浄土論註翼解 第1巻の1(10の内) 翼解編者の玄談・題名釈 |
無量寿経論註翼解 巻一之一 |
まさにこの論を解さんとするに略して二門あり。初めに懸〈はる〉かに義門を叙し、後に別して文義を釈す。初めの中に五を分かつ。一に教起の因を明かし、二に蔵教の摂を示し、三に所被の機を告げ、四に教の体性を挙げ、五に義の尚帰を述す。後の中にまた五あり。一に総じて題名を釈し、二に造論の人を挙げ、三に飜訳の時を考え、四に註者の伝を顕し、五に正しく文義を解す。懸叙と別釈と併せて十門あり。RY01-01R 初めに教起の因を明かすに、また総別あり。総と言うは、『瑜伽論』に依るに二縁あるが故に。一には如来無上の教法をして久しく世に住せしめんが為なるが故に。二には平等に諸の有情を利益安楽ならしめんと欲するが故に。今則ち天親論主、如来大悲の教を服膺して、修多羅に依りて願生の偈を作り、洞徹仏願の智、中規・中矩の弁を以て直ちに念仏往生の法門を示し、彼の利鈍の諸根を摂して念仏の心を以て仏智見に入らしめんと欲するが故に、この論を造るか。別と言うは、専ら今論に依るに、また十由あり。一には無量の門に於いて最勝の法を示すが故に、二には略して三経の奥[サク01]至要を示すが故に。三には仏の因果、依正の功徳を顕すが故に。四には諸の凡夫をして欣厭の心を生ぜしむるが故に。五には外道の諸の悪邪見を破さんが為の故に。六には二乗の沈空趣宗を回さんが為の故に。には初心の菩薩をして仏に親近させしめんが為の故に。八には行者をして五念の行を成さしめんが為の故に。九には入出の功徳を獲得せしめんが為の故に。十には後代に流至して衆生を利益するが故に。前の総別を併せて此の論の興起の因由となすなり。RY01-01R,01L 二に蔵教の摂を示すに、また二種あり、曰く蔵、曰く教なり。蔵に二の別あり、曰く三、曰く二なり。三蔵と言うは、修多羅蔵これ一なり。毘奈耶蔵これ二なり。阿毘曇蔵これ三なり。二蔵と言うは、謂く三蔵の中に於いて大乗理行果を詮示する、これを菩薩蔵と名づく、一なり。小乗の理行果を詮示する、これを声聞蔵と名づく、二なり。今この一論は、三が中の第三、二が中の第一、上の二種を兼ねて蔵摂というなり。次に教摂とは、菩薩蔵に於いてまた権実あり、漸頓あり。今の論はこれ即ち実頓の摂なり。論文の中に具に止観の二門・依正・信願・自利利他・広略相入・純一無雑至極の法を明かすを以てなり。これあに実教にあらずや。論文の終わりに、「速得成就阿耨〈多羅三藐三〉菩提」と云う。既に「速得」という。あに頓教にあらずや。RY01-01L,02R 三に所被の機を告ぐるに、略して二種あり。料簡と総収となり。料簡と言うは信願行の三資糧なき者は共に所被にあらず。此に反するは皆器なり。長の行の中に「云何生信願生彼国修五念行」等の文を挙げ、以て要とするに由るが故に。総収と言うはただ五念を修すれば決定して彼に生じ、則知高下・聖凡・信疑・讃毀〈?則ち高下・聖凡・信疑・讃毀を知る?〉。彼の仏あることを知れば便ち善根を成じ、多劫・多生、往生を果遂し、倶に解脱を蒙る。偈に「普諸衆生往生安楽国」と曰う是なり。RY01-02R 四には教の体性を挙ぐ。圭山蜜禅師の意に依りて略して四門を明かす。一には随相門。中に於いてまた二あり。一に謂く声名句文。二に謂く所詮の義、文と義とをして皆、相に属するを以ての故に。二に唯識門。この文、この義、皆、識の所変なるが故に。三に帰性門。前には所変の万境を以て能変の八識に摂帰し、今は所現の八識を以て能現の一心に摂帰す。則ち性を教の体となす。四に無碍門。心境・理事もとより交徹す。境及び事とは、これを随相と名づく。心とは唯識、理とは帰性なり。倶に交徹するが故に。RY01-02R 五に義の尚帰を述せば、それ語の尚〈とうとぶ、ねがう〉する所を宗という。宗の帰する所を趣という。而して通別あり。通とは則ち観察称名を以て宗となす。信行得果を以て趣となす。別して明かすに五対あり。一には教義対、教を以て宗となし、義を以て趣となす。二に事理対、二十九句の事を以て宗となし、一法句の理顕わすを趣となす。三には境行対、前の理境を以て宗となし、五念の行を以て趣となす。四に行寂対、五念の行を以て宗となし、入の四門に至らしむるを趣となす。五に寂用対、入の四門を以て宗となし、出の第五門を以て趣となす。この五対、前より後に趣き、漸漸にあい由る。RY01-02L 【註】無量寿経優婆提舎願生偈 并註 巻上SSZ01-279 釈するに五対あり。一に所詮・能詮対、「無量寿」はこれ所詮、「経」の一字はこれ能詮。経はよく無量寿の法を詮顕するが故に。二に所依・能依対、上の四字はこれ所依、「優婆」等の七字はこれ能依。謂く修多羅の真実功徳の相に依りて願生の偈を説くが故に。三には所釈・能釈対、上の十一字はこれ所釈、「并註」等はこれ能釈。謂く願生の偈を註解して解了し易からしむるが故に。四に所造・能造対、論題はこれ所造、「婆薮」等の七字はこれ能造、謂く菩薩よく一論を造るが故に。五に所註・能註対、上はみな所註、「曇鸞」等はこれ能註、謂く鸞師よくこの論を注するが故に。これ註の題に通じ、総じて五対を立つ。別して論の題を釈せば、ただ初の二にあり。然るに今の題を列ぬること、意楽一ならず、今、列ねて「無量寿経優婆提舎願生偈 并註 巻上 巻下 婆薮槃頭菩薩造 沙門曇鸞註解」というは、謂く上の十一字はこれ所註・所并たり。「并註」等の字はこれ能詮・能并たるなり。所註・所并は誰の聖か制作する故に、これを次ぐに「婆薮」等の七字を以てす。能註・能并は誰の師か述解する故にこれを次ぐに「沙門」等の六字を以てす。能所旨明らかにして詮意允当せり。もし広本に依らば、理、順ぜざるに似たり。然るに論に二種あり。一に曰く宗論、二に曰く釈論。今はこれ宗論なり。故に石芝の暁〈宗暁〉の云わく、「この論は通じて浄土の諸経を伸ぶ」。また義寂の云わく「この論はこれ集義の論にして、これ専ら一部の経文を釈するにあらず」と、これなり。偈頌と長行と倶に五念を勧む。五念の中に観察を専らにするに似たり。もし所宗の経旨に依らば、ただ称名に在り、故に註解に云わく、「仏の名号を以て経の体となす」と。能依の論あに称名を外にせん。然るに上機は観を以て己が任となす。下機は称を以て去行となす。観宗の人は観察を首となし、作願・回向、これが意のため、礼拝、これが身のため、讃嘆、これが口のため、これに依って入出の徳を得、念宗の人は称名を首となす。またまたかくの如し。故に知りぬ、経と論と、宗とする所、異なるに似る。義は殊塗に匪〈あら〉ず、余は茲に繋がれず。具さに題目を解すること、自ずから下の註に備う。「并」は兼共及なり。「註」はあるいは水に従いて作る、もし言に従らば則ち言義を以て論文を註釈する故に。もし水に従えば則ち一源の水、もし流注せざれば則ち以て物を潤すことなきが如し。解、流注せざれば何に由ってか生を益せん。故に今流注して以て群情を利するなり。「巻」は捲舒すべきが故に。註に両巻あり、この巻は初に居す、故に上というなり。RY01-02L,03L 【註】婆薮槃頭菩薩造SSZ01-279 【註】(婆薮槃頭菩薩の造)SSZ01-279 真諦所訳の本伝に云わく「婆薮槃頭法師は北天竺富婁沙富羅国の人なり。乃至、此の土に国師婆羅門あり、姓は[キョウ02]尸迦、三子あり、同じく婆薮槃頭と名づく。(此には天親という。)天竺に児の名を立つにこの体あり。同一の名なりといえどもまた別名を立てて以てこれを顕す。第三の子の婆薮槃頭は薩婆多部に於いて出家して阿羅漢の果を得て、別して比隣持跋婆と名づく。乃至、長子の婆薮槃頭はこれ菩薩根性の人なれどもまた薩婆多部に於いて出家、乃至、阿僧迦と名づく。(訳して無着となす。)第二の婆薮槃頭もまた薩婆多部に於いて出家、乃至、兄弟既に別名あるが故に法師のみはただ婆薮槃頭と称す。乃至、おおよそこの法師の造りたまう所の文義精妙にして見聞することある者は信求せずということなし。故に天竺及び余の辺土の大小乗を学する人、悉く法師の造りたまう所の論を以て学の本とす。異部及び外道の論師、法師の名を聞くもの、畏伏せずということなし。阿踰闍国に於いて命を捨つ。八十に終う。迹は凡地に居すといえども、理は実に思議し難しといえり。然るに旧には天親といい、新には世親と飜す。初の名をいわば、菩薩は乃しこれ毘紐天を親とす、故に焉〈ここ〉に名づく。後の名をいわば、印度に天あり、俗に世親と号す。世人親近し供養するが故に焉〈ここ〉に目〈なづ〉く。菩薩の父母、所乞の処によって名となす。慧愷の『倶舎論』の序に云わく「仏滅已後千一百年に天親出生して論を造る」と、これは小乗の説なり。もし大乗に依らば、滅後九百年の間に世に出でて法を弘めたまう。余は諸伝の如し。RY01-03L,04R 【註】元魏天竺三蔵菩提流支訳SSZ01-279 【註】(元魏天竺の三蔵菩提流支の訳)SSZ01-279 『歴代三宝紀』の三に云わく「梁の中大通三年、歳辛亥に次ぐ、菩提流支訳出す」と、これ即ち我が継体帝の治二十五年に当たるなり。また『開元釈教録』に云わく「流支三蔵、永安二年に(元魏の孝荘帝の年号巳酉の年に当たれり・)洛陽の永寧寺に於いて訳出す。僧弁の筆受」と。これ即ち継体の二十三年に当たるなり。孰〈いず〉れか是なるを知らず、有智、焉〈これ〉を択べよ。元魏は代の名、菩提流支を華に道希と言う。北天竺の人。遍く三蔵に通じ妙に総持に入る。志、弘法に在り。広く視聴に流〈つた〉わる。遂に道を挟んで宵〈よる〉征〈ゆ〉く。遠く葱左〈そうさ〉に莅〈のぞ〉む。魏の永平の初めを以て東夏に来遊す。宣武皇帝、勅を下して引労し、供擬殷華なり。これを永寧大寺に処せしめ、四事をもって将に七百の梵僧に給せんとす。流支を以て訳経の元匠となすなり。具に『続高僧伝』第一に出でたり。「訳」は易なり。梵音を易えて華言となすが故に訳という。また『周礼』に象胥氏の北官を、これを訳という。漢の時、西の官なく、訳官兼ねて西方の語を善くす。後翻初めに従いてみな訳というなり。RY01-04R,04L おおよそ翻訳の会場に参預する者は希なり。八備十条、一つ欠けても不可なり。総て九僧あり。第一に訳主、第二に証義、第三に証文、第四に書字、第五に筆受、第六に綴文、第七に参訳、第八に刊定、第九に潤文なり。具には『仏祖統紀』四十四に出ず。RY01-04L,05R 【註】沙門曇鸞註解SSZ01-279 沙門とは釈氏の通称、此に勤息と翻ず。謂く戒定慧を勤めて諸の悪邪を息するが故に。或いは乏道と翻。故に『涅槃』に云わく「沙門を乏と名づけ、那を道と名づく。一切の乏を断じ、一切の道(邪道)を断ず。この義を以ての故に八正道を名づけて沙門那となす。この道の中より果を穫得するが故に沙門果と名づく」。この故に沙門の名は因果に通ず。また経に云わく「世の下人、能く上人と作る。これを沙門と名づく」と。今、沙門を召〈よ〉んで上人とするは、むしろ乃し憑〈よりどころ〉あるをや。また、応に釈と言うべし。方〈まさ〉に善を尽くすとなす。何となれば、これ沙門にして釈にあらざる者あり。西方の外道の如く、これ釈にして沙門にあらざる者あり。西方の釈種の如し、釈にあらず、沙門にあらず。此の土の俗の如し。これ釈、これ沙門なるは三朝の僧の如し。この故に須く沙門釈というべきなり。然るに漢土の外道は沙門の号を絶し、俗士には釈迦の種なし。単に沙門と言い、或いは単に釈と言うも、また已に濫を簡ぶが故に、今の注主はただ沙門と称するのみ。今、持名の法を勤めて雑助の念を息むるが故に勤息と曰う。また『観経』の法を勤めて仙経の訓を息むるが故に沙門と曰う。初めの義は汎く通ず。後の二解は別して今師に預かるのみ。RY01-05R,05L- 『続高僧伝』の六に云わく「釈の曇鸞、或いは巒となす。未だその氏を詳らかにせず。鳳門の人なり。家、五台山に近し。神迹霊怪、民の聴きを逸〈ほしいまま〉にす。時に未だ志学せざるに、便ち往きて焉〈ここ〉に尋ぬ。備に遺蹤を覿〈み〉て心神歓悦し、すなわち出家す。内外の経籍具に文理を陶〈みが〉く。而して四論の仏性に於いて、いよいよ窮研する所なり。『大集経』を読むにその詞義深密にして以て開悟し難きを恨みて、因って注解す。文言半ばを過ぎて即ち気疾を感ず。権〈か〉りに筆功を停〈とど〉めて周行して医療す。行きて汾洲の秦陵の故墟に至りて城の東門に入りて、上、青霄に望めば忽ちに天門洞〈あきら〉かに開きて六欲の階位、上下に重複するを見る。歴然として斉〈ひと〉しく覩る。これに由って疾癒ゆ。前の作を継がんと欲して、顧みて言いて曰く、命これ危脆にしてその常を定めず。本草の諸経に具に正治を明かす。長年の神仙往々に間〈まま〉出ず。心願の指す所、この法を修習し、果剋既に已わりて方に仏教を崇めんはまた善からず。RY01-05L- 江南の陶隠居という者を承〈うけき〉くに、方術の帰すところ、広博弘贍なり。海内宗重す。遂に往きてこれに従わんに既に梁朝に達する時、大通の中なり。乃し名を通じて北国虜僧曇鸞、故〈ことさら〉に来たりて奉謁すと。時に所司、細作をなさんかと疑う。推勘すれども異詞あることなし。事を以て奏聞す。帝の曰く、これ国を覘〈うかがいみ〉る者にあらざれば、重雲殿に引入すべし。仍て千の迷道に従えよ。帝まず殿の隅に於いて却きて縄牀に坐す。衣るに袈裟を以てし、覆うに納帽を以てす。鸞、殿前に至りて顧望するに承対する者なし。高座を施張し上に几払を安〈お〉くことを見る。正に殿中に在りて傍に余の座なし。径ちに往きてこれに昇りて仏性の義を竪〈た〉つ。三たび帝に命じて曰わく。大檀越、仏性の義深し、略して已に標叙す。疑あらば問を賜え。帝、納帽を却〈さ〉げ、便ち数関を以て往復す。因みて曰わく。今日は晩〈くれ〉に向かんとす。明〈あけ〉は須く相見すべし。鸞、座より下る、前に仍て直ちに詰曲重沓二十余の門を出ずるに、一つも錯誤なし。帝極めて嘆訝して曰わく、この千の迷道、従来旧時往還するに疑阻す。如何ぞ一度にして遂に乃し迷なからん。明旦、太極殿に引入す。帝、階より降りて礼接し、来たる所由を問う。鸞の曰わく、仏法を学ばんと欲するに恨むらくは年命促減することを。故に来りて遠く陶隠居に造〈いた〉って諸の仙術を求む。帝曰わく、これ世を傲〈あなど〉り遁隠する者なり。このころ、しばしば徴〈め〉せども就かず、往きれこれに造るに任す。RY01-05L,06R- 鸞、尋ね書を致して問を通ず。陶乃し答えて曰わく、去月、耳に音声を聞く、茲辰〈このとき〉眼に文字を受く。将に頂礼歳積つむに由って、故に真応来儀せしむること、正に爾り、藤蒲を整払して具に華水を陳〈つら〉ね、襟を端し思を斂して警錫を聆〈き〉かんことを竚〈ま〉つとなり。仙の所に届〈いた〉るに及んで接対欣然たり。便ち仙経十巻を以て、用いて遠意に酬う。RY01-06R- 還りて浙江に至るに、鮑郎子が神という者あり。一鼓すれば浪を涌すこと七日にして便ち止む。正に波の初に値いて度することを得ん由なし。鸞、便ち廟所に往きて情を以て祈告すらく、必ず請うところの如くならば、当に為に廟を起つ。須臾に神即ち形を見〈あらわ〉す。状〈かたち〉二十ばかりの如し。来たりて鸞に告げて曰わく、もし度らんと欲せば明旦、当に得べし。願わくは言を食わじ。及びて明晨に至り濤〈なみ〉猶し鼓怒すごとし。纔〈わずか〉に船裏に入るに帖然として安静なり。期に依りて帝に達〈いた〉り具に由縁を述す。勅ありて江神のために更に霊廟を起つ。RY01-06R,06L- 因って即ち辞して魏の境に還える。名山に往きて方に依って修治せんと欲して、行きて洛下に至るに、中国の三藏菩提留支に逢い、鸞往きて啓して曰わく、仏法の中に頗る長生不死の法、この土の仙経に勝たる者ありや。留支、地に唾て曰わく、これ何の言ぞや。相い比ぶるにあらざるなり。この方、何れの処に長生不死の法あらん。たとい長年にして少時〈しばらく〉死せざるとこを得るも、終に更に三有に輪回するのみ。即ち『観経』を以てこれに授けて曰わく、これ大仙方なり、これに依りて修行して、まさに生死を解脱することを得べきなり。鸞、尋ち頂受す。齎〈もたら〉す所の仙方、並びに火をもってこれを焼く。RY01-06L- 自行化他、郡に(郡、一本になし)流靡弘広す。魏主これを重んじ号して神鸞となす。勅を下して并州の大(厳)寺に住せしむ。晩〈くれ〉にまた移りて汾州の北山石壁の玄中寺に住す。時に介山の陰〈きた〉に往きて、徒を聚め業を蒸〈さかり〉にす。今、鸞公巌と号する、これなり。魏の興和四年を以て、疾に因て平遙山寺に卒す。春秋六十有七なり。終に至る日に臨みて、幡花幢蓋高く院宇に映じ、香気蓬勃として音声繁閙たり。預り寺に登る者は並に同じくこれを矚〈み〉る。事を以て上聞す。勅して乃し汾西泰陵文谷に葬る。磚塔を営建し并びに為に碑を立つ。今並びに存す。然るに鸞の神宇、高遠機変無方なり。言晤思わず動ずれば事と会す。心を調え気を練り、病に対して縁を識る。名、魏都に満つ。用て方軌とし、因みて『調気論』を出だす。また著作王邵、文に随いてこれを注す。また礼浄土の十二偈を撰し、龍樹の偈の後に続く。また『安楽集』両巻を撰す(『続高僧伝』の二十四の道綽の伝を案ずるに、浄土論二巻を著すと言えり云々。恐らくは道宣師、訛りて作者を倒置す。『安楽集』はこれ綽公これを著す。鸞師の述にあらず。今則ち論註を指して言う)等、広く世に流〈つた〉う。仍て自号を有魏玄簡大士となす」。〈以上 続高僧伝の引文〉RY01-06L,07R また迦才の『浄土論』、道綽の『安楽集』、戒珠の『往生伝』等、具に載せること能わず。これ我が宗第三の祖なり。出世は如来の滅後一千四百二十五年に当丁〈あた〉れり。RY01-07R |