浄土論註翼解 第5巻の1(9の内) 総説分(願生偈) 観察衆生世間荘厳功徳成就 菩薩四種荘厳功徳 明観菩薩由(菩薩を観ずる由を明かす) |
無量寿経論註翼解 巻五之一 |
無量寿経論註翼解 巻五 【註】次観安楽国諸大菩薩。四種荘厳功徳成就。SSZ01-304 【註】 (次に安楽国の諸の大菩薩の四種の荘厳功徳成就を観ず。)SSZ01-304 菩薩の名義は上に已に解くが如し。RY05-01R 【註】問曰。観如来荘厳功徳。何所闕少復須観菩薩功徳耶。SSZ01-304 【註】 (問いて曰く。如来の荘厳功徳を観るに、何の欠少する所あってか、また菩薩の功徳を観ずることを須いるや。)SSZ01-304 【註】答曰。如有明君則有賢臣。尭舜之称無為。是其比也。SSZ01-304 【註】 (答えて曰く。明君ある則んば賢臣あるが如し。堯舜の無為と称せし、これその比〈たぐい〉なり。)SSZ01-304 『尚書』に云く「世、必ず聖知の君ありて、而して後に賢明の臣あり」と。それ、天下に道あれば則ち見〈あらわ〉れ、道なきときは則ち隠る。道を以て君に事え、不可なれば則ち止むというは、賢臣の為〈しわざ〉なり。故に明君に遇わざれば、賢臣の行といえども、その功を播〈ほどこ〉すことなし。彼の伊尹が[テイ08]俎を勤め、太公が鼓刀を困〈?くるし〉み、百里奚が自ら鬻〈ひさ〉ぎ、[X24]戚が牛に飯するの類なり。また賢臣を養わずは明君の徳といえども、天下を治ることなし。彼の舜の五臣、武の十乱臣、湯の七太夫の類なり。故に知りぬ。世治まり、主聖なれば、俊乂自ずから至る。堯・舜・禹・湯・文・武の君のごとき、稷契・皐陶・伊尹・呂望の臣を獲、明明として朝にあり、穆穆として布列す。明君・賢臣・水船已に備われば翼乎として鴻毛の順風に遇うが如し。沛乎として巨魚の大壑〈がく・たに〉に縦〈ほしいまま〉なるがごとし。君、君たれば、臣も臣たり。君たらず、臣たらざれば、孔夫子といえども、あにその粟を食まんや。尭は陶唐氏、帝[コク02]の子、姓は伊祁〈いき〉、名は放勲。火徳。平揚に都す。十六にして位に即し、至治七年、舜を挙げ試むること二年、舜、位を摂して二十八年に崩ず。寿百十六歳、治七十二年なり。舜は有虞氏、[セン16][ギョク01]の五代の孫、姓は姚、名は重華。土徳。蒲坂に都す。年三十にして、尭は舜を挙げ、試むること三年、三十三にして位を摂し、二十八年に尭は崩ず。空位二年、正位三十一年、合して治むること六十一年、禹、位を摂す。十七年に舜は崩ず。寿百有十歳。二帝の治世は無為安寧なること、具に『書経』に出でたり。孔子の曰く「大なるかな尭」と、「巍々たるかな舜」と、「唐虞の際〈あいだ〉ここに盛とす」と。孔聖の美称すること、かくの如し。RY05-01R,02L 【註】若使但有如来法王。而無大菩薩法臣。於翼讃道豈足云満。SSZ01-304 【註】 (もしただ如来法王のみましまして、大菩薩の法臣なからしめば、翼讃の道に於いてあに満つというに足らんや。)SSZ01-304 『智論』の七に云わく「仏は法王たり。菩薩は法将たり」といえり。法界に独歩して法に於いて自在なり。故に王者に喩う。仏を助け、化を揚げ、親近承習す。これを臣下に喩う。『仏地論〈仏地経論〉』に輔翼円満を明かして云わく「諸菩薩衆の雲集する所、諸の大宮殿常に無量大菩薩僧ありて共に雲集する所。諸の来朝の者を名づけて輔翼とす。既に無数の大菩薩僧あり。常に来たりて輔翼す。故に怨敵の能く違害をなすことなし」といえり。「翼」は扶助なり、恭敬なり、また羽翼なり、美衛なり。もしただ仏を讃じて、菩薩に及ぼさざれば、猶し隻翼の如し。王臣を兼ねて讃むるは双羽の飛ぶが如くなるが故に「翼讃」という。また恭敬等の訓釈の意あり。RY05-02R 【註】亦如薪[セキ02]小則火不大。SSZ01-304 【註】 (また薪[シ09]小さき則んば火大ならざるが如し。)SSZ01-304 【註】如経言、阿弥陀仏国有無量無辺諸大菩薩。如観世音大勢至等。皆当一生於他方次補仏処。若人称名憶念者、帰依者、観察者、如法華経普門品説、無願不満。SSZ01-304 【註】 (経にいうが如きんば、阿弥陀仏国に無量無辺の諸の大菩薩あり。観世音・大勢至等の如きんば皆まさに一生に他方に於いて仏処を次補すべし。もし人、名を称え憶念する者、帰依する者、観察する者は、法華経の普門品に説くが如き、願として満たざることなしと。)SSZ01-304 『大経』の上に云わく「声聞菩薩、その数量り難し。称説すべからず。」また「下巻」に云わく「二の菩薩あり。最尊第一なり。(乃至)一を観世音と名づく。二を大勢至と名づく。この二菩薩、この国土に於いて菩薩の行を修し、命終転化して、彼の仏国に生ず。」また云わく「かの国の菩薩、皆まさに究竟して一生に補処すべし」と。-RY05-02L,03R- (『安楽集』は観音補処を以て報身報土の証とす。慈恩、これに同じ。また『妙宗抄〈観無量寿仏経疏妙宗抄〉』の下に云わく。「蔵通補処は仏有量を彰わす。別円の補処は仏無量を顕わす。十方三世の一切の如来は更に彼此なく迭〈たがい〉に相見るを以ての故に、一法身一智慧なるが故に、菩薩機忘、如来応息、仏処に補すと名づく。(乃至)ここに知んぬ、観音は法身の処に補す。愈、尊特無量の無量を彰わす。」)RY05-03R 問う。『悲華』等の経に、二菩薩は極樂に補処すと説きたまう。何ぞ「他方」というや。答う。三経の意に依るに、仏寿無量にして更に入滅なきが故に、極樂補処と説くべからず。ただ他方に於いて仏処を補すなり。『悲華』等の説は、且く随機隠没等に約するなり。阿那婆婁吉低輸、此には観世音という。『別行玄』に云わく「能所円融し有無兼暢し、正性を照窮してその本末を察するが故に観と称す。世音とは、これ所観の境なり。万象流動し隔別して同じからず。類音・殊唱、倶に離苦を蒙る。菩薩弘慈をもって一時に普く救う。皆解脱せしむるが故に観世音という」〈cf.『翻訳名義集』〉。新には観自在という。理を観じ、機を観ずること、尽く自在なり。理を観ずれば則ち三諦円融して、縦ならず、横ならず。機を観ずれば則ち十界等しく化して、前なく後なしと。-RY05-03R- 摩訶那鉢、此には大勢至という。『思益経』に云わく「我が足を投ぐる処、三千大千世界及び魔の宮殿を震動す。故に大勢至という。『観経』に云わく「智恵の光を以て普く一切を照らし、三塗を離れて無上力を得しむ。この故にこの菩薩を号して、大勢至と名づく。」〈cf.『翻訳名義集』〉-RY05-03R- 「一生」等とは、ただこの一生にして仏位を次補す。即ち等覚の菩薩なり。「於他方」とは、伏難を通ずるなり。あるいは謂く、無数菩薩みな仏処を補すれば、極楽界に於いて多仏あるべし。天に二日なし。国に二仏なく、独唯なり。彼の仏の処を補わば、則ち彼の仏寿無量なり。何れの日にか当に補うべき。また補処とは菩薩地尽きて等覚の位に住す。星中の月の如し。何ぞ甚だ多くして彼の国に在ることを得んや。この謫〈せめ〉を通ぜんがために「於他」というなり。意の謂く。補処は必ずしも定めて弥陀の処を補さず。十方世界の無尽の諸仏、涅槃無尽なり。補処の菩薩もまた無尽なり。彼の国中に住して補処を待つ。『大論』の七の如き「問いて曰く。もし弥勒菩薩は応に補処と称すべし。諸余の菩薩は何を以てかまた尊位を紹ぐ者といわん。答えて曰く。この諸の菩薩は十方の仏土に於いてみな仏処を補す」といえり。茲に例して知るべし。故に恵心の『略記〈阿弥陀経略記〉』に云わく「あるいは補処あり。刹塵劫を過ぎて成仏するに期なし。文殊等の如し。あるいは久しからずして成仏するあり。賢劫の諸仏の如し。故に知んぬ。ただ断惑証理に約して、妙覚に隣近するを、名づけて一生と為す。時分の遠近差別に約せず。彼の土の菩薩、速やかに成仏する者は、理、まさに他方の随縁の国土に往くべきのみ」といえり。-RY05-03R,03L- 「如法華」とは、彼の経の八に云わく「この観世音菩薩を聞きて、一心に名を称すれば、観世音菩薩は即時にその音声を観てみな解脱を得しむ。」また云わく「もし衆生ありて、観世音菩薩を恭敬礼拝すれば、福、唐捐ならず。」乃至、三業の機応分身利運、須ゆる者は経を看よ。-RY05-03L 【註】然菩薩愛楽功徳、如海呑流無止足情。SSZ01-304 【註】 (然るに菩薩、功徳を愛楽したまうことは、海の流れを呑みて止足の情なきが如し。)SSZ01-304 五念を修行する初心の菩薩は功徳を愛楽して厭足なきを以ての故に、仏観の外に別して菩薩を観ずるなり。「菩薩」の語は総じて一切に亘り、別しては論主を指すのみ。RY05-04R 【註】亦如釈迦牟尼如来、聞一目闇比丘吁言誰愛功徳為我維針。爾時如来従禅定起来到其所語言。我愛福徳遂為其維針。爾時失明比丘、聞暗仏語声驚喜交集白仏言。世尊、世尊功徳猶未満耶。仏報言。我功徳円満。無所復須。但我此身従功徳生。知功徳恩分故、是故言愛。SSZ01-304 【註】 (また釈迦牟尼如来の如きは、一りの目闇の比丘、ああ誰か功徳を愛す、我が為に針を維〈つな〉ぎたまえというを聞きたまう。その時、如来、禅定より起ちてその所に来到して語りて言わく、我福徳を愛すと。遂にそれが為に針を維ぎたまう。その時、失明の比丘、暗〈そら〉に仏の語声を聞きて、驚喜交集して仏に白して言さく。世尊、世尊の功徳は猶お未だ満たざるや。仏報えて言わく、我が功徳は円満せり。また須いる所なし。ただ我がこの身は功徳より生ず。功徳の恩分を知るが故に、この故に愛すというなりと。)SSZ01-304 「目闇比丘」は『増一阿含』の第六巻に准ずるに、即ち阿那律なり。『楞厳経』に云わく〈cf.『翻訳名義集』〉「我初め出家して常に楽みて睡眠す。如来、我を訶して、畜生の類とす。我、仏の訶を聞きて、啼泣して自らを責む。七日眠らず、その双目を失う。仏に白して具に説く。仏言わく。眠はこれ眼の食なり。人の七日食せざれば、則便ち命を失うが如し。七日寝ざれば、眼命即ち断つ。これを治すべきこと難し。まさに天眼を修して用いて世事を見るべし。これに因って禅を修し、四大浄色を得、半頭にして見る」と。問う。那律が天眼、何ぞ他の穿を仮らん。答う。肇法師〈『注維摩詰経』〉の云わく「二乗は定に在れば則ち見る。定を出ずれば見ず」と。荊渓の『記』に云わく〈cf.『維摩経略疏垂裕記』〉「もし那律の失眼に約せば観を出ずれば、ただ世人・壊根の者の見ざるに同じ」といえり。「吁」は嘆なり。また疑怪の声。「維」は繋なり。「世尊世尊」というは、上の世尊は呼白の言なり。「須」とは『広韻』に「意の所欲なり。」一に待俟の意あり。『大論』の二十六に欲無減を釈する中に委しくこの縁を説く。同論の第十にもまたこの縁を挙ぐ。今、仏を以て菩薩に比す。彼を勧進するが故に。仏なお徳を愛す。菩薩あに厭わん。故に引きて例をなすなり。RY05-04L,05R 【註】如所問観仏功徳、実無願不充。SSZ01-304 【註】 (所問のごとく、仏の功徳を観ずるに、実に願として充たざることなし。)SSZ01-304 【註】所以復観菩薩功徳者、有如上種種義故耳。SSZ01-304,305 【註】 (また菩薩の功徳を観ずる所以は、上のごとく種種の義あるが故ならくのみ。)SSZ01-304,305 |