浄土論註翼解 第1巻の(10の内)
第2 讃嘆門


無量寿経論註翼解 巻一之九  

【註】何以知尽十方無碍光如来是讃嘆門。SSZ01-282
【註】 (何を以てか尽十方無礙光如来はこれ讃嘆門なることを知る。)SSZ01-282

【註】下長行中言云何讃嘆門謂称彼如来名、如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応故。SSZ01-282
【註】下の長行の中に、云何が讃嘆門なる、謂く、彼の如来の名を称すること、彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、実の如く修行して相応せんと欲するが故にといえり。)SSZ01-282

 下巻に委しく解せり。「称」は謂く称揚、即ち讃嘆の義なり。また解すらく、称はこれ称念、謂く心に彼の仏を念じ、口に名号を称うるは即ち讃嘆の義なり。二義の中に顕には初めの義を用い、隠には後の解を取る。「彼」は弥陀を指す。「光明」は外にあり。智恵は内にあり。内智は外に発すれば則ち光明となる。故に知んぬ、光明は智恵の相なり。『経〈無量寿経〉』の中に弥陀の智相を説きて言わく「無量寿仏、威神光明、最尊第一。諸仏光明、所不能及〈無量寿仏は、威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶこと能わざる所なり〉」。また言わく「無量寿仏、光明顕赫、照燿十方。諸仏国土莫不聞焉〈無量寿仏は、光明顕赫にして、十方を照燿す。諸仏の国土に聞えざることなし〉」。また『観経』に言わく「身諸毛孔演出光明、如須弥山。彼仏円光、如百億三千大千世界〈身のもろもろの毛孔より光明を演出す。須弥山のごとし。かの仏の円光は、百億の三千大千世界のごとし〉」。また言わく「一一好、亦有八万四千光明。一一光明、遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨〈一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明、あまねく十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず〉」。これらの文はみな光の勝相を明かす。論主、経に傍えて讃嘆して「尽十方無碍光如来」と名目するは、これ「如彼如来光明智相〈彼の如来の光明智相の如く〉」なるが故に、讃嘆門を成ずるなり。「名」は即ち弥陀仏の名なり。「義」はこれ「光明智相」なり。『梁の摂論』〈真諦訳 摂大乗論釈〉の五に云わく「義は名の目する所の法をいう」。また古徳の云わく、能詮を名といい、所以を義とす。謂く、即ち彼の仏の光明無量にして測量すべからず。これを名づけて義とす。義の能詮、これを名づけて名とす。尽十方無碍光如来なり。故に知んぬ、名義と相応するなり。「如実修行」等は下の解の如し。既に下の論文と今の偈文と期せずして[フン04]合す。故に知んぬ「尽十方」等はこれ讃嘆門なることを。RY01-38L,39R

【註】依舎衛国所説無量寿経、仏解阿弥陀如来名号。何故号阿弥陀。彼仏光明無量、照十方国無所障碍、是故号阿弥陀。又彼仏寿命及其人民、無量無辺阿僧祇、故名阿弥陀。SSZ01-282,283
【註】(舎衛国にして説くところの無量寿経に依るに、仏、阿弥陀如来の名号を解したまわく。何が故ぞ阿弥陀と号する。彼の仏の光明無量にして十方の国を照らすに障碍する所なし。この故に阿弥陀と号す。また彼の仏の寿命及びその人民、無量無辺阿僧祇なり、故に阿弥陀と名づく。)SSZ01-282,283

 梵には阿弥陀、此には無量と翻ず。無量に二あり。一には光明、二には寿命なり。初めに光明は、仏光に二あり。一に常光、二に放光なり。また二義あり。智光・身光なり。今、光というは、正意は常にありて放及び身・智を兼ぬ。「無量」とは所照の広きをいうなり。「十方」は他経の一方を照らすに同じからざる故に。「無障碍」とは日光のなお碍あるに同じからざる故に。あるいは難ず。月になお碍あること世に共に知るところなり。仏光の無碍、まさに何の拠かある。答う。須達が老女は仏を見ることを願わず、避けて深閨に入る仏光の及ぶところ、垣壁倶に徹す。内外四方恒に仏と対〈むか〉う。即ち無碍の徴なり。まさに知るべし、我が儔〈ともがら〉仏光の中に処して都て覚知せざれども、仏光は常に摂して略〈ほぼ〉厭棄することなし。猶し盲人の日輪の下に居するがごとし。また溷虫の楽しみて穢処にあるが如し。膺〈むね〉を撫ち自責す。実に悲痛しつべし。また「彼仏」という下は寿無量を挙ぐ。『大本』〈cf.無量寿経 抄出〉に云わく「彼の仏、寿命長久にして称計すべからず。無量の衆生、みな声聞・縁覚と成りて、すべて共に集会し、百千万劫悉く共に推算すれども、窮尽することあたわず。声聞・菩薩・天・人の衆の寿命長短も、またまたかくの如し」。「及其人民」はその語倒せり。正語はまさに「仏及人民寿命無量」というべし。「阿僧祇」此には無数という。この無数に倍するを無量無辺と名づく。『摂大乗論の釈』に云わく「譬類を以て知ることを得べからざるを無量とす。数知すべからざるを無数とす」と。『華厳経』の第四十五に、一百四に至るを名づけて無数となし、一百六に至るを名づけて無量となすと。今はただ算計・寿量すべからざるが故に総じて「無量無辺阿僧祇」というなり。RY01-39R,40R-
問う。仏徳は無量なり。何ぞただ二のみを挙ぐるや。答う。四義あり。一に摂化為本の義。庶類の冀〈こいねが〉うところは智恵と長寿となり。一切の悪む攸〈ところ〉は愚痴と短命となり。故に二徳を挙げて速やかに欣慕せしめ、摂化を本とす。故に別してこれを挙ぐ。二に存少摂多の義。二を挙げ諸を蔽うが故に、別してこれを挙ぐ。三に益中最勝の義。現世の光益と当来の寿果とは利他の中の最なるが故に、別してこれを挙ぐ。四に寂照互融の義。寿命はこれ寂、光明はこれ照。寂にして常照、照にして常寂、互融無碍、理智不二、これ弥陀身の故に二徳を挙ぐ。彼の仏の名を解す学者、焉〈これ〉を択べ。-RY01-40R
 (元照『観経疏』に云わく「寿は即ち福を表す、これ解脱の徳。光は即ち智を表す、これ般若の徳。解脱・般若ともに厳法身。)RY01-40R

【註】問曰。若言無碍光如来光明無量照十方国土無所障碍者、SSZ01-283
【註】 (問いて曰く。もし無礙光如来の光明無量にして、十方国土を照らすに障礙する所なしと言わば。SSZ01-283

 上の経文を牒して詰難の由となす。寿命をいわざるは今の急にあらざるが故に。下は正しく難を設く。RY01-40L

【註】此間衆生何以不蒙光照。光有所不照。豈非有碍耶。SSZ01-283
【註】 (この間の衆生、何を以てか光照を蒙らざる。光の照らさざる所あらば、あに碍りあるにあらずや。)SSZ01-283

 他方は爾らざるが故に「此間」という。聖位は光を蒙るが故に「衆生」という。「何以」の下は詰す。光明無量にして十方の刹を照らすこの界の衆生は必ず光照を蒙らん。然るに今、衆生は現に照を蒙らず。必ず[ケイ17]碍あり。儻〈もし〉[ケイ17]碍あらば、奚〈なん〉ぞ無碍といわんや。「耶」は疑の辞なり。RY01-40L

【註】答曰。碍属衆生。非光碍也。SSZ01-283
【註】 (答えて曰く、礙は衆生に属す。光の礙にはあらず。)SSZ01-283

 「碍」は謂く光照を蒙らざるの碍なり。「属」は付なり、聚なり。衆生は闇然として如実の行なく、見仏の障りあり。光照を蒙らざるは衆生の自碍にして、仏に於いて何ぞ関わらん。鏡に臨みて背〈うしろ〉を視、谷に対して口を閉ず。何ぞよく影響を致さんや。『大論』の九に云わく「法身の仏は常に光明を放ち、常に法を説く。而るに罪を以ての故に見ず聞かず。譬えば日出るとも盲者は見ざるが如し」。これは法身に約す。今は報身の仏なり。RY01-40L

【註】譬如日光周四天下而盲者不見、非日光不周也。亦如密雲洪[シュ01](潅之句反)而頑石不潤非雨不洽(霑下恰反)也。SSZ01-283
【註】 (譬えば日光は四天下に周けれども〈めぐれども〉、盲者は見ず。日光の周からざるにはあらざるが如し。また密雲洪〈おお〉いに[シュ01]〈そそ〉げども、しかも頑石は潤さず、雨の洽(霑なり、下恰の反)〈うるお〉さざるにはあらざるが如し。)SSZ01-283
【註 割注】 [シュ01](潅なり。之句の反)

 「日光」「密雲」は共に光明に喩う。「盲者」「頑石」は同じく衆生に比す。智なきは盲のごとし。愚の深きを頑となす。信なきは石の如し。信なき故に「不洽」の失あり。また解すらく。「日光」は智に比す。「密雲」は悲に況す。智恵の照了は日の照耀するが如し。慈悲の物を拯うは雲の普く覆うが如し。慈ありて智なきは愛見の過に堕す。智ありて慈なきは灰断の坑に入る。二徳具足する、これを名づけて仏となす。二喩互いに顕して巧喩というべし。光明は即ちこれ智悲の徴なり。「密」は稠なり。「洪」は大なり。「[シュ01]」は音註なり。時雨なり。「潅」は漑なり、澆〈そそぐ〉なり、漬なり。「之句の反」は『玉篇』に「之戌の反」に作る。未だ詳らかならず。「頑」は痴鈍なり。「洽」は音狭なり。「霑」は濡なり、漬なり。RY01-41R

【註】若言一仏主領三千大千世界、是声聞論中説。若言諸仏遍領十方無量無辺世界、是大乗論中説。SSZ01-283
【註】 (もし一仏、三千大千世界を主領すと言うは、これ声聞論の中の説なり。もし諸仏遍く十方無量無辺の世界を領すと言うは、これ大乗論の中の説なり。)SSZ01-283

 これ伏難を通ず。問いの意の言わく、天に二つの日なく、世に二仏なし。一世界の中に一仏ありて光明照曜し、他の照を仮らず。然るに今、弥陀は十方を照らす。あに功を費やすにあらずや。また十方を照らすは等〈しな〉を踰〈こ〉ゆるにあらずや。答えの意に言わく、一仏主領一世界〈一仏の一世界を主領す〉はこれ小乗の意。大乗の法の中には、諸仏は十方世界を主領す。尽十方の光、あに功を費やすとせんや。仏は既に主領す。あに等〈しな〉を踰〈こ〉えんや。「主領」は掌なり。領は統理なり。「三千大千世界」は『倶舎』の偈に云わく「四大洲と日月と蘇迷盧と欲天と梵世と、おのおの一千を一の小千界と名づく。この小千の千倍を説きて一の中千と名づけ、この千倍は大千なり。みな同一に成壊す」と。RY01-41L-
問う。『頌疏』の十二に云わく「薩婆多に依らば、十方世界にただ一仏あり。経部宗にらば、十方世界に十方の仏を許す」。遁鄰の『記』に云わく、有部に十方世界等というは、彼の宗、計していう、薄伽梵の功能に碍あることなし。ただ一世尊、普く十方に於いてよく教化したまうが故に。もし一処に一仏ありて中に於いて教化の能なければ、余もまたしかるべし。経部、有十方仏と計するは、謂く、多界の中に諸仏倶に現じて、便ちよく無量の有情を饒益し、増上生及び決定勝道を得しむるが故に。既に有部の意は、一仏出興して十方界を領す。何ぞ主領三千等というや。答う。彼の宗の意は、一仏の一世界の中に出現し八相を示現す。この仏は無量の化身を示現して十方を化益す。一一の土に於いて八相を現ずるにあらず。大乗部の意は、一仏の身を分かち、おのおの成道を唱え、化は十方に遍くが故に「一仏主領」等というなり。「諸仏遍領十方」とは、『大論』に云わく「阿弥陀に如恒河沙の浄土穢土あり。釈迦また然り」。また『論』の九に云わく「百億須弥山、百億の日月を名づけて三千大千世界とす。かくの如きの十方恒河沙三千大千世界を、これを名づけて一仏世界とす」。-RY01-41L,42R-
問う。仏仏互いに領して雑乱妨碍の患いなからんや。答う。『仏地論』〈仏地経論〉に云わく「ただこれ有情異識おのおの変ずるも、同処相似してあい障碍せず。衆の灯明の如し、多く夢みる所の如し。因類これ同じなれば果相も相似す。処所に別なし、仮名は共となし、実にはおのおの異あり。諸仏の浄土またまたかくの如し。各別の識変、みな法界に遍ず。同処相似を説き名づけて共となす」。故に知んぬ。互いに遍じて妨[ガイ03]なきなり。-RY01-42R,42L
 (『大論』九に云わく「仏は声聞法の中に於いて十方仏ありといわず。〈乃至〉摩訶衍の中に実に十方仏ありという。」)

【註】天親菩薩、今言尽十方無碍光如来、即是依彼如来名、如彼如来光明智相讃嘆。SSZ01-283
【註】 (天親菩薩、今、尽十方無礙光如来と言たまえるは、即ちこれ彼の如来の名に依りて、彼の如来の光明智相の如く讃嘆す。)SSZ01-283

 文の如し。悉〈あきらか〉なるべし、正に「尽十方」等はこれ讃嘆なることを明かすなり。RY01-42L

【註】故知、此句是讃嘆門。SSZ01-283
【註】 (故に知んぬ、この句はこれ讃嘆門なりと。)SSZ01-283

 総結、文の如し。RY01-42L