浄土論註翼解 第1巻の(10の内)
願生偈の文に入る
「世尊」釈


無量寿経論註翼解 巻一之六  

【論】世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国。SSZ01-281
【論】 (世尊、我一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず。)SSZ01-281

【註】世尊者諸仏通号。SSZ01-281
【註】 (世尊とは諸仏の通号なり。)SSZ01-281

 名は諸仏に通ずれども、意は釈迦にあり。もし道同に約せば、遍く諸仏に告ぐなり。梵語には路迦那他、此には世尊という。十号具足して物のために欽重せらるるが故に世尊という。世は、謂く世間、その三種あり。一には衆生世間、二には器世間、三には智正覚世間なり。今は則ち第一の衆生世間なり。仏は衆徳を備え、衆生は徳なし。妖は徳に勝たず。無徳は徳を尊ぶ。然るを期せずして然り。故に世尊という。仏仏皆爾るが故に通号という。これ即ち十号の中の第十なり。それ仏如来の名称の功徳名に通別あり。釈迦・弥陀・阿[シュク01]仏等はこれその別なり。如来等の十はこれその通なり。相に応じて須く分かつべきが故に別名を立つ。実徳は須く顕すべきが故に通称を立つ。実徳は量なし。徳に依りて名を施す。名もまた無辺、且く一数に拠りてただ十種を論ず。いわゆる如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世問解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊なり。この十は経の中にこれを説きて号となし、或いは名称という。通じて釈せば義斉し。相に随いて分別せば、体を顕すを名とし、徳を樹つるを称という。名称は外に彰われて天下に号令す。これを説きて十となす。前の五は自利、後の五は利他なり。自利の中に就きて分かちて両対とす。初めの二の一対は、前は道円を明かし、後は滅の極を彰わす。後の三の一対は、前の二は因円、後の一は果極なり。煩わしく焉〈ここ〉に録さず。今、通号を挙ぐること、別しては釈迦にあり。下の註に委曲せり。RY01-29R,29L

【註】論智則義無不達。語断則習気無余。SSZ01-281
【註】智を論ずるときは則ち義として達せずということなし。断を語るときんば則ち習気余〈のこ〉りなし。SSZ01-281

 初めは菩提の智果を嘆じ、後は涅槃の断果を嘆ず。後の科に能利世間という。即ち恩徳なり。『仁王経』に正覚の位を説きて云わく「正覚無相にして法界に遍ず。三十生尽きて智円明なり。寂照無為真解脱大悲応現して、ともに等しきものなし。湛然として動ぜず、常に安隱、光明遍く照らして所照なし」と。釈して言わく、初めの二句は正覚の円なるを明かし、後の四句は仏の徳を具することを明かす。「寂照」というは、智徳の円を明かし、「無為真解脱」は断徳の円を明かし、「大悲応現」は恩徳の円を明かし、「無与」等とは上の三徳倶に等しきものなきことを明かすなり。「湛然不動」とは恩徳を顕すなり。仏の大悲利他願力に由りて大小種種類身を応現す。動じて常に寂なるが故に湛然という。去来を示すといえども体は常に動ぜず。この三種の徳は即ち三身の果、三秘新伊十種の三法成備して欠くることなし。RY01-29L,30R-
「智」は即ち智恵なり。謂く諸の如来は平等の恵を以て諸法を照了して、円融して[ケイ17]〈さわり〉なし。故に「義無不達」という。「断」は、謂く断尽。謂く諸の如来は一切煩悩或業を断除し■〈?浄〉尽して余なきが故に「習気無余」という。RY01-30R-
『大論』の二十七に云わく「習は煩悩の残気に名づく。もしは身業・口業、智恵に随わず、煩悩に似て起こる」と。『宗鏡録』の七十六に云わく「習気の自体に総じて三義あり。習気は種子と名異にして体同じ。習気は即ち熏習の時に約して論ず。種子は即ち現行に対して号を立つ。都〈すべ〉て三義あり。一には種子を習気と名づく。気は気分、習は謂く熏習。彼の現行に由りて熏習してこの気分を得る故に。二には現行をまた習気と名づく。謂く、都て種子に由りてよく現行を生ず。これ種子が家の気分なり。三に習が気なるを習気と名づく。香を裹〈つつ〉む紙の気分あるが如し。唯識論に云わく、而も本識に熏じて自の功能を起こす。即ちこの功能を説きて習気となす。功能とはこれ習気の義なり。体は即ち種子なり。(乃至広説す。)」〈ここまで宗鏡録の引文〉-RY01-30R,30L-
また云わく〈cf.『宗鏡録』〉「一には煩悩の習気、二には業の習気。一に煩悩の習気とは、難陀が欲習、身子が嗔習、畢陵が慢習、槃特が痴習の如き、これなり。二に業の習気とは、牛[シ02]の牛習、迦葉の舞習、阿難の歌習等の如し。これ業習の余なるが故に。もし煩悩の余習はこれ変易の縁なり。有業の余習はこれ変易の因なり。即ちこれ二乗は正使を断ずといえども習気を断ぜざるが故に、変易生死を感ず。この二乗の人は未だ如来の一心三点の涅槃を得ず。無学の位に於いて見修の惑尽くるといえども、所有の無知みなこれ無明の余習なり。または無明住地と名づけ、または所知の障と名づけ、または塵沙無知と名づく。また菩薩は化門に約して十種の習気あり。華厳経の離世間品に云わく、仏子、菩薩摩訶薩に十種の習気あり。何等をか十とす。いわゆる菩提心の習気、善根の習気、教化衆生の習気、見仏の習気、清浄世界に於いて生を受くるの習気、行の習気、願の習気、波羅蜜の習気、平等法を思惟するの習気、種種境界差別の習気、これを十とす。もし諸の菩薩、この法に安住すれば、則ち永く一切煩悩の習気を離れ、如来の大智習気の習気にあらざる智を得」と。〈ここまで宗鏡録の抄出文〉-RY01-30L,31R-
今謂く、如来は一切諸有の習気を断ず。究竟清浄の故に無余という。これ二徳を嘆ずるなり。問う。『倶舎論』の帰敬の頌の意に依らば、諸冥の正使を断じて断徳円満し、一切種冥の習気を断じて智徳円満すと。ここと相違、何の所以ぞや。答う。ここは大乗に依りて大乗教の中に五住二死を説くが故に、習気はこれ無明法執の摂なるを以ての故に、人法の執を断ず。これ断徳円かなり。故に彼と異なり、断は法身を顕し、智は報身を成し、恩は即ち応身なり。三身三徳究竟円満して、天上天下ただ我のみ独り尊し。故に世尊というなり。-RY01-31R

【註】智断具足能利世間、為世尊重。故曰世尊SSZ01-281
【註】 (智断具足して能く世間を利し、世のために尊重せらる。故に世尊という。)SSZ01-281

 『華厳の疏』に云わく、恩徳とは、謂く諸の如来は大願力に乗じて衆生を救護したまうこと、猶し赤子の如し。これを恩徳とするが故に、「能利世間〈能く世間を利す〉」の一句を以て恩徳とす。『倶舎』の偈に云わく〈倶舎論頌疏〉「衆生を抜き、生死の泥を出づ。釈して言わく、利他の徳を嘆ずるなり。一切衆生は生死の泥に於いて淪没して救いなし。世尊は哀愍して、随いて所応の正法の教手を授けて抜済して出ださしむ。これはこれ恩徳なり。大悲を体とす」。前の二は自利、後の一は利他、二利円融して塵沙果の中にこれより貴きはなきが故に「為世尊重〈世のために尊重せらる〉」という。RY01-31R,31L

【註】此言意帰釈迦如来。SSZ01-281
【註】この言は、意、釈迦如来に帰したまえり。SSZ01-281

 世尊の名は諸仏に通ずといえども、今は釈迦にあり。総を以て別に目〈な〉づく。故にただ総を挙ぐ。菩薩の師なるが故に、説教の主なるが故に、発遣を悦ぶが故に、神加を乞うが故に、故にここに別して帰す。RY01-31L

【註】何以得知、下句言我依修多羅。天親菩薩、在釈迦如来像法之中、順釈迦如来経教、所以願生。願生有宗。SSZ01-281
【註】何を以てか知ることを得ん。下の句に我依修多羅と言たまえり。天親菩薩、釈迦如来の像法の中にましまして釈迦如来の経教に順ず。このゆえに生ぜんと願ず。生ぜんと願ずることは宗あればなり。SSZ01-281

 初めの四句は徴す。意の云わく、何の所由ありてか世尊の名を以て偏に釈迦に属するや。下の句より下は釈す。「我依」に二あり。通じては諸仏の所説の経教に依る。別しては釈迦仏の修多羅に依る。別を以て通を該〈か〉ぬ。故に「在釈迦如来像法之中〈釈迦如来の像法の中にましまして〉」というなり。像法とは『摩耶経』正法五百年・像法千年の説に約すれば、則ち論主の出時は正しく像法にあり。像は似なり。正法に相似するが故に。青龍の疏に云わく「教行証あるを名づけて正法とす。教行ありて証なきを名づけて像法とす。教ありて行証なきを名づけて末法とす」。今は即ち第二なり。意の謂く、像法の中にましまして如来遺訓の経教に随順して願生の信を起こす。信を起こすの功、偏に釈迦にあるが故に、別して帰依すとなり。有宗の義は上と意同じ。然るに上は教に就きていうが故に「所被」といい、これは信に就きて説くが故に「願生」というなり。RY01-32R

【註】故知、此言帰于釈迦。SSZ01-281,282
【註】 (故に知んぬ、この言は釈迦に帰したまえることを。)SSZ01-281,282

【註】若謂此意遍告諸仏、亦復無嫌。SSZ01-282
【註】 (もしこの意、遍く諸仏に告げたてまつると謂うも、また嫌いなし。)SSZ01-282

 別号を挙ぐるといえども余に通ずるに妨げなし。況んや通号なるが故に諸に通ずること嫌わず。故に「亦復」という。諸論の中に普く諸仏に告ぐるが故に、況んや念仏の教は諸仏同じく勧むるが故に。RY01-32L

【註】夫菩薩帰仏如孝子之帰父母、忠臣之帰君后、動静非己出没必由。知恩報徳理宜先啓。SSZ01-282
【註】 (それ菩薩の仏に帰したまうことは、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己にあらず、出没必ず由〈よる〉がごとし。恩を知りて徳を報ず。理宜しく先づ啓すべし。SSZ01-282

 『大論』の十に云わく「菩薩は常に仏を敬重すること、人の父母を敬重するが如し。諸の菩薩は仏の説法を蒙りて種種の三昧、種種の陀羅尼、種種の神力を得。恩を知るが故に広く供養す」と。また『同論』の七に云わく「仏は法王たり。菩薩を法将とす」と。譬えば忠臣の特に王の恩寵を蒙りて常にその王を念ずるが如く、菩薩もまたかくの如く恩重きことを知ることを得るが故に常に念仏す。「孝子」等とは二つの譬喩を挙げ帰仏の由を暁らかにす。子・臣を菩薩に譬え、父母・君后を仏に喩う。孝は畜なり。道に順じて倫に逆らわず、これを蓄という。『爾雅』に云わく「善く父母に事うるを孝という」。『謚法』に云わく「慈愛、労を忘るるを孝という」。『雑記』に云わく「徳を養い理に順じて時に逆らわざるを孝という」と。おおよそ人の子をなすや、出づれば則ち必ず告〈もう〉し、反すれば則ち必ず面す。遊ぶところ方あり、習うところ業あり。皮膚を壊せず、名を揚げ、親を彰わす、これを孝子という。父は甫なり。始めて己を生ずる者なり。母は乳なり、慕なり。子を乳養するが故に子のために慕わるるなり。忠は直なり、厚なり、敬なり。『増韻』に云わく「内にその心を尽くして欺かざるなり」。『謚法』に云わく「身を危うくして上に奉るを忠という」と。伊川が云わく「己を発し自ら尽くすを忠という」。『説苑』に云わく「身を卑しめて賢に進み、古に称いて事を行い、以て主の意に励むを名づけて忠臣となす」と。然るに『説苑』の中に六正六邪を出だす。いわゆる聖臣・大臣・忠臣・智臣・貞臣・直臣なり。君は長なり。衆人の長たるなり。后はまた君なり。また妃后なり。『曲礼』の註に云わく「后は後なり。天子に後れて、また以て後胤を広するなり」。RY01-32L,33R-
「動静」「出没」は子・臣の二つに通ず。もし法に合していわば、出仮・利生を動といい、自行・入寂を静という。出没また然り。これ今の意をいう。もし通じてこれをいわば、子・臣は衆生に比す。親・君は弥陀に喩う。称礼を動といい、憶念を静という。還相回向は出、往相回向はこれ没なり。これ己の作にあらず。仏の願力に由るが故に「非己」という。もし別してこれをいわば、子・臣は論主に比す。親・君は釈迦に喩う。仏の発遣に由りて往として利せざるなし。大に仏恩を荷う。論を製して酬報するが故に「宜先啓〈宜しく先づ啓すべし〉」。啓は申なり、白なり。『智論』に云わく「知恩とは、これ大悲の本、善業を開くの初門なり。人の愛敬するところ、名誉遠く聞こゆ」。況んや仏恩は極まりなし。『華厳』の偈に云わく「如来無数劫、勤苦して衆生のためにす。云何が諸の世間、大師の恩を報ぜんや」。然るに今の論主この論を製せずんば、あに恩を報ずるや。それ仏、教法を留むる意は伝弘にあり。展転して人を度して大果に至らしむ。もし展演せずば仏の本懐に逆す。苟〈いやしく〉もよく仏願を顕発して大教を光照し、労生して益を穫りて、大猷絶えず。これ則ち仏心に順合し、雅、宗祖に称〈かな〉う。名づけて恩を報ずるとなす。故に『智論』に云わく「たとい頂戴して塵劫を経て、身を牀座となして、三千に遍くも、もし法を伝えて衆生を利さざれば、畢竟して能く恩を報ずる者なし。もし正法蔵を伝持して、教理を宣揚し、群生を度せば、修習一念にして真如に契う。これはこれ真に如来を報ずる者なり」。〈cf.起信論疏筆削記〉故に「知恩報徳理宜先啓」というなり。-RY01-33R,33L

【註】又所願不軽、若如来不加威神将何以達。乞加神力、所以仰告。SSZ01-282
【註】 (また所願軽からず。もし如来、威神を加したまわずんば、まさに何を以てか達せん。神力を加したまわんことを乞う。所以に仰いで告げたてまつる。)SSZ01-282

 論主の心たる、自度度他して普く彼岸に臻〈いた〉らしめん。然るに濁世、彊梁にして転化すべきこと難し。今、論を製して自他運度するは、譬えば人ありて身を大海に入れ、また破船に乗り、また逆風に遇い、また巨浪に衝き、また羅刹に値いて、危うきこと頃刻にあり。しかしてよく中において安穏に渡ることを得るが如し。ただ自ら渡らず、しかしながら諸人を渡す。大海を濁世に喩え、舟を論に喩う。かくの如きの大事、あに一期に成ぜん。故に「所願不軽」というなり。もし仏加なければ、奚〈なん〉ぞ所願を満ぜん。故に冥資を請い、智恵を助増して、理をして謬らざらしむ。またもし加なくば恐らくはそれ魔の[ニョウ02]〈わずら〉わして難事を成すことあり。仮に威力を以て外縁の障を防ぐ。『光の記』に云わく「恐らくは魔事ありて造論終わらず。徳を讃じ帰敬して加備を請うがゆえに」と。「威神」とは、『楞厳の合論』に云わく、雷霆の及ばざる、これを威という。陰陽の測らざる、これを神という。諸仏の威神あに雷霆・陰陽の測及するところならんや。「達」はいわく成達。仏の威神を以て大事を成達するが故に仰いでこれを告げたてまつる。また三宝に帰敬して六種の意あり。『起信の疏』の如し。ここに煩わしくせざるのみ。RY01-34R,34L