浄土論註翼解 第5巻の8(9の内)
総説分(願生偈)
結総説分 八問答
 第六問答〈業道経に依りて悪機往生の義を問答す〉


無量寿経論註翼解 巻五之八
〈第六問答 業道経に依りて悪機往生の義を問答す〉

【註】問曰。業道経言。業道如秤、重者先牽。如観無量寿経言、有人造五逆十悪具諸不善、応堕悪道経歴多劫受無量苦。臨命終時遇善知識教称南無無量寿仏、如是至心令声不絶、具足十念便得往生安楽浄土、即入大乗正定之聚、畢竟不退、与三塗諸苦永隔。先牽之義、於理如何。SSZ01-309
【註】 (問いて曰く。業道経に言わく。業道は秤〈はかり〉のごとし。重き者先ず牽く。観無量寿経にいうが如きんば、人ありて五逆・十悪を造り諸の不善を具して、悪道に堕し多劫を経歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識の教えて南無無量寿仏と称せしむるに遇う。かくの如く心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して便ち安楽浄土に往生して、即ち大乗正定の聚〈かず〉に入り、畢竟じて退せず、三塗の諸苦と永く隔つることを得といえり。先牽の義、理に於いていかん。)SSZ01-309

 (四明の知礼〈『観無量寿仏経疏妙宗鈔』〉の云わく「もし安養に生ずれば、高下を論ぜず。五逆の罪人、臨終に十念して往生を得る者は、また不退を得。故に皆住正定聚という。」)RY05-32R
 経は『十善業道経』を指すか、未だ本文を[ケン03]〈しら〉べず。「秤」は丑正の切し。斤両を正しくするもの。権衡なり。ここは念は軽く、業は重きの計に就く。疑問をなすなり。RY05-32R

【註】又曠劫已来、備造諸行有漏之法繋属三界。但以十念念阿弥陀仏便出三界。繋業之義、復欲云何。SSZ01-309,310
【註】 (また曠劫よりこのかた、備さに造る諸行有漏の法は三界に繋属せり。ただ十念、阿弥陀仏を念ずるを以て便ち三界を出でては、繋業の義また云何とか欲〈おも〉う。)SSZ01-309,310
 (備造諸行 備さに諸行を造れり。両点)

 (『大乗義章』二十に云わく「造作を業と名づく。能く果を作るが故に。」)RY05-32L
 「諸行」等とは、諸行は即ち漏なり。『倶舎の頌』に云わく「宿の諸業を行と名づく。」天台の『釈〈法界次第初門〉』に云わく「愛のために業を造る、即ち名づけて行となす。」曠劫よりこのかた所造の罪業、三界に漏落するが故に「諸行有漏之法」というなり。「繋業」とは、『大乗義章』に云わく「釈に四の義あり。一に業体に就きて以て繋の義を弁ず。有漏の業は、体、三界に属す。この故に名づけて三界繋業となす。二に得果に就きて以て繋の義を弁ず。有漏の業は受報の処、三界に在り。この故に名づけて三界繋業となす。三に業果相対に就きて繋を弁ず。(乃至)四に惑に対して繋を弁ず。(乃至)」といえり。前に軽重に約し、ここは繋属に就く。問の意、見やすし。RY05-32L

【註】答曰。汝謂五逆十悪繋業等為重、以下下品人十念為軽、応為罪所牽先堕地獄繋在三界者、今当以義[キョウ01]量軽重之義。SSZ01-310
【註】 (答えて曰く。汝、五逆・十悪の繋業等を重しとなし、下下品の人の十念を以て軽しとなし、罪のために牽かれて先ず地獄に堕し三界に繋在すべしといわば、今まさに義を以て軽重の義を[キョウ01]量すべし。)SSZ01-310

 [キョウ01]は比[キョウ01]なり、計量なり、また検なり。牒文解し易し。RY05-33R

【註】在心在縁在決定、不在時節久近多少也。SSZ01-310
【註】 (心に在り、縁に在り、決定に在りて、時節の久近多少には在らざるなり。)SSZ01-310

 『六要抄』に云わく「初に在心は、即ちこれ心に約す。次に在縁は、これはこれ境に約す。後に在決定は、これ時に約すなり。」RY05-33R

【註】云何在心。SSZ01-310
【註】 (云何が心に在るとなれば。)SSZ01-310

 心は能縁の心。謂く。逆を造る時は、能縁の心は虚妄なり。念佛の時は、能縁の心は真実なり。これを異となすなり。RY05-33R

【註】彼造罪人、自依止虚妄顛倒見生。此十念者、依善知識方便安慰聞実相法生。一実一虚。豈得相比。SSZ01-310
【註】 (彼の造罪の人は自ら虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念の者〈ひと〉は、善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず。一は実、一は虚なり。あに相比〈たくら〉ぶることを得んや。)SSZ01-310

 初の四字、『十疑論』には「造罪之時」といい、『安楽集』には「彼人造罪」という。もと実体なきを虚といい、無を執〈と〉って有を生ずるを妄という。無智朦朧謾りに倒見を生じ、種種の業を造る。なおし嬰児の嬉戯の事をなし、あるいは瞋り、あるいは笑い、土を弄し、木を争いて、有智の人に於いて実事となさざるが如きの故に「顛倒」という。問う。有智の人に於いて実事となさざらんは、肆〈ほしいまま〉に罪を造るべきや。曰く。嬰児が意において瞋笑なくんば何の障げかこれあらん、智人において実事となさずといえども、彼の嬰児において、これ実に有となす。造罪もまたしかり。諸の賢聖において誠に然りとなすべし。汝において実となす。あに肆に罪を造るや。RY05-33L-
 「実相の法」とは即ち名号なり。「一実」等とは、『摂論〈摂大乗論釈 真諦〉』の十二に云わく「悪業非理より起こる。信楽はこれ理より生ず。非理に依りて生ずるが故に虚なり。これ理より生ずるが故に実なり。虚は実に対すること能わず。この故に破壊す。」古に謂く、妖は徳に勝たずと。誠なるや、言や。『安楽集』に『遺日摩尼経』を引きて云わく「衆生また数千巨億万劫、愛欲の中に在りて、罪のために覆わるといえども、もし仏経を聞きて一反善を念ずれば、罪即ち消尽す」と。これは類なり。-RY05-33L

【註】譬如千歳闇室光若暫至即便明朗。闇豈得言在室千歳而不去耶。SSZ01-310
【註】 (譬えば千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるがごとし。闇、豈室に在ること千歳にして去らずということを得んや。)SSZ01-310

 この喩は『大集』四十二章等に出でたり。RY05-34R

【註】是名在心。SSZ01-310
【註】 (これを在心と名づく。)SSZ01-310

【註】云何在縁。SSZ01-310
【註】 (云何が縁に在るとなれば。)SSZ01-310

 縁は所縁の境なり。造罪の境は虚妄の衆生なり。念仏の境は真実の仏果なり。縁に勝劣あり。劣は何ぞ勝に敵せん。RY05-34R

【註】彼造罪人、自依止妄想心、依煩悩虚妄果報衆生生。此十念者、依止無上信心、依阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳名号生。SSZ01-310
【註】 (彼の造罪の人は自ら妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依りて生じ、この十念の者〈ひと〉は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量の功徳の名号に依りて生ず。)SSZ01-310

 文の中に兼ねて心と縁との二を明かす。「依煩悩〈虚妄果報〉衆生」等とは、破僧等の罪は、たとい聖境を縁ずるも、信心を具せざる故に所滅となる。また余の二義あるが故にその逆を成ず。今「在縁」というは、多分により説く。また小乗に依らば仏身有漏の故に在縁を具す。(光の『記〈普光述 倶舎論記〉』に云わく「余の十五界はただ有漏と名づく。道諦・無為の摂せざる所なるが故に。」十五界は五根・五境・五識なり。)但し、義は未だ尽きず。然るに実に出仏身血・殺阿羅漢・破和合僧・謗大乗等は在縁の義を欠く。「無上信」とは、即ち他力の誠信は過上あることなきが故に「無上」という。弥陀の名号は巧方便力をもって衆の功徳を集めて荘厳具足するが故に「方便荘厳」という。非を離れ、偽を絶す、これを「真」といい、虚名に揀非する、これを「実」という。体に垢染なく明珠の浄の如きなるが故に「清」といい、他をして垢を除かしめ、珠の水を澄まするが似〈ごと〉きなるが故に「浄」という。滅罪・生善、徳として満たざることなきが故に「無量功徳」というなり。RY05-34L

【註】譬如有人被毒箭所中截筋破骨、聞滅除薬皷即箭出毒除。(首楞厳経言、譬如有薬名曰滅除。若闘戦時用以塗皷、聞皷声者箭出除毒。菩薩摩訶薩亦復如是。住首楞厳三昧聞其名者、三毒之箭自然抜出。)豈可得言彼箭深毒[レイ01]聞皷音声不能抜箭去毒耶。SSZ01-310
【註】 (譬えば人ありて毒箭に中〈あ〉てられて、筋を截り骨を破らるるに、滅除薬の鼓を聞けば、即ち箭出でて毒除かるが如し。〈首楞厳経に言わく、譬えば薬あり、名づけて滅除という。もし闘戦の時に用いて以て鼓に塗る。鼓声を聞く者、箭出で毒除かるが如し。菩薩摩訶薩もまたまたかくの如し。首楞厳三昧に住したまう。その名を聞く者は三毒の箭自然に抜出すと。〉あに彼の箭深く毒[レイ01]〈はげ〉しければ、鼓の音声を聞くとも、箭を抜き毒を去ること能わずということを得べけんや。)SSZ01-310

 三惑は毒の如し。悪業は箭の如し。恵命を損■〈害か?〉するが故に「所中」という。「中」は去声に呼当なり。身口の善根を絶するは「筋を截る」が如し。心地の修徳を壊するは「骨を破る」が如し。念仏は「鼓」の如し。また『宝積経』三十五に十種の毒箭を説く。いわゆる愛と無明と欲と貪と過失と愚痴と慢見と有と無有となり。註に「首楞」等とは、即ち『首楞厳三昧経』上巻の文なり。『要集』の註に云わく「諸法の真如実相を観見し、凡夫の法と仏法と不二なりと見る、これを首楞厳三昧を修習すと名づく。」また『法鼓経』に云わく〈cf.念仏三昧宝王論〉「如波斯匿王と敵国と戦うに、毒箭に中るあり、苦、堪うべからざるに、良薬あり、消毒と名づくと聞きて、王、薬を以て鼓に塗り、桴を以てこれを撃つに、能く毒箭を出だし、平復すること故の如し。もし釈迦牟尼仏の名を聞き、及び方広比丘の名を聞けば、能く身中の三毒の箭をして声中に跳出せしむ。」然るに今の注の文は、三昧に住する菩薩の名を聞くの功徳を説くなり。故に源信〈『往生要集』〉の云わく「菩薩既に爾り。何に況んや仏をや。名を聞く、既に爾り。何に況や念ずるをや。応に知るべし。浅心に念ずる、利益また虚しからず。」RY05-35R,35L

【註】是名在縁。SSZ01-310
【註】 (これを在縁と名づく。)SSZ01-310

【註】云何在決定。SSZ01-310
【註】 (云何が決定に在るとなれば、)SSZ01-310

 造罪の時は、これ平常の故に後あり間ありて、決定せざるに似たり。十念の時は、これ臨終の故に後なく間なし。心必ず猛利にして火の如く毒の如くして、百年の修に勝る故に、心決定す。RY05-35L

【註】彼造罪人、依止有後心有間心生。此十念者、依止無後心無間心生。SSZ01-310
【註】 (彼の造罪の人は有後心・有間心に依止して生れ、この十念の者〈ひと〉は無後心・無間心に依止して生ず。)SSZ01-310

 「有後心」とは、心未だ定まらざるが故に、未だ命終せざるが故に。「有間心」とは。しばしば善心あるが故に、勇猛心にあらざるが故に。『十疑論の註〈注十疑論〉』に云わく「有間有後心は未命終の前に約す。もし臨終に悪を造り無間無後なるは、報を招くことも重なるが故に、下の文(『十疑論』なり。)に云わく。臨終に一念を起こし決定邪見なれば、即ち阿鼻地獄に堕す。」「無間心」はまた〈『注十疑論』〉云わく「臨終猛利の善根は更に悪の来たりて間隔することなきを無間心と名づく。臨終念仏は即便ち寿を捨て更に余念のこれより後に在ることなきを無後心と名づく。」また『大論』の二十四に問いて云わく「死に臨む時、少許〈しばらく〉の時の心、云何が能く終身の行力に勝らんや。答えて曰く。この心、時頃少なしといえども、しかして心力猛利なり(これ無間心)。火の如く毒の如く少なしといえども能く大事を成す。これ死に垂〈なんなん〉とする時、心、決定猛健なるが故に、百年の行力に勝る。この後心を名づけて大心(一本に力と作る)となす。捨身及び諸根事急なるを以ての故に(これ無後心)。人の陣に入りて身命を惜まざるを名づけて健人となすが如し。」また『十疑論』に云わく「念仏の時、無間心・無後心なるを以て、遂に即ち命を捨て、善心猛利なり(二心を以ての故に、業即ち決定す)。これを以て即生す。譬えば十囲の索〈なわ〉、千夫も制せざるを、童子の剣を揮いて、須臾に両分するが如し。」(註の中に喩なきが故に彼を引用す。)〈『注十疑論』〉「索は無始の悪業に喩う。十囲は謂く多きなり。千夫は凡夫をいう。凡夫は制伏すること能わず。童子は初心の行人に喩う。剣を揮うは十念成就なり。須臾両分は謂く臂を屈伸する項〈あいだ〉に此を捨てて彼に生ず。」『六要抄』の三に「問う。無間心とは、平生に約すとやせん、臨終に約すとやせん。答う。今の釈の如きは、時分の急なるを以てこの心に依止す。故に臨終に約す。但し総じてこれを言わば、平生を遮せず。機根区なるが故に。たとい尋常といえども、この心に住する類は何ぞこれなからんや。」問う。誰か現に生ずることを得るや。答う。張鍾馗・張善和等の類なり。広くは『往生集』「悪人往生の篇」に出でたり。RY05-36R,36L

【註】是名決定。SSZ01-310
【註】 (これを決定と名づく。)SSZ01-310

【註】[キョウ01]量三義、十念者重。重者先牽能出三有。両経一義耳。SSZ01-310
【註】 (三義を[キョウ01]量するに十念は重し。重きもの先づ牽きて能く三有を出づ。両経は一義なるのみ。)SSZ01-310

 初めの問いに二あり。答えの中に繁業を会せざるは、義自ずから兼含せり。見者応に知るべし。RY05-36L