浄土論註翼解 第2巻の(9の内)
観察門
器世間荘厳成就
 第1 清浄功徳


無量寿経論註翼解 巻二之二  

【論】観彼世界相 勝過三界道。SSZ01-28SSZ01-285
【論】 (彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。)SSZ01-28SSZ01-285

 「観」は謂わく観察なり。観は即ち対観、察は即ち伺察、また審察なり。体は即ち恵なり。注の下に云わく「心にその事を縁ずるを観と曰う。観心分明なるを察と曰う」と。「彼」とは極楽を指す。「世界」というは、世は謂わく世間・国土・境界、衆生を盛る処を器世間と名づく。「界」はこれ界別、仏所居の処は余人に異なるが故に界別と名づく。「相」は無相の相なり。『安楽集』にいわゆる「無漏の相、実相の相なり。」『梁摂論』に方処円満を説きて云わく「三界の行処を出過す。釈して曰わく。三界の集諦を行となす。三界の苦諦を処となす。浄土は三界苦集の所摂にあらず。故に出過三界行処という」と。RY02-06L

【註】此已下是第四観察門。此門中分為二別。一者観察器世間荘厳成就。二者観察衆生世間荘厳成就。此句已下至願生彼阿弥陀仏国、是観器世間荘厳成就。観器世間中、復分為十七別、至文当目。SSZ01-285
【註】 (これより已下は、これ第四の観察門なり。この門の中に分ちて二の別となす。一には観察器世間荘厳成就。二には観察衆生世間荘厳成就。この句より已下、願生彼阿弥陀仏国に至るまでは、これ器世間荘厳成就を観ず。器世間を観ずる中に、また分ちて十七の別となす。文に至りてまさに目〈な〉づくべし。)SSZ01-285

 分文知り易し。「器世間」とは、世界は器の如く隔別なるを世とし、間差を間と名づく。今は無隔別の隔別、無間差の間差なるが故に器世間と名づく。「衆生」はこれ能居の人なり。下に至りて当に悉なるべし。RY02-07R

【註】此二句即是第一事、名為観察荘厳清浄功徳成就。此清浄是総相。SSZ01-285
【註】 (この二句は即ちこれ第一の事なり、名づけて観察荘厳清浄功徳成就と為す。この清浄はこれ総相なり。)SSZ01-285

 「総相」とは、器・衆の別を該〈かぬ〉るが故に、また器厳十六の別に対するが故に総相という。徹鑑を「清」といい、無垢を「浄」という。「功」は謂わく功能、荘厳清浄全くこれ功徳なり。円満にして欠くることなきが故に「成就」という。みな悉く如来願心の所成なり。RY02-07L

【註】仏本所以起此荘厳清浄功徳者、SSZ01-285
【註】 (仏もとこの荘厳清浄功徳を起こしたまう所以は、)SSZ01-285

 「総説分」の中には因位に約して解し、「解義分」の中には果上に約して解す。因果異ならず。理数当然たり。文に至りて当に詳らかにすべし。RY02-07L

【註】見三界、是虚偽相、是輪転相、是無窮相、如[シャク01](尺音)蠖(屈伸虫 一郭反)循環、如蚕(才含反)繭(蚕衣 公殄反)自縛。哀哉衆生締(結不解 帝音)此三界顛倒不浄。SSZ01-285
【註】 (三界を見たまうに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、[シャク01]蠖の循環するが如く、蚕繭の自ら縛るが如し。哀れなるかな、衆生、この三界に締〈むすぼ〉れて、顛倒不浄なり。)SSZ01-285
【註 割注】 [シャク01](尺の音)。蠖(屈伸する虫。一郭の反)。蚕(才含の反)。繭(蚕衣。公殄の反)。締(結して解けざるなり。帝の音)。

 「見」は照知の義、菩薩の能見の智なり。「三界」は所見の境、即ち欲・色、無色なり。有情の居止は三より外ならず。『大論』の七十九に云わく「菩薩、六度を行ずる時、三悪の中の衆生を見て、まさにこの願を作すべし。我、その所に随いて時に六波羅蜜を行じ、仏国土を浄め、衆生を成就せんと。我が時に我が国土の中に、乃至、三悪道の名をなからしめん」と。菩薩みなしかり。いわんや弥陀をや。「虚偽の相」とは、三界の依正は当体虚妄なり。不真不実の有漏心より感得するが故に。しかもその中において自ら妄業を作りて、自ら妄果を受く。猶し桑蚕の繭を作りて自ら自縛するが如し。『華厳』の十六に云わく「諸法に真実なし。妄に真実の相を取る。この故に諸の凡夫は生死獄に輪回す」といえり。「輪転の相」とは、六趣に輪回して展転端なし。猶し[シャク01]蠖の循環して休むことなきが如し。『心地観経』に云わく「有情輪回して六道に生まること、猶し車輪の始終なきが如し」といえり。「無窮」というは、『経〈心地観経〉』に云わく「或いは父母となり、男女となりて、生生世世に互に恩あり」と。これなり。体はこれ虚偽、相はこれ輪転、体相窮まりなし。三道相続して顛倒不浄なり。菩薩の慈悲あに哀れまざらんや。RY02-08R,08L-
 「[シャク01]蠖」とは、陸佃が云わく「一には螂蹴と名づけ、一には歩屈と名づく。蚕に似て葉を食い、老いてまた糸を吐き室を作り繭化して蝶となる。」「循」は詳倫の切、「環」は胡関の切、旋繞往来するをいうなり。『智論』の十一に云わく「[シャク01]蠖、屈して後の足を安んじて、然る後に前の足を進む。所縁尽とは、また進む処なくして還る。」蚕は糸を吐く虫、三たび俯き、三たび起きて、二十七日にして老いる。『捜神記』に、上古の時、人ありて遠く征く。家にただ一女と馬となり。女、父を思いて馬に戯れていわく。汝よく吾が父を迎え得ば、吾、まさに汝に嫁ぐべし。馬乃ち[キョウ13]〈むながい〉を絶ちて去る。父を得て還る。後に馬、女を見て輒〈たちま〉ち怒る。父、女を怪しむ。女、具に以て答う。父、大いに怒りて馬を殺して、その皮を曝す。女、革の処に至れば忽ち蹶然として女を巻きて行く。後に大樹の枝に於いて女及び皮を得るも尽く化し、蚕となりて既に死す。因りてその樹を名づけて桑という。桑は喪なり。『涅槃』の二十七に云わく「蚕は繭を作りて自生自死するが如し。一切衆生もまたまたかくの如し」といえり。二種の譬喩はともに輪転無際に況す。顛は頂なり。頂は下に至りて、これを顛倒とす。RY02-08L,09R

【註】欲置衆生於不虚偽処、於不輪転処、於不無窮処得畢竟安楽大清浄処。是故起此清浄荘厳功徳也。SSZ01-28SSZ01-285
【註】衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽大清浄の処を得せしめんと欲す。この故にこの清浄荘厳功徳を起したまう。)SSZ01-28SSZ01-285

 浄土はこれ仏の無漏心より生ず。あに虚偽ならんや。遷らず、変わらず、寂静常楽なるが故に「不輪転」。生死は跡を絶ち、不善は名を亡ず。故に「不無窮」。虚偽の過を離るるが故に「畢竟」という。輪転の処にあらざるが故に「安楽」という。無窮の処にあらざるが故に「清浄」という。「大」の字は三に貫く。三徳円満するは、これ極楽界なり。この故に下は荘厳を起こす由を結す。RY02-09R

【註】成就者、言此清浄不可破壊不可汚染。非如三界是汚染相是破壊相也。SSZ01-28SSZ01-285
【註】(成就というは、言うこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるが如きなるにはあらず。)SSZ01-28SSZ01-285

 成就の義を説きて彼の土の相を嘆ず。「畢竟安楽」の故に破壊すべからず。「大清浄の処」なるが故に汚染せず。三界は虚偽にして輪転極まりなきが故に壊染するなり。RY02-09L

【註】観者観察也。彼者彼安楽国也。世界相者彼安楽世界清浄相也。其相別在下。SSZ01-285
【註】 (観は観察なり。彼は彼の安楽国なり。世界相は彼の安楽世界の清浄の相なり。その相、別して下にあり。)SSZ01-285

 文相解し易し。この一句は下の二十九の毎句の冠にあるべし。「勝過三界道」は別して清浄功徳成就を嘆ずるなり。RY02-09L

【註】勝過三界道、道者通也。以如此因得如此果。以如此果酬如此因。通因至果、通果酬因。故名為道。SSZ01-286
【註】 (勝過三界道というは、道とは通なり。かくの如きの因を以て、かくの如きの果を得。かくの如きの果を以て、かくの如くの因に酬う。因に通じて果に至り、果に通じて因に酬う。故に名づけて道となす。)SSZ01-286

 「道」は路なり。路に能通の義あり。また楊雄は「通也」の訓を作す。義は今と異なり。意の言わく、因果あい通じて毫髪も差わず。三界の雲のごとく聚まる故に道という。RY02-10R

【註】三界者、一是欲界、所謂六欲天、四天下人・畜生・餓鬼・地獄等是也。二是色界、所謂初禅・二禅・三禅・四禅天等是也。三是無色界、所謂空処・識処・無所有処・非想非非想処天等是也。SSZ01-286
【註】 (三界とは、一にはこれ欲界、所謂六欲の天と四天下の人と畜生と餓鬼と地獄等これなり。二にはこれ色界、所謂初禅・二禅・三禅・四禅天等これなり。三にはこれ無色界、所謂空処・識処・無所有処・非想非非想処天等これなり。)SSZ01-286

 [ヨウ03]・食・睡眠の三欲は具にあり。故に「欲界」という。四王・[トウ01]利・夜摩・兜率・化楽・他化、これを「六欲」という。弗婆提・鬱単越・倶耶膩・[タン04]部洲、これを「四天下人」という。「畜生」とは『婆沙論』に云わく「畜は謂わく畜養、彼の横生は性を禀くること愚痴にして自立すること能わず。他のために畜養せらる。故に畜生と名づく。」また傍行と名づく。「行を行じて正しからざれば、果報を受くること旁〈かたわら〉にして、天を負いて行く。故に傍行という。」また遍有と名づく。「五道の中にみな遍く有るが故に」といえり。「餓鬼」とは、常に飢うるを餓という。鬼の言は帰なり。『尸子』に曰く「古は人死ぬるを帰人とす。また人の神を鬼という」と。『婆沙』に云わく「鬼は畏なり。虚怯にして畏多きが故に。また威なり。よく他をして畏れしむるが故に。また希なり。恒に食を希求するが故に」と。「地獄」とは、地の下にあるが故に地獄という。八寒・八熱、その類無量なり。「等」とは阿修羅を収む。上の諸類の如きを名づけて欲界とす。RY02-10R,10L
 「色界」とは、静妙の色あるが故に。四禅とも総じて十八天あり。ここに繁わしくせず。「禅」とは禅定、或いは静慮という。静慮に依りて至る。故におのおの禅というなり。「無色界」とは、四蘊の成ずるところ、形質はなきが故に。然るに無色の義は宗計同じからず。「須」は往検せよ。「空処」とは、行人は色籠を厭患して牢の如く獄の如しとて、心に出離を欲して、乃ち観智を修し、三種の色を滅して、この天に生まるることを得。空にして所有なきが故に空処と名づく。「識処」とは、虚空を厭患し、ここに於いて観を修して、その空処を捨て、更に識処を縁ずるが故に。「無所有処」とは、識を厭いこれを捨て無所有に入るが故に。「非想非非想処」とは、二辺の想を捨て定に入るが故に。また云わく、凡夫外道はこの定を得る時、涅槃を証すといい、一切の想を断ずるが故に非想という。仏弟子の衆は実の如く細想煩悩ありと知るが故に非非といい、得失合論す。故にこの称に名づく。彼の仏の浄土は欲なく、地に居し、微妙の色あり。既に三界にあらざるが故に勝過せり。また三界は惟心・心空則ちなし。龍渓の王汝中が云わく「心、念慮を忘れば即ち欲界を超ゆ。心、境縁を忘れば即ち色界を超ゆ。心、空に著さざれば即ち無色界を超ゆ。これを出づれば則ち仏衆とす」といえり。故に知りぬ、有漏の偽相は幻の如し、化の如し、何の実かこれあらん。彼の仏の浄土は広略互融して襄なく変なし。あに三界の如くならんや。RY02-10L,11R

【註】此三界蓋是生死凡夫流転之闇宅。雖復苦楽小殊修短暫異、統而観之莫非有漏。倚伏相乗循環無際、雑生触受四倒長拘。且因且果虚偽相襲。SSZ01-286
【註】 (この三界は蓋しこれ生死凡夫の流転の闇宅なり。また苦楽小し殊に、修短暫く異なりと雖も。統べてこれを観ずるに有漏にあらずということなし。倚伏あい乗〈よ〉り、循環際〈きわ〉なし。雑生触受して、四倒長く拘〈かか〉わる。かつは因、かつは果、虚偽相襲〈よ〉る。)(修=ながし)SSZ01-286

 「此三界」の三字は上の段の文を承けて已下の言を起こす。「蓋し」というは発語の端にして、則ちこれ大凡〈おおよそ〉の意なり。盧允武が云わく「語を作さんと欲する時、道理を将〈も〉って一平に普く看て、却りてこの事を議論す。文の中に大抵、起句をなす者あり。また同じ。」「生死凡夫」とは、形を象りて発す、これを「生」という。化窮数尽きたるを、これを死という。三界に往来して、ここに死し、かしこに生ず。生死の凡夫なれば依主釈なり。凡に多種あり。内凡・外凡等、彼に揀異するが故に生死を標す。「流転」とは生死の相なり。『金剛纂要』に云わく「流はこれ集諦、転はこれ苦諦」と。大雲の『疏』に云わく「集は苦果を招くが故に説きて流となす。生死は停まらざるが故に名づけて転となす。」また『顕正記』に云わく「無明行愛取有を流と名づく。この五支体をこれ業煩悩となす。よく諸の有情を漂溺するが故に。余の七支体を転と名づく。この三界苦果を以て輪転の義あるが故に」といえり。因果窮りなく、生死涯を絶し、智明あることなく、昏闇の家の如きなるがゆえに、三界を指して「闇宅」と名づくるなり。RY02-11L,12R-
 「雖復」の下は縦〈ゆる〉す。三善を楽となし、三悪を苦となす。細〈くわ〉しくこれを言わば、三善・三悪おのおの苦楽あり。しばらく人道の如く可楽あり、不可楽あり。五欲の意に適うを可楽の事となし、寒熱・飢渇を不可楽となす。人道既にしかり、余の五も例すべきが故に「小殊」という。「修」は長なり。(『西域記』九の音義。)上地はこれ長、下地はこれ短なり。また六道の中におのおの修短あり。地獄の寿量は六天に倍する等。委しくは『倶舎論』等に出づ。RY02-12R-
 「統而」の下は奪す。三界の楽修は愛すべきに似るといえども、統摂してこれを言わば、有漏雑業の所感なるが故に無上を免れず。善導の『疏〈観経疏〉』に云わく「これ楽と言うといえども、然もこれ大苦なり。畢竟じて一念真実の楽あることなし」といえり。故に知りぬ、真楽は本有なれども失して知らず、妄苦は本空なれども得て覚えず。四倒長拘、善悪輪環す。於嗟〈ああ〉悲しきかな。「倚伏」とは、『老子』云わく「禍は福の倚るところ、福は禍の伏するところ。」『文粋』の一に云わく「喪馬の老は倚伏を秋草に委ぬ。夢蝶の公は是非を春[ソウ12]に任す」と。「倚」は寄なり、「伏」は臥なり。今謂う、因は果の倚るところ、果は因の伏すところ、苦楽・長短、一切みな爾り。故に「相乗」という。「乗」は憑なり、因なり。また物の双ぶを乗というなり。「循環」は上に已に解するが如し。『止観』の一に云わく「善悪輪環」と。『弘決』に云わく「善は非想に通じ、悪は無間に極まる。昇りてまた沈むが故に名づけて輪となす。無始無際、これを喩うるに環の如し」と。『無常経』に云わく「三界内に循環すること、猶し汲井輪の如し」と。然るにこの二句、上の句は生死、下の句は流転。尽くこれ無始一念の妄有なり。故に「莫非有漏」という。然るに三界の中に於いて受くるところの苦楽の身は、これ別業正報なり。所居の勝劣器界は即ち共業依報なり。正報には生老病死あり。依報には成住壊空あり。器界は空にしてまた成る。有情は死して還りて生ず。無始より今に至るまで聯綿して絶えず、迷惑耽恋す。誠に傷むべし。-RY02-12R,12L-
 「雑生」等とは、『大論』の一に云わく「雑純〈報か?〉業の故に世間に雑生し雑触を得、雑受を得」といえり。善悪交雑するが故に雑業といい、雑業の所生の故に雑生という。「触」は、謂く、三和〈根・境・識の三つが合すること。〉分別変異して心・心所をして境に触れしむるを性となし、受・想・思等の所依たるを業となす。「受」は、謂く、違順と倶非と境相とを領納するを性となし、愛を起こすを業となす。『大論』の五に云わく「眼等の六情を生ずる、これを六入と名づく。情と塵と識と合する、これ名づけて触となす。触より受を生ず」等といえり。即ち六触・六受なり。『倶舎疏』に云わく〈cf.華厳経随疏演義鈔〉「根境識の三和して生ずる所、能く触対あるが故に名づけて触となす。」〈cf.倶舎論頌疏〉「謂く、眼識相応の触、乃至、意識相応の触、触体一なりといえども、識に拠りて六に分かつ。」この六触より六受を生ず。謂く、眼触を縁として生ずる所の諸受、乃至、意触を縁として生ずる所の諸受なり。受は領納を義となし、領は謂く収納、納は謂く容納なり。もし違境を領納するときは、則ち心を起こし離れんと欲す。もし順境を領納するときは、則ち心を起こし合せんと欲す。もし非違・非順の境を領納するときは、則ち平平を起こして、合せんと欲せずといえども、また離れんと欲せず。これ受の性なり。欲が所依となるが故に能く愛を起こす。これ受の用なりと。-RY02-12L,13R-
 「四倒」とは、有為相似相続して覆うが故に無常を知らず、横計して常となす。威儀覆うが故に実苦を知らず、妄計して楽となす。作業覆うが故に非我を知らず、妄りに取りて我となす。薄皮覆うが故に不浄を見ず、謬執して浄となす。一切の妄法は実にこれ無常・苦・空・無我なり。衆生は了せずして計して常楽我浄となすが故に四倒という。「拘」は謂く拘碍なり。無始よりこのかた拘碍して息まざるが故に「長拘」という。この二句は惑なり。「且因」は業障、「且果」は報障なり。また因は惑業、果はこれ苦道。三道幻妄なるが故に虚なり。幻にして棊のごとく布くが故に偽なり。また虚因、偽果、互いにあい襲続するがゆえに。襲は席入の切、因なり、合なり、また相続の義なり。『金剛の疏』に云わく「惑業報応襲習綸輪。」長水の記に云わく「襲は謂く承襲、即ち相続の義。惑に由り業を発し、業は能く苦を招く。次第に相続するが故に。習は謂く熏習、即相[ガク02]の義、意は惑業念念[ガク02]学し念念熏習を明かすが故に」と。これみな三界の相なり。-RY02-13R,13L

【註】安楽是菩薩慈悲正観之由生、如来神力本願之所建。胎卵湿生縁茲高揖、業繋長維従此永断。続[カツ01]之権、不待勧而彎弓、労謙善譲斉普賢而同徳。SSZ01-286
【註】 (安楽はこれ菩薩の慈悲、正観の由より生じ、如来の神力本願の所建なり。胎卵湿生、これに縁りて高く揖〈いつ〉し、業繋の長維、これによりて永く断つ。続[カツ01]の権、勧めを待たずして弓を彎〈ひ〉き、労謙善譲、普賢に斉しくして徳を同じくす。)SSZ01-286

 初めの二字は国土の名を標す。「菩薩」は因位を指していい、「如来」は果位に約していう。「慈悲正観」は悲智の二徳なり。『経』に云わく「専ら清白の法を求めて、以て群生を恵利す。」これ慈悲なり。また云わく「空・無相・無願の法に住して、作なく起なし。法は化の如しと観ず。」これ正観なり。また云わく「自利・利人、人我兼利す」と。これ悲智なり。『大論』に云わく〈cf.観経疏伝通記〉「悲智平等の時、菩薩の正位に入る」と。『維摩経』に云わく「諸仏の土、及び衆生と空なりと知るといえども、而も常に浄土を修して群生を教化す」といえり。上の二句はこれ正観。下の二句はこれ慈悲。智ありて悲なきは野于の過を得、悲ありて智なきは愛見の失あり。悲智双具する、これ菩薩の行なり。〈無量寿経〉「その心寂静にして、志、著するところなし。」「〈荘厳〉仏国清浄の行を摂取す。」法本に随順して二諦に違わざるは、悲智の二徳、よく浄土を成ずるが故に「由生」という。「由」は所以なり。慈悲に差あり。下の注解の如し。「正」は邪倒を離る。「観」は能観の智。外邪は観あれども、倒見を離れず。あに正観をなす菩薩は邪を離るるが故に正観という。RY02-14R-
 「如来」は能有なり。「神力本願」は、これ所有の法、〈無量寿経〉「威神力の故、本願力の故」「明了願の故」「究竟願の故」浄国を建立するが故に「所建」という。神力は果にあり、本願は因にあり。慈悲あるが故に能く大願を起こす。正観を修するが故に神力の用を発す。神は不測に名づけ、力は幹用に名づく。不測なれば則ち天然の体深く、幹用なれば則ち転変の力にして大なり。今日の果に対するが故に「本」という。「願」は欲楽の義、四十八を以て果体の身土摂生を欲楽するが故に「本願」という。下の文に云わく「本〈もと〉法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力〈とに依りてなり。〉願は以て力を成じ、力は以て願に就す。願徒然ならず、力虚設ならず。力と願とあい符〈かな〉いて畢竟じて差〈たが〉わざるが故に成就という。」-RY02-14R,14L-
 「胎卵」等は、已下は国の妄因果を離るるを明かす。初めの八字は悪果を離る。後の八字は悪因を離る。四生の中に化生を除くことは彼の土に濫〈鑑か?〉るが故なり。実には妄の化を■〈収か?〉む。牛馬等の如く胎蔵より生まる、これを胎生と名づく。孔雀等の如く卵殻より生ずる、これを卵生と名づく。飛蛾等の如く湿気より生ずる、これを湿生と名づく。諸天等の如く諸根頓具し、無にして[クツ02]〈たちま〉ちあり、これを化生と名づく。『倶舎』の頌に云わく「人と傍生とは四を具す。地獄と及び諸天と中有とはただ化生。鬼は胎化の二に通ず」と。「生」の字は三に通ず。『瑜伽論』に云わく「思業を因となし、卵胎湿生を縁となし、五薀始めて起こる、これを名づけて生となす」といえり。「縁」は依なり。「茲」は是なり。上の「由生」「所建」の二を指す。「揖」は伊入の切、遜なり。(遜は遁なり。)『儀礼』の註に云わく「これを推すなり。手を推すを揖という。韻府に[レイ01]声、高揖と。」また長揖という。『楞伽経』に云わく「世間に長揖す。」『註〈首楞厳義疏注経〉』に云わく「世間を永脱す。故に長揖という。」今、『楞伽』の意と同じ。「業繋」等とは、業は能く人を繋ぎて所趣に至らしむ。無始以降未だかつて挫断せざるが故に「長維」に喩う。業は謂く惑業、繋は謂く緊縛、長は謂く無窮、維は謂く綱維なり。『正法念経』云わく「繩して飛鳥を繋ぐるに遠しといえども摂すれば即ち還るが如し。衆生の業に牽かるるも、まさに知るべし、またかくの如し」と。「胎卵湿生」はこれ即ち報障、「業繋長維」は惑業の二を摂す。彼の土はこれを離れて三徳円満す。故に「永断」という。永は暫爾を揀ぶ。断は伏除を簡ぶ。-RY02-14L,15R-
 「続[カツ01]」より下は還相の権徳を明かす。もし能生の行者に約せば、上の「胎卵」等の四句は往相入実の相を明かす。「[カツ01]」は古活の切し、通じて筈に作る。箭の末を筈という。筈は会なり。謂く、弦と相会するなり。『大論』の三十六に云わく「譬えば仰ぎて虚空を射ち、箭箭あい[チュ01]〈ささえ・あげ〉て地に堕ちざらしむるが如し。菩薩もかくの如し。智恵の箭を以て仰ぎて三解脱の虚空を射ち、方便の後箭を以て、前箭を射ち涅槃の地に堕ちざらしむ。菩薩は涅槃を見るといえども、直に過ぎて住らず。更に大事を期す。いわゆる阿耨多羅三藐三菩提なり」と。(『同論』の七十六巻に云わく「弓はこれ菩薩の禅定」等。)これ即ち菩薩は実際に住せず十方界に於いて方便度生するの権徳を嘆ずるなり。権は謂く権謀、即ち善巧方便なり。また『原人論の解』に云わく「権は謂く権化、また権宜といい、秤錘を権という。言うこころは、能く軽重を酌量し、以て聖人の方便、時宜を分別して、器に随いて道を授くるに喩う」といえり。下の「善巧摂化」これなり。無心に往来して、初めに動想なし。水と月と昇降無心の如し。度生仏事、他の策を容れざるが故に勧めを待たず。彎は古還の切、引くなり。弓を開くなり。-RY02-15R,15L-
 「労謙」等は、『経』に云わく「彼の仏国に生まるる諸の菩薩等は競うことなく、訟うことなく慈悲心を得」等といえり。『維摩経』に云わく「この諸の菩薩は、またよく労謙す。」『文珠仏土荘厳経』に云わく「乃ち能く勞謙して群生を忍誨す」といえり。労は功なり。事の功を労という。謙は敬なり、譲なり、自満せざるなり。彼の土の聖衆は度生の労ありて、しかも矜伐せず。敬謙して他に譲りて自満せざるなり。『周易』の謙卦に云わく「九三は労謙君子は終を有〈たも〉って吉なり。」『伝』に云わく「三は陽剛の徳を以て、しかも下体に居す。衆のために陰の宗とせらる。履、その位を得て下の上となす。これ上を君の所任となし、下を衆の所従となす。功労ありて謙徳を持つ者なり。故に労謙という。古の人にこれに当たる者あり。周公これなり。身は天下の大任に当たり、上に幼弱の主を奉る。謙恭自収し、[キ12][キ12]として畏るるが如し。然るに労ありて而も能く謙すといいつべし。」-RY02-15L-
 「善譲」とは、謙の故によく譲る。謙は推して以て人に与うるなり。『少補韻会』の二十三に云わく「一に曰く、謙なり。」『儀礼』に「聘礼の賓、門に入れば、皇、堂を外し譲る。」『註』に謂く「手を挙げ平衡するなり。」「曲礼〈礼記 曲礼篇〉」に「退譲して以て礼を明かす。」『註』に云わく「受に応じて推するを譲という。」『論語』に、人を先にし己を後にす、これを譲という。また『孝経』に云わく「これを先にするに謙敬を以てす、而して民争わず。」『註』云わく「上、敬をなせば、則ち下、慢ならず。上、譲を好めば、則ち下も争わず。上の下を化すること、猶し風の草を靡かすがごとし」といえり。彼の土の菩薩は利他を行ずる時、善譲して争わず、人を先にし、己を後にす。その功を矜〈ほこ〉らざるが故に善譲という。-RY02-15L,16R-
 「斉」とは謂く斉等、無差の義なり。「普賢」は菩薩の別名、梵に[ヒツ02]輸跋陀という。『円覚の疏』に云わく「一に自体に約す。体性周遍するを普という。縁に随し徳を成ずるを賢という。二に諸位に約す。曲済、遺ることなきを普という。極に隣りし聖に亜〈つ〉ぐを賢という。三に当位に約す。徳の周かざることなきを普という。調柔善順を賢という」と。この菩薩は十大願を起こし、慈悲願力をもって恒に衆生に順ず。故に十方界の諸大菩薩の大悲を修むる者を同じく普賢と名づく。『楞厳経』に謂う所の「十方如来はその弟子の菩薩根の者をして普賢行を修せしめ、我により名を立つ」と、これなり。『経〈無量寿経〉』の二十二願に云わく「現前し、普賢の徳を修習せん」と。故に知りぬ、彼の土の菩薩は尽く普賢の徳に遵じ、恒順の悲を満足するが故に「同徳」という。権徳既に然り。実智あに測らんや。-RY02-16R-

【註】勝過三界抑是近言。SSZ01-28SSZ01-286
【註】 (勝過三界というは、そもそもこれ近言なり。)SSZ01-28SSZ01-286

 「近言」とは、未だ道理を尽さざるの謂なり。然るに二つの意あり。一に云わく、三界沈墜は衆生の嫌うところ、嫌機に随順するを且く「勝過」という。弥陀の浄土は実に等双なく、諸仏の刹に超えて最も精粋たり。しかるにただ「勝過三界」という。これ権宜の文称なるが故に「近言」なり。二に云わく、浄土の快楽は牟尼の弁才をもって昼夜一劫すれども、なお未だ尽くすべからず、たとい「勝過三界」といえども、なおこれ大海の一渧、それ知らざるところなり。大海水の如く、論主は未だ勝過の道理を尽くさざるが故に「近言」なり。また或人の云わく、心に法界を包む、三界なんぞ劣ならん。既に「勝過」というは取捨の妄情なり。真実際の中にあに取捨勝劣の異あらん。今、勝過というは、これ世諦に約すが故に、これ「近言」なり。「抑」は盧允武が云わく、反語の辞はほぼ上の文の旨に反す。また云わく、還是の意、脈を診〈こころむ〉る如き、指を以て按抑してその然る所を究むるなり。RY02-16R,16L