浄土論註翼解 第4巻の(10の内)
総説分(願生偈)
観察衆生世間荘厳成就
観察如来荘厳功徳
第2 (19) 身業功徳


無量寿経論註翼解 巻四之三

【論】相好光一尋 色像超群生。SSZ01-300
【論】 (相好の光一尋にして、色像、群生に超えたり。)SSZ01-300

 撲楊の云わく「色の相状の了知すべきこと易き、これを名づけて相とす。身をして端厳ならしむる、これを名づけて好とす。」法蔵の『起信の疏』に云わく「相は以て徳を表わす。人をして徳を敬うに仏を念ずるを以てせしむ。好は身を厳るが為なり。人をして愛楽し親近することを欲せしむ。」〈起信論疏筆削記〉「揩公もまた云わく。徳を表わすを相と名づく。情に[キョウ08]〈こころよ〉きを好と称す。もし功徳なければ則ち敬重せず。もし敬重せざれば則ち憶念せず。仏を念ずる者は利益深きを以ての故に、故に相を現ずるなり。もし妙好ならざれば則ち愛楽せず。もし愛楽せざれば則ち親近せず。親近せざるが故に、則ち法を聞くことも乃至解脱もせず。仏の意はここに在るが故にその好を示す。智論に云わく。醜人の妙法を説くも聴者の心は欣ばずと。肇公の云わく。為に形を尊ぶ者は、また相好も爾り。あに俗飾の心に在らんや」と。「色像」とは顕形の二色、相色・好像なり。RY04-09R

【註】此二句名荘厳身業功徳成就。SSZ01-300
【註】 (この二句を荘厳身業功徳成就と名づく。)SSZ01-300

【註】仏本何故荘厳如此身業。SSZ01-300
【註】 (仏もと何が故ぞかくの如き身業を荘厳したまえる。)SSZ01-300

【註】見有仏身。受一丈光明。於人身光不甚超絶。如転輪王相好亦大同。提婆達多所減唯二。致令阿闍世王以茲懐乱。刪闍耶等敢如蟷螂。或如此類也。SSZ01-300
【註】 (ある仏身を見たまうに、一丈の光明を受く。人身の光に於て甚だ超絶ならず。転輪王の如きんば、相好また大いに同じ。提婆達多は減ずる所唯二にして、阿闍世王をして、ここを以て乱を懐かしむることを致す。刪闍耶等敢えて蟷螂のごとし。かくの如き類あり。)SSZ01-300

 『大論』の八に云わく「仏身の四辺におのおの一丈の光明あり。問いて曰わく。仏は何を以ての故に光常一丈にして多からざるや。答えて曰わく。一切の諸仏は常光無量なり。あるいは一丈、百丈、千丈、万億、乃至、三千大千世界、乃至、十方に満つ。諸仏の常法の如し。ただ五濁世に於いては衆生の少徳少智なるが為の故に一丈の光明を受く。もし多光を受くれば、今の衆生は薄福鈍根にして、目はその明に堪えず。(乃至)もし衆生は利根福重なれば、仏は則ちこれが為に無量の光明を現ず。」また三十四に云わく「釈迦文仏の如きは常光一丈なり。彌勒仏の常光は十里なり」と。『止観の弘決』に云わく「丈光とは端正の人に示同するのみ」と。RY04-09L,10R-
 「不〈甚〉超絶」とは、劫初の人はみな光明あるが故に。『阿含』に云わく〈cf.釈氏要覧〉「世界初成、光音天の人下来す。おのおのみな身光ありて飛行自在なり」と。「転輪王」とは『大論』の四に云わく「三十二相は轉輪聖王もまたあり。諸天魔王もまた能くこの相を化作す。難陀・提婆達多等はみな三十相あり。(乃至)今世の人もまたおのおの一相・二相あり」と。それ聖王は人寿八万四千の秋〈とき〉世に出現し、威は四洲に震い、輪は凸凹を夷〈たい〉らかにす。人中の最世王の粋、相は三十二、宝は七種の珍、暉は千仏に近く、質は極聖に隣る。凡下はここを執り仏に異ならずとなす。甚だ超絶せずということ、あに言を食〈は〉まんや。(実には仏と輪王との相好大別、『大論』の八十八巻に出でたり。)-RY04-10R-
 「提婆」とは、此に天熱という。生ずる時、諸天の心はみな熱悩す。彼が出世して必ず三宝を破すことを知るが故に。あるが解すらく。その生るる時、室中大いに熱す。これ阿鼻の相。あるいは天授と翻ず。これ斛飯王の子、仏の堂弟、阿難の親兄にして、実に逆人にあらず。『入大乗論』に云わく「これ大賓伽羅菩薩なり。衆生の逆罪を起こすを遮せんがための故に、現に三業を作りて地獄に堕す。」「減〈唯〉二」とは『大論』の八十八に云わく「提婆達多・難陀は三十相ありて、三十二なし」と。『弘決』に云わく「ただ白毫と千輻とを少〈か〉くのみ。」また減相なお多し。『大論の疏』(霊見)云わく「有三十相とは、千輻輪なし。及び広長舌相なし。妄語破僧を以ての故に。また応に無見頂相なかるべし。大数これを言いて具三十相というのみ。」-RY04-10R,10L-
 (『西域記』に云わく「我が相三十にして仏を減ずること未だ幾ばくならず。大衆囲繞して何ぞ如来に異ならん。これを思惟し已わりて即時に僧を破す。」)RY04-10L
 「阿闍世」、此には未生怨という。未生の日、相師これを占いて、この児は生じ已わりて定んで当に父を害すべしと。あるいは婆羅留支、此には折指という。生時、指を折るが故に。「懐乱」とは、父王を禁獄し母后を閉置して、天理に逆悖し、人道殆尽す。故に「懐乱」という。あるが解すらく。仏と調達と、その相流離す。闍王孩昏にして殿最を識らざるが故に邪訓に随い恃怙を禁囚す。これを「懐乱」という。これみな相い超絶せざるが致なり。-RY04-10L-
 「刪闍耶」あるいは旃荼と旃沙ともいう。これ父の名にして、彼が女なるが故に旃沙女という。『大論』の九に仏の九悩を説く。この縁は第二なり。『興起行経』に云わく「往昔、仏あり、尽勝如来と名づく。会中に二の比丘あり。一は無勝と名づけ、一は常歓と名づく。時に波羅奈城に大愛長者あり。婦を善幻と名づく。両種の比丘、その家に往来し、以て檀越とす。無勝比丘は漏を断ずるための故に供養に乏なし。常歓比丘は結使未だ除ぜず、供養微薄なり。常歓比丘は妬嫉の心を興こし、無勝と善幻と通じ、道法を以て供養せず、乃ち恩愛のみと誹謗す。時の常歓は即ち我が身これなり。善幻婦は今の旃荼これなり。我時に無勝を謗ずるが故に諸の苦報を受く。今、仏を得といえども、この余殃に由り、我、外道比丘王臣のために説法するの時、却りて被る。多舌童女が盂〈はち・わん〉を繋ぎ腹を起こし我が前に来至して、謗りて曰わく。沙門何を以て家事を説かず、乃し他事を説くや。今汝自ら楽しみて、我が苦を知らず。汝先に我と通じて我をして有身〈はら〉ましむ。今、臨月に当る。事、蘇油を須いて以て小児を養い、尽く当に我に給うべし。その時、衆会みな頭を低くし默然とす。時に帝釈、一鼠に化作して、その衣裏に入り盂繋を齧り断じ、忽然として地に落つ。衆等は見已わりてみな大いに歓喜す」と等は、余の外邪の仏を阻む者を[X19]む。人に於いて超えず。これがために阻を受く。また一義に云わく。「刪闍耶」はこれ外道の名。女にはあらざるのみ。不及の邪恵を以て過量の正智を沮むこと、猶し蟷螂の如し。-RY04-10L,11R-
 (「刪闍耶」此には正勝という。六師の一なり。『涅槃』に云わく「旃遮波羅門は飽食を涅槃と称す」等。)RY04-11R
 問う。仏果は謗なきや。答う。『大論』の九に云わく「仏に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。(乃至)諸の罪報を受くる者はこれ生身の仏なり」と。蟷螂は斧あるの虫なり。一には天馬と名づく。蓋言、虫の飛捷なること馬の如し。[エン18]人はこれを拒[カク08]という。張洗が曰く「前に両足あり。これを挙ぐること、斧を執る象の如し。斉の荘公、猟す。蟷螂、足を挙げ、将にその輪を摶〈う〉たんとす。公曰く。これ勇者たり。車を回らしてこれを避く。勇者帰る。」晋の成公の賦に云わく「翼を[シュウ04]〈おさ〉めて鷹のごとく[チ03]〈たたず〉み、頭を延ばすこと鵠のごとく望む。翳を推して徐く翹〈あが〉り、斧を挙げて高く抗す。」これは小を用いて大に擬す。攀敵及びがたきの喩なり。仏説法の時、外邪競い起こりて聖を謗り、仏を罔〈あざむ〉き、口を以て金を爍〈と〉かす。然るに仏に於いてや申々夭々たり。外邪自ら顰〈ひそ〉む。猶し蟷螂の臂を怒らせ轍に当たるが如し。故に「敢如」という。-RY04-11R,11L

【註】是故荘厳如此身業。SSZ01-300
【註】(この故にかくの如きの身業を荘厳したまえり。)SSZ01-300

【註】案此間詁訓六尺曰尋。SSZ01-300
【註】 (この間の詁訓を案ずるに、六尺を尋と曰う。)SSZ01-300

 『文選の註』に、詁訓は古言なり。『詩の註疏』に、詁は古今の異言、これを通じて人をして知らしむる。あるいは古に作る。訓は教なり。『広韻』に云わく「六尺を尋という。尋に倍するを常という(一丈二尺)。」何承が『纂要』に云わく「八寸を咫といい、三尺を武といい、五尺を墨といい、六尺を歩といい、七尺を仭といい、八尺を尋といい、十尺を丈といい、丈六を常という。」『爾雅』に云わく「四尺を仭といい、仭に倍するを尋という。」今は『広韻』に依る。RY04-11L,12R

【註】如観無量寿経言。阿弥陀如来身高六十万億那由他恒河沙由句。仏円光如百億三千大千世界。訳者以尋而言。何其晦(木代反)乎。SSZ01-300
【註】 (観無量寿経にのたまうが如きは、阿弥陀如来の身の高〈たけ〉六十万億那由他恒河沙由旬なり。仏の円光は百億三千大千世界の如しと。訳者、尋を以て言う、何ぞそれ晦〈くら〉きや。)SSZ01-300
【註 割注】 晦=木代の反し。SSZ01-300

 これは『経』に依りて『論』を難ず。今即ち問なり。天台の『疏〈観無量寿仏経疏〉』に云わく「眼に准じて身を定むれば、正長六十万億那由他由旬なり。恒河沙というは訳人の謬なるのみ」と。「那由他」此には万億という。「由旬」は即ち十六里、或いは四十里と。「晦」は昧なり。およそ今の身量を、善導は報とし、元照は応とし、或いは色相即法身の観とす。天台は尊特とし、註家の意趣は、以て報身とす。懐感は二義を存す。実には報を正とす。みな機見の殊なり。故に元照の『疏〈観無量寿仏経義疏〉』に云わく「仏身は量なし。機見に殊あり。文の中に挙ぐる所、仮に数量を以て非数量を顕わす。仏身の定むべからざることを彰わさんと欲するが故に。即ち下の文〈観経〉に云わく。前の所説の如き「無量寿仏は身量に辺なし。これ凡夫心力の及ぶ所にあらず。」また〈観経〉云わく「或いは大身を現わして虚空の中に満つ」と。これを挙げて前を証す。知りぬ限量なきことを。蠡盃をもって海を酌み、丈尺をもって空を量る。これ得べけんや」といえり。また宗意には別意あり。容易にすべからず。別処に説くが如し。RY04-12L

【註】里舎間人不簡縦横長短。咸謂横舒両手臂為尋。若訳者或取此類。用准阿弥陀如来舒臂為言故。称一尋者。円光亦応[ケイ09]六十万億那由他恒河沙由旬。SSZ01-300
【註】 (里舎の間の人、縦横長短を簡ばず。咸く横に両手の臂を舒ぶるを尋とすと謂えり。もし訳者、或いはこの類を取りて用いて、阿弥陀如来の舒臂に准じて言をなすが故に、一尋と称せば、円光また径〈わた〉り六十万億那由他恒河沙由旬なるべし。)SSZ01-300

 弥離車(此には辺地という。即ち印度の辺境なり。)の人は仏量を知らず。世俗のその身の舒臂を以てその身の体量となすを藉りて、准じて仏の舒臂の身量を知らしむ。「里舎の間」とは庸人の郷里なり。問う。円光と仏身とその量斉等ならば、何ぞ『観経』に「円光百億」等と説くや。答う。彼此共にこれ数量を挙げ非数量を顕す。元照の『疏』の如し。「[ケイ09]」は居慶の切、径に同じ。通じて経の字を用う。家語に南北を経とし、東西を緯とす。また「縦横」の義は、また過なり、または径庭、または経界なり。文相解し易し。RY04-12L,13R

【註】是故言相好光一尋 色像超群生。SSZ01-300
【註】 (この故に相好光一尋 色像超群生といえり。)SSZ01-300