浄土論註翼解 第2巻の(9の内)
観察門
器世間荘厳成就
 第3 性功徳


無量寿経論註翼解 巻二之四  

【論】正道大慈悲 出世善根生。SSZ01-287
【論】 (正道の大慈悲 出世善根より生ず。)SSZ01-287

 「正道」は理法なり。「慈悲」は妙理の所生の用なり。理・悲の二法は有為を脱離するが故に「出世」という。出世の善を即ち浄土の性根となすが故に「善根」という。上の九字は能生の法なり。浄土はこれ所生の境なり。「生」の字は二に通ず。これ即ち正道の大慈悲なるが故に、慈悲即ち出世の故に、出世の善なるが故に、善即ち根なるが故に。依主と持業との二釈、知るべし。RY02-21L

【註】此二句名荘厳性功徳成就。SSZ01-287
【註】(この二句を荘厳性功徳成就と名づく。)SSZ01-287

【註】仏本何故起此荘厳。SSZ01-287
【註】 (仏もと何が故ぞこの荘厳を起こしたまえる。)SSZ01-287

【註】見有国土。以愛欲故則有欲界、以攀厭禅定故則有色無色界。此三界皆是有漏邪道所生。長寝大夢莫知[キ03]出。SSZ01-287
【註】 (ある国土を見たまうに、愛欲を以ての故に則ち欲界あり。攀厭禅定を以ての故に則ち色・無色界あり。この三界はみなこれ有漏邪道の所生なり。長く大夢に寝て[ケ01]出を知ることなし。〈[ケ01]=もとむ〉)SSZ01-287

 貪染の心、これを名づけて愛となす。欲は希求の義。[ヨウ03]〈婬か?〉食等の希求を具足するが故に欲界と名づく。愛に麁細あり。細は上界に通じ、麁は欲界に限る。『四十二章経』に云わく「人をして愚蔽ならしむものは愛と欲となり」と。『荘椿録』に云わく「五趣雑居一切有情、未だ貪欲を離れざるが故に欲界と名づく。註に云わく、欲に五種あり。財と色と食と名と睡となり。」「攀」は披班の切し、下より上を援〈ひ〉くなり。「厭」は於[エン16]の切し、下を棄絶するなり。上地の静妙離を欣攀して、下地の麁苦障を厭棄するが故に「攀厭」という。四禅四空、これを禅定という。八定の相は『次第禅門』に出づ。一本に厭を縁に作る。『楞厳』に云わく「攀縁の心を用て自性とする者なり。」『疏〈首楞厳義疏注経〉』に云わく「縁を聚めて内に揺〈うご〉き、外に趣きて奔逸す。故に攀縁という」といえり。麁細に差なりといえども、攀縁の義は同じ。今は「厭」の本に順う。RY02-22R-
 「欲」「色」等とは、塵境に染愛する、これを名づけて欲となす。欲をもって上界に別かつ。名づけて欲界となす。然るに欲界の中に、また己身に著す。ただ五塵を欲するは下にあり。上にはなし。上界に別かつために欲に就きて名づく。色界の名は下に対して以て名づく。応に無欲と名づくべし。この界の中には内の色形に著するを以て、その所著に従うが故に、名づけて色となす。色をもって上下を別かつ。称して色界という。無色というはその所取に従えば、応に心界と名づくべし。この界の中にはその色報を絶するを以て、下に背きて名を彰わすが故に無色という。これを以て下に別して無色界と名づく。妄想は内に動き、界趣は外に感ずるが故に「邪道所生」という。三界は虚偽にして唯心の所作なり。心に所住なし。なおし夢境の如くなるが故に「大夢」という。異生はこれを実として輪環絶えざるが故に「長寝」という。寝は七稔の切し、臥なり。睡眠は無明に比す。夢境は三界に喩う。『唯識論〈成唯識論述記〉』に云わく「未だ真覚を得ず、恒に夢中に処するが故に、仏は説きて生死の長夜となす」といえり。「[ケ01]」は忻なり。夢に処して、夢を忘れ、迷いに息て、迷いを宝とす。故に「莫知」という。-RY02-22R,22L

【註】是故興大悲心。願我成仏、以無上正見道、起清浄土出于三界。SSZ01-287
【註】 (この故に大悲心を興したまう。願わくは我成仏せんに、無上正見の道を以て清浄の土を起こして三界を出しめんと。)SSZ01-287

 これに過ぐるものなし。故に「無上」という。法本に乖かず。故に「正見」という。有漏邪道の所生にあらずして、出世善根より生ずるが故に、土体潔浄なり。あに三界大夢の境の如くならんや。RY02-22L,23R

【註】性是本義。言此浄土随順法性、不乖法本。事同華厳経宝王如来性起義。SSZ01-287
【註】 (性はこれ本の義なり。言うこころは、この浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、華厳経の宝王如来性起の義に同じ。)SSZ01-287

 「性」は浄土の性なり。『智度論』に云わく「性とは本に名づく」と。下の文に「一法句」というは、これ浄土の性本なり。「法性」とは、慈雲〈遵式〉の『肇論の疏』に云わく「法は謂わく軌則任持、性は乃し融通不改なり。真常の法体、寂寥冲深にして、三際易らず。物をして解しべからしむるが故に法の名を受く。万物を融通すいえども、しかも無分を失わざるが故に性の名を受く」と。また『起信の疏』に云わく「法性とは、真体普遍の義を明かす。通じて一切の法のために性となる。即ち真如は染浄に遍し、情・非情に通ずることを顕わす。」これ則ち法はこれ随縁の万法、性は真如不変に約すと。「法本」というは法性の異名なり。謂く、万法の本なるが故に。下に謂わゆる一法句なり。謂く宛爾として浄土を荘厳し、しかも法性の無性に乖かず。法性全く起きて荘厳を成ずるなり。RY02-23R,23L-
 「同華厳」等とは「如来性起品」に出ず。『経』に云わく「如来性起正法は一切如来平等智恵光明の所起なり」と。また云わく「普賢菩薩、如来性起妙徳菩薩等の諸の大衆に告げたまわく。仏子。如来応供正覚性起正法は不可思議なり。所以はいかん。少因縁をもって等正覚を成じ世に出興するにあらず。(乃至 十二種因縁法あり。)また次に仏子。譬えば世界初始成ずる時の如そ。大水輪ありて、三千大千世界に遍満し、世界に満ち已りて、大蓮華を生ずるを如来性起と名づく。諸の功徳宝を以て荘厳となす。(乃至)諸仏最初〈勝か?)如来性起の法、無量功徳蔵は一切よく知ることなし。」「宝王」とは『経〈華厳経〉』に「諸功徳宝」と云う。法性の理を指して宝王というなり。『六要抄』に云わく「宝王如来はこれ仏の名にあらず。これ法性を指す。性起というは、一切の諸法はただ法性を以てその所依として縁起するの意なり」といえり。今謂わく、安楽浄土の依正の荘厳は、みな法性よりして現起するが故に、二理異なることなきが故に「事同」という。法蔵の『探玄記』の十六に如来性起品の題を釈して云わく「真理を如と名づけ、性と名づく。顕用を起と名づけ、来と名づく。即ち如来を性起となす。」また『孔目章』の四に云わく「性起とは、一乗法界縁起の際、本来究竟して修造を離れたることを明かす。」これ即ち「無住の本より一切の法を立つる」の義なり。-RY02-23L,24R

【註】又言積習成性。指法蔵菩薩集諸波羅蜜積習所成。SSZ01-287
【註】(また言わく積習して性を成ず。法蔵菩薩、諸の波羅蜜を集めて積習して成じたまう所を指す。)SSZ01-287

 「積」は積累、「習」は数習なり。思いを五劫に積み、行を永劫に習う。ここに因って彼の土の体性を成ず。『六要抄』に云わく「法蔵因位の修行に約す。彼の万行諸度積習の大功力に依りて、その性を成就す。自然の徳なり」と。「法蔵」というは、所聞の法は受持して失わざること、猶し庫蔵の如し。故に法蔵という。「波羅蜜」とは、此には到彼岸という。一にあらざるを「諸」という。『経〈無量寿経〉』に云わく「自ら六波羅蜜を行じ、人を教えて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累す」と。「集」は即ち「積習」の義なり。RY02-24R

【註】亦言性者是聖種性。序法蔵菩薩於世自在王仏所悟無生法忍、爾時位名聖種性。於是性中発四十八大願修起此土、即曰安楽。浄土是彼因所得。果中説因故名為性。SSZ01-287
【註】(また性というはこれ聖種性なり。序〈はじ〉め法蔵菩薩、世自在王仏の所〈みもと〉に於いて、無生法忍を悟りたまう。その時の位を聖種性と名づく。この性の中に於いて四十八の大願を発してこの土を修起したまう。即ち安楽と曰う。浄土はこれ彼の因が所得なり。果の中に因を説く。故に名づけて性となす。)SSZ01-287

 『本業瓔珞経』に六種性を説きて謂わく、習種性(十住)、聖種性(十行)、道種性(十向)、聖種性(十地)、等覚性、妙覚性なり。種性というは、種は即ち種子、発生の義あり。性は即ち性分、乃し自分不改の義なり。謂く、前の諸位はみな賢位と名づく。十地の菩薩は中道妙観を修するに由りて無明の惑を破し聖地に証入す。故に聖種性と名づく。法蔵比丘は初地の位に居して願を発すが故に。『六要抄』に云わく「これは因中発願の位に約す」と。「序」とは端緒なり。創始の義なり。「世自在王仏」とは、梵には楼夷亘羅という。憬興の『疏』に云わく「一切の法に於いて自在を得。」故に玄一の『疏』に云わく「世間の利益自在なるが故に世自在という。」また世饒という。即ち自在の義を王とするなり。RY02-24L,25R-
 「無生法忍」とは、『玄賛』に云わく「無生はこれ境、所執の生なし。法とはこれ教、無生を詮ずる教なり。忍とはこれ印証の義なり。地前の昔は聞きても未だ智証すること能わず。地上に登る智をもって能く印証するが故に無生法忍と名づく」と。良賁の『仁王疏』に云わく「無生というは、謂わく即ち真理なり。智の真理を証るを無生忍と名づく。(乃至)もし能証の智を無生忍と名づく、兼て所証の如を無生法忍と名づく。即忍と之忍と二釈に通ず」といえり。所引の二解、法の字の異釈、考検して識るべし。また『智論』の五十に云わく「無生滅の諸法実相の中に於いて、信受通達し無碍不退なる、これを無生法忍という」といえり。『経〈無量寿経〉』に云わく「その心寂静にして、志、著するところなし。一切の世間に能く及ぶ者なし。」慧遠の『疏』に云わく「証智の相を離るるが故に心寂静なり。地前に超過するが故に能く及ぶことなし。」これ即ち無生忍を悟るの智なり。-RY02-25R-
 (『大乗義章』に云わく「無生忍とは境によりて名となす。理寂にして起きざるを称して無生という。恵のこの理に安ずるを無生忍と名づく。」)RY02-25R
 然るに発願の位は諸師異解す。あるが曰く、初地と。あるが曰く、八地・十地と。初地というは、『群疑論』に云わく「法蔵菩薩、経の所讃の如きはこれ十地聖人にして、これ地前三賢の大士にあらず。」既に地前を遮す。故に知りぬ、初地なることを。また『倶[チ01]羅経』に云わく〈cf.観経疏伝通記〉「阿弥陀仏はこれ初地の能化」と。果を以て因を推するが故に知りぬ初地なり。義寂もまた云わく「その時、初地の位に登るが故に」と。八地というは、嘉祥の云わく「北地の師の云わく、八地已上、法身の位にして願を以て造るところなるが故に報土なり」と。『大論』の五十に八地を説きて云わく「菩薩あり、仏は将いて十方に至り、清浄の世界を示し、浄国の相を取りて自ら願行を作る。世自在王仏の、法積比丘を将いて十方に至り、清浄世界を示すが如し」といえり。この文言に拠れば、八地発願なり。十地というは、智光の『釈』に云わく「法蔵の発心は、これ第四の一生補処の発心に当たる。」と。三解の中に取捨は機にあり。ただし初地の解、最も穏当たり。-RY02-25R,25L-
 問う。『仁王経』に五忍を説く中の無生忍はこれ遠行と不動と善慧の三地なり。既に無生忍を悟るという。これ七地已上に当たる。今、初地という、あに乖かざるや。答う。註家の意、実義知りがたし。ただし無生忍の名は浅深の位に通ず。謂く、『華厳経』に無生忍を六信已上にありと説く。『占察経』に説くは十信の前にあり。また迦才の『論〈浄土論〉』に云わく「無生法忍にまた四種あり。一には教に縁るが故に、無生法忍を得。いわく一切の凡夫、及び十信位の人は大乗経論を読み、無生の解を作す。即ちこれ聞恵なり。二には観に縁りて無生法忍を得。いわく十解已上、乃至十回向なり。いわく三無性の観を作し、万法の無生を解す。即ちこれ思恵なり。三には理を証して無生法忍を得。いわく初地已上なり。遍満法界二空の真如を証るに由る。即ちこれ修恵なり。四には位に約して無生法忍を得。いわく八地已上なり。真俗双行を得るに由る。即ちこれ無功用の智、これ修恵なり。」故に知りぬ、無生忍の名は七地以上に局らず。然るに浄土の諸師は多く初地という。義親しく理宜しきが故に、今、初地という。学者思択せよ。「果の中に因を説く」とは、浄土の果の中に聖性の因を説き、因を以て果を彰わし、果上に因を説くが故に「性功徳」というなり。-RY02-25L,26R

【註】又言性是必然義不改義。如海性一味衆流入者必為一味海味不随彼改也。又如人身性不浄故種種妙好色香美味入身皆為不浄。SSZ01-287,288
【註】 (また言く、性はこれ必然の義、不改の義なり。海性一味にして、衆流入りぬれば、必ず一味となりて、海味、彼に随いて改まらざるがごとし。また人身の性は不浄なるが故に、種種の妙好の色香美味、身に入りぬれば皆不浄となるがごとし。)SSZ01-287,288

 この二喩はもと『大論』の第十九巻に出づ。喩の中に「必ず一味となる」とは、これ必然の義なり。「彼に随いて改まらざる」とは、これ不改の義なり。「みな不浄となる」はこれ必然の義なり。性変わらざるは、これ不改の義なり。RY02-26L

【註】安楽浄土諸往生者、無不浄色無不浄心、畢竟皆得清浄平等無為法身。以安楽国土清浄性成就故。SSZ01-288
【註】 (安楽浄土、諸の往生の者〈ひと〉、浄色ならざることなく、浄心ならざることなし。畢竟じて皆清浄平等無為法身を得。安楽国土清浄の性成就せるを以ての故に。)SSZ01-288

 『六要抄』に云わく「これ安楽浄土畢竟清浄成就当体の性に約してこれを解す。」「浄色」というは、染の身色なし。『経〈無量寿経〉』に云わく「諸の往生する者は、かくの如きの清浄色身〈諸妙音声、神通功徳〉を具足す。」また云わく〈無量寿経〉「天にあらず人にあらず。皆、自然虚無の身、無極の体を受けたり。」「浄心」というは、無著の真心なり。『経〈無量寿経〉』に云わく「競なく訟なし」「適莫するところなし。彼なく我なし」「我所の心なく、染着の心なし。去来進止に、情に係〈かく〉るところなし」等と。「清浄」等とは、浄色・浄心の体を嘆ず。現相を離る、これを清浄という。転相を亡ず、これを平等という。業相を[ショウ21]〈て〉らす、これを無為という。この三つのものを法身の徳となすなり。次の如く解脱・般若・法身の三徳なり。また悲・智・理等の十種の三法、みな悉く具足せり。垢染なきが故に「清浄」といい、高下なきが故に「平等」といい、造作なきが故に「無為」といい、往生の行人は感得せざることなきが故に「畢竟皆得」という。「以安楽」の下はその所由を明かす。RY02-26L,27R
 (元暁『小経疏』に云わく「自然に三宝を念ずる心を生ずというは、正はこれ性心、出世の善根の種子に依りて、功用を待たず自然に生ずるを以ての故に、三宝を正念して邪を離れ正に帰す。結道衆行の故に正道と名づく。この三宝の勝妙功徳を念じて、一切に回施するを大慈悲と名づく。」)RY02-27R
【註】正道大慈悲 出世善根生者、SSZ01-288
【註】 (正道大慈悲 出世善根生というは、)SSZ01-288

 「正道」はこれ根本智、「慈悲」はこれ後得智なり。有漏の因果を抜く、これを悲といい、無漏の因果を与うる、これを慈という。この二種の智はともにこれ無漏なるが故に「出世」といい、無漏の善によりて修起する土なるが故に「生」というなり。この二智の善を浄土の性となすが故に「性功徳」というなり。RY02-27R

【註】平等大道也。平等道所以名為正道者、平等是諸法体相。以諸法平等故発心等。発心等故道等。道等故大慈悲等。大慈悲是仏道正因。SSZ01-288
【註】 (平等の大道なり。平等の道を、名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるを以ての故に発心等し。発心等しきが故に道等し。道等しきが故に大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なり。)SSZ01-288

 法性の妙理、弥陀の実智、これを「大道」という。諸法に周遍して高下あることなきが故に「平等」という。『般若円集釈論』の三に云わく「平等とは斉等無差の義なり」と。『経〈妙法蓮華経〉』に云わく「諸法は本よりこのかた常に自ずから寂滅の相なり」と。古〈蘇東坡〉に謂わゆる「渓声即ちこれ広長舌、山色あに清浄身にあらずや」と。「大」とは当体を名とし、常遍を義とす。「道」は即ち理なり。また道は能通の義、よく諸法に通じ、よく仏果に通ずるが故に「諸法体性」という。『大般若』五百七十「平等品」に云わく「天王また問う。法性平等、何をか平等という。何の法を等しくするが故に名づけて平等となすや。仏言わく。諸法の自性は生ぜず滅せず等の故に平等と名づく」と。平等の真理は万法の体相なり。平等の理を以て菩提心を発すが故に「発心等し。」『六要抄』に云わく「これ如理平等の心より発す所の心なるが故に、これを心等という。」然るに『華厳経論』に発心等を釈して四の平等を明かす。一には法平等。法無我に通達するに由るが故に。二には衆生平等。自他平等なることを得るに至るに由るが故に。三には所作平等。他をして苦を尽くさせしめ、自ら苦を尽くすに由るが故に。四には仏体平等。法界と我と別なきに由りて決定してよく通達するが故に。この四等を具するが故に発心ひとし。RY02-27L,28R-
 「道等」というは、『六要抄』に云わく「これ謂わく、所履の道これなり。」既に発心等し、故に所修の道またまた斉等なりと。『華厳』に云わく「十方無碍人、一道より生死を出づ」これなり。「慈〈悲〉等」とは、『六要抄』に云わく「これを能履の慈等というなり。」また〈六要抄〉云わく「展転相成して等の義あるべし。然る所以は、諸法平等にして理性本浄なり。これを離れて諸余の別法あることなし。この平等無相の理より発する所の心なるが故に、その心これ等し。所等の心より修する所の道なるが故に、その道これ等し。所等の道より垂るる所の慈なるが故に、慈もまた等し。」この四の中に於いて、初めの一は理本、後の三は事末、中の二は上求、第四は下化、第一は二を兼ぬ。-RY02-28R-
 「正因」というは、『大論』の二十七に云わく「慈悲はこれ仏法の根本」と。『大集経』の二十九に云わく「一切智を修するは大悲を以て本とす。」『観経』に云わく「仏心は大慈悲これなり。」今いう正道所起の大慈悲は仏道の正因なるが故に正道慈悲を以て浄土の性とするなり。RY02-28R,28L

【註】故言正道大慈悲。SSZ01-288
【註】 (故に正道の大慈悲という。)SSZ01-288

【註】慈悲有三縁。一者衆生縁是小悲。二者法縁是中悲。三者無縁是大悲。SSZ01-288
【註】 (慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲、二には法縁、これ中悲、三には無縁、これ大悲なり。)SSZ01-288

 愛憐を慈と名づけ、惻愴を悲と名づく。慈はよく楽を与え、悲はよく苦を抜く。慈をもって与楽せんと欲すとも、悲の抜苦なければ、与楽は成ぜず。悲の抜苦に由りて与楽まさに[X17]〈熟か?〉す。故に悲は慈を資く。悲をもって抜苦せんと欲すれども慈の与楽なければ、苦は終に去らず。慈の与楽に由って苦はまさに離るべし。故に慈は悲を資く。RY02-28L-
 三縁の異は『涅槃経』の十四、『仏地経論』の第五、『智度論』の二十等に出づ。「衆生縁」とは、謂く平等の智を以て一切衆生を観ずること猶し赤子の如し。大慈心を運んでこれを弘済し、それをしてみな安楽を得せしむ。「法縁」とは、謂く平等の智を以て、一切法はみな因縁和合よりして生じ、自性なしと了り、自性なしといえどもよく大慈心を運び、これをを弘済すと観じ、それをして皆安楽を得しむ。「無縁」とは、謂く平等智を以て無心に一切衆生を攀縁して、一切衆生に於いて自然に益を獲せしむ。故に『輔行』に云わく「この慈悲を運んで法界に遍覆するが故に能く任運に苦を拔き自然に楽を与う。」『大乗義章』の十一に「問いて曰わく、法縁は我人衆生等の相を見ず。云何が慈を行ずるや。釈するに両義あり。一には無我を見るに由る。諸の衆生は妄に我人のために纒縛さるると深く哀愍すべきと念ず。所以に慈を生ず。二には念じて生のためにかくの如きの法を説く。これ即ち真の利楽なるが故に行慈と名づく。五陰の空を観ずるを名づけて無縁という。問いて曰わく。無縁というは云何が慈を行ずるや。還りて両義あり。一には法空を見るに由る。諸の衆生は妄に虚法のために纒縛さるると念ず。所以に慈を生ず。二には念じて生のためにかくの如きの法を説く。故に行慈と名づく」といえり。-RY02-29R-
 小中大〈小悲・中悲・大悲〉とは、『大論』の二十に云わく「衆生縁は多く凡夫人の行処にあり。或は有学の人の未漏尽の者にあり。法縁を行ずるは、諸漏尽の阿羅漢・辟支仏等なり。」「無縁はこの慈はただ諸仏のみあり」と。これ竪の義に約して、且く三品を立つ。もし横の義に約せば互いに通じて局ることなし。広くは天台と浄影との経疏に出づ。また良賁の『仁王経の疏』に云わく「悲に四種あり。一には外道・異生は愛見の悲を起こす。二には声聞・独覚は欲の苦生を縁じて観行の悲を起こす。三には菩薩利楽は同体の悲を得。四には諸仏世尊は無縁の悲を得。」今は無縁を指して大悲善根となすなり。-RY02-29R,29L

【註】大悲即出世善也。安楽浄土従此大悲生故。故謂此大悲為浄土之根、SSZ01-288
【註】 (大悲は即ち出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ずるが故に。故にこの大悲を浄土の根とすといえり。)SSZ01-288

 「出」は謂く出離、「世」は謂く世間。『析玄記』に云わく、世に四義あり。一に破壊すべき義、二に生滅あるの義、三に真理を隠すの義、四に性有漏の義。この四を出離するが故に出世という。無縁の大悲は即ち出世の善なり。『梁の摂論〈玄奘訳か?〉』に因円浄を説きて云わく「勝出世間善根の所起」と。『密厳の疏』に云わく「他受用土は法性土に於いて悲願力を以て建立す」と。これなり。RY02-29L

【註】故曰出世善根生。SSZ01-288
【註】 (故に出世善根生と曰う。)SSZ01-288