妙故。二易了声言弁了故。三調和声大小得中故。四柔煖声声濡軽故。五不誤声言無錯失故。六不女声声雄朗故。七尊慧声言有威肅故。八深遠声声遠故。以此妙音酬観音故云暢妙響。JMS03-08R,08L
 (「梵声」は総じて挙げ、「八音」は別して歎ずるなり。『梵摩喩経』の中に説くが如し。一には「最好声」声哀妙の故に。二には「易了声」言弁了の故に。三には「調和声」大小、中を得るが故に。四には「柔煖声」声濡軽の故に。五には「不誤声」言に錯失なきが故に。六には「不女声」声雄朗なるが故に。七には「尊慧声」言に威肅あるが故に。八には「深遠声」声遠きが故に。この妙音を以て観音に酬うが故に「暢妙響」という。)JMS03-08R,08L

[経] 十方来正士。吾悉知彼願。志求厳浄土。受決当作仏。
[経] (今説かん、仁〈なんじ〉諦に聴け。十方来の正士、吾悉く彼の願を知る。厳浄土を志求す。決を受て当に作仏すべし。)

 経曰。十方来正士至受決当作仏者。述云。此後正答所問有四。此初逐願記成仏也。JMS03-08L
 (経に曰く「十方来正士」より「受決当作仏」に至るまでは、述して云く、この後に正しく所問を答うるに四あり。これは初に願に逐〈したが〉いて成仏を記するなり。)JMS03-08L

[経] 覚了一切仏。猶如夢幻響。満足諸妙願。必成如是刹。
[経] (一切の仏は、猶し夢幻響の如しと覚了すれども、諸の妙願を満足して、必ずかくの如きの刹を成ず。)

 経曰。覚了一切法至必成如是刹者。述云。此第二挙智願記獲土也。JMS03-08L
 (経に曰く「覚了一切法」より「必成如是刹」に至るまでは、述して云く、これは第二に智願を挙げて獲土を記するなり。)JMS03-08L

[経] 知法如電影。究竟菩薩道。具諸功徳本。受決当作仏。
[経] (法は電影の如しと知れども、菩薩の道を究竟すれども、諸の功徳の本を具して、決を受て当に作仏すべし。)

 経曰。智法如電影至受決当作仏者。述云。此第三逐智行記成仏也。JMS03-08L
 (経に曰く「智法如電影」より「受決当作仏」に至るまでは、述して云く、これは第三に智行に逐いて成仏を記するなり。)JMS03-08L

[経] 通達諸法性。一切空無我。専求浄仏土。必成如是刹。
[経] (諸法の性は、一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めて、必ずかくの如きの刹を成ず。)

 経曰。通達諸法性至必成如是刹者。述云。此第四挙智願記成土也。智法如夢電等即世俗諦智。通達法性空即勝義諦智。JMS03-08L,09R
 (経に曰く「通達諸法性」より「必成如是刹」に至るまでは、述して云く、これは第四に智願を挙げて成土を記するなり。智法如夢電等〈「覚了一切仏、猶如夢幻響」「知法如電影」〉は即ち世俗諦の智、通達法性空〈「通達諸法性、一切空無我」〉は即ち勝義諦の智なり。)JMS03-08L,09R

[経] 諸仏告菩薩。令覲安養仏。聞法楽受行。疾得清浄処。
[経] (諸仏、菩薩に告げて、安養仏を覲〈み〉せしむ。法を聞きて楽いて受行し、疾く清浄処を得よ。)

 経曰。諸仏告菩薩至疾得清浄処者。述云。第二頌諸仏歎有二。初頌余仏共歎即五頌也。後頌釈迦自歎即十頌也。初又有四。此初聞法得土歎也。JMS03-09R
 (経に曰く「諸仏告菩薩」より「疾得清浄処」に至るまでは、述して云く、第二に諸仏の歎を頌するに二あり。初には余仏の共歎を頌す。即ち五頌なり。後には釈迦の自歎を頌す。即ち十頌なり。初にはまた四あり。これは初に聞法得土の歎なり。)JMS03-09R

[経] 至彼厳浄国。便速得神通。必於無量尊。受記成等覚。
[経] (彼の厳浄の国に至りて、便ち速に神通を得、必ず無量尊において、記を受て等覚を成る。)

 経曰。至彼厳浄国至受記成等覚者。述云。此第二得通成覚歎。即前当授菩薩記是也。JMS03-09R
 (経に曰く「至彼厳浄国」より「受記成等覚」に至るまでは、述して云く、これは第二に得通成覚の歎なり。即ち前の「当授菩薩記〈当に菩薩に記を授くべし〉」、これなり。)JMS03-09R

[経] 其仏本願力。聞名欲往生。皆悉到彼国。自致不退転。
[経] (その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲〈おも〉えば、皆悉く彼の国に到りて、自ずから不退転に致る。)

 経曰。其仏本願力至自致不退転者。述云。此第三聞名不退歎。即前住正定聚也。JMS03-09R
 (経に曰く「其仏本願力」より「自致不退転」に至るまでは、述して云く、これは第三に聞名不退の歎なり。即ち前の「住正定聚〈正定の聚に住す〉」なり。)JMS03-09R

[経] 菩薩興至願。願己国無異。普念度一切。名顕達十方。奉持億如来。飛化遍諸刹。恭敬歓喜去。還到安養国。
[経] (菩薩、至願を興す。願わくば己が国も異なけんと。普く一切を度せんと念ず。名顕れて十方に達す。億の如来に奉持するに、飛化して諸刹に遍し。恭敬し歓喜して去て、還て安養国に到る。)

 経曰。菩薩興至願至還到安養国者。述云。此第四逐願供仏歎也。願所得土如弥陀国故云国無異。即求浄土願也。願作仏時徳名遠聞故云名顕十方。即求仏身願也。JMS03-09R,09L
 (経に曰く「菩薩興至願」より「還到安養国」に至るまでは、述して云く、これは第四に逐願供仏の歎なり。願所得の土は弥陀国の如し。故に「国無異〈己が国も異なけん〉」という。即ち求浄土の願なり。作仏を願ずる時、徳名遠く聞ゆるが故に「名顕十方〈名顕れて十方に達す〉」という。即ち求仏身の願なり。)JMS03-09R,09L

[経] 若人無善本。不得聞此経。清浄有戒者。乃獲聞正法。
[経] (もし人、善本なきは、この経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てる者、乃〈いまし〉正法を聞くことを獲。)

 経曰。若人無善本乃獲聞此経者。述云。第二釈迦自歎有三。初歎経難信。次仏智難思。後勧使発心。初又有二。此初以有善聞。歎経微妙也。JMS03-09L
 (経に曰く「若人無善本乃獲聞此経」とは、述して云く、第二に釈迦の自歎に三あり。初には経の信じ難きことを歎ず。次には仏智の難思、後には勧めて発心せしむ。初にまた二あり。これは初に善あれば聞くを以て、経の微妙を歎ずるなり。)JMS03-09L

[経] 曾更見世尊。則能信此事。謙敬聞奉行。踊躍大歓喜。[キョウ02]慢弊懈怠。難以信此法。宿世見諸仏。楽聴如是教。
[経] (曾更〈むかし〉世尊を見たてまつりて、すなわち能くこの事を信ず。謙敬して聞て奉行し、踊躍して大に歓喜す。[キョウ02]慢と弊と懈怠とは、以てこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつるもの、楽いてかくの如きの教を聴く。)

 経曰。曾更見世尊至楽聴如是教者。述云。此後有悪不信聞以歎経深重也。歎微妙者令人捨悪以修善故。歎深重者令去軽謗生信楽故。JMS03-09L
 (経に曰く「曾更見世尊」より「楽聴如是教」に至るまでは、述して云く、これは後に悪あれば信聞せず、以て経の深重を歎ずるなり。微妙と歎ずることは、人をして悪を捨て以て善を修せしむるが故に。深重と歎ずることは、軽謗を去りて信楽を生ぜしむるが故に。)JMS03-09L

[経] 声聞或菩薩。莫能究聖心。譬如従生盲。欲行開導人。如来智慧海。深広無涯底。二乗非所測。唯仏独明了。
[経] (声聞、或いは菩薩、能く聖心を究むることなし。譬えば生れてより盲たるものの、行いて人を開導せんと欲せんが如し。如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。唯仏のみ独り明了なり。)

 経曰。声聞或菩薩至唯仏独明了者。述云。第二仏智難思有二。此初対二乗智歎仏独了也。JMS03-09L
 (経に曰く「声聞或菩薩」より「唯仏独明了」に至るまでは、述して云く、第二に仏智の難思に二あり。これは初に二乗智に対して仏の独了を歎ずるなり。)JMS03-09L

[経] 仮使一切人。具足皆得道。浄慧知本空。億劫思仏智。窮力極講説。尽寿猶不知。仏慧無辺際。如是致清浄。
[経] (たとい一切人、具足して皆、道を得、浄慧、本空を知りて、億劫に仏智を思いて、力を窮めて極講説して、寿を尽くすともなお知らじ。仏慧は辺際なく、かくの如く清浄に致る。)

 経曰。仮使一切人至如是致清浄者。述云。此後対諸聖智歎智深浄也。得道者行勝。達空者解深。億劫者時久。窮力者説極。無辺者尽十方。無際者窮三際。清浄者障尽。即窮至清浄障尽道果故。歎難思也。JMS03-09L,10R
 (経に曰く「仮使一切人」より「如是致清浄」に至るまでは、述して云く、これは後に諸聖の智に対して智の深浄を歎ずるなり。「得道」は行勝、達空は解深、「億劫」は時の久しき、「窮力」は説極まるなり。「無辺」は十方を尽くす。無際は三際を窮む。清浄は障尽くるなり。即ち窮めて清浄障尽の道果に至る故に難思を歎ずるなり。)JMS03-09L,10R

[経] 寿命甚難得。仏世亦難値。人有信慧難。若聞精進求。
[経] (寿命甚だ得難し。仏世また値い難し。人、信慧あること難し。もし聞かば精進に求めよ。)

 経曰。寿命甚難得至若聞精勤求者。述云。第三勧令求願有三。此初勧聞勤求也。既離三難不容空過故。寿是道依。仏為勝縁。信即行本。故偏説之。JMS03-10R
 (経に曰く「寿命甚難得」より「若聞精勤求」に至るまでは、述して云く、第三に勧めて求願せしむるに三あり。これは初に聞きて勤求することを勧むるなり。既に三難を離る、空しく過ぐる容らざるが故に。「寿」はこれ道の依。仏は勝縁たり。信は即ち行の本なり。故に偏えにこれを説く。)JMS03-10R

[経] 聞法能不忘。見敬得大慶。則我善親友。是故当発意。
[経] (法を聞きて能く忘れず。見て敬い得て大きに慶ぶは、則ち我が善き親友なり。この故に当に意を発すべし。)

 経曰。聞法能不忘至是故当発意者。述云。此次正勧発心也。即不忘弥陀所説。亦見彼仏。心生敬重以為大喜。行順釈迦。釈迦所摂故云我善友。JMS03-1R
 (経に曰く「聞法能不忘」より「是故当発意」に至るまでは、述して云く、これは次に正しく発心を勧むるなり。即ち弥陀の所説を忘れず、また彼の仏を見て、心に敬重を生じて以て大喜を為す。行は釈迦に順ず。釈迦所摂の故に「我善友〈我が善き親友なり〉」という。)JMS03-10R

[経] 設満世界火。必過要聞法。会当成仏道。広度生死流。
[経] (たとい世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要ず法を聞け。会〈かなら〉ず当に仏道を成じて、広く生死の流を度すべし。)

 経曰。設満世界火至広度生死流者。述云。此後勧心不退也。JMS03-10R
 (経に曰く「設満世界火」より「広度生死流」に至るまでは、述して云く、これは後に心の不退を勧むるなり。)JMS03-10R

[経] 仏告阿難。彼国菩薩。皆当究竟一生補処。除其本願為衆生故。以弘誓功徳。而自荘厳。普欲度脱一切衆生。
[経] (仏、阿難に告げたまわく、かの国の菩薩はみな当に一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のための故に、弘誓の功徳を以て自ら荘厳して、普く一切衆生を度脱せんと欲うを除く。)

 経曰。仏告阿難至一切衆生者。述云。第三褒貶得失以勧凡小有三。初歎彼土勝妙令物欣求。次申此方穢悪使人厭捨。後双彰得失令有修捨。初又有二。初広歎勝楽。後勧令往生。初又有八。此初寿命長遠也。JMS03-10R,10L
 (経に曰く「仏告阿難」より「一切衆生」に至るまでは、述して云く、第三に得失を褒貶して以て凡小を勧むるに三あり。初には彼の土の勝妙を歎じて物をして欣求せしむ。次にはこの方の穢悪を申べて人をして厭捨せしむ。後には双て得失を彰し、修捨あらしむ。初にまた二あり。初には広く勝楽を歎じ、後には勧て往生せしむ。初にまた八あり。これは初に寿命長遠なり。)JMS03-10R,10L

 一生者即五生之中最後生。権実不定。実即摩醯首羅智処之生。権亦有二別。若在穢土即閻浮提生名為一生。若生浄土即成仏之生名為一生。今欲簡実故亦云補処。或有疑言。彼土菩薩若皆補処不応遊化。故釈除本願皆無中夭。JMS03-10L
 (「一生」とは即ち五生の中の最後生なり。権実不定なり。実は即ち摩醯首羅智処の生なり。権にまた二別あり。もし穢土に在るは即ち閻浮提の生を名づけて一生と為す。もし浄土に生ずるは即ち成仏の生を名づけて一生と為す。今は実に簡ばんと欲するが故に、また「補処」という。或いは有るが疑いて言く、彼の土の菩薩、もし皆補処ならば応に遊化すべからずと。故に釈すらく。本願を除きては皆、中夭なしと。)JMS03-10L

[経] 阿難。彼仏国中諸声聞衆。身光一尋。菩薩光明。照百由旬。有二菩薩。最尊第一。威神光明。普照三千大千世界。
[経] (阿難、かの仏の国中のもろもろの声聞衆は、身光一尋なり。菩薩の光明、百由旬を照らす。二菩薩ありて、最尊第一なり。威神の光明、普く三千大千世界を照らす。)

 経曰。阿難彼国至大千世界者。述云。此第二光明殊妙有二。此初標光参差也。玉篇云一尋八尺也。又云七尺此似非也。応同刃故。JMS03-10L
 (経に曰く「阿難彼国」より「大千世界」に至るまでは、述して云く、これは第二に光明殊妙に二あり。これは初に光の参差を標するなり。『玉篇』に云く「一尋は八尺なり」と。また七尺というは、これは非に似たり。応に刃〈仞か?〉に同じかるべきが故に。)JMS03-10L

[経] 阿難白仏。彼二菩薩。其号云何。仏言。一名観世音。二名大勢至。是二菩薩。於此国土。修菩薩行。命終転化。生彼仏国。
[経] (阿難、仏に白さく、かの二の菩薩、その号云何。仏言まわく、一を観世音と名づけ、二を大勢至と名づく。この二菩薩はこの国土にして菩薩の行を修す。命終転化して、かの仏国に生ず。)

 経曰。阿難白仏至化生彼国者。述云。此後逐難更申也。既言於此土修菩薩行。即知無諍王在於此方。宝海亦然。JMS03-10L,11R
 (経に曰く「阿難白仏」より「化生彼国」に至るまでは、述して云く、これは後に難に逐て更に申ぶるなり。既に此の土に於いて菩薩の行を修すという。即ち知りぬ、無諍王はこの方に在ることを。宝海もまた然り。)JMS03-10L,11R

[経] 阿難。其有衆生。生彼国者。皆悉具足三十二相。
[経] (阿難、それ衆生ありて、かの国に生ずる者は、みなことごとく三十二相を具足す。)

 経曰。阿難其有至三十二相者。述云。此第三身相備足也。随好不定故不説之。JMS03-11R
 (経に曰く「阿難其有」より「三十二相」に至るまでは、述して云く、これは第三に身相備足なり。随好は不定なるが故にこれを説かず。)JMS03-11R

[経] 智慧成満。深入諸法。究暢要妙。神通無礙。諸根明利。其鈍根者。成就二忍。其利根者。得不可計無生法忍。
[経] (智慧成満して、諸法に深入し、要妙を究暢し、神通無礙にして、諸根明利なり。その鈍根の者は、二忍を成就し、その利根の者は、不可計の無生法忍を得。)

 経曰。智慧成満至無生法忍者。述云。此第四智徳勝妙也。JMS03-11R
 (経に曰く「智慧成満」より「無生法忍」に至るまでは、述して云く、これは第四に智徳勝妙なり。)JMS03-11R

 有説。証会法性故云深入諸法。窮達妙詮故云究暢要妙。此必不然。衆生生彼得此二智応無凡小故。JMS03-11R,L
 (有るが説かく。法性に証会するが故に「深入諸法」という。妙詮に窮達するが故に「究暢要妙」という。これは必ず然らず。衆生は彼に生じてこの二智を得て、応に凡小なかるべきが故に。)JMS03-11R,L

 今即入諸法者悟所詮故。暢要妙者閑能詮故也。JMS03-11R
 (今は即ち「入諸法」とは所詮を悟るが故に。「暢要妙」とは能詮を閑するが故なり。)JMS03-11R

 有説。諸根即信等五。非也。信等即鈍根故。今即六根也。有説。二忍者即生法二忍又五忍中之初二種。無生忍者即第四忍。此恐不然。無生法忍即生法忍故。超於順忍忽説無生。無別所以故。JMS03-11R,11L
 (有るが説かく。「諸根」は即ち信等の五なりと。非なり。信等は即ち鈍根の故に。今は即ち六根なり。有るが説かく。「二忍」とは即ち生法二忍なり。また五忍の中の初の二種なり。「無生忍」とは即ち第四忍なりと。これ恐らくは然らず。「無生法忍」は即ち生法忍の故に。順忍を超えて忽〈たちまち〉に無生を説くことは、別の所以なきが故に。)JMS03-11R,11L

 今即中下之人唯得音響柔順二忍。上品之属於不可数法得無生忍。故云不可計。既有利鈍必是凡地故。而非根性利鈍也。JMS03-11L
 (今は即ち中下の人は唯、音響と柔順との二忍を得。上品の属は不可数の法に於いて無生忍を得るが故に「不可計」という。既に利鈍あり。必ずこれ凡地なるが故に。而も根性の利鈍には非ざるなり。)JMS03-11L

[経] 又彼菩薩。乃至成仏。不更悪趣。神通自在。常識宿命。除生他方五濁悪世。示現同彼。如我国也。
[経] (またかの菩薩、乃至、成仏まで悪趣に更らず。神通自在にして常に宿命を識〈さと〉らん。他方の五濁悪世に生じて、示現して彼に同ずること、我が国の如くなるを除く。)

[経] 仏告阿難。彼国菩薩。承仏威神。一食之頃。往詣十方無量世界。恭敬供養諸仏世尊。随心所念。華香。伎楽。[ゾウ02]蓋。幢旛。無数無量供養之具。自然化生。応念即至。珍妙殊特。非世所有。輙以奉散諸仏。菩薩。声聞。大衆。在虚空中。化成華蓋。光色[イク03]爍。香気普熏。其華周円。四百里者。如是転倍。乃覆三千大千世界。随其前後。以次化没。其諸仏菩薩。僉然欣悦。於虚空中。共奏天楽。以微妙音。歌歎仏徳。聴受経法。歓喜無量。供養仏已。未食之前。忽然軽挙。還其本国。仏語阿難。無量寿仏。為諸声聞。菩薩。大衆。頒宣法時。都悉集会七宝講堂。広宣道教。演暢妙法。莫不歓喜。心解得道即時四方自然風起。普吹宝樹出五音声。雨無量妙華。随風周遍。自然供養如是不絶。一切諸天。皆齎天上百千華香。万種伎楽。供養其仏及諸菩薩。声聞。大衆。普散華香。奏諸音楽。前後来往。更相開避。当斯之時。煕怡快楽。不可勝言。
[経] (仏、阿難に告げたまわく、かの国の菩薩、仏の威神を承けて、一食の頃〈あいだ〉に十方無量の世界に往詣して、諸仏世尊を恭敬供養したてまつらん。心の所念に随いて、華香・伎楽・[ゾウ02]蓋・幢幡、無数無量の供養の具、自然に化生して、念に応じてすなわち至らん。珍妙・殊特にして、世の所有にあらず。すなわちもって諸仏・菩薩・声聞大衆に奉散す。虚空の中にありて、化して華蓋と成る。光色[イク03]爍して香気普く薫ず。その華、周円、四百里なる者なり。かくの如く転た倍してすなわち三千大千世界に覆えり。その前後に随いて、次いでをもって化没す。そのもろもろの菩薩、僉然として欣悦す。虚空の中において共に天の楽を奏す。微妙の音〈こえ〉をもって仏徳を歌歎す。経法を聴受して歓喜無量なり。仏を供養すること已りて、未だ食せざる前〈さき〉に、忽然として軽挙して、その本国に還る。仏、阿難に語りたまわく、無量寿仏、もろもろの声聞・菩薩大衆のために法を頒宣したまう時、すべてことごとく七宝講堂に集会して、広く道教を宣べ妙法を演暢す。歓喜せざることなし。心解得道す。即の時に四方より自然に風起ちて、普く宝樹を吹て五つの音声を出し、無量の妙華を雨る。風に随いて周遍して、自然に供養すること、かくの如くして絶えず。一切の諸天、みな天上の百千の華香、万種の伎楽を齎〈も〉って、その仏およびもろもろの菩薩・声聞大衆を供養す。普く華香を散じ、もろもろの音楽を奏す。前後に来往して更に相い開避す。この時に当って、煕怡快楽、勝〈あげ〉て言うべからず。)

 経曰。又彼菩薩至如我国也者。述云。此第如是四反積地四寸也。[キ07]怡説文和悦也。方言怡喜也。[頭注:経曰。又彼菩薩―此下疑有脱落。]JMS03-11L
 (経に曰く「又彼菩薩」より「如我国也」に至るまでは、述して云く、此第如是四反積地四寸也。[キ07]怡は『説文』に「和悦なり」。方言に怡は喜なり。[頭注:「経曰。又彼菩薩―」この下に疑ごうらくは脱落あり。])JMS03-11L

[経] 仏語阿難。生彼仏国諸菩薩等。所可講説常宣正法。随順智慧無違無失。
[経] (仏、阿難に語りたまわく、かの仏国に生ずる諸菩薩等、講説すべき所には常に正法を宣べ、智慧に随順して違なく失なし。)
 〈※「仏語阿難」、高麗大蔵経版には「仏告阿難」とあり。cf.「真宗聖教全書 1」〉

 経曰。仏告阿難至無違無失者。述云。此第八行徳円備有二。初別歎。後総結。初又有七。此初行修離過有三。此初化行離過。即順弥陀仏智慧故也。JMS03-11L
 (経に曰く「仏告阿難」より「無違無失」に至るまでは、述して云く、これは第八に行徳円備に二あり。初には別して歎じ、後には総じて結す。初にまた七あり。これは初に行修離過に三あり。これは初に化行離過。即ち弥陀仏の智慧に順ずるが故なり。)JMS03-11L

[経] 於其国土所有万物。無我所心。無染着心。
[経] (その国土の所有の万物において、我所の心く、染着の心なし。)

 経曰。於其国土至無染着心者。述曰。此第二自行無失有二。此初修自行有六。此初修施行也。離見故無我所心。離愛故無染着心。JMS03-11L
 (経に曰く「於其国土」より「無染着心」に至るまでは、述して云く、これは第二に自行無失に二あり。これは初に自行を修するに六あり。これは初に施行を修するなり。見を離るるが故に我所の心なし。愛を離るるが故に染着心なし。)JMS03-11L

[経] 去来進止。情無所係。随意自在。無所適莫。無彼無我。無競無訟。
[経] (去来進止に、情に係〈かく〉るところなし。意に随いて自在なり。適莫するところなし。彼なく我なし。競なく訟なし。)

 経曰。去来進止至無競無訟者。述云。此第二修戒行也。離身過故。去来進止情無所係随意自在。離意過故。無所適莫無彼無我。位法師云。適者往也。莫者止也。若爾応同去止離身過。今唯論語於天下無所適莫也。適親也。莫疏也。離口過故。無競無訟彼我倶已故無有競訟。JMS03-11L,12R
 (経に曰く「去来進止」より「無競無訟」に至るまでは、述して云く、これは第二に戒行を修すなり。身の過を離るるが故に「去来進止情無所係随意自在(去来進止に、情に係〈かく〉るところなし。意に随いて自在なり)」なり。意の過を離るるが故に「無所適莫無彼無我(適莫するところなし。彼なく我なし)」とは、位法師の云く、「適」は往なり。「莫」」とは止なり。もし爾らば応に去止に同じて身の過を離るるべし。今は唯『論語』の「天下に於いて適莫する所なし」なり。適は親なり。莫は疏なり。口過を離るるが故に。「無競無訟」とは彼我倶に已むが故に競訟あることなし。)JMS03-11L,12R

[経] 於諸衆生。得大慈悲饒益之心。柔軟調伏。無忿恨心。離蓋清浄。
[経] (もろもろの衆生において大慈悲饒益の心を得たり。柔軟調伏にして、忿恨の心なし。離蓋清浄にして、)

 経曰。於諸衆生至離蓋清浄者。述云。此第三修忍行也。無瞋恚故柔濡。無[キョウ02]慢故調伏。瞋恚既不起忿恨斯止。由此亦離五蓋清浄。JMS03-12R
 (経に曰く「於諸衆生」より「離蓋清浄」に至るまでは、述して云く、これは第三に忍行を修すなり。瞋恚なきが故に柔濡し、[キョウ02]慢なきが故に調伏なり。瞋恚は既に起こらず、忿恨はここに止む。これに由りて、また五蓋を離れて清浄なり。)JMS03-12R

[経] 無厭怠心。等心勝心深心。
[経] (厭怠の心なし。等心・勝心・深心。)

 経曰。無有厭怠至勝心深心者。述云。此第四修勤行也。求善不息故無懈怠心。無行不修故云等心。無下足故云勝心。無退屈故云深心。JMS03-12R,12L
 (経に曰く「無有厭怠」より「勝心深心」に至るまでは、述して云く、これは第四に勤行を修すなり。善を求めて息まざるが故に懈怠心なし。行として修せざることなきが故に「等心」という。無下足の故に「勝心」という。退屈なきが故に「深心」という。)JMS03-12R,12L

[経] 定心。
[経] (定心。)

 経曰。定心者。述云。此第五修定行也。離諸散乱故云定心。JMS03-12L
 (経に曰く「定心」とは、述して云く、これは第五に定行を修するなり。諸の散乱を離るるが故に「定心」という。)JMS03-12L

[経] 愛法。楽法。喜法之心。
[経] (愛法・楽法・喜法の心なり。)

 経曰。愛法楽法喜法之心者。述云。此第六修慧行也。JMS03-12L
 (経に曰く「愛法楽法喜法之心」とは、述して云く、これは第六に慧行を修するなり。)JMS03-12L

 有説。愛是欲。楽是信。喜是貪。有説。愛是終成。楽是聞時。喜是求時。二倶不然。欲信等即施戒等眷属行故。以終向始無別所以。如其次第故。JMS03-12L
 (有るが説かく。愛はこれ欲、楽はこれ信、喜はこれ貪なりと。有るが説かく。愛はこれ終わりに成ず。楽はこれ聞く時。喜はこれ求むる時と。二倶に然らず。欲信等は即ち施戒等の眷属の行なるが故に。終を以て始に向うに別の所以なし。その次第の如くなるが故に。)JMS03-12L

 今即聞慧愛楽故云愛法。思慧味着故云楽法。修慧潤神故云喜心。JMS03-12L
 (今は即ち聞慧を愛楽するが故に「愛法」という。思慧を味着するが故に「楽法」という。修慧は神を潤すが故に「喜心」という。)JMS03-12L

[経] 滅諸煩悩。離悪趣心。
[経] (諸の煩悩を滅し、悪趣の心を離る。)

 経曰。滅諸煩悩離悪趣心者。述云。此第二離過。JMS03-12L
 (経に曰く「滅諸煩悩離悪趣心」とは、述して云く、これは第二に過を離る。)JMS03-12L

 有説。因尽故滅煩悩。果尽故離悪趣心非也。果非唯心故。今即離惑故離煩悩。業尽故離悪趣心。JMS03-12L
 (有るが説かく。因尽くるが故に「滅煩悩〈諸の煩悩を滅し〉」という。果尽くるが故に「離悪趣心〈悪趣の心を離る〉」と。非なり。果のみ唯心に非ざるが故に。今は即ち惑を離るるが故に「離煩悩〈諸の煩悩を滅し〉」という。業尽くるが故に「離悪趣心〈悪趣の心を離る〉」という。)JMS03-12L

[経] 究竟一切菩薩所行。
[経] (一切の菩薩の所行を究竟して、)

 経曰。究竟一切菩薩所行者。述云。此第三総結也。JMS03-12L
 (経に曰く「究竟一切菩薩所行」とは、述して云く、これは第三に総結なり。)JMS03-12L

[経] 具足成就無量功徳。
[経] (無量の功徳を具足し成就す。)

 経曰。具足成就無量功徳者。述云。此第二成徳円備有二。此初総歎也。JMS03-12L,13R
 (経に曰く「具足成就無量功徳」とは、述して云く、これは第二に成徳円備に二あり。これは初に総歎なり。)JMS03-12L,13R

[経] 得深禅定。諸通明慧。遊志七覚。修心仏法。肉眼清徹。靡不分了。天眼通達。無量無限。法眼観察。究竟諸道。慧眼見真。能度彼岸。仏眼具足。覚了法性。
[経] (深禅定・諸通明慧を得て、志を七覚に遊ばしめ、心に仏法を修す。肉眼清徹にして分了せざることなし。天眼通達して無量無限なり。法眼観察して諸道を究竟し、慧眼真を見て能く彼岸に度す。仏眼具足して法性を覚了す。)

 経曰。得深禅定至覚了法性者。述云。此後別歎有二。此初成自徳也。JMS03-13R
 (経に曰く「得深禅定」より「覚了法性」に至るまでは、述して云く、これは後に別して歎ずるに二あり。これは初に自徳を成ずるなり。)JMS03-13R

 禅定通明慧七覚者既成之徳。禅者四禅。定者四空。通者六通。明者三明。慧者三慧。七覚亦在見道位故。進求仏徳故。修心仏法。所求之徳。徳雖無量略挙五眼。肉天二眼皆以浄色為体。彼土肉眼通見無数世界諸色。故云清徹。所見審実故無不了。JMS03-13R
 (「禅定」「通明慧」「七覚」とは既成の徳なり。禅とは四禅。定とは四空。通とは六通。明とは三明。慧とは三慧。七覚はまた見道の位に在るが故に、仏徳を進求するが故に「修心仏法〈心に仏法を修す〉」という。所求の徳なり。徳は無量なりと雖ども略して五眼を挙ぐ。肉天二眼は皆、浄色を以て体と為す。彼の土の肉眼は通じて無数の世界の諸色を見るが故に「清徹」という。所見審実の故に「無不了〈分了せざることなし〉」という。)JMS03-13R

 有説。肉眼見障内色。非也。違清徹明了故。JMS03-13R
 (有るが説かく。肉眼は障内の色を見ると。非なり。清徹明了に違するが故に。)JMS03-13R

 今即照矚現在色像。名為肉眼。依定所発眼。能見衆生死此生彼。故名天眼。所見広多故云無量。亦長遠故云無限。法眼即以有智為体。能見衆生根欲性心及諸仏法。故名法眼。普知三乗道法差別。故云究竟諸道。慧眼即以空智為体。照真空理。故云見真。窮真理之源故云度彼岸。度者至也。JMS03-13R,13L
 (今は即ち現在の色像を照矚するを名づけて肉眼と為す。定に依りて発す所の眼は能く衆生の、此に死し彼に生ずるを見るが故に天眼と名づく。所見広多なるが故に「無量」という。また長遠なるが故に「無限」という。「法眼」は即ち有智を以て体と為し、能く衆生の根欲性心、及び諸仏の法を見るが故に「法眼」と名づく。普く三乗道法の差別を知るが故に「究竟諸道」という。「慧眼」は即ち空智を以て体と為し、真空の理を照らすが故に「見真」という。真理の源を窮むるが故に「度彼岸」という。度は至なり。)JMS03-13R,13L

 仏眼自有二。所謂総別。別即一切種智為体。無法不照故云具足。亦見仏性故云覚法性。総即前四眼仏之所得。観境同尽故云具足了。JMS03-13L
 (仏眼に自ずから二あり。所謂、総・別なり。別は即ち一切種智を体とし、法として照らさざることなきが故に「具足」という。また仏性を見るが故に「覚法性〈法性を覚了す〉」という。総じては即ち前の四眼も仏の所得なり。観境同じく尽くすが故に「具足了〈仏眼具足して法性を覚了す〉」という。)JMS03-13L

[経] 以無礙智。為人演説。
[経] (無礙智をもって、人のために演説す。)

 経曰。以無礙智為人演説者。述云。此後成化徳。即四無礙弁為物説法也。JMS03-13L
 (経に曰く「以無礙智為人演説」とは、述して云く、これは後に成化の徳。即ち四無礙弁、物の為に法を説くなり。)JMS03-13L

[経] 等観三界空無所有。志求仏法。具諸弁才。除滅衆生煩悩之患。
[経] (等しく三界の空無所有なるを観じて、仏法を志求し、諸の弁才を具して、衆生の煩悩の患を除滅す。)

 経曰。等観三界至煩悩之患者。述云。此第三行修具足有二。此初修行也。JMS03-13L
 (経に曰く「等観三界」より「煩悩之患」に至るまでは、述して云く、これは第三に行修具足に二あり。これは初に修行なり。)JMS03-13L

 観三界空無者即捨生死行。欲等三界無有一界而不空者故云等観。志求仏法者即欣菩提行。具弁才者即利他之徳所謂四弁等。滅煩悩患者化他之益。JMS03-13L,14R
 (「観三界空無(等しく三界の空無所有なるを観じて)」とは即ち捨生死の行なり。欲等の三界は一界として空ならざる者あることなし。故に「等観」という。「志求仏法(仏法を志求し)」とは即ち欣菩提の行なり。「具弁才(諸の弁才を具して)」とは即ち利他の徳、所謂、四弁等なり。「滅煩悩患(衆生の煩悩の患を除滅す)」とは化他の益なり。)JMS03-13L,14R

[経] 従如来生。解法如如。善知習滅音声方便。不欣世語。楽在正論。修諸善本。志崇仏道。知一切法皆悉寂滅。生身煩悩二余倶尽。
[経] (如より来生して、法の如如を解り、善く習滅の音声方便を知りて、世語を欣ばず。楽〈ねがい〉正論にあり。もろもろの善本を修して、志、仏道を崇〈あお〉がん。一切の法はみなことごとく寂滅なりと知りて、生身と煩悩、二余、倶に尽くす。)

 経曰。従如来生至二余倶尽者。述云。此後修成有二。此初自行成。又有二。此初解行双成也。JMS03-14R
 (経に曰く「従如来生」より「二余倶尽」に至るまでは、述して云く、これは後に修成に二あり。これは初に自行成なり。また二あり。これは初に解と行と双び成ずるなり。)JMS03-14R

 有説。従如来生解法如如者是其理解。善知習滅方便者是其教解。解由如来教化而生。解一切法皆即如。故云従如来生解法如如。習善之教名習音声。滅悪之教名滅音声。於此善解巧知故云善知方便。此猶不尽。教解亦従仏化生故。JMS03-14R
 (有るが説かく。「従如来生解法如如(如より来生して、法の如如を解り)」とは、これその理解なり。「善知習滅方便(善く習滅の音声方便を知りて)」とは、これその教解なり。解は如来の教化に由りて生じて、一切法皆即ち如と解するが故に「従如来生解法如如」という。習善の教を習音声と名づけ、滅悪の教を滅音声と名づく。ここに於いて善く解し巧みに知るが故に善知方便というと。これなお尽くさず。教解もまた仏化より生ずるが故に。)JMS03-14R

 有説。習即集諦意亦兼苦。滅即滅諦含道之言。因果相渉。故説四諦之教即音声方便。此亦不然。集雖必苦苦有非集。滅之与道為無為異。不可以集滅而摂苦道故。JMS03-14R,14L
 (有るが説かく。「習」は即ち集諦の意、また苦を兼ぬ。「滅」は即ち滅諦、道を含むの言、因果相渉す。故に四諦の教を説くを即ち「音声方便」というと。これまた然らず。集は必ず苦なりと雖ども、苦は集に非ざるあり。滅と道とは、為と無為との異なり。集滅を以て苦道に摂するべからざるが故に。)JMS03-14R,14L

 今即従如来生者。即総顕菩薩獲解之所由。解法如如者。即別申悟非安立真之智。善智習滅者。即別弁悟安立諦之解。習滅者。挙染因浄果。不尽之言。真絶衆相而説四諦唯教施設。故云音声方便。由於聖教能善解。故不欣世語楽在正論。JMS03-14L
 (今は即ち「従如来生」とは、即ち総じて菩薩、解を獲るの所由を顕す。「解法如如」とは即ち別して非安立の真を悟る智を申ぶ。「善智習滅」とは即ち別して安立諦を悟る解を弁ず。「習滅」とは染因浄果を挙ぐ。不尽の言なり。真は衆相を絶すれども而も四諦を説くは唯、教の施設なり。故に「音声方便」という。聖教に由りて能善く解するが故に「不欣世語楽在正論〈世語を欣ばず。楽<ねが>い正論に在り〉」というなり。)JMS03-14L

 有説。離口四過故不欣世語。作四聖言故楽在正論。非也。想実聖言必非正論故即解成是也。崇仏道者求菩提之心。知法寂滅者修対治之行。二余倶尽者除障苦之行。JMS03-14L
 (有るが説かく。口の四過を離るるが故に「不欣世語(世語を欣ばず)」という。四聖言を作すが故に「楽在正論(楽〈ねがい〉正論にあり)」というと。非なり。想も実の聖言も必ず正論に非ざるが故に。即ち解成これなり。「崇仏道」とは菩提を求むる心なり。「知法寂滅(一切の法はみなことごとく寂滅なりと知りて)」とは対治を修するの行なり。「二余倶尽(二余、倶に尽くす)」とは障苦を除くの行なり。)JMS03-14L

 有説。生身是報余。煩悩是分段之余。初地上尽。変易二余当尽故。有説。煩悩及習二余倶尽。二倶不然。前七地中亦受分段。煩悩余気名為余習。必非煩悩故。如其次第今即生身在報。煩悩苦因。因果二余皆已尽故。即行成是也。JMS03-14L,15R
 (有るが説かく。生身はこれ報の余、煩悩はこれ分段の余なり。初地より上は尽く。変易なれば二余は当に尽くすべきが故にと。有るが説かく。煩悩と及び習の二余は倶に尽くすと。二倶に然らず。前七地の中はまた分段を受く。煩悩の余気を名づけて余習と為す。必ずしも煩悩に非ざるが故に。その次第の如く、今は即ち生身は報に在り、煩悩は苦因なり。因果の二余は皆已に尽くるが故に、即ち行成これなり。)JMS03-14L,15R

[経] 聞甚深法。心不疑懼。常能修行。
[経] (甚深の法を聞て、心に疑懼せず、常に能く修行す。)

 経曰。聞甚深法至常能修行者。述云。此後解行並修也。JMS03-15R
 (経に曰く「聞甚深法」より「常能修行」に至るまでは、述して云く、これは後に解行並修なり。)JMS03-15R

 有説。於深能解故不疑。於深能入故不懼。非也。入亦解故。今即能信深教故不疑。能解深義故不懼。進修解是也。常修行者即進修行也。聞必修習而無間故云常修。JMS03-15R
 (有るが説かく。深に於いて能く解するが故に疑わず。深に於いて能く入るが故に懼れずと。非なり。入もまた解なるが故に。今は即ち能く深教を信じるが故に疑わず。能く深義を解するが故に懼れず。進みて解を修する、これなり。「常修行(常に能く修行す)」とは即ち進みて行を修するなり。「聞」は必ず修習して無間なるが故に「常修」という。)JMS03-15R

[経] 其大悲者。深遠微妙靡不覆載。
[経] (その大悲、深遠微妙にして覆載せずということなし。)

 経曰。其大悲者至靡不覆載者。述云。此後化行成也。深遠微妙者歎心深重。靡不覆載者嘆済普広。非唯悲蔭亦令出死故云載也。JMS03-15R,15L
 (経に曰く「其大悲者」より「靡不覆載」に至るまでは、述して云く、これは後に化行の成なり。「深遠微妙」とは心の深重を歎ず。「靡不覆載(覆載せずということなし)」とは済の普広を嘆ず。唯悲蔭のみに非ず、また死を出でさしむるが故に「載」というなり。)JMS03-15R,15L

[経] 究竟一乗。至于彼岸。
[経] (一乗を究竟して彼岸に至り、)

 経曰。究竟一乗至于彼岸者。述云。此第四成徳奇勝有二。初成自徳。後成化徳。初又有二。此初集善勝有三対。此初智断対也。一乗者即智。雖有三乗其極無二故云一乗。JMS03-15L
 (経に曰く「究竟一乗至于彼岸」とは、述して云く、これは第四に成徳奇勝に二あり。初に自徳を成じ、後に化徳を成ず。初にまた二あり。これは初に集善勝に三対あり。これは初に智断対なり。一乗とは即ち智なり。三乗ありと雖どもその極は二なきが故に「一乗」という。)JMS03-15L

 有説。於此一乗窮名究竟。至涅槃果故至于彼岸。非也。若窮一乗至涅槃者。応非菩薩故。今即信解斯極故云究竟。彼岸者即断。既得断智障無為故云至彼岸。JMS03-15L
 (有るが説かく。この一乗に於いて窮むるを究竟と名づく。涅槃の果に至るが故に「至于彼岸(彼岸に至り)」というと。非なり。もし一乗を窮めて涅槃に至らば、応に菩薩に非ざるべきが故に。今は即ち信解ここに極むるが故に「究竟」という。「彼岸」は即ち断なり。既に智障を断ずることを得て無為なるが故に「至彼岸」という。)JMS03-15L

[経] 決断疑網。慧由心出。於仏教法。該羅無外。
[経] (疑網を決断して、慧、心に由りて出ず。仏の教法において該羅無外なり。)

 経曰。決断疑網至該羅無外者。述云。此次理教対也。JMS03-15L
 (経に曰く「決断疑網」より「該羅無外」に至るまでは、述して云く、これは次に理教対なり。)JMS03-15L

 顕実以除妄故云断疑網。真解発中故慧由心出。心者中実義故即証理慧也。達之無余故該無外。即達教解也。JMS03-15L
 (実を顕して以て妄を除くが故に「断疑網」という。真解、中に発すが故に「慧由心出(慧、心に由りて出ず)」という。心とは中実の義なるが故に即ち理を証する慧なり。これに達して余なきが故に「該無外〈該羅無外なり〉」という。即ち教に達する解なり。)JMS03-15L

 有説。知無我慧不従外来故慧由心出。知教従心現故該羅無外。此猶未尽。無我慧従仏化生現心上。教非正教性故不可言従心出現。即知。心者中実無外者無余。即教智也。JMS03-R15L,16R
 (有るが説かく。我なしと知る慧は外より来たらざるが故に「慧由心出(慧、心に由りて出ず)」という。教は心より現ずと知るが故に「該羅無外」という。これなお未だ尽くさず。無我の慧は仏化より生じて心上に現ず。教は正教性に非ざるが故に心より出現すというべからず。即ち知りぬ。「心」は中実、「無外」は無余、即ち教智なり。)JMS03-R15L,16R

[経] 智慧如大海。三昧如山王。慧光明浄。超踰日月。清白之法。具足円満。猶如雪山。
[経] (智慧、大海の如し。三昧、山王の如し。慧光、明浄にして日月に超踰せり。清白の法、具足し円満せり、猶し雪山の如し。)

 経曰。智慧如大海至猶如雪山者。述云。此後定慧対也。慧深広如海定。高勝如山故。慧用明浄超日月。定能満徳如雪山故。JMS03-16R
 (経に曰く「智慧如大海」より「猶如雪山」に至るまでは、述して云く、これは後に定慧対なり。慧の深広なること海の如く、定の高勝なること山の如くなるが故に、慧の用明浄なること日月を超え、定の能く徳を満つること雪山の如くなるが故に。)JMS03-16R

[経] 照諸功徳。等一浄故。
[経] (もろもろの功徳を照らすこと等一にして浄きが故に。)

 経曰。照諸功徳等一浄故者。述云。此後除障勝有二。此初総標也。JMS03-16R
 (経に曰く「照諸功徳等一浄故」とは、述して云く、これは後に除障勝に二あり。これは初に総標なり。)JMS03-16R

 位法師云下有二十句皆弁慧能。然慧必不離定故説定慧離障者勝。無有一徳而不離染故云等一浄。JMS03-16R
 (位法師の云く、下に二十句あり、皆、慧の能を弁ずと。然るに慧は必ず定を離れざるが故に、定慧は障を離るることを説くときは勝なり。一徳として染を離れざることあることなきが故に「等一浄〈等一にして浄き〉」という。)JMS03-16R

[経] 猶如大地。浄穢好悪。無異心故。猶如浄水。洗除塵労諸垢染故。
[経] (猶し大地の如し、浄穢・好悪、異心なきが故に。猶し浄水の如し、塵労もろもろの垢染を洗除するが故に。)

 経曰。猶如大地至無染汚故者。述云。此後別釈有三対。初所因所起対。即異心是二障所因非理作意。垢染如次作意所起。智惑障故。次能依所依対。即煩悩障礙如其次第。惑智二障能所依故。後無着無染対。即於三有着亦所智障。染汚唯惑故。JMS03-16R,16L
 (経に曰く「猶如大地」より「無染汚故」に至るまでは、述して云く、これは後に別して釈するに三対あり。初には所因所起対。即ち異心はこれ二障の所因、非理作意なり。垢染は次の如く作意の所起なり。智と惑との障なるが故に。次には能依所依対。即ち煩悩と障礙とその次第の如し。惑智の二障は能所依の故に。後には無着無染対。即ち三有に於いて着するはまた所智障なり。染汚は唯惑の故に。)JMS03-16R,16L

[経] 猶如火王。焼滅一切煩悩薪故。猶如大風。行諸世界無障礙故。猶如虚空。於一切有無所著故。猶如蓮華。於諸世間無汚染故。猶如大乗。運載群萌出生死故。猶如重雲。震大法雷覚未覚故。猶如大雨。雨甘露法潤衆生故。如金剛山。衆魔外道不能動故。如梵天王。於諸善法最上首故。如尼拘律樹。普覆一切故。如優曇鉢華。希有難遇故。如金翅鳥。威伏外道故。如衆遊禽。無所蔵積故。猶如牛王。無能勝故。猶如象王。善調伏故。如師子王。無所畏故。曠若虚空。大慈等故。
[経] (猶し火王の如し、一切の煩悩の薪を焼滅するが故に。猶し大風の如し、もろもろの世界に行じて障碍なきが故に。猶し虚空の如し、一切の有において所著なきが故に。猶し蓮華の如し、もろもろの世間において汚染なきが故に。猶し大乗の如し、群萌を運載して生死を出だすが故に。猶し重雲の如し、大法の雷を震いて未覚を覚せしむるが故に。猶し大雨の如し、甘露の法を雨りて衆生を潤すが故に。金剛山の如し、衆魔・外道動かすこと能わざるが故に。梵天王の如し、もろもろの善法において最上首なるが故に。尼拘律樹の如し、普く一切を覆うが故に。優曇鉢華の如し、希有にして遇い難きが故に。金翅鳥の如し、外道を威伏するが故に。もろもろの遊禽の如し、蔵積するところなきが故に。猶し牛王の如し、能く勝つものなきが故に。猶し象王の如し、善く調伏するが故に。師子王の如し、畏るるところなきが故に。曠きこと虚空のごとし、大慈等しきが故に。)

 経曰。猶如大乗至大慈等故者。述云。第二化徳成。有十三句略作六対。一出凡入聖対。即初三也。乗者車也。群萌者凡夫二乗。運凡小而出二死。聞権実而潤善芽故。二却邪就善対。即次二句也。三普覆希見対。即次二句也。四摧邪帰正対。即次二句。無所蔵積即聖種故。五無勝無染対。即次二句。無善能勝調諸染故。六無畏有憐対。即後二句。無邪可畏憐無楽故。JMS03-16L,17R
 (経に曰く「猶如大乗」より「大慈等故」に至るまでは、述して云く、第二に化徳成。十三句ありて略して六対を作す。一には出凡入聖対。即ち初の三なり。「乗」とは車なり。「群萌」とは凡夫二乗なり。凡小を運んで二死を出だしむ。権実を聞きて善芽を潤すが故に。二には却邪就善対。即ち次の二句なり。三には普覆希見対。即ち次の二句なり。四には摧邪帰正対。即ち次の二句なり。「無所蔵積〈蔵積するところなき〉」は即ち聖種なるが故に。五には無勝無染対。即ち次の二句なり。善として能く勝るるなく、諸の染を調するが故に。六には無畏有憐対。即ち後の二句なり。邪の畏るべきなく、無楽を憐れむが故に。)JMS03-16L,17R

[経] 摧滅嫉心。不忌勝故。専楽求法。心無厭足。常欲広説。志無疲倦。撃法鼓。建法幢。曜慧日。除痴闇。修六和敬。
[経] (嫉心を摧滅す。勝〈すぐ〉るるを忌〈そね〉まざるが故に。専ら法を楽求して心に厭足なし。常に広説を欲うて、志、疲倦なし。法鼓を撃ち、法幢を建て、慧日を曜かし、痴闇を除く。六和敬を修して、)

 経曰。摧滅嫉心至修六和敬者。述云。此第五行修増進有二。初自分行修。後勝進修行。初又有二。初行修方便。JMS03-17R
 (経に曰く「摧滅嫉心」より「修六和敬」に至るまでは、述して云く、これは第五に行修の増進に二あり。初は自分の行修。後は勝進の修行なり。初にまた二あり。初には行と修との方便なり。)JMS03-17R

 摧滅嫉心即利他方便。若有嫉忌不能利物故。求法無足即自利方便。有厭足者必不進修故。後勤修正行即常正行。常欲広説等利他行。修心無疲惓故欲広説。説心勝也。撃法鼓等即所説勝也。曜慧日等所利勝。照三慧日以除愚痴故。修六和敬者即自利行。修三業見戒利皆同故。便相親敬情無乖異故云六和敬。JMS03-17R
 (「摧滅嫉心〈嫉心を摧滅す〉」は即ち利他方便。もし嫉忌あれば物を利すること能わざるが故に。「求法無足〈専ら法を楽求して心に厭足なし〉」は即ち自利方便。厭足あれば必ず進修せざるが故に。後には勤修正行、即ち常正行なり。「常欲広説〈常に広説を欲うて、志、疲倦なし〉」等は利他行。修心に疲惓なきが故に広く説かんと欲す。説心の勝なり。「撃法鼓〈法鼓を撃ち、法幢を建て〉」等は即ち所説の勝なり。「曜慧日〈慧日を曜かし、痴闇を除く〉」等は所利の勝なり。三慧の日を照らして以て愚痴を除くが故に。「修六和敬〈六和敬を修して〉」とは即ち自利の行。三業・見・戒・利を修すること、皆同じきが故に、便ち相親敬して情に乖異なきが故に「六和敬」という。)JMS03-17R

[経] 常行法施。志勇精進。心不退弱。為世灯明。最勝福田。常為導師。等無憎愛。唯楽正道。無余欣[シャク05]。抜諸欲刺。以安群生。功慧殊勝。莫不尊敬。滅三垢障。遊諸神通。
[経] (常に法施を行ず。志勇精進にして、心、退弱せず。世の灯明と為りて最勝の福田なり。常に導師と為りて等しく憎愛なし。唯正道を楽いて余の欣[シャク05]なし。もろもろの欲刺を抜きて、以て群生を安んず。功慧殊勝にして尊敬せざることなし。三垢の障りを滅し、もろもろの神通に遊ぶ。)

 経曰。常行法施至遊諸神通者。述云。第二勝進行修有三階。初勝進始。即常行法施利他始。志勇不弱自利始故。次勝進中為灯明福田等。利他中也。能生物解故云世灯明。亦生人善故云勝福田。以慧開化故云導師。福利無差故無増愛。楽道無欣[シャク05]即自利中修善故云楽道。除過故無余。後勝進修成。即抜欲刺等利他行成。化令離過故以安群生。導之従善故徳勝尊敬。滅三垢等即自行成。滅貪瞋等故断行成。遊戯神通故行徳成也。有説。三垢即煩悩業苦。非也。業苦未必垢故。JMS03-17R,17L
 (経に曰く「常行法施」より「遊諸神通」に至るまでは、述して云く、第二に勝進行修に三階あり。初には勝進始、即ち「常行法施〈常に法施を行ず〉」は利他の始、「志勇不弱〈志勇精進にして、心、退弱せず〉」は自利の始なるが故に。次に勝進の中に「為灯明福田〈世の灯明と為りて最勝の福田なり〉」等とは利他の中なり。能く物の解を生ずるが故に「世灯明」という。また人善を生ずるが故に「勝福田」という。慧を以て開化するが故に「導師」という。福利に差なきが故に「無増愛」という。「楽道無欣[シャク05]〈正道を楽いて余の欣[シャク05]なし〉」は即ち自利の中、善を修するが故に「楽道〈正道を楽いて〉」という。過を除くが故に「無余〈余の欣[シャク05]なし〉」という。後には勝進修成す。即ち「抜欲刺」等は利他の行成ずるなり。化して過を離れしむるが故に「以安群生〈以て群生を安んず〉」という。これを導びきて善に従わしむるが故に「徳勝尊敬〈功慧殊勝にして尊敬せざることなし〉」という。「滅三垢」等は即ち自行成ず。貪瞋等を滅するが故に断行成ず。遊戯神通の故に行徳成ずるなり。有るが説かく。三垢は即ち煩悩業苦なりと。非なり。業苦は未だ必ずしも垢ならざるが故に。)JMS03-17R,17L

[経] 因力縁力。意力願力。方便之力。常力善力。定力慧力。多聞之力。施戒忍辱精進禅定智慧之力。正念正観。諸通明力。
[経] (因力・縁力・意力・願力・方便の力、常力・善力・定力・慧力・多聞の力、施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正念・正観・諸通明の力、)

 経曰。因力縁力至諸通明力者。述云。此第六諸力備足有三。此初自力備有七双。JMS03-17L
 (経に曰く「因力縁力」より「諸通明力」に至るまでは、述して云く、これは第六に諸力備足に三あり。これは初に自力備うるに七双あり。)JMS03-17L

 一因縁双即因力縁力。宿世善根名因力。親近善友而聞法名縁力故。二意願双即意力願力。有説。求仏之心名意力。起行之願名願力。有説。発菩提心名意力。希求仏果名願力。二倶不然。求願起行。言別義一故。発菩提心即希仏果故。如其次第。今即如理作意名意力。求菩提心名為願力。三総別双即方便力者総也。常力善力者別也。無間修故常力。悪法不間故善力。即此二力加行善巧故云方便力。JMS03-17L,18R
 (一には因縁双。即ち「因力・縁力」なり。宿世の善根を因力と名づけ、善友に親近して法を聞くを縁力と名づくるが故に。二には意願双。即ち「意力・願力」なり。有るが説かく。求仏の心を意力と名づけ、起行の願を願力と名づくと。有るが説かく。菩提心を発すを意力と名づけ、仏果を希求するを願力と名づくと。二倶に然らず。求願と起行と、言別義一の故に。発菩提心は即ち希仏果の故に。その次第の如し。今は即ち如理の作意を意力と名づけ、菩提心を求むるを名づけて願力と為す。三には総別双。即ち「方便力」は総なり。「常力・善力」は別なり。無間修の故に常力なり。悪法不間の故に善力なり。即ちこの二力は加行の善巧なるが故に「方便力」という。)JMS03-17L,18R

 四止観双。即止行成故名定力。観行成故云慧力。五聞行双。即多聞力是修行之解。施等六度是所修行故。六念定双。即遣相之念是正念力。除乱証実是正観力故。或有本云。正定止観故。位法師解。止是定。観是慧。正観応是。七通明双。即通力者六通。明力者三明故。JMS03-18R,18L
 (四には止観双。即ち止行成ずるが故に「定力」と名づけ、観行成ずるが故に「慧力」という。五には聞行双。即ち多聞力はこれ修行の解。「施」等の六度はこれ所修の行なるが故に。六には念定双。即ち相を遣るの念はこれ正念力。乱を除きて実を証するは、これ正観力の故に。或いは有る本には、正定止観というが故に。位法師の解すらく。止はこれ定。観はこれ慧。「正観」応にこれなるべし。七には通明双。即ち通力は六通、明力は三明なるが故に。)JMS03-18R,18L

[経] 如法調伏諸衆生力。
[経] (如法調伏衆生力、)

 経曰。如法調伏諸衆生力者。述云。次化行成也。JMS03-18L
 (経に曰く「如法調伏諸衆生力」とは、述して云く、次に化行成ずるなり。)JMS03-18L

[経] 如是等力。一切具足。
[経] (かくのごとき等の力、一切具足せり。)

 経曰。如是等力一切具足者。述云。此後総結也。JMS03-18L
 (経に曰く「如是等力一切具足」とは、述して云く、これは後に総結なり。)JMS03-18L

[経] 身色相好。功徳弁才。具足荘厳。無与等者。恭敬供養無量諸仏。
[経] (身色・相好・功徳・弁才、具足し荘厳す。与に等しき者なし。無量の諸仏を恭敬供養したてまつりて、)

 経曰。身色相好至無量諸仏者。述云。此第七諸徳殊勝有四。此初自徳殊勝也。JMS03-18L
 (経に曰く「身色相好」より「無量諸仏」に至るまでは、述して云く、これは第七に諸徳殊勝に四あり。これは初に自徳殊勝なり。)JMS03-18L

[経] 常為諸仏。所共称歎。
[経] (常に諸仏のために共に称歎せらる。)

 経曰。常為諸仏所共称嘆者。述曰。此第二行順諸仏也。JMS03-18L
 (経に曰く「常為諸仏所共称嘆」とは、述して云く、これは第二に行、諸仏に順ずるなり。)JMS03-18L

[経] 究竟菩薩諸波羅蜜。修空無相無願三昧。不生不滅。諸三昧門。
[経] (菩薩の諸波羅蜜を究竟し、空・無相・無願三昧、不生不滅もろもろの三昧門を修して、)

 経曰。究竟菩薩至諸三昧門者。述云。此第三解行究満。即六度為行三昧為解故。JMS03-18L
 (経に曰く「究竟菩薩」より「諸三昧門」に至るまでは、述して云く、これは第三に解行究満。即ち六度を行と為し、三昧を解と為すが故に。)JMS03-18L

 有説。見諸法生即知不滅見。諸法滅即知不生。故云不生滅。非也。既見法生必知滅故。生者帰滅一向記故。今即我法空。空故無相。無相故無願。由此不見有生滅也。JMS03-18L,19R
 (有るが説かく。諸法の生を見るは即ち不滅を知る。諸法の滅を見るは即ち不生を知る。故に「不生滅〈不生不滅〉」というと。非なり。既に法の生を見るは必ず滅を知るが故に。生ずる者の、滅に帰するは一向記の故に。今は即ち我法空なり。空の故に無相なり。無相の故に無願なり。これに由りて生滅あることを見ざるなり。)JMS03-18L,19R

[経] 遠離声聞縁覚之地。
[経] (声聞・縁覚の地を遠離す。)

 経曰。遠離声聞縁覚之地者。述云。此第四行超二乗也。JMS03-19R
 (経に曰く「遠離声聞縁覚之地」とは、述して云く、これは第四に行、二乗を超ゆるなり。)JMS03-19R

[経] 阿難。彼諸菩薩。成就如是無量功徳。我但為汝。略説之耳。若広説者。百千万劫。不能窮尽。
[経] (阿難、かのもろもろの菩薩、かくの如きの無量の功徳を成就せり。我ただ汝がために略してこれを説くまくのみ。もし広く説かば、百千万劫に窮尽すること能わじ。)

 経曰。阿難彼諸菩薩至不能窮尽者。述云。此第二結歎也。JMS03-19R
 (経に曰く「阿難彼諸菩薩」より「不能窮尽」に至るまでは、述して云く、これは第二に結歎なり。)JMS03-19R

[経] 仏告弥勒菩薩。諸天人等。無量寿国声聞菩薩。功徳智慧不可称説。
[経] (仏、弥勒菩薩に告げたまわく、無量寿国の声聞・菩薩、功徳・智慧称説すべからず。)

 経曰。仏告弥勒至不可称説者。述云。第二勧人往生有二。初結人土勝。後正勧往生。初又有二。此初結人徳勝也。JMS03-19R
 (経に曰く「仏告弥勒」より「不可称説」に至るまでは、述して云く、第二に人に往生を勧むるに二あり。初には人土の勝を結し、後に正しく往生を勧む。初にまた二あり。これは初に人徳の勝を結するなり。)JMS03-19R

[経] 又其国土。微妙安楽。清浄若此。
[経] (またその国土、微妙安楽にして、清浄なることこのごとし。)

 経曰。又其国土至清浄若此。述云。此後結土楽勝也。JMS03-19R
 (経に曰く「又其国土」より「清浄若此」に至るまでは、述して云く、これは後に土楽の勝を結するなり。)JMS03-19R

[経] 何不力為善。念道之自然。著於無上下洞達。無辺際。宜各勤精進。努力自求之。必得超絶去。往生安養国。横截五悪趣。悪趣自然閉。昇道無窮極。
[経] (何ぞ力めて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著わさざらん。宜しくおのおの勤精進して、努力〈つとめ〉て自らこれを求むべし。必ず超絶して去〈すつ〉ることを得て、安養国に往生せよ。横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ず。)

 経曰。何不力為至昇道無窮極者。述云。第二正勧往生有二。此初直勧往生也。JMS03-19R
 (経に曰く「何不力為」より「昇道無窮極」に至るまでは、述して云く、第二に正しく往生を勧むるに二あり。これは初に直ちに往生を勧むるなり。)JMS03-19R

 何不力為善者勧修往生之因。力者尽力。人聖国妙。[ゴ05]不尽力作善願生故。又力者力励。道之自然者修所得之利。因善既成不自獲果故。云念自然。唯能念道行徳。着不簡貴賤皆得往生故。云着於無上下。念字長読。流至此故。JMS03-19R,19L
 (「何不力為善〈何ぞ力めて善をなし〉」とは往生の因を修することを勧む。「力」は力を尽くすなり。人は聖にして国は妙なり。[ゴ05]〈なん〉ぞ力を尽くして善を作して願生せざらん。故にまた力は力励なり。「道之自然」とは修が所得の利なり。因善既に成る、自ずから果を獲ざらんが故に「念自然〈自然なるを念じて〉」という。唯能く道を念じ徳を行ずれば、貴賤を簡ばず、皆、往生を得ることを着するが故に「着於無上下〈上下なく洞達して辺際なきことを著わさざらん〉」という。念の字は長く読みて、流ここに至るが故に。)JMS03-19R,19L

 有説。洞達者洞解了達。無辺際者実相。非三際可尋故。実相既是浄土之本。往生者要須窮其原。故須解達。非也。窮実相之原非凡夫所能。往生浄土唯応聖故。JMS03-19L
 (有るが説かく。「洞達」とは洞解了達なり。「無辺際」とは実相なり。三際として尋ぬべきに非ざるが故に。実相は既にこれ浄土の本なり。往生せる者は要ず須くその原を窮むべきが故に須らく解達すべしと。非なり。実相の原を窮むることは凡夫の能くする所に非ず。浄土に往生するは唯、応に聖なるべきが故に。)JMS03-19L

 今即得生彼土。神智洞達無有辺際故。去者棄。棄穢土故。JMS03-19L
 (今は即ち彼の土に生ずることを得れば、神智洞達して辺際あることなきが故に。「去」は棄なり。穢土を棄つるが故に。)JMS03-19L

 有説。五悪道者三途非天及以女人。女人是悪趣本故。又下文五悪即名五道。非也。無有処説名女人趣故。五悪是因不可言趣故。JMS03-19L
 (有るが説かく。五悪道は三途、非天、及以び女人なり。女人はこれ悪趣の本なるが故に。また下の文の五悪を即ち五道と名づくと。非なり。処として説きて女人趣と名づくることあることなきが故に。五悪はこれ因なり。趣というべからざるが故に。)JMS03-19L

 今即人天雖名善趣。対於浄土亦名悪道。云五悪道。在此穢土先断見惑離三途因果。後断修惑絶人天因果。若生浄土五道頓捨故云横截。截者其果。自閉其因。獲道深広故無窮極。JMS03-19L,20R
 (今は即ち人天を善趣と名づくと雖ども、浄土に対してまた悪道と名づくを五悪道という。この穢土に在りては、先に見惑を断じて三途の因果を離れ、後に修惑を断じて人天の因果を絶す。もし浄土に生まるれば五道は頓に捨すが故に「横截」という。「截」はその果。「自閉〈自然に閉ず〉」はその因なり。道を獲ること深広なるが故に「無窮極」という。)JMS03-19L,20R

[経] 易往而無人。其国不逆違。自然之所牽。何不棄世事。勤行求道徳。可獲極長生。寿楽無有極。
[経] (道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず。自然の牽くところなり。何ぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長生を獲べし。寿楽極まりあることなし。)

 経曰。易往而無人至寿楽無窮極者。述云。此後傷嘆重也。修因即住故易往。無人修因往生者尠故無人。修因求生終不違逆。故国不逆違。即前易往也。久習纒蓋。自然為之牽縛不往故。自然所牽。即前無人也。JMS03-20R
 (経に曰く「易往而無人」より「寿楽無窮極」に至るまでは、述して云く、これは後に傷嘆重きなり。因を修すれば即ち住くが故に「易往」という。人の、因を修することなければ往生する者尠きが故に「無人」という。因を修して生を求むれば終に違逆せざるが故に「国不逆違〈国逆違せず〉」という。即ち前の易往なり。久しく纒蓋に習いて、自然にこれが為に牽縛せられて往かざるが故に「自然所牽〈自然の牽くところなり〉」という。即ち前の「無人」なり。)JMS03-20R

 有説。因満果熟不仮功用。自然招致故。自然所牽。義亦可也。道徳者因寿楽者果。寿者受也。JMS03-20R
 (有るが説かく。因満に果熟すれば功用を仮らず。自然に招致するが故に「自然所牽(自然の牽くところなり)」というと。義また可なり。「道徳」は因、「寿楽」は果、「寿」は受なり。)JMS03-20R

 問。修浄土及兜率因何者為難。答。有説。兜率是界浄土非繋故。生浄土易於兜率。非也。夫言界者是流転之処。西方浄土是出離之所故。難修流転業易行出離之因。必違正理故。JMS03-20R,20L
 (問う。浄土と及び兜率の因を修するに、何をか難と為るや。答う。有るが説かく。兜率はこれ界、浄土は繋に非ざるが故に、浄土に生まるは兜率より易しと。非なり。それ界というはこれ流転の処、西方浄土はこれ出離の所なるが故に。修し難きは流転の業、行じ易きは出離の因といわば、必ず正理に違するが故に。)JMS03-20R,20L

 有説。古来諸徳作兜率業者。咸以西方難生故不敢作。今以七義証西方易生。一時但少修故。即観経云。下三品臨命終時一念十念悉得生故。二諸仏護念故。即称讃経曰。六方諸仏護念等是也。三光明摂受故。即観経云。念仏衆生摂取不捨也。四乗仏本願故。即此経云。阿弥陀仏四十八願弘誓是也。五彼聖来迎故。即上文云。願生我国若不来迎者不取正覚也。六凡助念故。謂臨命終時諸同行者相助念送故。七聖説易生故。即此文云易往而無人其国不逆也。JMS03-20L,21R
 (有るが説かく。古来の諸徳、兜率の業を作すことは、咸く西方に生じ難きを以ての故に敢て作さず。今は七義を以て西方の生じ易きことを証すと。一には時但少修の故に。即ち『観経』に下三品の命終に臨む時、一念十念、悉く生を得るというが故に。二には諸仏護念の故に。即ち『称讃経』に六方諸仏護念等という、これなり。三には光明摂受の故に。即ち『観経』に「念仏衆生摂取不捨〈念仏の衆生を摂取して捨てたまわず〉」というなり。四には乗仏本願の故に。即ちこの経に阿弥陀仏四十八願弘誓という、これなり。五には彼の聖来迎の故に。即ち上の文に願生我国若不来迎者不取正覚〈我国に生ぜんと願じて、もし来迎せざれば、正覚を取らじ〉というなり。六には凡そ助念の故に。謂く命終に臨む時、諸の同行の者は相い助念して送るが故に。七には聖、生じ易しと説くが故に。即ちこの文に「易往而無人其国不逆〈往き易くして人なし。その国逆違せず〉」というなり。)JMS03-20L,21R

 今観此解雖復霊異理必不然。弥勒不応無誓願故。有生彼天弥勒放光来迎。同弥陀故。一称徳号尚得生天。況亦十念故。同行亦必相助故。而不説言無人故。亦無説処是別時之意而為化懈怠故。無一衆生不有彼業故。曾所生故当亦生故。諸有智者必不可言易生浄土非兜率也。若易生者果必非勝故。今即生西方土雖復甚難。専求往生一念十念皆得往生。可謂難生中之易也。傍義且止応釈本文。JMS03-21R
 (今、観ずるに、この解はまた霊異なりと雖ども理必ずしも然らず。弥勒は応に誓願なかるべからざるが故に。彼の天に生ずることあれば、弥勒は光を放ちて来迎すすること弥陀に同じき故に。一たび徳号を称するに、なお生天を得。況んやまた十念をや。故に同行また必ず相い助くべき故に。而も説きて無人といわざるが故に。また説処としてこれ別時の意、而も懈怠を化さんが為なりということなきが故に。一衆生として彼の業あらざるものなきが故に。曾て所生の故に当もまた生ずるが故に。諸の有智の者は必ず生じ易きは浄土にして兜率に非ずというべからざるなり。もし生じ易きといわば、果は必ず勝に非ざるべき故に。今は即ち西方の土に生ずるは、また甚だ難しと雖ども、専ら往生を求むるに一念十念皆、往生を得。難生の中の易と謂つべきなり。傍義は且く止め、応に本文を釈すべし。)JMS03-21R

[経] 然世人薄俗。共諍不急之事。
[経] (然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。)

 経曰。然世人薄俗至不急之事者。述云。第二申娑婆穢悪令人厭捨有四。一顕煩悩過。二勧令修捨。三申罪業過。四重勧修捨。初又有三。初弁貪過。次示瞋過。後愚痴過。初又有二。初総標也。JMS03-21R,21L
 (経に曰く「然世人薄俗」より「不急之事」に至るまでは、述して云く、第二に娑婆の穢悪を申べて人をして厭捨せしむるに四あり。一には煩悩の過を顕し、二には勧めて修捨せしめ、三には罪業の過を申べ、四には重ねて修捨を勧む。初にまた三あり。初には貪の過を弁じ、次には瞋の過を示し、後には愚痴の過なり。初にまた二あり。初には総標なり。)JMS03-21R,21L

 急者[X40]也。又回也。世俗之人薄於風俗。以貪欲心。共諍現世不可急五欲之事故。JMS03-21L
 (急とは[X40]なり。また回なり。世俗の人は風俗に薄くして、貪欲の心を以て、共に現世の急にすべからざる五欲の事を諍うが故に。)JMS03-21L

[経] 於此劇悪極苦之中。勤身営務。以自給済。無尊無卑。無貧無富。少長男女共憂銭財。有無同然。憂思適等。屏営愁苦。累念積慮。為心走使。無有安時。
[経] (この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって自ら給済す。尊もなく卑もなし。貧もなく富もなし。少長男女共に銭財を憂う。有無同然にして、憂思適等なり。屏営愁苦して、累念積慮して、心のために走り使われて、安き時あることなし。)

 経曰。於此劇悪極苦之中至無有安時者。述云。此後別釈有二。初総顕貪過。後別弁貪過。初又有三。此初推求苦也。JMS03-21L
 (経に曰く「於此劇悪極苦之中」より「無有安時」に至るまでは、述して云く、これは後に別して釈するに二あり。初には総じて貪の過を顕し、後には別して貪の過を弁ず。初にまた三あり。これは初に推求する苦なり。)JMS03-21L

 勤者苦也。営者護也。給者資也。即為身故求也。無尊卑貧富者能求之人。少長男女者所為之人。即為他故求也。有者恐失。無者欲得。憂之無異。云有無同然。適者乃也。屏者閉塞。営者血気之名也。若強憂慮者気塞難息故。即心苦也。為心走使者如渇鹿逐於陽炎。翳眼弄於空花。皆為愛水之心不了病華。而走馳故。即身苦也。JMS03-21L,22R
 (「勤」とは苦なり。「営」とは護なり。「給」とは資なり。即ち身の為の故に求むるなり。「無尊卑貧富(尊卑貧富なし)」とは能求の人なり。「少長男女」とは所為の人なり。即ち他の為の故に求むるなり。有る者は失うことを恐れ、無き者は得んことを欲し、これを憂うること異なきを「有無同然」という。「適」とは乃なり。「屏」とは閉塞なり。「営」とは血気の名なり。もし強いて憂い慮る者は気塞がり息し難きが故に、即ち心苦なり。「為心走使〈心のために走り使われて〉」とは、渇鹿の陽炎を逐い、翳眼の空花を弄ぶが如し。皆、愛水の心と病華を了せざるとに為〈よ〉りて走馳するが故に、即ち身苦なり。)JMS03-21L,22R

[経] 有田憂田。有宅憂宅。牛馬六畜奴婢。銭財衣食什物。復共憂之。重思累息。憂念愁怖。
[経] (田あるものは田に憂え、宅あるものは宅に憂う。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれに憂う。重思累息し、憂念愁怖す。)

 経曰。有田憂田至憂念愁怖者。述云。此次守護苦也。JMS03-22R
 (経に曰く「有田憂田」より「憂念愁怖」に至るまでは、述して云く、これは次に守護の苦なり。)JMS03-22R

 有説。什者資也。在俗什物。即田宅牛馬銭財衣食六畜奴婢也。出家即六物也。許供身者即百一也。雖有二解皆無拠准。JMS03-22R
 (有るが説かく。「什」とは資なり。在俗の什物は即ち田・宅・牛馬・銭財・衣食・六畜・奴婢なり。出家は即ち六物なり。供身を許せば即ち百一なりと。二解ありと雖ども皆、拠准なし。)JMS03-22R

 今即准浄伝。有云。三衣十物者蓋是訳者之意。離分為二処。不依梵本。別道三衣折開十物。訓什為雑未符先旨故。十三杜多唯制上行。十三資具蓋兼中下。供身百一未見律文。経雖有言応是別時之意。由此西方俗侶官人貴勝所着衣服唯有白畳一双。貧賤之流祇有一箇。出家法衆但畜三衣六物。楽盈長者方用十三資具。JMS03-22R,22L
 (今は即ち浄の伝に准ずるに、有るが云く、三衣十物は蓋しこれ訳者の意にして離分すれば二処と為す。梵本に依らず。別して道〈い〉わば三衣、折開すれば十物なり。什を訓じて雑と為すこと、未だ先旨に符〈あ〉わざるが故に。十三の杜多は唯、上行を制し、十三資具は蓋し中下を兼ぬ。供身百一は未だ律文を見ず。経に言ありと雖ども応にこれ別時の意なるべし。これに由るに西方の俗侶官人貴勝、着する所の衣服は唯、白畳一双のみあり。貧賤の流は祇〈ただ〉一箇のみあり。出家の法衆は但、三衣六物を畜え、盈長を楽う者は方に十三の資具を用ゆと。)JMS03-22R,22L

[経] 横為非常水火。盗賊怨家債主。焚漂劫奪。消散磨滅。憂毒[ソウ04][ソウ04]。無有解時。結憤心中。不離憂悩。心堅意固。適無縦捨。
[経] (横〈まさ〉に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために、焚漂劫奪し、消散磨滅せらる。憂毒[ソウ04][ソウ04]として解〈おこ〉たる時あることなし。憤りを心中に結びて憂悩を離れず。心堅意固にして、適〈まさ〉に縦捨することなし。)

 経曰。横為非常至適無縦捨者。述云。此後散失苦有二。此初失財苦也。[ソウ04](止容衆従二反)懼心乱動也。JMS03-22L
 (経に曰く「横為非常」より「適無縦捨」に至るまでは、述して云く、これは後に散失の苦に二あり。これは初に失財の苦なり。[ソウ04](止容と衆従との二反)懼心乱動なり。)JMS03-22L

[経] 或坐摧砕。身亡命終。棄捐之去。莫誰随者。
[経] (あるいは摧砕に坐〈よ〉りて、身亡命終す。これを棄捐して去るに、誰も随う者なし。)

 経曰。或坐摧砕至莫誰随者者。述云。此後失身苦也。莫誰随者即無一従物之意也。JMS03-22L
 (経に曰く「或坐摧砕」より「莫誰随者」に至るまでは、述して云く、これは後に失身の苦なり。「莫誰随者(誰も随う者なし)」は即ち一つの従う物なしの意なり。)JMS03-22L

[経] 尊貴豪富。亦有斯患。憂懼万端。勤苦若此。結衆寒熱。与痛共居。
[経] (尊貴・豪富、またこの患えあり。憂懼万端にして勤苦かくのごとし。もろもろの寒熱を結びて痛みと共に居す。)

 経曰。尊貴豪富至与痛共居者。述云。此第二別示貪過有二。此初寄富貴以申貪過也。JMS03-22L
 (経に曰く「尊貴豪富」より「与痛共居」に至るまでは、述して云く、これは第二に別して貪の過を示すに二あり。これは初に富貴に寄せて以て貪の過を申ぶるなり。)JMS03-22L

 有説。寒謂八寒地獄。熱謂八熱地獄。受寒熱等苦尋常故与痛共倶。痛者受也。此恐非也。現身与後苦不可言倶故。今即寒恐熱悩与痛共倶。或有経本臨終寒熱。恐訛也。JMS03-22L
 (有るが説かく。「寒」は謂く八寒地獄、「熱」は謂く八熱地獄なり。寒熱等の苦を受くること尋常なるが故に「与痛共倶(痛と共に倶なれり)」。「痛」は受なりと。これ恐らくは非なり。現身と後苦と倶というべからざるが故に。今は即ち寒恐れ熱悩む痛と共倶なり。或いは有る経本には「臨終寒熱」という。恐らくは訛りなり。)JMS03-22L

[経] 貧窮下劣。困乏常無。無田亦憂。欲有田。無宅亦憂。欲有宅。無牛馬六畜奴婢、銭財衣食什物。亦憂欲有之。適有一。復少一。有是少是。思有斉等。適欲具有。便復糜散。如是憂苦。当復求索。不能時得。思想無益。身心倶労。坐起不安。憂念相随。勤苦若此。亦結衆寒熱。与痛共居。或時坐之。終身夭命。
[経] (貧窮下劣にして困乏無常なり。田なきものはまた憂えて田あらんことを欲う。宅なきものはまた憂えて宅あらんことを欲う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なきものは、また憂えてこれあらんことを欲う。適〈たまたま〉一つあればまた一つ少〈か〉く。これあればこれ少く。斉等にあらんと思う。たまたま具〈とも〉にあらんと欲えば、すなわちまた糜散す。かくのごとく憂苦して当にまた求索す。時に得ること能わず。思想益なし。身心倶に労して坐起安からず。憂念相随いて勤苦かくのごとし。またもろもろの寒熱を結びて痛みと共に居す。ある時はこれに坐〈よ〉って、身を終え命を夭ぼす。)

 経曰。貧窮下劣至終身夭命者。述云。此後拠貧窮以示貪過有二。此初示現苦也。有一少一者有田少宅故。有是少是者雖有田而不足故。思有斉者思斉富貴故。糜者敗也。JMS03-23R
 (経に曰く「貧窮下劣」より「終身夭命」に至るまでは、述して云く、これは後に貧窮に拠りて以て貪の過を示すに二あり。これは初に現苦を示すなり。「有一少一〈一つあればまた一つ少く〉」とは田あれば宅を少くが故に。「有是少是〈これあればこれ少く〉」とは田ありと雖ども足らざるが故に。「思有斉〈斉等にあらんと思う〉」とは斉しく富貴ならんと思うが故に。「糜」は敗なり。)JMS03-23R

[経] 不肯為善。行道進徳。寿終身死。当独遠去。有所趣向。善悪之道。莫能知者。
[経] (肯て善をつくり道を行じ徳に進まず。寿終え身死して、当に独り遠く去るべし。趣向するところあれども、善悪の道能く知る者なし。)

 経曰。不肯為善至莫能知者。述云。此後顕後苦也。JMS03-23R
 (経に曰く「不肯為善」より「莫能知」に至るまでは、述して云く、これは後に後苦を顕すなり。)JMS03-23R

[経] 世間人民。父子兄弟夫婦。室家中外親属。当相敬愛。無相憎嫉。有無相通。無得貪惜。言色常和。莫相違戻。或時心諍。有所恚怒。今世怨意。微相憎嫉。後世転劇。至成大怨。所以者何。世間之事。更相患害。雖不即時応急相破。然含毒畜怒。結憤精神。自然剋識。不得相離。皆当対生更相報復。
[経] (世間の人民、父子・兄弟・夫婦・室家・中外の親属、当に相敬愛して相憎嫉することなかるべし。有無相通じて貪惜を得ることなかれ。言色常に和して相違戻することなかれ。ある時には心に諍いて恚怒するところあり。今世の恨みの意は、微しき相い憎嫉すれども、後世には転た劇しくして、至りて大いなる怨(あだ)と成る。所以はいかん、世間の事たがいに相い患害す。即時に急に相い破すべからずといえども、然も毒を含み怒りを畜えて憤りを精神に結ぶ。自然に剋識して相い離るることを得ず、みな当に対生してたがいに相い報復すべし。)

 経曰。世間人民至更相報復者。述云。第二顕瞋過有三。此初結怨相報也。JMS03-23R
 (経に曰く「世間人民」より「更相報復」に至るまでは、述して云く、第二に瞋の過を顕すに三あり。これは初に怨を結びて相報ずるなり。)JMS03-23R

 家室者夫称於婦曰家婦称於夫曰室。雖有此言良恐非也。下之更解。無者不也。患者悩也。精神者即種子識。剋者要也。識者記也。由前結恨成怨。種子引果不仮功用故云自然。復者酬也。JMS03-23R
 (「家室」とは、夫は婦を称して家といい、婦は夫を称して室という。この言ありと雖ども良に恐らくは非なり。下に更に解せん。「無」は不なり。「患」は悩なり。「精神」は即ち種子識なり。「剋」は要なり。「識」は記なり。前の結恨に由りて怨を成ず。種子は果を引くに功用を仮らざるが故に「自然」という。「復」は酬なり。)JMS03-23R

[経] 人在世間愛欲之中。独生独死独去独来。当行至趣苦楽之地。身自当之。無有代者。善悪変化。殃福異処。宿予厳待。当独趣入。遠到他所。莫能見者。善悪自然。追行所生。窈窈冥冥。別離久長。道路不同。会見無期。甚難甚難。復得相値。
[経] (人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、当に行いて苦楽の地に至趣すべし。身、自らこれを当〈う〉く。代わる者あることなし。善悪の変化、殃福処異にして、あらかじめ厳しく待ちて当に独り趣入すべし。遠く他所に到りぬれば、能く見る者なし。善悪自然にして行くに追〈したが〉いて生ずるところなり。窈窈冥冥として別離久長なり。道路不同にして会い見ること期なし。甚だ難く甚難に、また相値うことを得たり。)

 経曰。人在世間至復得相値者。述云。此次別易会難也。JMS03-23R,23L
 (経に曰く「人在世間」より「復得相値」に至るまでは、述して云く、これは次に別るることは易く、会うことは難きなり。)JMS03-23R,23L

 当者逐也。行者業也。自当者即自受也。善変化者即悪趣報。悪変化者即善趣報。予者逆也。厳者修也。由宿世逆修善悪之業苦楽報而待故。又厳者厳然。即随宿善悪地獄天堂厳然而待也。窈窈者即中有之時。冥冥者即生有之時。JMS03-23L
 (「当」は逐なり。「行」は業なり。「自当」は即ち自受なり。善変化は即ち悪趣の報、悪変化は即ち善趣の報なり。「予」は逆なり。「厳」は修なり。宿世に逆〈あらかじ〉め善悪の業を修するに由りて苦楽の報、而も待つが故に。また「厳」は厳然なり。即ち宿の善悪に随いて地獄天堂厳然として待つなり。「窈窈」とは即ち中有の時、「冥冥」は即ち生有の時なり。)JMS03-23L

[経] 何不棄衆事。各曼強健時。努力勤精進修善。願度世。可得極長生。如何不求道。安所須待。欲何楽哉。
[経] (何ぞ衆事を棄てざらん。おのおの強健の時に曼(あえ)り。努めて力勤精進して善を修して、度世を願ぜよ。極長の生を得べし。如何が道を求めざらん。安んぞ須からく待つべき。何の楽しみをか欲するや。)

 経曰。何不棄衆事至欲何楽乎者。述云。此後勧令修捨也。曼音万及也。亦作蔓(馬安反)延長貌也。非此中義。待者停也。位法師云待何事欲何願楽乎欲何快楽。義亦可也。JMS03-23L
 (経に曰く「何不棄衆事」より「欲何楽乎」に至るまでは、述して云く、これは後に勧めて修捨せしむるなり。「曼」は、音は万、及なり。また蔓〈馬安の反〉と作る。延長の貌なり。この中の義には非ず。「待」は停なり。位法師の云く、何事をか待ち、何の願楽をか欲し、何の快楽をか欲するやと。義また可なり。)JMS03-23L

[経] 如是世人。不信作善得善。為道得道。不信人死更生。恵施得福。善悪之事。都不信之。謂之不然。終無有是。但坐此故。且自見之。
[経] (かくの如きの世人、善を作して善を得、道を為して道を得ることを信ぜず。人、死して更に生じ、恵施して福を得ることを信ぜず。善悪の事、すべてこれを信ぜず。これを然らずと謂〈おも〉うて、終に是することあることなし。ただこれに坐〈よ〉るが故に、また自らこれを見る。)

 経曰。如是世人至且自見者。述云。第三顕痴過有三。此初自無正信也。坐者由也。由不信故専執自見即其失也。JMS03-23L,24R
 (経に曰く「如是世人」より「且自見」に至るまでは、述して云く、第三に痴の過を顕すに三あり。これは初に自ら正信なきなり。「坐」は由なり。不信に由るが故に専ら自見を執す。即ちその失なり。)JMS03-23L,24R

[経] 更相瞻視。先後同然。転相承受。父余教令。先人祖父。素不為善。不識道徳。身愚神闇。心塞意閉。死生之趣。善悪之道。自不能見。無有語者。吉凶・禍福。競各作之。無一怪也。
[経] (たがいに相い瞻視して先後同じく然なり。転た相い承受す。父、教令を余〈のこ〉す。先人・祖父、素より善を為さず。道徳を識〈さと〉らず。身愚かに神〈たましい〉闇く、心塞り意〈こころ〉閉じて、死生の趣、善悪の道、自ら見ること能わず。語る者あることなし。吉凶禍福、競いておのおのこれを作す。ひとりも怪しむことなし。)

 経曰。更相瞻視至無一怪也者。述云。此次承習無信也。JMS03-24R
 (経に曰く「更相瞻視」より「無一怪也」に至るまでは、述して云く、これは次に承習して信なきなり。)JMS03-24R

 令亦教也。素者昔也。不為善者無行。不識道徳者無解。身者色根。神者性也。心者果也。意者根也。趣者果也。道者因也。即世出善悪因果皆不能知。無一怪者即無怪行也。JMS03-24R
 (「令」もまた教なり。「素」は昔なり。「不為善(善を為さず)」とは行なし。「不識道徳(道徳を識〈さと〉らず)」とは解なし。「身」は色根なり。「神」とは性なり。「心」は果なり。「意」は根なり。「趣」は果なり。「道」は因なり。即ち世出善悪の因果、皆、知ること能わず。「無一怪(ひとりも怪しむことなし)」とは即ち行を怪しむことなきなり。)JMS03-24R

[経] 生死常道。転相嗣立。或父哭子。或子哭父。兄弟夫婦。更相哭泣。顛倒上下。無常根本。皆当過去。不可常保。教語開導。信之者少。是以生死流転。無有休止。如此之人。矇冥抵突。不信経法。心無遠慮。各欲快意。痴惑於愛欲。不達於道徳。迷没於瞋怒。貪狼於財色。坐之不得道。当更悪趣苦。生死無窮已。哀哉。甚可傷。
[経] (生死の常の道、転た相い嗣ぎ立つ。あるいは父、子を哭し、あるいは子、父を哭す。兄弟・夫婦、たがいに相い哭泣す。顛倒上下して無常の根本なり。みな当に過去すべし。常に保つべからず。教語開導するに、これを信ずる者少なし。ここをもって生死の流転、休止することあることなし。かくの如きの人、矇冥抵突して経法を信ぜず。心に遠き慮りなし。おのおの意〈こころ〉を快くせんと欲う。愛欲に痴惑せられて道徳を達〈さと〉らず。瞋怒に迷没して財色を貪狼す。これに坐〈よ〉って道を得ず。当に悪趣の苦に更るべし。生死窮まり已むことなし。哀れなるかな。甚だ傷むべし。)

 経曰。生死常道至甚可傷者。述云。此後正申痴過有二。此初対父子以顕其過也。JMS03-24R
 (経に曰く「生死常道」より「甚可傷」に至るまでは、述して云く、これ後に正に痴の過を申ぶるに二あり。これ初に父子に対して以てその過を顕すなり。)JMS03-24R

 有説。少者早夭老者後死故云顛倒。不報上下死之同然故云上下。非也。若如所言応云顛倒不報上人下人故。JMS03-24R
 (有るが説かく。少〈わか〉き者早く夭し、老いたる者後に死するが故に「顛倒」という。上下に報ぜずに死すること同然なるが故に「上下」というと。非なり。もし言う所の如きならば、応に顛倒して上人下人に報いずというべきが故に。)JMS03-24R

 今即顛倒者即相錯之義。上者上昇下者下墜故。五道相錯。或昇善趣。或墜悪趣故云上下。無常根本者即無一常本之業。当者受也。蒙又作曚。皆(莫公反)蒙覆不明也。冥(鳴央反)暗昧無知也。曚有眸子而無見也。又曚[ガイ09](下牛対反)。生聾。又蒙籠。盧江反。蒙籠謂不明了也。抵(都礼反)拒也摧也。突(徒骨反)触冒也。狼者貪過也。JMS03-24R
 (今は即ち「顛倒」は即ち相錯るの義なり。「上」は上昇、「下」は下墜なるが故に、五道は相錯りて、或いは善趣に昇り、或いは悪趣に墜つるが故に「上下」という。「無常根本〈無常の根本〉」は即ち一として常本の業なし。「当」は受なり。「蒙」はまた曚〈莫公の反〉に作る。皆蒙覆不明なり。「冥」〈鳴央の反〉は暗昧無知なり。曚は眸子ありて見ることなきなり。また曚は[ガイ09]〈下は牛対の反〉なり。生聾なり。また蒙籠〈盧江の反〉なり。蒙籠は謂く明了ならざるなり。「抵」〈都礼の反〉は拒なり、摧なり。「突」〈徒骨の反〉は触れ冒すなり。「狼」は貪の過なり。)JMS03-24R

[経] 或時室家父子兄弟夫婦。一死一生。更相哀愍。恩愛思慕。憂念結縛。心意痛著。迭相顧恋。窮日卒歳。無有解已。教語道徳。心不開明。思想恩好。不離情欲。昏矇閉塞。愚惑所覆。不能深思熟計。心自端正。専精行道。決断世事。便旋至竟。年寿終尽。不能得道。無可奈何
[経] (ある時は室家・父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生じて、たがいに相い哀愍す。恩愛思慕して憂念結縛す。心意痛着して迭いに相い顧恋す。日を窮め歳を卒えて解け已むことあることなし。道徳を教語するに心開明ならず。恩好を思想して情欲を離れず。昏矇閉塞して愚惑に覆われたり。深く思い熟〈つらつ〉ら計らい、心自ら端正にして専精に道を行じて世事を決断すること能わず。すなわち竟りに旋り至りて、年寿終わり尽きぬれば道を得ること能わず。奈何とすべきことなし。)

 経曰。或時家室至無可奈何者。述云。此後対親戚以顕過有二。此初恋著不能解也。礼記三十荘有室。玄公曰有室有妻也。蓋論語由也升堂矣未入室也。卒者終也。便旋者疾。JMS03-24L
 (経に曰く「或時家室」より「無可奈何」に至るまでは、述して云く、これは後に親戚に対して以て過を顕すに二あり。これは初に恋著して解すること能わざるなり。『礼記』に「三十を荘という。室あり」と。玄公が曰く「有室は有妻なり」と。蓋し『論語』に「由は堂に升〈のぼ〉れるも、未だ室に入らざるなり」。「卒」は終なり。「便旋」は疾なり。)JMS03-24L

[経] 総猥[カイ01]擾。皆貪愛欲。惑道者衆。悟之者寡。世間怱怱。無可[リョウ01]頼。尊卑・上下・貧富・貴賤。勤苦怱務。
[経] (総猥[カイ01]擾してみな愛欲を貪す。道に惑える者は衆く、これを悟る者は寡し。世間怱怱として[リョウ01]頼すべきことなし。尊卑・上下・貧富・貴賎、勤苦怱務して、)

 経曰。総猥[カイ01]擾至勤苦匆務者。述云。此後造悪受苦報有四。此初発貪追求也。JMS03-24L
 (経に曰く「総猥[カイ01]擾」より「勤苦匆務」に至るまでは、述して云く、これは後に悪を造りて苦報を受くるに四あり。これは初に貪を発して追求するなり。)JMS03-24L

 猥(烏罪反)悪也。字林衆也。広雅頓也。又雑也。擾者乱也。怱又作[ソウ04]。古文[ショウ32](之容反)。方言[ショウ31][ショウ32]遑遽。頼(洛代反)。孝経曰。一人有慶兆民頼之。註云頼蒙也聊者甘也。JMS03-24L,25R
 (「猥」〈烏罪の反〉は悪なり。『字林』に衆なり。『広雅』に頓なり。または雑なり。「擾」は乱なり。「怱」はまた[ソウ04]に作る。『古文』に[ショウ32]〈之容の反〉なり。『方言』に[ショウ31][ショウ32]遑遽と。「頼」〈洛代の反〉は『孝経』に曰く、一人に慶びあれば、兆民これを頼る。註に云く、頼は蒙なりと。聊は甘なり。)JMS03-24L,25R

[経] 各懐殺毒。悪気窈冥。為妄興事。違逆天地。不従人心。
[経] (おのおの殺毒を懐く。悪気窈冥して妄のために事を興す。天地に違逆して人心に従わず。)

 経曰。各懐殺毒至不従人心者。述云。此第二起瞋殺害也。JMS03-25R
 (経に曰く「各懐殺毒」より「不従人心」に至るまでは、述して云く、これは第二に瞋を起こして殺害するなり。)JMS03-25R

[経] 自然非悪。先随与之。恣聴所為。待其罪極。其寿未尽。便頓奪之。下入悪道。累世勤苦。展転其中。数千億劫。無有出期。
[経] (自然の非悪、先ず随いてこれを与う。恣に所為を聴〈ゆる〉してその罪極を待つ。その寿未だ尽きざるに、すなわち頓にこれを奪う。悪道に下入して、累世に勤苦す。その中に展転して数千億劫なり。出ずる期あることなし。)

 経曰。自然非悪至無有出期者。述云。此第三苦報難出也。作悪之人。宿罪之力。自然招集非法悪縁。随而与之故云自然非悪先随与之。恣聴者即作悪自在無懼之義。待亦作至。JMS03-25R
 (経に曰く「自然非悪」より「無有出期」に至るまでは、述して云く、これは第三に苦報出で難きなり。作悪の人は宿罪の力自然に非法悪縁を招集して、随いてこれに与うが故に「自然非悪先随与之〈自然の非悪、先ず随いてこれを与う〉」という。「恣聴」は即ち作悪自在にして懼るることなき義なり。「待」はまた至に作る。)JMS03-25R

[経] 痛不可言。甚可哀愍。
[経] (痛み言うべからず。甚だ哀愍すべし。)

 経曰。痛不可言甚可哀愍者。述云。此第四傷令生厭也。JMS03-25R
 (経に曰く「痛不可言甚可哀愍」とは、述して云く、これは第四に傷みて厭を生ぜしむるなり。)JMS03-25R

[経] 仏告弥勒菩薩諸天人等。我今語汝世間之事。人用是故。坐不得道。当熟思計。遠離衆悪。択其善者。勤而行之。愛欲栄華。不可常保。皆当別離。無可楽者。曼仏在世。当勤精進。其有至心。願生安楽国者。可得智慧明達。功徳殊勝。勿得随心所欲。虧負経戒。在人後也。
[経] (仏、弥勒菩薩・諸天人等に告げたまわく、我今、汝に世間の事を語る。人これをもってのゆえに、坐〈とどまり〉て道を得ず。当に熟〈つらつ〉ら思い計りて衆悪を遠離し、その善の者を択んで勤めてこれを行ずべし。愛欲栄華、常に保つべからず。みな当に別離すべし。楽しむべき者なし。仏の在世に曼〈もうあえ〉り。当に勤精進すべし。それ至心に安楽国に生ぜんと願ずることある者は智慧明達し功徳殊勝なることを得べし。心の所欲に随いて経戒を虧負して人後にあることを得ることなかれ。)

 経曰。仏告弥勒至在人後也者。述云。此第二勧人修捨有四。一正勧修捨。二弥勒領解。三重勧修捨。四重弥勒領解。初又有二。此初勧令修行也。JMS03-25R
 (経に曰く「仏告弥勒」より「在人後也」とは、述して云く、これは第二に人を勧めて修捨せしむるに四あり。一には正しく修捨を勧む。二には弥勒の領解。三には重ねて修捨を勧む。四には重ねて弥勒の領解。初にまた二あり。これは初に勧めて修行せしむるなり。)JMS03-25R

 欲令天人疾従修捨故。更対弥勒而須勧之。世間事者即前三毒之事。用者以也。坐者由也。世人以是三毒事不得帰真。去道遠故云不得道。負者違也。JMS03-25L
 (天人をして疾く従いて修捨せしめんと欲するが故に、更に弥勒に対して須くこれを勧むべし。「世間事」とは即ち前の三毒の事なり。「用」は以なり。「坐」は由なり。世人はこの三毒の事を以て真に帰することを得ず。道を去ること遠きが故に「不得道」という。「負」とは違なり。)JMS03-25L

[経] 儻有疑意。不解経者。可具問仏。当為説之。
[経] (もし疑いの意ありて経を解せずば、具さに仏に問いたてまつるべし。当にためにこれを説くべし。)

 経曰。儻有疑意至当為説之者。述云。此後勧令請問也。儻若也設也。JMS03-25L
 (経に曰く「儻有疑意」より「当為説之」に至るまでは、述して云く、これは後に勧めて請問せしむるなり。「儻」は若なり、設なり。)JMS03-25L

[経] 弥勒菩薩。長跪白言。仏威神尊重。所説快善。聴仏経語。貫心思之。世人実爾。如仏所言。
[経] (弥勒菩薩、長跪してもうさく、仏の威神尊重にして、所説快善なり。仏の経語を聴きて心に貫ぬ、これを思うに、世人実に爾なり。仏の所言の如し。)

 経曰。弥勒菩薩至如仏所言者。述云。第二領解有五。此初信順仏語也。貫者通也。通心思之世人実随三毒之事坐不得道如仏説故。JMS03-25L
 (経に曰く「弥勒菩薩」より「如仏所言」に至るまでは、述して云く、第二に領解に五あり。これは初に信順仏語なり。「貫」は通なり。通心にこれを思うに、世人は実に三毒の事に随いて、坐〈つみせら〉れて道を得ざること、仏説の如くなるが故に。)JMS03-25L

AAAAA
[経] 今仏慈愍。顕示大道。耳目開明。長得度脱。聞仏所説。莫不歓喜。諸天人民蠕動之類。皆蒙慈恩。解脱憂苦。
[経] (今仏、慈愍して大道を顕示したまう、耳目開明して長く度脱を得つ。仏の所説を聞きたてまつりて歓喜せざることなし。諸天・人民・蠕動の類、みな慈恩を蒙りて憂苦を解脱す。)

 経曰。今仏慈愍至解脱憂苦者。述云。此第二領仏慈利也。JMS03-25L
 (経に曰く「今仏慈愍」より「解脱憂苦」に至るまでは、述して云く、これは第二に仏の慈利を領するなり。)JMS03-25L

[経] 仏語教誡。甚深甚善。智慧明見。八方上下。去来今事。莫不究暢。
[経] (仏語の教誡、甚深甚善なり。智慧明らかに見て、八方・上下・去来今の事、究暢せずということなし。)

 経曰。仏語教誡至莫不究暢者。述云。此第三歎説深善也。甚深善者歎教利深。智慧明見者歎智普達。横達十方故八方上下。竪通三世故去来今。可謂莫不究暢。JMS03-25L,26R
 (経に曰く「仏語教誡」より「莫不究暢」に至るまでは、述して云く、これは第三に説の深善を歎ずるなり。「甚深善〈甚深甚善〉」とは教利の深きことを歎ずるなり。「智慧明見〈智慧明らかに見て〉」とは智の普く達することを歎ず。横に十方に達するが故に「八方上下」といい、竪に三世に通ずるが故に「去来今」という。「莫不究暢〈究暢せずということなし〉」と謂つべし。)JMS03-25L,26R

[経] 今我衆等。所以蒙得度脱。皆仏前世求道之時。謙苦所致。恩徳普覆。福禄巍巍。光明徹照。達空無極。開入泥[オン01]。教授典攬。威制消化。感動十方。無窮無極。仏為法王。尊超衆聖。普為一切天人之師。随心所願。皆令得道。
[経] (今我衆等、度脱を得ることを蒙る所以は、みな仏前世求道の時、謙苦せしが致すところなり。恩徳普く覆いて福祿巍巍たり。光明徹照して空に達すること極まりなし。泥[オン01]に開入し典攬を教授す。威制消化して十方に感動すること無窮無極なり。仏は法王として尊にして衆聖に超えたまえり。普く一切天人の師として、心の所願に随いて、みな道を得せしむ。)

 経曰。今我衆等至皆令得道者。述云。此第四重領仏恩也。JMS03-26R
 (経に曰く「今我衆等」より「皆令得道」に至るまでは、述して云く、これは第四に重ねて仏恩を領するなり。)JMS03-26R

 謙苦者因也。恩徳者果也。苦又作恪。古文[カク12](若各反)字林恪恭敬也。謙者退己之言。苦者苦行。福祿光明者自福殊勝。達空無極者自智殊勝。開入泥[オン01]者化物獲滅。教授典攬者教令修道。典者常也。申常道故。広雅典主也。攬者[ケン03]之在手又取也。常道攬理故云典攬。此中意言道法開導故云教授。以此経典要攬衆義令其習故云典攬。即智化也。剛強衆生威徳制御。令其消伏帰従聖化。故云威制消化。善軟衆生慈力摂取故感十方。有縁斯摂故無窮極。即福化也。JMS03-26R,26L
 (「謙苦」は因なり。「恩徳」は果なり。「苦」はまた恪に作る。古文には[カク12](若各の反)、『字林』に恪は恭敬なりと。「謙」は己を退するの言。「苦」は苦行。「福祿」「光明」は自福の殊勝。「達空無極〈空に達すること極まりなし〉」は自智の殊勝。「開入泥[オン01]〈泥[オン01]に開入し〉」は物を化して滅を獲しむ。「教授典攬〈典攬を教授す〉」とは教えて道を修せしむ。「典」は常なり。常道を申ぶるが故に。『広雅』に典は主なりと。「攬」は、これを[ケン03]〈と〉りて手に在り。また取なり。常道、理を攬るが故に「典攬」という。この中の意の言く、道法開導するが故に「教授」という。この経典を以て衆義を攬りてそれをして習わしめんと要〈もと〉むるが故に「典攬」という。即ち智化なり。剛強の衆生は威徳をもって制御してそれをして消伏せしめて聖化に帰従せしむるが故に「威制消化」という。善軟の衆生は慈力をもって摂取するが故に「感十方〈十方に感動す〉」という。有縁ここに摂するが故に「無窮極〈無窮無極なり〉」なり。即ち福化なり。)JMS03-26R,26L

[経] 今得値仏。復聞無量寿仏声。靡不歓喜。心得開明。
[経] (今仏に値いたてまつることを得。また無量寿仏の声〈みな〉を聞きて歓喜せざることなし。心開明することを得たり。)

 経曰。今得値仏至心得開明者。述云。此第五申自喜慶也。JMS03-26L
 (経に曰く「今得値仏」より「心得開明」に至るまでは、述して云く、これは第五に自の喜慶を申ぶるなり。)JMS03-26L

[経] 仏告弥勒菩薩。汝言是也。
[経] (仏、弥勒菩薩に告げたまわく、汝が言、是なり。)

 経曰。仏告弥勒汝言是也者。述曰。第三重勧修捨有三。初嘆印領解。次正勧修行。後勧捨疑惑。初又有三。此初印前嘆説也。仏説快甚深甚善言当其理故曰是也。JMS03-26L
 (経に曰く「仏告弥勒汝言是也」とは、述して云く、第三に重ねて修捨を勧むるに三あり。初には嘆じて領解を印す。次には正しく修行を勧む。後には疑惑を捨つることを勧む。初にまた三あり。これは初に前の嘆説を印するなり。「仏説快甚深甚善〈仏語の教誡、甚深甚善なり〉」の言はその理に当るが故に「是」というなり。)JMS03-26L

[経] 若有慈敬於仏者。実為大善。天下久久。乃復有仏。
[経] (もし仏を慈敬することあらば実に大善なりとす。天下に久久にして、いましまた仏まします。)

 経曰。若有慈敬至乃復有仏者。述云。此次嘆領荷恩有二。此初正嘆彰仏難値也。JMS03-26L
 (経に曰く「若有慈敬」より「乃復有仏」に至るまでは、述して云く、これは次に荷恩を領することを嘆ずるに二あり。これは初に正しく嘆じて仏の値い難きことを彰すなり。)JMS03-26L

 有説。申己難値。非也。復言必是顕当有故。今即標弥勒成仏之時也。JMS03-26L
 (有るが説かく。己が値い難きことを申ぶと。非なり。また言く、必ずこれ当有を顕すが故に。今は即ち弥勒成仏の時を標するなり。)JMS03-26L

[経] 今我於此世。作仏演説経法。宣布道教。断諸疑網。抜愛欲之本。杜衆悪之源。遊歩三界。無所拘礙。典攬智慧。衆道之要。執持綱維。昭然分明。開示五趣。度未度者。決正生死泥[オン01]之道。
[経] (今我この世に於いて仏と作りて、経法を演説し道教を宣布して、もろもろの疑網を断じ、愛欲の本を抜き、衆悪の源を杜〈ふさ〉ぐ。三界に遊歩するに拘礙するところなし。典攬の智慧、衆道の要なり。綱維を執持して、昭然分明なり。五趣を開示して、未度の者を度す。生死泥[オン01]の道を決正す。)

 経曰。我今於此世至涅槃之道者。述云。此後申己化益。即樹王成道捺苑転法輪也。JMS03-26L
 (経に曰く「我今於此世」より「涅槃之道」に至るまでは、述して云く、これは後に己が化益を申ぶ。即ち樹王成道捺苑転法輪なり。)JMS03-26L

 有説。創断陳如之疑故言断諸疑網者。非也。仏決物疑非局陳如故。JMS03-26L,27R
 (有るが説かく。創りて陳如の疑を断ずるが故に「断諸疑網(もろもろの疑網を断じ)」というと。非なり。仏の、物の疑を決すること、陳如に局るに非ざるが故に。)JMS03-26L,27R

 今即断疑抜欲者令離煩悩。杜衆悪源者令離悪業。杜者塞也。疑愛是利鈍惑之所由故言本也。悪業為総別苦之所流故云源也。即口業化是也。天上人間唯仏独尊故遊歩三界。化之縦任故無所拘礙。即身業化也。善閑経典要攬衆義故典攬智慧。備解三乗所行之道故衆道之要。即意業化也。綱維者猶綱紀之属。制戒御衆故云執持。顕正以簡邪故照然分明。広化群品故開示五道。令越苦海故度未度。決生死而令出正涅槃而令入即教之弘化也。JMS03-27R
 (今は即ち断疑抜欲は煩悩を離れしむ。「杜衆悪源(衆悪の源を杜〈ふさ〉ぐ)」とは悪業を離れしむ。「杜」は塞なり。疑と愛とはこれ利と鈍との惑の所由なるが故に「本」というなり。悪業はこれ総別の苦の所流なるが故に「源」というなり。即ち口業の化、これなり。天上人間、唯仏のみ独り尊きが故に「遊歩三界〈三界に遊歩す〉」という。これを化すること縦任なるが故に「無所拘礙(拘礙するところなし)」という。即ち身業の化なり。善く経典を閑〈なら〉いて衆義を攬んと要〈す〉るが故に「典攬智慧」という。備に三乗所行の道を解するが故に「衆道之要」という。即ち意業の化なり。「綱維」とは猶し綱紀の属のごとし。戒を制して衆を御するが故に「執持」という。正を顕し以て邪を簡ぶが故に「照然分明」という。広く群品を化するが故に「開示五道〈五趣を開示して〉」という。苦海を越えしむるが故に「度未度〈未度の者を度す〉」という。生死を決して出でさしめ、涅槃を正して入らしむ。即ち教の弘化なり。)JMS03-27R

[経] 弥勒当知。汝従無数劫来。修菩薩行。欲度衆生。其已久遠。従汝得道。至于泥[オン01]。不可称数。
[経] (弥勒、まさに知るべし。汝、無数劫よりこのかた菩薩の行を修して衆生を度せんと欲するに、それすでに久遠なり。汝に従いて得道し、泥[オン01]に至るもの称数すべからず。)

 経曰。弥勒当知至不可称数者。述云。此後慶値仏聞法有三。此初申弥勒始終也。JMS03-27R,27L
 (経に曰く「弥勒当知」より「不可称数」に至るまでは、述して云く、これは後に仏に値て法を聞くことを慶ぶに三あり。これは初に弥勒の始終を申ぶるなり。)JMS03-27R,27L

[経] 汝及十方諸天人民一切四衆。永劫已来。展転五道。憂畏勤苦。不可具言。
[経] (汝および十方の諸天・人民・一切四衆、永劫よりこのかた五道に展転す。憂畏勤苦、具さに言うべからず。)

 経曰。汝及十方至不可具言者。述云。此次標衆生本末也。永者長也。JMS03-27L
 (経に曰く「汝及十方」より「不可具言」に至るまでは、述して云く、これは次に衆生の本末を標するなり。「永」は長なり。)JMS03-27L

[経] 乃至今世。生死不絶。与仏相値。聴受経法。又復得聞無量寿仏。快哉甚善。吾助爾喜。
[経] (乃至、今世まで生死絶えず。仏と相い値うて、経法を聴受して、また無量寿仏を聞くことを得つ。快哉甚善なり。吾、なんじを助けて喜ばしむ。)

 経曰。乃至今世至吾助汝喜者。述云。此後如来正慶也。藉久遠因値仏聞法即可慶喜故。JMS03-27L
 (経に曰く「乃至今世」より「吾助汝喜」に至るまでは、述して云く、これは後に如来の正慶なり。久遠の因に藉て仏に値いたてまつり法を聞く、即ち慶喜すべきが故に。)JMS03-27L

[経] 汝今亦可自厭生死老病痛苦。悪露不浄。無可楽者。宜自決断。端身正行。益作諸善。修己潔体。洗除心垢。言行忠信。表裏相応。人能自度。転相拯済。精明求願。積累善本。
[経] (汝今また自ら生死老病の痛苦を厭うべし。悪露不浄にして楽しむべき者なし。宣しく自ら決断すべし。端身正行にして、ますます諸善を作り、修己潔体にして、心垢を洗除し、言行に忠信ありて表裏相応し、人能く自度して転た相い拯済し、精明求願して善本を積累せよ。)

 経曰。汝今亦可至積累善本者。述云。第二勧修行有二。此初正勧修捨也。病者内苦痛者外苦。JMS03-27L
 (経に曰く「汝今亦可」より「積累善本」に至るまでは、述して云く、第二に修行を勧むるに二あり。これは初に正しく修捨を勧むるなり。「病」は内苦、「痛」は外苦なり。)JMS03-27L

[経] 雖一世勤苦。須臾之間。後生無量寿仏国。快楽無極。長与道徳合明。永抜生死根本。無復貪恚愚痴苦悩之患。欲寿。一劫百劫千万億劫。自在随意。皆可得之。無為自然。次於泥[オン01]之道。
[経] (一世の勤苦は須臾の間なりといえども、後に無量寿仏の国に生じて、快楽無極なり。長く道徳と合して明らかに、永く生死の根本を抜く。また貪・恚・愚痴・苦悩の患えなし。寿、一劫・百劫・千万億劫ならんと欲えば、自在随意にみなこれを得べし。無為自然にして泥[オン01]の道に次〈ちか〉づけり。)

 経曰。雖一世勤苦至涅槃之道者。述云。此後挙利令修也。身与福倶故道徳合。心与智倶故云合明。JMS03-27L
 (経に曰く「雖一世勤苦」より「涅槃之道」に至るまでは、述して云く、これは後に利を挙げて修せしむるなり。身と福と倶なるが故に「道徳合〈道徳と合して〉」という。心と智と倶なるが故に「合明〈合して明らか〉」という。)JMS03-27L

[経] 汝等宜各精進。求心所願。無得疑惑中悔。自為過咎。生彼辺地七宝宮殿。五百歳中。受諸厄也。
[経] (汝等、宜しくおのおの精進して心の所願を求むべし。疑惑中悔して自ら過咎を為して、かの辺地七宝の宮殿に生じて五百歳の中にもろもろの厄を受くるを得ることなかれ。)

 経曰。汝等宜各至受諸厄也者。述云。此第三勧捨疑惑也。JMS03-27L
 (経に曰く「汝等宜各」より「受諸厄也」に至るまでは、述して云く、これは第三に勧めて疑惑を捨てしむるなり。)JMS03-27L

 帛謙本中。弁中下輩皆云。生彼仏国不能前至弥陀仏所。便見国界辺七宝城。喜止其城。即於七宝池蓮華化生。自然長大於是間五百歳。其城縦広各二千里。城中亦有七宝舍宅。宅中皆有七宝浴池。浴池中亦有蓮華故。JMS03-27L,28R
 (帛と謙との本の中には中下輩を弁じて皆、彼の仏国に生ずるに前みて弥陀仏の所に至ること能わず、便ち国界の辺の七宝の城を見て喜びてその城に止まり、即ち七宝の池の蓮華に於いて化生し、自然に長大してこの間に於いて五百歳なり。その城、縦広おのおの二千里、城の中にまた七宝の舍宅ありて、宅の中に皆、七宝の浴池あり、浴池の中にまた蓮華ありというが故に。)JMS03-27L,28R

 此中言七宝宮殿者蓋彼城内宝舍宅也。彼城受楽。此経曰。如[トウ01]利天。而受諸厄者不能見聞三宝故。若作此説彼土亦有憂根者。諸厄即憂受。而出世受故不名苦苦。諸説浄土身心柔軟無憂受者唯是厭倶。世出世捨非憂[シャク05]故。若憂非憂皆障見仏咎従疑惑。故誡勧言無得疑惑中悔為過。JMS03-28R
 (この中の「七宝宮殿」というは蓋し彼の城内の宝舍宅なり。彼の城の受楽をこの経に「如[トウ01]利天」という。而るに諸厄を受くとは三宝を見聞すること能わざるが故に。もしこの説を作さば彼の土にまた憂根の者あらん。諸厄は即ち憂受なり。而るに出世受なるが故に苦苦と名づけず。諸説に浄土は身心柔軟にして憂受なきとは、唯これ厭と倶なり。世・出世の捨は憂[シャク05]に非ざるが故に。もしは憂・非憂、皆、見仏を障うる咎は疑惑よりす。故に誡勧して「無得疑惑中悔為過〈疑惑中悔して自ら過咎を為して・・・厄を受くるを得ることなかれ〉」という。)JMS03-28R

[経] 弥勒白仏言。受仏重誨。専精修学。如教奉行。不敢有疑。
[経] (弥勒、仏に白して言さく、仏の重誨を受けつ。専精修学し、如教奉行して敢て疑いあらじ。)

 経曰。弥勒白言至不敢有疑者。述云。此第四弥勒領解也。奉行者領前勧修之言彰已奉行。不疑者領勧捨疑申自不疑。JMS03-28R,28L
 (経に曰く「弥勒白言」より「不敢有疑」に至るまでは、述して云く、これは第四に弥勒の領解なり。「奉行」とは前の勧修の言を領して已が奉行を彰す。「不疑」とは捨疑を勧むることを領して自ら疑わざることを申ぶ。)JMS03-28R,28L