浄土論註翼解 第1巻の(10の内)
論註の文に入る
浄土論の玄旨
 (十住毘婆娑論-難行道・易行道)


無量寿経論註翼解 巻一之二  
【註】謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云。SSZ01-279
【註】(謹んで案ずるに、龍樹菩薩の十住毘婆沙に云わく。)SSZ01-279

 「謹」は欽なり、敬なり。「案」は於肝の切、或いは按に作る、考なり。律の『音義』に云わく「案察してこれを行うなり」。或が曰く「尋なり」。「龍樹」とはこれ菩薩の別名なり。如来滅後七百年の間に世に出でて弘化す。南天竺の人。『楞伽』の記を受けて仏願を広闡するが故に、茲に依憑す。或いは龍猛と曰い、または龍軍と曰う。本伝の如し。「菩薩」は通称なり。下の註解の如し。「十住」等とは所造の論題なり。巻に十七あり。飛錫の『宝王論』に云わく「『十住毘婆娑論』は龍樹菩薩の造、『華厳経』を釈する論なり。即ち十地の中の初めの二地を釈すなり」と。地を釈するに住と書くことは、清涼の云わく「住は即ち地なり」。「毘婆沙」、ここには広説と云い、または種々説という。RY01-07R,07L-
 然るに註解の始めに先ずこの論を引きて、龍樹尊に憑ることは、略して六意あり。一には人に因って法を重んずるが故に。この菩薩は既に『楞伽』受讖の徳あり、諸師の尚ぶ所、聞く者信伏す。故に以てこれに依る。二には血脈の義を示すが故に。『仏祖統紀』に云わく「ひとりの梵僧、鸞の室に入て曰く、吾は龍樹なり。居する所は浄土、汝、浄土の心あるを以ての故に来たりて汝に見ゆ。鸞の曰く、何を以てか我に教えたまわんや。樹の曰く、已に去るは及ばず、未だ来たらざるは追うべからず。現に在るは今何にか在るや。白駒は与〈とも〉に回するは難し」等。既に念仏の一法に於いて直ちに聖訓を被る。解する所の義、臆説にあらざることを示すが故に。三には二道の教相は天親もまた立つることを知らしむるが故に。四には三経に二道の微旨あることを彰わすが故に。謂く世親、三部を本として一論を製し、密かに仏願易行の微旨を彰わす故に。五には解主依憑の師なるが故に。未だ念仏に入らざる前、四論を憲章し龍樹を祖述す。念仏の門に入るもまた龍樹を師とす。『讃弥陀の偈』に別して龍樹の讃を造りて崇重鄭寧なり。終わりを慎むこと、始めの如し。故に茲にこれに憑る。六には所勧の法門はこれ大にして小にあらざることを示すが故に。龍樹は本〈もと〉これ大乗の菩薩、弘むるところの念仏はこれ極大乗なるが故に。RY01-07L,08R

【註】菩薩求阿毘跋致有二種道。一者難行道 二者易行道。SSZ01-279
【註】(菩薩、阿毘跋致を求めたまうに二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり。)SSZ01-279

 「求」は索なり。「阿毘跋致」、此には不退転と云う。『弥勒問経論』に云わく「自分堅固なるを不退と名づく。勝進して壊れざるを不転と名づく」と。『起信の疏』に云わく「不退に三あり。一には信行未だ備えず、未だ不退を得ず、退縁なきを以て不退と名づく。二に信位満じて十住に入り少分法身を得るを不退と名づく。三に賢位満じて初地以去に入り遍満法身を証するを不退と名づく」と。また『妙宗抄』に云わく「不退に三あり。見思を破るを位不退と名づく。則ち永く超凡の位を失わず、塵沙を伏断するを行不退と名づく。則ち永く菩薩の行を失わず、もし無明を破るを念不退と名づく。則ち中道の正念を失わず」。 また 慈照宗主の云わく「未だ煩悩を断ぜずして同居土に生ずるを願不退と為す。見思を破りて方便土に生ずるを行不退と為す。塵沙を破りて分に無明を破し実報土に生ずるを智不退と為す。三惑を破し寂光土に生ずるを位不退と為す」。今は彼の論に依るにこれ初地已上の不退なり。彼の論の「阿惟越致相品」に云わく「この諸の菩薩に二種あり。一には惟越致、二には阿惟越致。(乃至)惟越致の中に二種の菩薩あり。一は敗壊の者、二は漸漸転進して阿惟越致を得る菩薩なり」。また「易行品」に云わく「阿惟越致の菩薩に二種あり。易行の者、難行の者となり」。〈意〉。論〈易行品〉に云わく「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくの如し。或いは勤行精進なるものあり、或いは信の方便を以て易行にして疾く阿惟越致に至る」。問う。既に菩薩と曰う、易行の道、何ぞ悪機に被らんや。答う。獲信念仏するは悉く菩薩の人なり。『浄名経』に「発菩提心みなこれ出家」と謂う、これこの類なり。「行の巻」に云わく「真実の行信を獲る者は心に歓喜多きが故に、これを歓喜地と名づく」といえり。然るに念仏する人即ちこれ菩薩なり。易行の道、あに極悪を隔てん。また『愚禿鈔』に云わく「この人は凡夫の摂にあらず」等と。故に知りぬ、菩薩の名、局分すべからざるなり。RY01-08R,09R

【註】難行道者。謂於五濁之世於無仏時求阿毘跋致為難。SSZ01-279
【註】(難行道とは、謂く、五濁の世、無仏の時に於いて阿毘跋致を求むるを難と為す。)SSZ01-279

 初めの四字は標す。「謂於」の下は釈す。「五濁世」とは在と滅とを分けず、通じて二万歳の後を指して言う。「無仏時」とは別して滅後を指す。広狭異あるが故に「於」の字を置く。然るに『十疑論』に「無量仏時」と曰う。これ歴劫値仏の多きなり。今と孰〈いず〉れか是なることを知らず。また「世」は即ち世界、『法華』にいわゆる由国濁故分一説三〈国濁るるに由るが故に、一を分かちて三と説く〉」と、これなり。RY01-09R

【註】此難乃有多途、粗言五三以示義意。SSZ01-279
【註】(この難に乃し多途あり。ほぼ五三を言いて、以て義の意を示さん。)SSZ01-279

 「途」は路なり。言うこころは義路ありとなり。「粗」は略なり。「五三」は多からずの辞は『大悲経』に「五三の法を説く」と云う。『安楽』の「同志三五」、『群疑』の「略申三五」、みなその類なり。RY01-09R

【註】一者外道相(修醤反)善乱菩薩法。SSZ01-279
【註】 (一には外道の相善、菩薩の法を乱る。)SSZ01-279
【註 割注】 相(修醤の反)
 心が理の外に行じて、ただ邪因を修する、これを外道と名づく。断常の邪解は寂滅を知らざるが故に「相善」と曰う。六師九十六種及び此の方の儒老等なり。広教の『澄[イク02]』(音郁)に云わく「我が仏法の正法は小乗には即ち無常・無我・寂静の法印あり。大乗には則ち一実相の印あり。これに依って行ずれば必ず聖果に登る。外道は則ち然らず。迷惑邪見にして所説の法、その相、善に似て而も実に善にあらず。邪を以て正を乱す。人、瓢分すること能わず、深く障道を成す」。相は修醤の反〈かえし〉、音は襄(『小補韻会』は思将の反と作る。)、質なり、共なり。謂く質は即ち有相の意、共は即ち相似の意なり。善の字の表す所は有相の義ならば則ちこれ外道の善なり。相は即ち善なれば持業釈なり。相似の義ならば則ちこれ菩薩の善なり。外道と善と各別なれば相違釈なり。彼の六行観を修する如きは外道と菩薩と期する所、一ならずして、しかも行相やや同じ。故に「乱法」と云うなり。RY01-09L

【註】二者声聞自利障大慈悲。SSZ01-279
【註】(二には声聞は自利にして、大慈悲を障う。)SSZ01-279

 仏の教音を聞きて聖道に入る、これを声聞と曰う。辟支を兼ねて言うなり。羊鹿は独り進みて他のためににするを知らざるが故に自利という。苦を抜き楽を与える、これを慈悲と曰う。二乗は七周に慈悲を行ずといえども、衆生はその楽を得ず。諸仏・菩薩は慈を興し悲を運びたまうに衆生実に苦を抜き楽を与うことを得。故に大慈悲と名づくるなり。『大集』の十九経に云わく「二種の人ありて、畢竟、如来の恩を報ずること能わず。一には声聞、二には縁覚なり。善男子、譬えば人ありて深坑に堕墜すれば、この人、自利利他すること能わざるが如し。声聞・縁覚もまたまたかくの如し。解脱の坑に堕して自利および利他すること能わず」。また『十住論』に云わく「もし声聞地、及び辟支仏地に堕するは、これを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す」と。問う。菩薩の慈悲に大と曰うは何ぞや。曰く二義あり。因中に果を説くが故に、一なり。(『大論』に云わく「仏の慈悲を大と曰う。声聞を小と曰う。菩薩を中と曰う」。)彼に望むればこれ大なるが故に、二なり。(仏に望むれば中なりといえども、二乗に望むれば大なり。)RY01-09L,10R

【註】三者無顧悪人破他勝徳。SSZ01-279
【註】(三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。)SSZ01-279

 濁世の悪人、修道を見ては人の美を成すこと能わず。反りて破毀の言を加う。『唯識論』に云わく「慚なきは自法を顧みず。愧なきは世間を顧みず」。自他を顧みず、放逸邪侈なるが故に「悪人」と曰う。「他」とは菩薩を指す。「勝徳」とは上の無相善・大慈悲の二を指す。これと寂照の二、悲智の双、自他二利の徳、定慧二行の義、この二に外ならざるが故に「勝徳」と曰うなり。RY01-10R,10L

【註】四者顛倒善果能壊梵行。SSZ01-279
【註】(四には顛倒の善果、よく梵行を壊る。)SSZ01-279

 人天の果は無漏の善にあらず。暫く楽しみて還りて苦なり。故に「顛倒」と云う。顛は頂なり。言うこころは首頂正しからずして草木と類をなすなり。「梵」は離欲清浄の義なり。「行」は進趣往向の義なり。彼の妙荘厳の事の白鑑としつべし。RY01-10L

【註】五者唯是自力無他力持。SSZ01-279
【註】(五にはただこれ自力にして他力の持つなし。)SSZ01-279

 前の四種の難は凡を非し、小を斥す。これは大乗の行なり。ただ自にして他なし。大にも外縁を欠く故にまた難なり。前は別。これは通なり。「持」とは仏力の住持なり。衆生の受持なり。住ありて受なきは則ち利益、徒に施す。受ありて住なきは則ち行じ難きの損あり。住と受と兼ねて持てば証果、掌にあり。あるが問う。聖道なお他力に依る。浄土にあに自力なからんや。何ぞ局〈かぎ〉ることをするや。答う。難行道の人は自らの智力を以て断証を得る時、仏の加力を請う。自力強きが故に偏に自力と名づく。易行道の人は自ら力なしと知りて偏に仏力を恃みて、三業を行ずといえども全く仏力の故に偏に他力と名づく。自他の二力は下文に曲〈くわ〉しく示す。

【註】如斯等事触目皆是。SSZ01-279
【註】(かくの如き等の事、目に触れて皆是なり。)SSZ01-279

 上の如きらの難、世途目撃す。焔然として覧つべし。「等」の字は「多途」の字とあい照らして見よ。RY01-11R

【註】譬如陸路歩行則苦。SSZ01-279
【註】(譬えば陸路の歩行は則ち苦しきがごとし。)SSZ01-279

 『十疑論』に云わく「譬えば跛人の歩行するに一日に数里を過ぎず、極大辛苦するが如きを自力と謂うなり」。「陸」は盧六の切、高平なるを陸と言う。「行」は歩なり、往なり。彳に从い、[チョウ05]に从う。左歩を彳となし、右歩を[チョウ05]となす。合するときは則ち行となす。「陸路」は法門に喩う。所到を仏果に喩う。「歩行」を機の修に喩う。「苦」を難行に喩うるなり。RY01-11R

【註】易行道者、謂但以信仏因縁願生浄土、乗仏願力便得往生彼清浄土、仏力住持即入大乗正定之聚。正定即是阿毘跋致。SSZ01-279
【註】(易行道とは、謂く、ただ信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて、すなわち彼の清浄土に住生することを得。仏力住持して、即ち大乗正定の聚に入る。正定は即ちこれ阿毘跋致なり。)SSZ01-279

 初めの四字は標す。「謂但」の下は釈す。「但」は独なり。余を兼ねざるが故に。親しくよく発起する、これを「因」という。疎よく助発する、これを「縁」という。種子と雨露との如し。信を因とし、仏を縁とす。また信を縁とし、仏を因とす。或いは口称一行、これを因とし、〈五正行の〉前三後一、これを縁という。「願」は欲楽の義。信あり、願あれば、則ち行は自ずから在り。三の資糧〈願・信・行〉備われば必ず定めて往生す。信と行と共に仏の本願力に依る。これを他力という。「清浄土」とは、極楽はこれ二十九句荘厳の刹なるが故に。経に云わく「当得見彼清浄国土〈まさに彼の清浄の国土を見ることを得べし〉」と。「即入正定」とは、都て三聚ありて邪と正と不定と、必定して果を成ずる、これを「正定」と謂い、小乗もまた説く故に揀びて「大乗」というなり。「即」は不二の義。念と時と月とを隔てざるが故に、凡夫即ち仏なるが故に。「入」は悟入なり。また浄影の『大経の疏』に云わく「入とは謂く正会なり」と。また『華厳の玄記』の十に入不二門を釈して云わく「悟達を入という」と。また『円覚要解』に云わく「智と理と冥なるを名づけて入となす」。下の八字は華梵の義を釈す。もし現益に約すれば念念称名信行、邪ならざる、これを正といい、決定剋果、これを定という。もし当益に約せば処不退を指して正定聚という。これ即ち仏の願力に乗ずれば十八願の益なり。入正定聚は十一願の益。「願力」はこれ体、「往生」はこれ用。「住持」はこれ体、「入定」はこれ用。一事として仏願力に依るにあらざることなし。RY01-11L,12R-
「行の巻の抄」〈六要抄〉二本に云わく「問う。上に述するが如きには、難易二道は行ずるところ異なりといえども、期するところ益は共にこれ不退なり。その不退とは同じく此の土に於いて得るところの益なり。而るに今の文の如き、不退というは往生の後たり。所得の益、その文炳然たり、云何。答う。本より三義あり。(本有三義、要抄に出ず。)諸師の意、おのおの一義を存す。況んやまた生後の義を存すといえども、現生不退の益を遮するにあらず。位、未だ不退の地に至らずといえども、光蝕を蒙る者は心不退の義、摂取不捨、横超四流、あに以て空しからんや。これらの明文、虚説にあらざれば、不退の義、何ぞ成ぜざらんや。三不退にあらず、処不退にあらず、ただこれ信心不退の義なり」と。この批判に依りて「即入」の字を解するに、もし現益に約すれば即ち二義あり。一には謂く、仏の願力を聞き、能く信行する者は即ち定聚に入るが故に「即入」という。二に謂く、憶念の信心、即ち不退の心なるが故に「即入」という。二倶に仏力の故に標して「仏力住持」というなり。もし当益に約せば、往生の時、前なく後く、速なく遅なく、仏と儔〈ともがら〉を同じくす。故に「即入」というなり。-RY01-12R,12L

【註】譬如水路乗船則楽。SSZ01-279
【註】(譬えば水路の乗船はすなわち楽しきが如し。)SSZ01-279

 「岸」を仏果に喩う。「路」を法門に喩う。「船」を仏願に喩う。「楽」は易行に比す。『普度宝鑑』に云わく「余門の学道は蟻子の高山に登るが如し。念仏の一門は風帆を順水に行〈や〉るに似たり」。雲棲〈1535-1615〉の云わく「余門の学道を竪出三界と名づく。念仏往生を横出三界と名づく。虫の竹にあるが竪なるときは則ち節を歴て通じ難し。横なれば則ち一時に透脱す」と。今と一般〈同じ類〉なり。嗟〈ああ〉、険と直と、陸と船と、難易・天淵・遅速、大いに異なり、何ぞ有限の質〈すがた〉を以て無間の行を効〈つとむ〉るや。生死・事大・無常・迅速、出要を求むる者は冀〈ねが〉わくは易行を修めよ。問う。易行を修する人、何ぞ五難なからん。答う。ただ信仏因縁を以て浄土に生ぜんと願ずれば則ち外邪の乱すべきことなし。願に乗じて往生するは則ち大悲を行ずる者〈ひと〉なり。(『大悲経』に云わく「云何が名づけて大悲となす。もし専ら念仏相続して断たざれば、その命終に随って定んで安楽に生ず。もしよく展転相続して念仏を行ずれば、これらを悉く行大悲人と名づく。)故に二乗孤調の難なし。仏力住持すれば則ち悪人遠く離れ、天魔何ぞ阻まん。正定聚に入るときは則ち永く菩提を退かず。何ぞ倒果して行を壊す難あらんや。仏の願力に乗じて己が安排なし。則ち自力の過なし。故に知りぬ、易行には五難なきなり。RY01-12L,13R