浄土論註翼解 第5巻の5(9の内)
総説分(願生偈)
結総説分 八問答
 第一問答〈往生の機を問答す〉


無量寿経論註翼解 巻五之五
〈第一問答 往生の機を問答す〉

【論】無量寿修多羅章句、我以偈誦総説竟。SSZ01-307
【論】 (無量寿修多羅の章句、我、偈誦を以て総説し竟りぬ。)SSZ01-307

【註】問曰。天親菩薩回向章中言普共諸衆生 往生安楽国、此指共何等衆生耶。SSZ01-307
【註】 (問いて曰く。天親菩薩、回向章の中に、普共諸衆生、往生安楽国と言う。これ何等の衆生と共にすと指すや。)SSZ01-307

 衆生の名、含みて多品あり。四種十品(『正法念経』に出づ。)界趣多品二十九有。仏と菩薩と、なお衆生と名づく。今偈の衆生は、いぶかし、何の衆生を指すや。RY05-17R

【註】答曰。案王舎城所説無量寿経。仏告阿難。十方恒河沙諸仏如来、皆共称嘆無量寿仏威神功徳不可思議。諸有衆生、聞其名号信心歓喜乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生住不退転。唯除五逆誹謗正法。SSZ01-307
【註】 (答えて曰く。王舎城所説の無量寿経を案ずるに、仏、阿難に告げたまわく、十方恒河沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを称嘆したまう。諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念。至心に回向したまえり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生することを得て、不退転に住す。唯五逆と正法を誹謗するを除くと。)SSZ01-307

 (已下の問答は束ねて三科となす。初めの五問答は往生の機を決し、第六の問答は悪機の得生を決す。第七・第八は十念の義を決す。)RY05-17R
 中に於いて、初段は諸仏の讃嘆、「諸有」より已下は念仏往生なり。諸仏の称嘆は第十七の願成就の故に。念仏往生は第十八の願成就の故に。「十方」というは方隅上下なり。「恒河」はまた[キョウ03]伽河という。西域の無熱池の測〈側か?〉らにあり。香山の頂上に無熱池あり。四河を流出す。恒河は南にあり。広さ四十里。沙、水に逐いて流る。至りて微細となる。仏、彼の河に近づきて説法するが故に、およそ多というに常に取りて喩えとす。また五義あり。慈恩の『通賛疏』の如し。今「十方」というは、且く横に就きて説く。もし竪に説かば、則ち通じて三際を貫く。三世の諸仏、十方の如来、讃ぜざる者なきが故に「皆共」という。仏として該〈そな〉えざることなし。これを「皆」という。諸仏を該ぬといえども、讃嘆せざるもの或〈あ〉らば、これ満足にあらず。仏仏尽く該ねて、讃ぜざる者なし、これを「共」という。「威神」等とは因位の願行、果地の威徳なり。光明をいわば則ち「諸仏の光明の及ぶ能わざる所」。「寿命」をいわば則ち「無量無辺阿僧祇劫」。住処をいわば則ち「国土第一〈其衆奇妙、道場超絶。国如泥[オン01]、〉而無等双」。修徳をいわば「無央数劫、積功累徳」。摂生をいわば則ち「謗法闡提回心皆往」。生因をいわば則ち「信心歓喜乃至一念」。利益をいわば則ち「衣得大利、無上功徳。」果地をいわば「自然虚無〈之身〉、無極之体」。自度・度他、諸有の万徳、事ただ一箇の弥陀仏の心裏に在り。あに自余の九方と同日の譚ならんや。RY05-17L,18R-
 次に念仏往生の中に「諸有」とは二十九有なり。十界同じく遵うが故に。三際常に利するが故に。「聞其」等とは「信巻」の末に云わく「聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。信心というは、即ち本願力回向の信心なり。歓喜というは、身心悦予の貌を形すなり。乃至というは、多少を摂するの言なり。一念というは、信心二心なきが故に一念という。これを一心と名づく。一心は即ち清浄報土の真因なり。」義寂の『記〈無量寿経述記〉』に云わく「一念というは事究竟を以て一念となす。ただ生滅刹那等にあらず。謂く仏名を聞き歓喜し回向して生ぜんと願ず。この事成ずるを得るを以て一念となす。」また『宝積経』に云わく「無量寿如来の名号を聞き、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽して、所有の善根回向して生ぜんと願ず」と。これ即ち安心発得の一念なり。『信の巻』にまた云わく「一念は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」-RY05-18R,18L-
 問う。上に「信心歓喜」といい、次に「乃至一念」という。あに安心は起行の次にあらずや。もし爾らば何ぞ一念に就きて安心の解をなすや。答う。文は起行に似れども当流の正意は安心を正となす。信は行を離れず。行は信を離れず。所信の法体は信楽具足す。能信の行人もまた信行を具す。一時に相即して心行円融す。至心回向は即ち『論』の回向なり。然るに当流の意は機の回向にあらず。仏力の回向なり。故に知りぬ。至心は即ちこれ弥陀清浄の智心なり。『六要抄』の一に委しくその義を解す。下巻に引くが如し。「住不退転」は第十一の願成就の故に。不退転の義は上に已に釈するが如し。「唯除」等とは、ただこれ抑止にして実に除くにあらず。二機の者は成仏の器にあらざるが故に、弥陀に普済の約誓ありといえども、逆謗は回せざれば、信楽の心なし。仏も衆生をいかんともするあたわざるが故に「唯除」という。この二句の文は諸師まちまちに解す。善導の『観経義』、懐感の『論』等の如し。-RY05-18L,19R
 (不退転は『無我疏』の一に出づ。四教の別あり。)RY05-18L

【註】案此而言、一切外凡夫人、皆得往生。SSZ01-307
【註】 (これを案じていうに、一切の外道凡夫の人、みな往生することを得ん。)SSZ01-307

 『安楽集』に云わく「当今の凡夫は現に信想軽毛と名づけ、また不定聚と名づけ、また外凡夫と名づく。」善導の云わく〈観経疏〉「信外軽毛」と。天台の意に准ずるに、別教には十信を外凡となし、三賢を内凡となす。円教には観行を外凡となし、相似を内凡となす。今の外凡夫は十信観行を指すにあらず。十信の外の逆悪底下の者なり。それ仏願深広にして、兼ねて聖人のためにす。論主の「普共」あに聖人を除かんや。位は向満に居して、普くみな回向す。あるいはただ向満已下の諸衆生と共にすべきなり。然るに今の註家は本為凡夫の深誓を鈎て「外凡夫」という。あるいはまた劣を挙げ勝を収むるのみ。RY05-19R

【註】又如観無量寿経有九品往生。下下品生者、或有衆生作不善業五逆十悪、具諸不善。如此愚人以悪業故、応堕悪道経歴多劫、受苦無窮。如此愚人臨命終時、遇善知識種種安慰為説妙法、教令念仏、此人苦逼不遑念仏。善友告言。汝若不能念者応称無量寿仏。如是至心令声不絶具足十念。称南無無量寿仏。称仏名故、於念念中除八十億劫生死之罪。命終之後。見金蓮華猶如日輪住其人前、如一念頃即得往生極楽世界。於蓮華中満十二大劫。蓮華方開、(当以此償五逆罪也。)観世音大勢至、以大悲音声為其広説諸法実相除滅罪法。聞已歓喜。応時則発菩提之心。是名下品下生者。SSZ01-307,308
【註】 (また観無量寿経の如きんば九品の往生あり。下下品生というは、あるいは衆生ありて、不善の業たる五逆・十悪を作りて、諸の不善を具せん。かくの如きの愚人、悪業を以ての故に、まさに悪道に堕し多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくの如きの愚人、命終の時に臨みて、善知識の種種に安慰して、為に妙法を説き教えて念仏せしむるに遇えども、この人、苦に逼められて念仏するに遑〈いとま〉あらず。善友告げて言わく、汝もし念ずること能わずんば無量寿仏と称うべしと。かくの如く心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無無量寿仏と称う。仏名を称うるが故に、念念の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。命終の後に金蓮花の猶し日輪のごとくにしてその人の前に住するを見て、一念の頃の如くに即ち極楽世界に往生することを得。蓮華の中に於いて十二大劫を満ちて、蓮華方に開く。〈当にこれを以て五逆の罪を償うべし。〉観世音・大勢至、大悲の音声を以てそれが為に広く諸法実相を説きたまう。罪法を除滅し〈諸法実相の罪を除滅する法を説きたまう。〉聞き已りて歓喜して、時に応じて則ち菩提の心を発す。これを下品下生の者と名づくといえり。)SSZ01-307,308

 善導の『疏』に依るに、文を七科を分かつ。初に総じて告命を明かす。(「仏告阿難及韋提希」の八字。今は略す。)二に「下品」の下はその位を弁定す。三に「或有」の下は機の造悪軽重を簡ぶの相を明かす。中に於いて七。一に造悪の機を明かす。二に「作不」の下は総じて不善の名を挙ぐ。三に「五逆」の下は罪の軽重を簡ぶ。五逆に大小乗の異説あり。「信巻」の末に出づ。恩徳に違負し、天理に逆悖するが故に逆の目〈な〉を与う。RY05-20R,21L-
 (浄影『大経疏』に云わく「この五みな恩及び福田に違す。故に名づけて逆となす。前の二はみな恩、後の三種は福田に違す。邪を立て正を毀うを名づけて謗法となす。)RY05-21L-
 「十悪」とは、身業に殺盗淫を具し、口業に虚誑・離間・麁悪・雑穢の語を具し、意業に貪瞋痴を具す。十不善の果にその三種あり。異熟果とは『十地経〈cf.八十華厳・十住経・仁王護国般若波羅蜜多経疏〉』に云わく「上なる者は地獄の因、中なる者は畜生の因、下なる者は餓鬼の因」等と。等流果は、もし人中に生まるれば、殺に二果あり。短命と多病となり。盗に二果あり。貧窮にして財を失うと、自在を得ざるとなり。淫に二果あり。妻の貞良ならざると、意に随いて眷属を得ざるとなり。虚誑の二果は多く誹謗せらると、他のために誑せらるとなり。離間の二果は眷属背離と親族弊悪となり。麁悪の二果は常に悪声を聞き、言に諍訟多し。雑穢の二果は、言、人の受くることなく、語、明了ならず。貪欲の二果は心に足ることを知らず、多欲にして厭うことなし。瞋恚の二果は常に他人にその長短を求められ、また常に他の悩害する所を被る。邪見の二果は邪見の家に生まれ、その心諂曲なり。これ即ち人中の等流果なるが故に。増上果とは『婆沙』に云うが如し。身に光沢なく常に霜雹に遭い、身は塵垢多く口は恒に臭穢す。時候改変し田に荊[カク09]多し。居処険曲にして外果を感ずること少なし。果に辛辣多く果少なく、あるいはなし。これ即ち人中の増上果なるが故に。〈cf.仁王護国般若波羅蜜多経疏〉-RY05-20L,21R-
 四に「具諸」の下は、衆悪を結して智人にあらざることを明かす。-RY05-21R-
 (元照の『疏〈観無量寿仏経義疏〉』に云わく「既に極重を作る、余はなさざることなきが故に具諸不善という。」)RY05-21R
 五に「以悪」の下は悪を造ること多く、罪もまた重きことを明かす。六に「応堕」の下は、業は必ず報を受くることを明かす。七に「経歴」の下は、造悪の因既に具うれば、酬報の劫は未だ極まらざることを明かす。問う。「経歴受苦」はこれただ生業か、順後等に通ずるや。答う。もし有部の意はただ順生業に限り、順後等に通ぜず。一逆は引業を成じ、余逆はこれ満業なり。『頌〈倶舎論本頌〉』に云わく「罪増に隨いて苦増す」と。もし経部の意は、五逆の罪報は順生後に通じ、いわゆる二逆、二生、二劫、乃至、五逆、五生、五劫なりと。もし大衆部、及び大乗の意は、五逆はただ順次の一生に於いて、一逆これ一劫、乃至、五逆これ五劫なり。『観仏経〈仏説観仏三昧海経〉』に云わく「五逆を具すれば足して五劫を満す」と。霊芝の〈元〉照〈『観無量寿仏経義疏』〉の云わく「一逆を犯ずるに随いて阿鼻の一劫。何ぞ況んや多く犯ずるが故に多劫を経。」〈cf.『観経疏伝通記』〉-RY05-21R-
 四に「如此」の下は、法を聞き、仏を念じて、益を得ることを明かす。中に於いてまた十あり。初に重ねて造悪の人を牒す。二に「臨命」の下は、命延久しからざることを明かす。三に「遇善」の下は知識に遇うことを明かす。四に「種種」の下は善人安慰して教えて念仏せしむ。「説妙法」とは下中品に准ず。知識はために彼の仏の十力光明神力五分法身等の妙功徳を説きて、行者を安慰し、仏を観念せしむ。然るにこの品の人は逆悪に心を障えて、加うるに苦逼を以て、この故に念を失し、敢えて領受せず。故に善知識は更に広教を転じて直ちに称名せしむ。〈元〉照霊芝の云わく「説妙法とは浄土を讃ずるなり。」白蓮の『記』に云わく。これに多種あり。あるが云わく。阿弥陀大慈大悲、よく汝が罪を滅し、よく汝を救うことを得。況んや前心に罪を造り、妄想心に因りて迷倒乱ず。故に今もし心に帰すれば、真実によく一切のために救護す。かくの如きを妙法という。道[ゴン01]の疏に云わく「厭欣の境界を説く、これを妙法という。」〈cf.『観経疏伝通記』〉「令念仏」とは観仏三昧なり。即ち十三定観これなり。-RY05-21R,21L-
 (元照の『疏〈観無量寿仏経義疏〉』に云わく「令念仏とは観想を作すなり。」)RY05-21L
 五に「此人」の下は、死苦来たり逼りて、念仏するに由なし。断末魔の苦は委しく『倶舎』の如し。『華厳論』に云わく「もし人臨終喘氣麁く出で、喉舌乾[ショウ04]して、水を下すこと能わず、言語了せず、視[タン04]端〈ただ〉しからず、筋脈断絶して刀風形を解かし、支節舒緩し、機関止廃して動転すること能わず。挙体酸痛すること、針に刺さるるが如し。命尽き終わる時、大黒闇を見る。深岸より墜するが如く、一人曠野に遊ぶに伴侶あることなし」といえり。「遑」は胡光の切、暇なり。六に「善友」の下は転じて口称せしむることを明かす。七に「如是」の下は念数の多少、声声無間を明かす。「具足十念」とは心念口に在りて声声絶えず、念と声と一時なり。前なく後なし。-RY05-21L,22R-
 (元照の『疏〈観無量寿仏経義疏〉』に云わく「観を念とし、口誦を称とす。十念は謂く十声なり」)RY05-22R
 問う。逆者は必ず十念の称名を満たすや。将〈はた〉一念往生をも許すや。答う。業事成弁せば一念十念倶に往生を得。『経』に云わく「乃至一念、即ち往生を得〈乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生〉」と。また天台の『疏〈観無量寿仏経疏〉』に云わく「善心相続して十念に至る、あるいは一念成就すれば即ち往生することを得。念仏は罪障を除滅するを以ての故に、即ち念仏を以て勝縁となすなり。もしかくの如きならざれば、云何が往生することを得んや。」また『五会賛』に云わく「十悪五逆の至愚人、永劫に沈輪して久塵に在るべきに、一念、弥陀の号を称得すれば、彼に至りて還りて法性身に同ぜん。」また『宝王論』に「問う。一念十念、浄土に往生す。何者をか正となすや。対して曰く。ただ一念往生して不退地に住す、これを正となすなり。(乃至)また大無量寿経に、一念念仏、みな往生を得と明かす。観経の十念、良に以〈ゆえ〉あるなり。蓋し疾羸に遭う力微にして心劣なるがための故に、須く十たび弥陀を称して以てその念を助くべし。その心盛にして昧からざれば、一念に生ず」と。下に至りて知りぬべし。-RY05-22R-
 八に「称仏」の下は多劫の罪を除くことを明かす。天台の『疏〈観無量寿仏経疏〉』に云わく「問う。云何が行者は少時の心力を以て、而も能く終身の造悪に勝るや。大論にこの責あり。この心は少時といえども、而も力猛利なり。死なんとする人は必ず免れざることを知りて諦心に決断して百年の願力に勝るるが如し。この心を名づけて大心となす。捨身の事急なるを以ての故に。人の陣に入りて身命を惜まざるを、名づけて健人となすが如きなり。」「於念」等とは、懐感・憬興等の意の謂く。一念に八十億劫の罪を除く。十念合して論ずれば即ち十箇の八十億劫の罪を滅するなり。-RY05-22R,22L-
 また『群疑論』の六に「問いて曰く。何が故ぞ観経に説かく。下品上生には、至心に仏を称すれば五十億劫生死の罪を滅すと。下品中生には、仏功徳を聞きて、下品下生には、彼の仏名を称して、倶に八十億劫生死の罪を滅すと。何為が同じく一仏を念ずる功徳殊ならずして、彼の罪愆を滅する少多に異あるや。釈して曰く。これに二意あり。一に釈して言わく。一たび仏を念ずる功徳は斉し。理は応に罪を滅するに別なかるべし。ただ三品の罪人の悪業を以てその多少あり。(乃至)彼の罪に階降あるがために、滅の多少を説くこと同じからず。これ念仏の功徳殊にしてその滅罪差別ならしめるにあらず。譬えば壮士の力ありて能く八斗の米を負うも、人ありてただ五斗のみありて、彼の壮士をして持ち行かせるに、壮者の多く[ケイ01]〈も〉つこと能わざるにあらず。ただこれ米は元五斗なるが如し。この義また爾り。下品上生はただ五十億劫の罪のみあり。仏は彼の罪の多少に随て、五十億劫を滅するという。下品中生は罪の前品より重きこと三十億劫なり。その罪障に随いて八十億劫を滅すという。下品下生はその罪最重なり。故に十念を具足して阿弥陀仏を称せしむ。念念の中において八十億劫生死の罪を滅するが故に、この三品は滅罪殊なりと説く。これ念仏の功徳に差別あるにあらざるなり。二に釈して言わく。仏の名号を念ずること、また殊ならずといえども、念仏の心至誠の差別に由るが故に滅罪の多少をして同じからざらしむ。(乃至)譬えば神剣は能く大木を斬るも、如〈も〉しそれ多く力を用いば木に入ること即ち深く、如〈も〉し多く力を用いざれば木を斬ること便ち浅し。剣に利鈍あるにあらず。蓋し人力の強弱同じからざるが如し。これまたかくの如し。仏の功徳はまた差別なしといえども、然るにその念者の至誠に異あるが故に滅罪をして多少同じかざらしむなり。」-RY05-22L,23R-
 問う。業体を除くとなすや、業用を滅するとなすや。答う。索果の用を除きて業体を滅せず。断惑の時に至りて方に業体を滅す。業体ありといえども、念仏の力に依りて繋縛の用を滅し、方に浄土に生ず。-RY05-23R-
 『群疑論』に「問いて曰く。未だ知らず。念仏して八十億劫重罪を滅して西方に生ずること得とは、種子を滅すとせんや、上心を滅すとせんや。もし種子を滅すとは、種子の滅除は要ず聖道を須い、人法空を見て方に能く種を滅す。念仏の功徳はまた無辺なりといえども、これはこれ聞思等の善心なり。如何が聖道に同じく能く種子の罪業を滅せん。もし上心を滅せば、罪福の両業は倶に起こることを得ず。罪業起こる時、念仏を得ず。正しく念仏の時は罪を造ることを得ず。善悪並ばず。二の上心なし。如何ぞ念仏して能く上心の罪を滅するや。釈して曰く。種子を滅するにあらず。上心を滅するにあらず。上心の罪は刹那に自ずから滅す。念仏して方に始めて滅除することを須るにあらず。また善悪倶にせず。念仏の時に罪は已に先に滅し、ある時は未だ起こらず。正しく罪を造る時、念仏は已に滅す。念仏はその上心の罪を滅するべからず。ただ種子の念念に相続して能く三途の悪報を感ずる功能を滅す。もし念仏せざれば、この罪の種子は勢力ありて、能く当果悪趣の報を感ず。念仏の力に由りて、その種子の果を感ずる功能の勢力衰微にして報を招く能わざらしむ。故に罪滅と名づく。種子は本識の中に在りて相続して起こることありといえども、感報の勢力なし。猶し羸痩病人の、身また床の上にありといえども、起動報作の功能なきが如し。罪またかくの如し。勢力の能く当来の悪趣の報を感ずることあることなし。故に滅と名づくるなり。これ種子の勢力を滅す。種子の体を滅するにあらず。故に六種の転依の中には損力益能転ずと名づく。」-RY05-23R,23L-
 また龍興の意は、臨終の時は異熟果の因を滅し、含華の時は増上果の因を償う。-RY05-23L,24R-
 九に「命終」の下は、臨終正念にして金華来応することを明かす。「見金蓮」とは、『群疑論』の七に三義を以て釈す。「一に云わく。これ往生の人の華にあらず。これあるいはこれ仏の来迎、仏の乗る所の華なり。その人は障重くして仏を感見せず。ただ仏座を見るに、なお分明ならず。猶し日輪の如く、朦朧として観るに似るなり。二に釈すらく。この人障重くして仏迎を感ぜず。ただ金蓮の浄土に引生するを得。故に観経に住其人前と説けり。もしこれ坐華ならば、経に何ぞ坐宝華と説かざるや。三に釈すらく。これはこれ坐華なり。同じくこれ金華なりといえども、大小勝劣、荘厳麁妙、自ずから分かれて二品の蓮異なるなり。(上品下生・下品下生)何ぞまた差殊あることを妨げん。」また又[ゴン01]師の云わく「金華は行者の所託の境界なり。」霊芝の『疏』に云わく「花、日輪の如しとは、その量を喩うるなり。もし倶舍に準ぜば、日面径〈わたり〉五十一由旬なり。今これはただ地に居して仰望する大小を取る。未だ必ずしも論ずるに如かず。」(『正観記』に云わく「日径の数計るに二千四十里。今仰望を取ることは、蓋しこの人功行微浅なるに由る。あに能く華を感ずること日輪の大の如くならん。ただ団欒の状を取りて爾り。また『浄業記』に云わく。日輪旋転の如く、華旋転来る。」〈cf.『伝通記』〉-RY05-24R-
 十に「如一」の下は、去時の遅速、直ちに所帰の国に到ることを明かす。「頃」は俄頃、少選〈しばらく〉の時なり。また頃刻なり。(時節の一念、次下に解するが如し。)-RY05-24R-
 五に「於蓮」の下は華開の遅速を明かす。「散善義」に云わく「これ等の罪人、華の内に在る時、三種の障りあり。一には仏及び諸の聖衆を見ることを得ず。二には正法を聴聞することを得ず。三には歴事供養することを得ず。これを除きて已外は更に諸の苦なし。」「満十」等とは、『群疑』の七に云わく「この方の日月歳数を取りて、積りて劫を成ず。何を以て知ることを得るや。釈迦如来はこの方にして成道して、経を説くことこの娑婆の有情のためなり。彼の華開の時に於いて、この衆生をして解を得しむ。故に知りぬ。ただこの劫を用いて彼の華開を明かすなり。(已上は諸師の解釈。)今釈すらく。然らず。彼方の日月歳数を用いて、以て劫を成じて、彼の華開の時節分斉を顕す。何を以て知ることを得るとならば、これに三義あり。一に例。二に教。三に理、而して知ることを得るなり。」(乃至広説す。須ゆる者は往検せよ。)また『往生要集』の下に四の例を以て此土の歳数となす。(下巻の末に出づ。見ることを欲せば考うべし。)今謂く。恵心の義に与なう。強いて会すべからず。-RY05-24R,24L-
 『註』に「償五」等とは、償は時亮の切し、還なり、報なり、酬なり。『群疑論』の七に「問いて曰く。もし彼に罪障ありて華開くること遲晩ならば、何の由にこの業障は苦報を感ぜざるや。釈して曰く。罪種ありといえども、その前生に菩提心を発して、至心に阿弥陀仏を称念し諸罪消滅するを以て、たとい微細の業種あるとも、異熟の因となりて生苦果を牽く能わず。ただその業種極めて羸劣なるを以て、故に知りぬ、念仏の功徳はその勢用を損ず。また念仏功徳の力を以て、浄土殊勝の身を感得す。彼の身の上に於いて、苦果は現起することを得る由なし。また仏の本願力を以て現行することを得ず。ただ余障ありてその蓮華を障えて、速かに啓くことを得ず。」-RY05-24L,25R-
 六に「観世」の下は華開已後の得益を明かす。中に三。初めに二聖の説法。〈元〉照霊芝〈『観無量寿仏経義疏』〉の云わく「罪は縁より生じて自性あることなし。諸法みな爾り。故に実相と名づく。普賢行法に云わく。一切業障海はみな妄想より生ず。もし懺悔せんと欲せば端坐して実相を念ぜよ、これなり。」『法華経』に云わく「諸法は本よりこのかた常に自ずから寂滅の相なり」と。『無量義経』に云わく「その一法は、即ち無相なり。かくの如きの無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを、名づけて実相となす。」『群疑論』に云わく「これ微細の障ありて未だ尽きず。故に経に除くと説くなり。然るに罪障微劣にして念仏の善強し、仏の威神に乗ずれば浄土に生ずることを得ることを妨げず。彼の罪人は衆の重罪を造るを以て、業の勢力は能く悪道を感じて、苦を受くること窮りなからん。然るに念仏の功徳善根に由りて、彼の重殃感果の勢力を消す。悪趣受生を牽引すること能わず。然るに念仏の行は麁にして細障なお在り。故に華開已後、彼の二尊の為に甚深の諸法実相を説くに遇う。その人方に能く法身仏を観ず。境智微細にして始めて能く彼の微細の業障罪種の功能を除く。故に為に諸法実相を説き、罪を除滅すというなり。」-RY05-25R,25L-
 二に「除滅」の下は、罪を除き歓喜す。初の句は両向なり。上に属すれば則ち法は実相(罪は即ち所滅。法は即ち能治)。下に属すれば則ち法は即ち業障(罪即法の故に)。おおよそこの品に三重の障りあり。一に往生の障り。十念に即ち滅す。二に見仏の障り。劫を経て償うが故に。(「十二劫を満たして、蓮華まさに開く。」)三に発心の障り。法を聞きて即ち除く。(大悲をもって為に諸法実相を説く。)論蔵の中に一罪多果を説く。いわゆる異熟・等流・増上果なり。重重の滅罪、彼に准じて知るべし。問う。往生已後に開華を障うる罪と、開華の後に法を聞きて除く障りと同異とするや、いなや。もし同じといわば既に開華を障げて未だ除かざる前に、何ぞ開華を得るや。もし異というならば、麁なるは念仏して既に滅す。細は能く開華を障う。かくの如く麁細二障の外に更に何の障かありて、華開く後に始めて除くことを得るや。答う。二障は別物なり。謂く。開華の障は細中の麁なり。彼の華の内に於いて劫数を経る位にみな償い尽くすことを得、華まさに開き已わる。実相を聞く位に除くところの罪障は細中の細なり。仏相好功徳等の法を障えて、明了ならしめず。故に実相を観じて能く断ぜしむるなり。-RY05-25L-
 三に「応時」の下は菩提心を発すことを明かす。果徳円通の故に菩提という。大菩提に於いて意を起こして趣求するを発菩提心と名づく。-RY05-25L,26R-
 七に「是名」の下は総結なり。-RY05-26R

【註】以此経証。明知。下品凡夫、但令不誹謗正法、信仏因縁皆得往生。SSZ01-308
【註】 (この経を以て証するに、明らかに知んぬ、下品の凡夫なれども、ただ正法を誹謗せざれば、信仏の因縁をもってみな往生することを得せしむ。)SSZ01-308

 文相解し易し。「信仏因縁」は上の文に解するが如し。RY05-26R