浄土論註翼解 第5巻の9(9の内) 総説分(願生偈) 結総説分 八問答 第七問答〈十念の相を問答す〉 第八問答〈念の記不記を問答す〉 |
無量寿経論註翼解 巻五之九 |
〈第七問答 十念の相を問答す〉 【註】問曰。幾時名為一念。SSZ01-310 【註】 (問いて曰わく。幾ばくの時をか名づけて一念とする。)SSZ01-310 『安楽集』に「問いて曰わく。既に終りに垂〈なんなん〉とするに十念の善能く一生の悪業を傾けて浄土に生ずることを得と云わば、未だ知らず、幾の時をか十念となすや。」これに准じて合〈まさ〉に暁すべし。RY05-36L,37R 【註】答曰。百一生滅名一刹那、六十刹那名為一念。SSZ01-310 【註】 (答えて曰く。百一の生滅を一刹那と名づけ、六十の刹那を名づけて一念となす。)SSZ01-310 『摩訶止観』の三に経を引きて云わく「一念に六百生滅と。成論師の云わく。一念に六十刹那ありと。」『仁王経』に云わく「一念の中に九十の刹那あり。一刹那に九百の生滅を経。」『大論』の三十八に云わく「時の中の最も少なきものは六十念の中の一念。」また八十三に云わく「一弾指頃に六十の念あり」と。『倶舎』に云わく「壮士の一弾指の頃に六十五の刹那あり」と。「月蔵分」〈『大方等大集経』〉に云わく「一千六百の刹那を一の伽羅と名づく。六十の迦羅を摸呼律多と名づく。三十の摸呼律多を一日夜となす。」『倶舎の頌〈倶舎論本頌〉』に云わく「百二十の刹那を怛刹那量と名づく。臘縛はこれ六十なり。これ三十は須臾なり。この三十は昼夜。三十の昼夜は月。十二の月を年とする。中に於いて半は夜を減ず。」(釈して云わく。一昼夜に六百四十八万の刹那あり。)『涅槃の疏』〈潅頂撰〉に云わく「一息一[ジュン02]に四百の生滅あり」と。法位の『大経の疏』に云わく「およそ時の長短に十二重あり。一に刹那(一念)。二に怛刹那(百二十の念、一瞬)。三に羅婆(一息)。四に摩[ゴ02]羅(三十息、一須臾)。五に日夜(三十須臾)。六に半月。七に月。八に時(三月)。九に行(両時、半年)。十に年(両行)。十一に双(二年半)。十二に劫(不可数)。」異説繁多なり。略引してここに載す。然るに「百一生滅」の義、未だ本拠を検〈しら〉べず。RY05-37R,37L 【註】此中云念者、不取此時節也。SSZ01-310 【註】 (この中に念というはこの時節を取らざるなり。)SSZ01-310 【註】但言憶念阿弥陀仏。若総相若別相、随所観縁心無他想十念相続名為十念。SSZ01-310 【註】 (ただし阿弥陀仏を憶念すというは、もしは総相、もしは別相、所観の縁に随いて、心に他想なく十念相続するを名づけて十念となす。)SSZ01-310 「但」とは余仏を念ずることを遮するが故に。「総相」とは頂より足に至る十処を観ずるなり。あるいは十遍観念して他想を雑うることなし。「別相」とは四八の妙相、八十の細好、別別に観ずるなり。『要集』に別総雑の三を挙ぐるが如し。彼に准じて知るべし。「随所観縁〈所観の縁に随いて〉」を『安楽集』には「随所縁観〈所縁に随いて観じ〉」という。「所観」即ち縁あるいは可縁は能縁の心なり。「心無他想」は即ち能観なり。「十念相続」は即ち観の相なり。念は即ち総別の相を観念するなり。問う。下下の十念は観念に通ずるや。答う。善道の解釈はただ称名に局る。鸞・綽の両師は観称に通ずと許す。問う。死苦来逼して念仏に遑あらず(観念なり)。何ぞ観に通ずるや。答う。観念の中に於いて、機に堪否あり。『経』は不堪に約して「不能念」という。もし堪機あらば応に観念を教うべし。広く機を摂するが故に観念の解を作る。一義に云わく。下下の十念は偏に称名に局る。十念の言に因みて観の十念を述べて、観称の念同じく浄土に生まるることを彰す。下下の十念、これ観というにあらず。一義に云わく。「憶念」というは、称名所包の総別の念なり。この文は心念を以て口称を助く。次の「但称名号〈ただ名号を称る〉」は口称を以て心念を助く。同じく名号を唱え十声相続す。然るに総別の相に於いて心を一処に係けて他境を縁ぜずして十声を唱うるを十念相続となす。総別の相好を憶念せずといえども、ただ口に名を称えて十声相続するを十念となすなり。故に十声称名の中に於いて、而も観称を分かつなり。下の「凝心注想」はこれ「専心専念」の意なり。RY05-37L.38R 【註】但称名号亦復如是。SSZ01-310 【註】 (ただ名号を称するも、またまたかくの如し。)SSZ01-310 義寂の『大経の疏』に十八願を釈するに下下品を引き畢わりて云わく「これらの文に准ずるに、十念年を経る頃、専ら仏名を称するを名づけて十念となす。」ここに「念」というは南無阿弥陀仏を称するをいう。この六字を経る頃を一念と名づく。一心の見道の如く唯一の生滅にあらず。一類の境に於いて事〈こと〉究竟するを一念と名づく。刹那数量の多少の限るにあらざるなり。『往生要集』の中巻、これに同じ。前の下下品の文に解するが如し。RY05-38R,38L 〈第八問答 念の記不記を問答す〉 【註】問曰。心若他縁摂之令還可知念之多少。但知多少復非無間。若凝心注想復依何可得記念之多少。SSZ01-310,311 【註】 (問いて曰く。心もし他縁せば、これを摂して還らしめ念の多少を知るべし。ただし多少を知らば、また無間にあらず。もし心を凝らし想いを注〈とど〉めば、また何に依りてか念の多少を記することを得べけんや。)SSZ01-310,311 問いの意は、心もし散乱して専注ならざれば、その散乱を息して心をして専注ならしめ、十念の数を知るべし。もし強ちに十念の数を記さば、記心と称心と互いに相錯乱して専ならず、注ならず。還りて散乱に墜つ。進退惟れに谷〈きわ〉まる。いぶかし、また凝心注想にしてまた数を知るの方法ありや。RY05-38L 【註】答曰。経言十念者明業事成弁耳。不必須知頭数也。SSZ01-311 【註】 (答えて曰く。経に十念というは、業事成弁を明かすらくのみ。必ずしも頭数を知ることを須いず。)SSZ01-311 (『円覚経』に云わく「心中に生住異滅の念、分斉頭数を了知す。」)RY05-39R 「業事」等とは、謂く、決定して往生の業事を成弁するなり。『法事讃』に云わく「昼夜六時に強めて願を発し、心を持ちて散ぜざれば業還成す。」これ即ち十念満ずる時、定業と成る。業事弁する時、即ち十念満つ。『往生拾因』に云わく「願力に由るが故に十念に業成す。しからずば本願、応に勝用なかるべし。」故に知りぬ。積念相続して業道成弁せば、何ぞ強いて頭緒数量を記すことを須いん。故に『安楽集』に云わく「業道成弁せば便ち罷みぬ。用いざれ。また未だ労わしくこれが頭数を記せず。」然れば則ち十は満の義、極成の義なり。一二九十の数をいうにあらず。たとい一念といえども業事成弁せば即ち十念満ずるなり。たとい多念といえども往業成せざれば十念満にあらず。往生の業成就満極と知るを名づけて十念という。行者は識らず。ただ釈迦仏はその業成を知りて十念往生と説く。『真要抄』に所謂「平生をいわず、臨終をいわず。信心の定まる時、往生即ち定まる」と。これはこの謂か。問う。三心具足の念仏と業事成弁の念仏と同じか、異か。答う。あるが云わく。三心を発すといえども、業成弁にあらず。有退を許すが故に。三心を具せる上に生因を決定して不退なる、これを業道成弁という。あるが云わく。三心具足の念仏の行者はみな業事を成ず。業道成ずといえども、凡夫の故に少分の退あることを許す。RY05-39R,39L 【註】如言[ケイ06]蛄不識春秋、伊虫豈知朱陽之節乎。知者言之耳。SSZ01-311 【註】 ([ケイ06]蛄〈けいこ〉、春秋を識らずというが如し。伊〈こ〉の虫、あに朱陽の節を知らんや。知る者これをいうのみ。)SSZ01-311 「[ケイ06]」は胡桂の切し、また于貴の切し。「蛄」は古胡の切し。『広韻』に「小蝉なり。」『荘子』の「逍遙遊」に云わく「朝菌は晦朔を知らず。[ケイ06]蛄は春秋を知らず。これ小年なればなり。」林氏が『口義』に「[ケイ06]蛄は寒蝉なり。春生じ、夏死す。夏生じ、秋死す。四時の全を見ざるが故に小年という。」「伊」は維なり。「朱陽」とは『爾雅』に云わく「春を青陽とす。(気青にして温陽なり。)夏を朱明とす。(気赤にして光明らかなり。)秋を白蔵とす。(気白にして収蔵なり。)冬を玄英とす。(気黒にして清英なり。)」これに准ずるに、朱陽は夏を指す。陽気熾なるが故に。あるいは春夏を指す。この虫は四時の全きを見ず。奚〈なん〉ぞ春夏の知あらんや。虫に於いて知と不知とあることなし。知・不知というはこれ知る人のみ。故に「知る者これをいう」という。行者は虫の如し。念数を記さざるは時を知らざるが如し。釈迦仏は業道成弁することを知りて「十念成」とのたまう。「知る者これをいう」の如し。RY05-39L,40R 【註】十念業成者、是亦通神者言之耳。SSZ01-311 【註】 (十念業成というは、これまた神通の者〈ひと〉これをいうならくのみ。)SSZ01-311 「神通者」とは釈迦仏を指す。(あるが解して、「神通者」とは弥陀を指す言と。今謂く、然らずと。もし願文の「乃至十念」に於いて業成の解を作さば、弥陀となすべし。今は『観経』の「具足十念」を解す。故に「神通者」は釈迦を指す。)事として達せざることなし、これを「通」という。天心は測らず、これを「神」という。『瓔珞経』に云わく「神を天心に名づけ、通を恵性に名づく。」〈cf.妙法蓮華経玄義〉『周易』に云わく「陰陽は測らず、これを神という。」今謂く。仏は寂照・権実・智悲・体用、尽くみな測らざるが故に名づけて神となす。『安楽集』に云わく「十念相続とは、これ聖者一数の名なるのみ。」RY05-40R (あるが云わく。神は臨終の善友を指す。行者は数を知らざれども、善友の教えて念仏せしむる時、行者をして十念を成就せしむ。故に業成を知る者は即ち善友なり。)RY05-40R 【註】但積念相続不縁他事便罷。復何暇須知念之頭数也。SSZ01-311 【註】 (ただ積念相続して他事を縁ぜざれば便ち罷〈や〉みぬ。また何の暇あってか念の頭数を知ることを須いん。)SSZ01-311 「但」は淳一の心なるが故に。「積念相続」は余念の間つることなきが故に。「他事」とは専注称名の障なるが故に「不縁」なり。「罷」は部買の切、止なり、休なり。積念相続し専注して乱れざるは往生の業成就満足し、万般の事業便ち罷〈や〉めて用いず。何ぞ労しく重ねて念数の多少を記さん。問う。何ぞ罷〈や〉めて用いざるや。答う。心を一処に制して事の弁えざることなし。RY05-40L 【註】若必須知亦有方便。必須口授。不得題之筆点。SSZ01-311 【註】 (もし必ず知ることを須いば、また方便あるべし。必ず須く口授すべし。これを筆点に題〈あらわ〉すことを得ざれ。)SSZ01-311 『安楽集』に云わく「もし久行の人の念は多くこれに依るべし。もし始行の人の念ずるは数を記すもまた好し。これまた聖教に依る。」(観念の数を明かすことは『観仏経』に出づ。称名の数を明かすことは『木[ゲン04]経』に在り。また『観経』には声を以てこれを数うることを見る。)「方便あるべし」とは、『往生拾因』に云わく「余、この註に遇いて喜ぶといえども、口授を伝えざること、これ恨なり。然るにある人の云わく。西方に向かうに指を折りて念仏一心不乱なるに自ら頭数を知りてこれを行ず、知るべし。これ途に聴こゆるのみ。今云わく。たといまた数を知るとも、あに専念を退せん。心専注の言はただ一境にあらず。前に已に説くが如し。」あるが解すらく。仏の相好に於いて十処を定め畢わりて、他事を縁ぜず、心心相続して彼の十処を念じ、口に仏名を唱うれば、数を記さずといえども、しかも心無間にして自ずから十念を成ず。今の方便、恐らくはこの義に当たるか。またあるが解すらく。仏名を唱うる時、甲乙の連声をもって、その中に自然に数を記す義あり。もし筆点に題〈あらわ〉せば、末学迷惑して恐らくは軽怱を致すが故に「必ず須く口授すべし」という。今謂うに、数を記す相は定まれる方法なし。教ゆる者の意楽、行人の機宜に在り。説聴、能所、必ずしも定準あらざるが故に「須く口授すべし」。ここに於いて急とせざるが故に筆点に題〈あらわ〉さざるなり。然るに一類ありてこの語を封執して記数を貴ぶ。専注を忘れ、柱を膠〈あや〉まり、響きを逐う者、最も悲しむべし。宜なるかな、鸞師の筆点に題〈あらわ〉さざることや。もし一向専念ならば驀直に鸞公厳に目撃して一莞を発せん。RY05-40L,41R 【註】無量寿経優婆提舎願生偈註 巻上。SSZ01-311 無量寿経論註翼解巻五 終 |