浄土論註翼解 第1巻の(10の内)
分科(総説分・解義分の二分)
題名釈(無量寿・経・優婆提舎・願生・偈・婆薮槃頭・菩薩・造)


無量寿経論註翼解 巻一之四  

【註】此論始終凡有二重。一是総説分、二是解義分。SSZ01-280
【註】(この論の始終に凡〈すべ〉て二重あり。一にはこれ総説分、二にはこれ解義分なり。SSZ01-280

 二分の名を立つるは、偈の後に結して「我以偈誦総説竟〈我、偈誦を以て総説し竟りぬ〉」といい、論の終わりに結して「略解義竟〈略して義を解し竟りぬ〉」というが故にこの名を立つ。偈はこれ総じて己心を説き、略して荘厳を明かすが故に。論はこれ別して偈の義を解して解了し易からしむるが故に。RY01-20L

【註】総説分者、前五言偈尽是、解義分者、論曰已下長行尽是。SSZ01-280
【註】(総説分とは前の五言の偈の尽くるこれなり。解義分とは「論曰」已下の長行尽くるこれなり。)SSZ01-280

【註】所以為二重者有二義。偈以誦経為総摂故、論以釈偈為解義故。SSZ01-280
【註】(二重とする所以は二義あり。偈は以て経を誦す。総じて摂するが為の故に、論は以て偈を釈す。義を解するが為の故に。)SSZ01-280

 経文繁多にして持〈たも〉つ者、困労す。広文を括襄して以て偈頌を作る。文約、義奥にして総じて多義を摂するが故に初重を説く。頌言は至奥にして、小智暁かしがたし。故に偈の義を解して、人をして覚了せしむ。故に後重を説く。然るに立頌に八の意あり。『華厳の疏』に云わく「一には少字に多義を摂するが故に。二には讃歎するに多く偈頌を以てするが故に。三には鈍根のために重ねて説くが故に。四には後来の徒のためなるが故に。五には喜楽に従わんがための故に。六には受持し易くせんがための故に。七には前の説を増明するが故に。八には長行に未だ説かざるが故に」。これ諸経の重頌に約して多義を立つ。今は孤起の偈なるが故に、八の中の三と四と七と八とは今の的意にあらず。RY01-21R,21L

【註】無量寿者、言無量寿如来寿命長遠不可思量也。SSZ01-280
【註】(無量寿とは、無量寿如来の寿命長遠にして思量すべからざることをいうなり。SSZ01-280

 これ所詮の法なり。依正荘厳観察称名、無量の法門共に弥陀に在り。仏といえば即ち周し。これを以て仏を挙げて題となすなり。元照律師、ここに五義を列して『弥陀の疏』に出す。須いる者往きて検ぜよ。RY01-21L-
初めの四字は標す。「言無」の下は釈す。「寿命」とは不相応行の摂なり。業に依りて引く所の第八の種の上に色心を連持して断たざる功能、仮に命根を立つ。これ通じて命根を釈す。仏は必ずしもしからず。仏本〈もと〉身なし、寿なし、また量なし。世間に随順して三身を論ず。また世間に随順して三の寿量を論ず。RY01-21L-
 『光明の文句〈金光明経文句〉』に云わく「寿は命なり。謂く報得の命根連持して断たず、これを名づけて寿となす。延促期数、これを名づけて量となす。故に寿量という。これは応仏の因縁の寿量を釈するなり。また寿は受なり。境智和合して共に相い盛受す。謂く無分別の智、無分別の境を盛受す。無分別の境、無分別の智を盛受す。函大なれば蓋大なるが如し。故に寿はこれ受の義なり。量とは相応なり。境智相応す。故に量という。これは報仏の寿量を釈するなり。また寿は久なり。常にして変易せず、これを称して久となす。量は銓量なり。常久の寿、多数にあらず、少数にあらず、相応尽知にあらず、相応不尽知にあらず、可説にあらず、不可説にあらず。以てこれを名づくることなし。強いて銓量を以てその長久を説く。これは法身の寿量を釈するなり」。-RY01-21L,22R-
 また『法華の註』〈妙法蓮華経文句〉に云わく「寿は受の義。真如は諸法を隔てざるが故に受と名づく。(法身の寿を釈す。)また境智相応の故に受と名づく。(報身の寿を釈す。)また一期の報得、百年断えざるが故に受と名づく。(応身の寿を釈す。)」-RY01-22R-
 この三身の中には、今の弥陀仏はこれ報身なるが故に配合して解すべし。旧今易らざるを長という。尽際にも[キョウ12]〈つ〉きざるを遠という。あに言議思籌を以て得て知るべけんや。『経』に云わく「無量寿仏、寿命長久にして称計すべからず」。(乃至)声聞菩薩「その智力を竭〈つく〉して、百千万劫〈において〉、悉く共に推算して、その寿命長遠の数を計らん。窮尽してその限極を知ることあたわず」。故に「不可思量」というなり。-RY01-22R-
 また嘉祥吉蔵師の云わく「無量寿は三仏に通ず。法仏は彼此の辺量の度すべきにあらざるが故に強いて無量と名づく。修して成仏する者は、寿量、虚空に同じき故に無量寿という。応仏の無量寿は、もし通じて論ぜば、衆生無量なり。垂迹何ぞ尽きん」。-RY01-22R,22L-
 『大経〈大般涅槃経〉』十三に云うが如し「いかんが大慈悲を捨て、永く涅槃に入らん」と。別して弥陀を論ぜば、広大の願をもって土を造り、寿命長遠、二乗凡夫の測量すること能わざるが故に無量という。RY01-22R,22L

【註】経者常也、言安楽国土仏及菩薩清浄荘厳功徳、国土清浄荘厳功徳、能与衆生作大饒益、可常行于世、故名曰経。SSZ01-280
【註】(経は常なり。言うこころは安楽国土の仏及び菩薩の清浄荘厳の功徳と国土の清浄荘厳の功徳とは、能く衆生のために大饒益を作して、常に世に行わるべし。故に名づけて経という。(SSZ01-280

 初めの四字は略して釈す。「言安」の下は備さに「常」の義を釈す。梵語の修多羅は『大般若』には契経と翻ず。深理に契当し衆機に契合するが故に。『仁王経』には法本と翻ず。如来の言教は諸法の本なるが故に。然るに諸家の解釈に準ずるに、共に多義あり。謂く涌泉出生縄墨結鬘の類なり。もし『仏地論』の中にはただ二義を説く。謂く貫なり、摂なり。所応の説の義を貫穿し、所化の衆生を摂持するなり。且つ如来入滅の後の五百歳の法滅の後、遺風もし存すれば正法を聞くことを得。これみな経の貫穿の義なり。衆生流浪して所従を知ることなく仏の教門を得て、咸く正趣に帰〈ゆ〉くは、これみな経の摂持の義なり。この二義を具するが故に名づけて経となすなり。今、「常也」というは諸師の多解、[キョウ12]〈むな〉しく常の義に収む。貫といえども、摂といえども、常にあらずんば何ぞ益あらん。而も二意あるは、総じては則ち仏の所説の教は千代不刊の典にして、〈刊=きざむ、けずる〉古往、今来、毫釐も改易することなし。〈釐、原文には*(釐-未+牙-里+黑)とあり。〉故に常というなり。別して則ち念仏の一教は遠く法滅の後を沾〈うるお〉し、近く下愚の機を誘い、尽く乾坤に運びて止息あることなし。常の中の常と謂うべし。RY01-22L,23R-
 「安楽」はこれ所居の処、仏菩薩はこれ能居の人、因果各別なるが故に「及」の字を置く。「及」に二義あり。一には簡前の義、二には合集の義。今は初の義を用う。仏の荘厳は即ち下の八種の功徳なり。菩薩の荘厳は即ち下の四種の功徳なり。「清浄」は荘厳を嘆じていうなり。功徳荘厳の用なり。また功徳は能厳、仏菩薩は所厳、「清浄」は厳の相を示す。また「清浄荘厳」即ちこれ功徳なり。国土の荘厳は即ち下の十七種の功徳なり。三厳咸くこれ衆生を利するための故に「能与衆生」という。三厳を観察し入出の徳を得るが故に「作大饒益」という。浄影の慧遠師の云わく「摂法身・摂浄土、摂衆生にあらざることなし」。善導大師の云わく「四十八願、衆生を度せんがためなり」と、これなり。「行于世」とは、行は用なり。五行の天地の間に運びて止息あることなきが如し。『今経』の世間に流行するも、また然り。故に「行世」というなり。RY01-23R,23L

【註】優婆提舎是仏論議経名。SSZ01-280
【註】(優婆提舎はこれ仏の論議経の名なり。)SSZ01-280

 菩薩の所裁もまた達摩蔵に入ることは、『瑜伽論』に準ずるに、これ彼の種類なるが故に、彼に入って摂す。また懸許の説あるが故に、世親もまた懸許の義あるべし。然れども今は初の義に依りて達摩蔵に入る。上に已に解す如し。然るに論に四種あり。一には摩[ショ02]理迦、此には本母という。出生の義を取る。二には奢薩[ショ02]羅、此には議論という。空有を議詳し、仮実を論量す。三には烏波提舎、此には近説という。略して経中の要義を説く。四には阿毘達摩、此には対法という。能対・所対の論なり。今、第三にして第二を兼ぬるなり。RY01-23L

【註】願是欲楽義、生者天親菩薩願生彼安楽浄土如来浄華中生、故曰願生。SSZ01-280,281
【註】(願はこれ欲楽の義。生は天親菩薩、彼の安楽浄土の如来浄華の中に生ぜんと願じて生ず。故に願生という。)SSZ01-280,281

 「願」は希求を義となす。謂く未所得の中に於いて心を要して希求するが故に。『十住論〈十住毘婆娑論〉』に云わく「願を心所の貪楽求欲に名づく」。「欲」は謂く好尚、「楽」は謂く忻慕なり。「願生」と「中生」とは因果の別にして始終の差なるのみ。「浄華」とは下の第十三眷属功徳なり。下に至りて解すべし。問う、『西域記』に云わく「世親、兜率に上生す」と。何ぞ違うや。曰く、大権の方便、物に軌〈したが〉い縁に随うこと一準すべからず。『本伝』に云わく「迹、凡地に居すれども理実に難思議なり」と。例せば『大法鼓経』の中に、仏、離車童子を記して、仏涅槃の後に正法滅せんと欲する余八十年に、比丘と作り仏名を持ち、この経を宣揚し、神明を顧みず百年の寿終わりて、安楽国に生じ大神力を得て第八地に住す。一身は兜率天に住し、一身は安楽国に住す」といえり。天親もまた然り。局分すべからず。RY01-24R

【註】偈是句数義、以五言句略誦仏経故名為偈。SSZ01-281
【註】 (偈はこれ句数の義、五言の句を以て略して仏経を誦す、故に名づけて偈となす。)SSZ01-281

 具には偈他といい、或いは伽陀という。此には頌という。憬興師の云わく「頌の言は妙なり。また多義を摂す」。また良賁の『仁王疏』に「言う所の偈とは、此に三解あり。一に云わく偈とは竭なり。義を攝すること竭尽す。二に云わく偈とは憩なり。語、憩息するが故に。三には梵言伽他、此に諷誦という」。「略誦」とは、略に二意あり。一には諸部の経を略してこの偈を造るが故に。二には偈文、至略なるが故に略誦という。問う。題名の中に長行の義なきや。対〈こた〉う。優婆提舎は偈と長行に通ず。偈は仏経を誦する菩薩の所懐なり。故に別して題を挙ぐ。長行は偈に依りてその義を解釈す。本経に関〈あず〉からざるが故に題辞なきなり。RY01-24L

【註】訳婆薮云天、訳槃頭言親、此人字天親事在付法蔵経。SSZ01-281
【註】 (婆数を訳して天という。槃頭を訳して親という。この人、天親と字〈な〉づくること、事、『付法蔵経』にあり。)SSZ01-281

 長水の『刊定記』に云わく「提婆槃頭、此には天親という。これ地前四加行位菩薩、即ち無著の弟なり」。普秦の『百法の疏〈大乗百法明門論解〉』に云わく「婆薮槃頭、此には天親という。乃し帝釈の弟、毘紐天王の後なり。(乃至)博学多聞にして遍く墳籍に通ず。神才儁朗〈しゅんろう〉にして戒行清白なり。与〈とも〉に儔匹〈じゅひつ〉するものなし」。今、旧訳に従る。新には世親と翻ず。字は上の解を見よ。『付法蔵経〈付法蔵因縁伝〉』魏〈元魏〉の吉迦夜、曇曜と共にして訳す。巻、六軸あり。伝の第六に出でたり。RY01-24L,25R

【註】菩薩者、若具存梵音応云菩提薩[タ01]。菩提者是仏道名、薩[タ01]或云衆生、或云勇健、求仏道衆生有勇猛健志故名菩提薩[タ01]。今但言菩薩訳者略耳。SSZ01-281
【註】(菩薩とは、もし具に梵音を存せば菩提薩[タ01]と云うべし。菩提はこれ仏道の名、薩[タ01]は、或いは衆生といい、或いは勇健という。仏道を求むる衆生、勇猛の健志あるが故に菩提薩[タ01]と名づく。今但菩薩と言うは訳者の略するのみ。)SSZ01-281

 文に三段あり。標と釈と結となり。『智度論』の四に云わく「菩提は諸仏の道に名づく。薩[タ01]は成衆生と名づく。或いは大心という。この人は諸の仏道の功徳悉く得んと欲して、その心、断つべからず、破すべからざること金剛山の如し。これを大心と名づく。偈説の如く一切諸仏の法智恵及び戒定、よく一切を利益す。これを名づけて菩提となす。その心、動ずべからず。よく忍びて道事を成ず。断えず、また破せず。この心を薩[タ01]と名づく。また次に好法を称讃するを名づけて薩とす。好法の体相を名づけて[タ01]とす。菩薩の心、自利利他するが故に、一切衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切賢聖のために称讃せらるるが故に、これを菩提薩[タ01]と名づく」。『起信の疏記』に『智度論』を引きて云わく「菩提は無上智恵となす。または名づけて覚となし、または名づけて道となす。薩[タ01]は衆生といい、或いは大心といい、或いは勇猛心という」。天台顗師の云わく「諸仏の道を用いて衆生を成就するが故に菩提薩[タ01]と名づく」。RY01-25R,25L-
然るに法蔵の意に依るに、覚有情に三釈あり。一に境に約す。覚はこれ所求の境、有情はこれ所度の境なり。二に心に約す。覚はこれ能断の智、有情はこれ所断の妄なり。三に能所に約す。覚はこれ所求の仏、有情はこれ能求の人なり。初めは悲智に約し、次は真妄に約し、後は人法に約す。然るに人に約するに四句あり。謂く、二乗は求むることありて度なし。諸仏は度ありて求なし。菩薩はまたは求、または度なり。凡夫は求なく度なし。心に約するにまた四句あり。諸仏は覚あり、情なし。凡夫は情あり、覚なし。菩薩は情あり、覚あり。二乗は無余依界に入りて情なく覚なし。今、薩[タ01]に二義を含む。謂く衆生と勇健となり。-RY01-25L,26R-
 「求仏道」の下はその義を釈するなり。『宝積経』に云わく〈cf.『法華文句記』〉「菩薩は一衆生のために無量劫を経て随逐して捨てず。なお化を受けざれども、かつて一念棄捨の心なし」。故に知りぬ、自行化他共に健志あることを。健は自ら彊めて息まざるの意なり。『十住〈毘婆沙〉論』に云わく「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」。『経』に〈cf.『涅槃経』・迦才『浄土論』〉「魚子と菴羅華と菩薩の初發心との三事は、因中に多くして、その結果に及びては少なし」。また云わく〈cf.『涅槃経』〉「発心、畢竟、二つ別なし。この中において初心を難とす」と。寧ろ勇猛健志にあらずして一大事を成弁せんや。今、提・[タ01]の二字を略すること、時の人好むが故に、故に訳人これを省く。-RY01-26R

【註】造亦作也、庶因人重法故云某造。SSZ01-281
【註】(造もまた作なり。人に因りて法を重んずることを庶〈ねが〉うが故に某の造という。)SSZ01-281

 庶は冀なり、近なり。某とは、孔安国の云わく、某は名なり。臣、君を諱〈はばか〉るが故に某という。おおよそ名を知らざる者はみな某という。『広韻』前人を昭〈あ〉かすの言なり。今、天親を指して某というなり。論主の学は内外に通じ、異部は畏伏し、名は五天に振りて、群流は徳に懐〈なつ〉く。説者重からざれば教法に威なし。既に論主の所造と耳〈き〉かば、則ち期せずして服膺す。人に因りて法を重んず、あに然らざらんや。RY01-26R,26L-
問う。『涅槃』の「四依品」に云わく「法に依りて、人に依らず」と。何ぞ人に因ることを尚ぶや。答う。『大乗義章』十一に云わく「依法というは、法に二義あり。一には軌則を法と名づく。二には自体を法と名づく。故に論に釈して言わく。法を自体に名づく。法に憑りて行を起こすが故に名づけて依となす。。不依人とは宰用を人と名づく。不依に二あり。一には自ら未だ法を見ざれば邪偽乖法の人に依らざるを不依人と名づく。正見の人に依らずというにあらず。二には自ら已に法を見れば一切依らず」。また仏は初めは法に依り、後には人に依らしむ。『涅槃の疏〈潅頂 大般涅槃経疏〉』に云わく「問う。何が故ぞ、初(阿含)は法に依らしめ、後(涅槃)には人に依らしむるや。答う。仏初出世邪人はなはだ多し。正法に依らしめ、邪人を簡ぶ。後に邪人なく、ただ小法ありて正人に依らしめ、小法を簡ぶ。またこれ初人は利の故に法に依り、今の人は鈍なるが故に人に依る。究竟して論ずれば人法双び依る」と。故に知りぬ、人に因り法を重んず、何ぞ過あらんや。-RY01-26L

【註】是故言無量寿経優婆提舎願生偈 婆薮槃頭菩薩造。解論名目竟。SSZ01-281
【註】(この故に無量寿経優波提舎願生偈 婆数槃頭菩薩造と言う。論の名目を解し竟りぬ。)SSZ01-281