浄土論註翼解 第3巻の6(9の内) 観察門 器世間荘厳成就 第14 受用功徳 |
無量寿経論註翼解 巻三之六 |
【論】受楽仏法味 禅三昧為食。SSZ01-294 【論】 (仏法の味を愛楽して、禅三昧を食とす。)SSZ01-294 「愛楽」とはこれ受用の義なり。『本行経』の六に云わく「愛樂はこれ法明門なり。心をして清浄ならしむるが故に」と。大乗の法味を「仏法味」と名づけ、二乗の法を簡ぶ。「禅三昧」はこれ一乗相応の定なるべし。『摂大乗〈摂大乗論釈 真諦訳〉』に持円浄を明かして云わく「大法味喜楽所持と。釈して曰く。大乗十二部経を大法と名づく。真如解脱等を味となす。この法味に縁りて諸の菩薩の喜楽を生じ、諸の菩薩の五分法身を長養す。この句は持円浄を明かす」といえり。『仏地論〈仏地経論〉』に云わく「かくの如く浄土の眷属は円満にして、中に於いて止住す。何を以て任持するや。広大法味喜楽の所持なり。謂くこの中に於いて大乗法味喜楽の所持なり。食は能く住せしむ。これ任持の義なり。」RY03-16R,16L- 問う。浄土は三界の行処に超過す。云何が食あるや。また無漏法は応に食と名づくべからず。食は能く三有の衆生を長養す。これは有を断ずるが故に、応に食と名づけざるべし。答う。これは『仏地〈仏地経論〉』を問うなり。全く小乗による。『論〈仏地経論〉』に自ら会して云わく「これ任持の因なるが故に、また食と名づく。汝の宗の中に色界等に生じ無漏定に入る、また食と名づくべきが如し。過去の食を名づけて食となすべきにあらず。過去は無なるが故に。これまたしかるべし。これ任持の因なるが故に、説きて食となす。有漏の法は無漏を障うといえども、然るに有漏を持つ、名づけて食となすことを得るが如し。無漏もまたしかり。有漏を断つといえども、然るに無漏を持つ。云何が食にあらざるや。この浄土の中の諸仏菩薩は後得無漏にして大乗の法味を能く受け能く説きて、大喜楽を生ず。また正体智は真如の味を受けて大喜楽を生ず。能く身を任持して、断壊せざらしめ、善法を長養するが故に名づけて食とす」といえり。「味」の字は、下の「禅三昧」に亘るなり。慈恩の云わく「味は資身の用なり。世間の味は寿命を資くるが如く、出世の味は恵命を益するが故に」と。-RY03-16L- (『涅槃』十六に云わく「仏より数〈しばしば〉聞きて多く法味を得。所謂る出〈家〉味、離欲味、寂滅味、道味なり。」)-RY03-16L- 今謂く。浄土に往生すれば、法を聞き歓喜し、即ち善根を増長することを得て恵命を資益す。これを仏法食と名づく。(即ち法喜食。)定力を得るに由りて自ら資して恵命を長養す。道品円明にして、心常に喜楽す、これを名づけて禅悦食とす。定に入る力を以て諸の食物を現じ、自ら用いてこれを食し、他に与え食せしむ。これを「三昧食〈三昧為食〉」とす。『増一阿含』の四十一に九種の食を説き、禅悦食、法喜食あり。小乗既にしかり。況んや大乗をや。元暁の『疏』に云わく「然るに彼の土の食に二種あり。一には内食、この論に説くが如し(今論を指す。)二には外食、余経に説くが如し(もし食せんと欲する時、百味盈滿す等の文なり)。」今、註家に依らば、三昧食とは即ち外食なり。禅と三昧とは広狭・通局の異なり。食に長養資益の義あり。-RY03-16L,17R 【註】此二句名荘厳受用功徳成就。SSZ01-294 【註】 (この二句を荘厳受用功徳成就と名づく。)SSZ01-294 『瑜伽論』の五に二つの受用を説く。一には受用欲塵、二には受用正法なり。今はこれ受用正法なり。愛楽為食は即ちこれ受用の貌なり。RY03-17R 【註】仏本何故興此願。SSZ01-294 【註】 (仏もと何が故ぞこの願を興したまう。)SSZ01-294 【註】見有国土、或探巣破卵為[ボウ02](盛食満貌亡公反)饒(飽也多人消反)之[ゼン01]。或懸沙指[タイ02]為相慰之方。鳴呼諸子実可痛心。SSZ01-294 【註】 (ある国土を見たまうに、あるいは巣を探り卵を破りて、[ボウ02]饒の[ゼン01]〈そなえ〉とす。あるいは沙を懸け[タイ02]〈ふくろ〉を指して相慰むるの方とす。嗚呼、諸子実に痛心すべし。)SSZ01-294 【註 割注】 [ボウ02]=食を盛りて満つる貌。亡公の反。饒=飽なり、多なり。人消の反。SSZ01-294 「探」は他含の切、摸取、窺索なり。「巣」は仕交の切、鳥の穴に在るを[カ05]といい、木の上に在るを巣という。「卵」は、音は鸞の上声。およそ乳なきものは卵生す。『集韻』に「殻なり、鳥卵なり。」「[ボウ02]」は、音は蒙、盛器満る貌〈かたち〉なり。「[ゼン01]」は膳と同じ、食を具えるなり。また美食なり。庖人は味を和するに必ず善を加えるが故に善に従うなり。「懸」は掛なり。「沙」は細散せる石なり。「[タイ02]」は、音は代、嚢なり。「[イ04]」は、音は畏、これを安んじてその情に[キョウ08]〈かな〉うなり。俗には慰に作る。「方」は術なり。または策〈はかりごと〉なり。『宗鏡録』の七十三に云わく「饑饉の歳、小児、母に従いて食を求めて啼きて止まず。母遂に沙嚢を懸けて誑きて云う。これはこれ飯なりと。児は七日、その嚢を諦視て将にこれを食とす。その母七日後、解下してこれを視る。その児、これ沙なりと見て望みを絶ち、これに因りて命終す」と。『倶舎論』には灰嚢を懸けると説く。「嗚呼」は傷感の詞〈ことば〉なり。『倶舎』の中に二子を慰むと説く。二子倶に死するが故に「諸子」という。あるいは諸人を指す。巣を探りて受用するは、労ありて罪を結し、沙を懸けて誑慰するは受用せずして死す。有といえども、無といえども、共にこれ苦源なり。「心」は謂く胸心、現には則ち巣を探りて労患し、子を誑きて倫を絶し、当には則ち殺生の報を感ず。生前に労あり、死後に報あるが故に「痛心」という。RY03-17L,18R 【註】是故興大悲願。願我国土以仏法、以禅定、以三昧為食、永絶他食之労。SSZ01-295 【註】 (この故に大悲の願を興したまう。願わくは我が国土には仏法を以てし、禅定を以てし、三昧を以て食として、永く他食の労を絶せんと。)SSZ01-295 「他食」とは生死の色身を長養する四食なり。段と蝕と思と識と、これを四食という。食体に過なし。生死の身を養うが故に諸惑を生ず。これを過失とす。これ浄土の永く絶つる所以なり。RY03-18R 【註】愛楽仏法味者、如日月灯明仏説法華経六十小劫、時会聴者亦座一処六十小劫謂如食頃。無有一人若身若心而生懈倦。SSZ01-295 【註】 (仏法味を愛楽すとは、日月灯明仏の法華経を説きたまうこと六十小劫なりしに、時会の聴者もまた一処に坐して六十小劫を食頃のごとしと謂〈おも〉いて、一人としてもしは身、もしは心に、しかも懈惓を生ずることあることなきが如し。)SSZ01-295 『法華経』の「序品」に出でたり。『疏〈妙法蓮華経文句〉』の三に云わく「日はこれ恵、月はこれ定。定恵はこれ自行の徳。灯明はこれ化他徳。(乃至)日月灯はこれ三智なり」と。雲棲の『小経の疏』に云わく「日月灯は大智尽きざるが故に。」『抄』に云わく「大智無尽とは、日は昼を照らし、月は夜を照らす。灯は日月の及ばざる所を照らす。普遍継続して更に窮尽することなし。仏の大智は横に十方に亘り、竪に三際に通ずること、また猶しかくのごとし。また日光は暗を破る。般若の義ありて一切智と名づく。月は清涼を以て夜を照らす。解脱の義ありて道種智と名づく。灯は日月を継ぎて昼夜に通ず。二辺に住せず、これ中道第一義諦なり。法身の義ありて一切種智と名づく」といえり。RY03-18L- 「如食頃」とは、『文句の記』の三に云わく「生公の云いわく。あに実に然らざんや。重法の心志を表するが故に時に寄せて云うのみ。もし時に寄せていわば、応に六十小劫の如しというべし。何んぞ直ちに六十小劫を食頃の如しということを得んや。故にただ情謂にして実に短きにはあらざるなり。信〈まこと〉に六十小劫の経文、虚にあらず。聞法の志を加するに仏の威を以てす。一坐、時を経れどもその久きを忘るるのみ。注家は初に浄名の劫を促して日とし、日を演じて劫となすを引くは。乃ちこれ仏促を以て食頃となす。これ則ち経の謂如の言に違す。猶し重法の志に如かず。ただ寄時といいて経と背くのみ。奢促を引き已りて、乃し云う。況んや玄匠真一の門、何為ぞ歴劫を以て数刻となさざらんや。また況釈すといえども理竟〈つい〉に未だ彰れず。今謂くただ世人の苦しき則んば短を以て長となり、楽しき則んば長を以て短となるが如し。これまた情謂の長短なり。あるが云く。仏法の食美を受くれば未だ飽きざるが故に。この喩はやや通ず。ある人ここに於いて以て四句を立つ。中論に破するが如し。これまた然らず。必ず聴者は中において観を修するにあらず。乃ちこれ仏力及び聴者の時を忘るるなり。故に知りぬ、中論の観法はただ末代の鈍根の者に被るのみ」といえり。-RY03-18L,19R- また『鏡水抄』に云わく「衆生の識上に長短を反作す。この義の中に於いて五対となす。一には勤堕対。世間の人は精勤なれば日短きを嫌い、懶堕なれば明の長きを厭うが故に。『無性の摂論』に云わく。愚夫は修すること小時にしにて怠心已に久と疑い、聖は修すること無量劫勤苦するをも須臾なりという。二には苦楽対。人の病苦あれば明長を厭い、歓娯恣逸には即ち短を厭うが如し。ある頌に云わく。歓娯しては夜短と覚え、愁苦しては更の長きを恨む。苦楽は心に従いて変ず。長短何の常かあらん。三には欣厭対。聴法の衆、もし聞くことを楽しまざる者は即ち時長と覚ゆるが如し。四には迷悟対。人の睡眠夢に彼の人を見て他国に向かわしめ、使を作す。睡覚の後に還りてはこれ漸次なるが如し。『無性摂論』に云わく。夢に処して年を経という。悟れば乃ち須臾の頃〈あいだ〉なるが故に、時は無量なりといえども一刹那に摂在すと。五には神力非神力対。仏の神力はその心を転易して全く他時に於いて食頃の如しという。この義に由るが故に四句をなすべし。一に境を転じて心を転ぜず。即ち大地を変じて黄金となし、海水を攬〈と〉りて酪となす等。二には心を転じて境を転ぜず。七日を延べて劫となすが如し。三には心境倶に転ず。芥子に須弥を納め、須弥を芥子に納め、芥子は増ぜず、須弥は減ぜざるが如し。また云わく。諸の天人を移して地上に置き、心を移して境を移す。四には倶に転ぜず。凡夫の心境の如し。これ然るにこの時の体は不相応の収、少時、多時、心に随いて変わるが故に、これは仮なり」といえり。-RY03-19R,19L- 「倦」は逵眷の切、疲労なり。-RY03-19L 【註】以禅定為食者、謂諸大菩薩、常在三昧無他食也。SSZ01-295 【註】 (禅定を以て食とすというは、謂く、諸の大菩薩、常に三昧に在りて他食なし。)SSZ01-295 謂く、定力に由りて色を長養すること得ることは小乗すらなお許す。況んや大菩薩をや。「三昧」とは此に正定と翻ず。遠公の云わく〈廬山慧遠「念仏三昧詩序」 cf.道宣『広弘明集』〉「三昧とは何ぞ。思を専らとし想を寂にするの謂いなり。思専なれば則ち志一にして分想せず。想寂なれば則ち気虚にして神朗らかなり」と。RY03-16L 【註】三昧者彼諸人天、若須食時、百味嘉[コウ01]羅列在前。眼見色、鼻聞香、身受適悦自然飽足。訖已化去、若須復現。其事在経。SSZ01-295 【註】 (三昧とは、彼の諸の人天、もし食を須いんとする時は、百味の嘉[コウ01]羅列して前に在り。眼に色を見、鼻に香を聞〈か〉ぎ、身に適悦を受けて自然に飽足す。おわりぬれば化し去る、もし須いんとすればまた現ず。その事、経に在り。)SSZ01-295 『大論』の九十三に云わく「ある人の言わく。能く百種の羹を以て供養する、これを百味と名づく。ある人言わく。餅種数五百、その味百あり、これを百味と名づく。ある人言わく。百種薬草薬果をもって歓喜丸を作る、これを百味と名づく。ある人言わく。飲食羹餅総じて百味ありと。ある人言わく。飮食種種備足するが故に、称して百味とす。人の飲食はもとより百味なり。天食は則ち百千種味なり。菩薩の福徳は果報食、及び神通力変化の食を生ず。則ち無量味あり」といえり。「嘉」は善なり。「[コウ01]」は胡交の切、饌なり。「適悦」は恰安の貌なり。RY03-20R- 問う。所現の嘉[コウ01]はこれ色境とせんや、法処の色とせんや。答う。大威徳定の所現はこれ色なり。余定の所現は即ち法処の色なり。およそ定の所生の色に二あり。一に実色。謂く大威徳定所生の色なり。二に仮色。謂く余の仮想定の所生の色なり。『演秘』に云わく「威徳ある者の所起の勝定なれば威徳定と名づく。」これ乃ち已に自在を得たる菩薩は無漏定の勝威徳を以ての故に香味蝕を変じて魚米等を現じ、有情に与えしめ、人みな受用して依根を資養す。所余の仮想定の所変の色はなお夢境の如し。心を離れて外には更に別色なきが故に。ただ第六意識の所縁なり。然るに彼の勝定はその果色をして五八両識の所縁に通ずるなり。-RY03-20R,20L 【註】是故言愛楽仏法味 禅三昧為食。SSZ01-295 【註】(この故に愛楽仏法味 禅三昧為食といえり。)SSZ01-295 |