浄土論註翼解 第6巻の3(9の内) 解義分(長行) 起観生信(五念門) 五念門を出だす 讃歎門 |
無量寿経論註翼解 巻六之三 |
【論】云何讃嘆、口業讃嘆。SSZ01-313 【論】 (云何が讃嘆する。口業をもって讃嘆したてまつる。)SSZ01-313 牒挙して略して明かす。次下に広く示す。RY06-9L 【註】讃者讃揚也。嘆者歌嘆也。讃嘆非口不宣、故曰口業也。SSZ01-314 【註】 (讃というは讃揚なり。嘆というは歌嘆なり。讃嘆は口にあらざれば宣べず。故に口業というなり。)SSZ01-314 三業相応の口業なり。「揚」は、音は羊、発なり、顕なり、称説なり、挙なり。「歌」は詠なり。RY06-10R 【論】称彼如来名、如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応故。SSZ01-314 【論】 (彼の如来の名を称すること、彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、実の如く修行し相応せんと欲するが故に。)SSZ01-314 『六要』の三に云わく「称彼等とは、言う所の称は、称念の義か、称揚の義か。答う。総じてこれを言わば二義に通ずべし。別してこれを論ぜば称念を本となす。問う。今論に立つる所の五念門の中に名号称念の一門を立てず。即ち観察を以て論の正意となす。随いて註の文を見るに、讃嘆を釈して云わく。讃は讃揚なり。嘆は歌嘆なり。須く称揚に約すべし。何ぞ二義に通ぜん。況んや称念を以て論の正意となすこと、その理如何。答う。あに前に云わざるや。総じて二義に通ずと。今、讃嘆の釈は則ち一辺の義なり。ただし別に称念の門を立てざることは、讃嘆というは、これ則ち称の義。称に称揚・称念の二義あり。故に別に立てず。およそ称の字は二義に通ずる辺に於いて、もし所讃に約せば、これ則ち名号を称念する、これなり。もし能讃に約せば称揚の義なり。而るに能讃は所讃の法に於いて勝徳あるが故なり。もし所讃なくば何ぞ能讃あらん。その所讃とは名号光明なり。第一の句に明かす所は即ちこれ名号の法なり。」問う。讃嘆を称名とすること、拠ありや。答う。『群疑論』の二に五念を列して云わく「一に身業礼拝門。二に口業念仏門」等と。『念仏鏡』に云わく「二者讃嘆門。口業に専ら阿弥陀仏の名号を称す」といえり。註家の問答(次下の「名法異即」〈科文。註文「問曰。名為法指」〉の文)専ら称名に約す。上に「讃揚」「歌嘆」というは、これ称揚に約す。下の註は念に約す。RY06-10R,10L 【註】称彼如来名者、謂称無碍光如来名也。SSZ01-314 【註】 (称彼如来名というは、謂く、無礙光如来の名を称する〈ほむる・となうる〉なり。)SSZ01-314 初めの六字は標す。「謂称」の下は釈す。称に二訓あり。次上に解するが如し。RY06-10L 【註】如彼如来光明智相者、仏光明是智慧相也。SSZ01-314 【註】 (如彼如来光明智相というは〈標文〉、仏の光明はこれ智慧の相なり。)SSZ01-314 釈の中に四あり。初に略して文を釈す。自ら瑩くを光という。物を照らすを明という。通じては則ち、智即ちこれ恵、光即ちこれ明。別しては則ち義を以てこれに因るを智恵と名づけ、相を以てこれを取るに光明という。智は体、恵は用。光は即体の相、明は即用の相なり。『経』に云わく「文珠師利の言わく。光明は即ちこれ智恵」等と。RY06-10L,11R 【註】此光明照十方世界無有障碍。能除十方衆生無明黒闇。非如日月珠光但破空穴中闇也。SSZ01-314 【註】 (この光明は十方世界を照らすに障礙あることなし〈二に光照の相を明かす〉。能く十方衆生の無明の黒闇を除く〈三には光照の益を■〈示か?〉〉。日月珠光のただ空穴の中の闇を破るがごときにはあらず〈四には余を揀びて勝を表す〉。)SSZ01-314 問う。所照の衆生に通局ありや。答う。通じて十方の衆生を照らし、別して念仏の行者を益す。摂取と不摂との異、破闇と不破との差なり。問う。光照は云何が悪を破し善を生ずるや。答う。譬えば熏薬烟の触るれば病苦即ち除き、身は安楽を得るが如し。光蝕もまたしかり。この光は善法より出づるを以て、触に随いて苦は除かるといえり。況んや弥陀仏は願力あるをや。問う。言う所の無明は業か、惑か。答う。行者に約すれば則ち業にして惑にあらず。仏力に約すれば則ち業惑共に滅す。善導〈『法事讃』〉の云わく「無明業障〈無明黒闇〉の罪皆除こる」と。また〈『般舟讃』〉「無明と果と業因とを滅せんが為なり」と、これなり。「日月珠光」は、ただ破闇の能ありて、破惑の徳なし。仏光は二を兼ぬるが故に「非如」という。いわゆる〈『無量寿経』〉「日月、重暉を[シュウ04]〈おさ〉め 天光隠れて現ぜじ」というものなり。RY06-11R,11L 【註】如彼名義欲如実修行相応故者、SSZ01-314 【註】 (如彼名義欲如実修行相応故というは、)SSZ01-314 【註】彼無碍光如来名号、能破衆生一切無明、能満衆生一切志願。SSZ01-314 【註】 (彼の無碍光如来の名号は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満てたまう。)SSZ01-314 『六要抄』に云わく「能破等とは、滅罪の徳を明かす。「一切の言の中に惑障・業障・報障、もろもろの不善を摂すべし。能満等とは、往生の益を明かす。また一切の言は護念見仏等を摂すべし。」「志願」とは心の適う所、これを志といい、志の欲楽を願という。上求満足するを満志といい、下化円満するを、これを満願という。また現生に闇を破し、来世に成仏するを「満志願〈能く衆生一切の志願を満てたまう〉」というなり。RY06-11L 【註】然有称名憶念而無明由在而不満所願者。何者、SSZ01-314 【註】 (然るに称名憶念すれども、無明なお在りて所願を満てざる者あり。何となれば、)SSZ01-314 【註】由不如実修行与名義不相応故也。SSZ01-314 【註】 (実の如く修行せず、名義と相応せざるに由るが故なり。)SSZ01-314 倒なきを「如」と名づけ、謬なきを「実」と名づく。信心淳一にして相続して断ぜず、これ真の修行なり。浄影『起信疏』に云わく「邪を遣り正を取る。故に如実という。不足の位に在りて研習勝進す。故に修行という。」今謂く。実に四解あり。一には釈迦教を指す。二には実相の理を指す。三には淳一相続の真実心を指す。四には弥陀の因行を指す。四みな真実なり。これに反して実ならざるが故に「不如」という。能く詮するを「名」という。所以を「義」となす。四字洪名を名となし、「光明智相」を義となす。(十七の願は名。十二の願は義。)「実相身」はこれ義。「為物身」はこれ名なり。RY06-12R 【註】云何為不如実修行与名義不相応。SSZ01-314 【註】 (云何んが実の如く修行せず、名義と相応せずとする。)SSZ01-314 【註】謂不知如来是実相身、是為物身。SSZ01-314 【註】 (謂く、如来はこれ実相身、これ為物身なりと知らざればなり。)SSZ01-314 光明を摂法身となし、名号を摂衆生となすが故にこの名を立つ。報身の円果、遷ることなく変わることなく妄の所得を離るるが故に「実相」という。実相の身なるが故に、能く虚妄分別の衆生を度す。これを「為物」となす。この二身の名はおのおの三身に通ず。今は法身・実相・応身・為物の義にはあらざるなり。『六要』の三に云わく「これに二義あり。一義に云わく。実相身とは、これはこれ理仏なり。即ち法性法身という、これなり。為物身とは、これはこれ事仏なり。即ち方便法身という、これなり。一義に云わく。実相・為物の二種の法身は共にこれ事仏なり。二種法身はこれ自利利他の徳に約す。即ち名と義となり。実相は義に約す。即ちこれ光明。摂法身の故に。為物はこれ名なり。即ちこれ名号。摂衆生の故に。問う。且く後の義に就きて、既に実相という。何ぞ事仏とするや。答う。言う所の実相は無相の義にあらず。これ虚実の義なり。即ち生仏に約す。謂わく仏を実となし、衆生を虚となす。悟を以て実となし、迷を以て虚となす。(乃至)」後の義、文に親〈ちか〉しといえり。問う。痴惷の嬰夫、奚〈なん〉ぞ二身を知るや。答う。仏に光明威力あると信ずるは、これ実相を知るなり。仏に名号の利益ありと信ずるは、これ為物を知るなり。強いて知らんと欲するは、恐らくは専修に乖くなり。大信海の中には智愚を絶するが故に。RY06-12L,13R 【註】又有三種不相応。SSZ01-314 【註】 (また三種の不相応あり。)SSZ01-314 【註】一者信心不淳、若存若亡故。二者信心不一、無決定故。三者信心不相続、余念間故。SSZ01-314 【註】 (一には信心淳からず、もしは存し、もしは亡ずるが故に。二には信心一ならず、決定なきが故に。三には信心相続せず、余念間〈まじ〉わるが故に。)SSZ01-314 (「若存若亡」の語は『楞伽経』三巻に出づ。)RY06-13R 「淳」は常倫の切し、厚なり、朴なり、純なり、淑なり。『老子』の云わく「上士は道を聞かば、勤めてこれを行う。中士は道を聞かば、存るがごとく、亡きがごとし。下士は道を聞かば、大いにこれを笑う。」『林氏が注』に云わく「若存若亡とは、かつは信じ、かつは疑う。また以て有となし、また以て無となすなり」といえり。今は語勢を藉る。疑信相半ばの故に、信淳からず。究竟、二にあらざるを、これを名づけて一となす。『経〈遺教経論〉』に云わく「心を一処に制すれば、事として弁ぜざることなし」〈cf.『妙法蓮華経玄義』〉。心に二用なし。功は雑施を忌む。道は多岐なるをもって■を忘る。射は専注を以て鵠に中〈あた〉る。『経〈無量寿経〉』に「一向」と説き、『論』に「一心」といい、釈に「一念」という。もし一ならざれば妙果を求むる者は木に登りて芙蓉〈芙蓉は蓮華の異名〉を索し、山に入りて鯉魚を望むが如きなるのみ。RY06-13R,13L- 「決定」とは専行不動の貌なり。決は断なり、破なり。定は静なり、止なり。自力の雑執を破断するを「決」といい、他力の正行に静止するを「定」という。『十住論』の二に云わく「所願、倦まざるが故に、名づけて決定心となす。」『大日経』に云わく「教命を尊び、説の如く奉行するを、名づけて決定心となす。」これ即ち一心正念にして倦まず疲まず、招喚の命を尊びて、願に随いて奉行するを「決定」という。「相続」とは綿連不断の義なり。「余念」とは雑助自力等の念なり。「間」は即ち間雑・間断の義なり。-RY06-13L 【註】此三句展転相成。以信心不淳故無決定。無決定故念不相続。亦可念不相続故不得決定信。不得決定信故心不淳。SSZ01-314 【註】 (この三句展転して相い成ず。信心淳からざるを以ての故に決定なし。決定なきが故に念相続せず。また念相続せざるが故に決定の信を得ず、決定の信を得ざるが故に心淳からずというべし。)SSZ01-314 展転に二義あり。一には挙一摂余の義。謂く、信、淳ならざるが故に一ならず、相続せず。信、一ならざるが故に淳ならず、続ならず。信、続ならざるが故に一ならず、淳ならず。二には順逆相成の義。謂く、上より下に至り、下より上に至りて回互相成す。また信淳ならざるが故に行・不行あり。これ心の[X27]きに約す。信、一ならざるが故に、行、一準ならず。これ境の多きに約す。信、続ならざるが故に、行に退転あり。これは時の少なきに約すのみ。RY06-14L,15R 【註】与此相違名如実修行相応。是故論主建言我一心。SSZ01-314 【註】 (これと相違するを如実修行相応と名づく。この故に論主、建〈はじ〉めに我一心と言えり。)SSZ01-314 (『仁王良賁疏』に云わく「初めて起こるを建といい、終に成るを立となす。」)RY06-14R 初めに略して示す。二に「是」というの下は証を引く。『六要抄』の三に「問う。上に三信を挙げて更に一といわず。一心の文を以て三信の義を結す。注釈引文は甚だ相順ぜず、如何。答う。上に三信を挙げて、その心を開くといえども、三信相成じて遂に別心にあらず。これを以て、これを謂うに、ただこれ開合、その意を顕わさんがために、故にこの義を結して、この文を引くなり。」問う。三信は安心なり。「我一心」の註の意は起行に当たれり。何ぞ引きて証せんや。答う。一心の言は心に通じ、行に通ず。何ぞ偏に局らんや。RY06-14R 【註】問曰。名為法指。如指指月。若称仏名号便得満願者、指月之指応能破闇。若指月之指不能破闇、称仏名号亦何能満願耶。SSZ01-314 【註】 (問いて曰く。名を法の指〈しるし〉となす。指〈ゆび〉をもって月を指すが如し。もし仏の名号を称して便ち願を満つることを得ば、月を指すの指、能く闇を破すべし。もし月を指すの指、闇を破すること能わずんば、仏の名号を称するも、また何ぞ能く願を満せんや。)SSZ01-314 (『唯識が自攷』に云わく「名を以て義を求むれば、万に一得なし。義を以て名を定むるは、万に一失なし。」)RY06-14L 法喩回互して難の意遁れがたし。「指」は、音は止、示すなり。名に物を召すの功あり。これ法が上に設くる所なり。「如指」の指は手指なり。大は臣指、二は食指、中は将指、四は無名指、五は小指なり。足の力を用ゆるは大指、多きに居す。手の物を取るは中指を長とす。故に足は大指を以て将となし、手は中指を以て将となす。「指月」の指は斥〈さす〉なり、指点なり。『智論』の九に云わく「人の指を以て月を指し以て惑者に示すが如き、惑者は指を視て月を視ず。人これに語りて言わく。我は指を以て月を指して、汝をしてこれを知らしむ。汝何ぞ指を看て月を視ざる」といえり。RY06-14L- 問の意は、それ指には指月の能ありて、破闇の徳なし。名に物を召す功あれども、願を満つるの能なし。何ぞただ名号を称せば能く願を満つとせんや。もし名に破満の徳あらば、則ち指にも必ず破闇の能あらん。指既に然らず。名もまた然るべし。この義云何。-RY06-14L,15R 【註】答曰。諸法万差、不可一概。有名即法、有名異法。SSZ01-314 【註】 (答えて曰く。諸法万差なり。一概すべからず。名の法に即するあり。名の法に異なるあり。)SSZ01-314 「概」は居大の切、斗斛を平にするものなり。また大概は大率〈おおむね〉なり。『揚氏の法言』に「諸聖を一概にす」と。「注」に「概は平なり。」『大論』の二十五に云わく「問う。義と名と合となすや、離となすや。答う。また合せず、また離せず。」然れば則ち不離の故に、名の法に即するあり、不合の故に名の法に異なるあり。RY06-15R 【註】名即法者。諸仏菩薩名号。般若波羅蜜。及陀羅尼章句。禁咒音辞等是也。SSZ01-314 【註】 (名の法に即すというは、諸仏菩薩の名号、般若波羅蜜、及び陀羅尼の章句、禁呪の音辞等、これなり。)SSZ01-314,315 諸仏の名号は弥陀の如し。是なり。菩薩の名号は観音等の如し、「普門品」の如し。「般若」とは『大論』の五十七に云わく「外道・神仙・呪術力の故に、水に入ても溺れず。火に入ても熱ならず。毒蟲も不螫〈さ〉さず。何に況んや般若波羅蜜はこれ十方諸仏の因成就する所の呪術なり。」また云わく〈『智度論』〉「善男子善女人。般若波羅蜜を誦するが故に、軍陣の中に入りても終に命を失わず、刀箭に傷かず」といえり。RY06-15R,15L- 「陀羅尼」、此には総持という。『大論』の五に云わく「秦には能持といい、あるいは能遮という。能持とは種種の善法を集む。能持して散ぜず失せざらしむ。譬えば完器の水を盛りて水の漏散せざるが如し。能遮とは、悪不善根生ずれば、能く遮して生ぜざらしむ。もし悪罪を作さんと欲せば、持して作さざらしむ。これを陀羅尼と名づく。(乃至)菩薩は陀羅尼力を得るが故に、一切の魔王魔民魔人、動ずること能あたわず、破すること能うことなく、勝つこと能うことなし。」慈恩の『玄賛〈妙法蓮華経玄賛〉』に云わく「小略密無義の文字を以て神力加持威霊、匹うものなし。邪を摧き悪を殃〈ほろぼ 殄か?〉し、正を樹て、善を揚ぐ。」良賁の『仁王の疏』に云わく「念慧を体となす。」『円覚の疏』に云わく「総持に三あり。謂く多字・一字・無字」といえり。-RY06-15L- 「禁咒の音辞」とは、解に二義あり。一には下の三例の如き、これ禁呪の辞〈ことば〉なり。陀羅尼の句は掲諦等の如き、これなり。二には禁呪の音辞と総持と同じ。ただし総持は広し。呪は狭し。法華に陀羅尼呪という、これなり。『楞厳』に呪を説きて云わく「末の世、衆生、能く自誦し、もし他に教えて誦せしむるあり。まさに知るべし、かくの如き誦持の衆生は、火の焼く能わず」等。また『神力伝』に弥陀の呪を説きて云わく「この呪を誦す者は、阿弥陀仏、常にその頂に住し、(乃至)現世、常に安穏を得、命終の時に臨み任運に往生す」と。-RY06-15L,15R- 問う。呪とは何の義ぞ。答う。呪はこれ鬼神王の名。その王を称するは、則ち部落、主を敬い敢えて非をなさざるが故に、能く一切の鬼魅を降伏す。(これ世界悉檀の意。)あるいは云わく。呪は軍中の密号の如し。唱号相応すれば訶問する所なし。もし相応せざれば則ち執、罪を治す。(人悉檀となす。)あるいは云わく。呪とは密黙、悪を治し、悪自然に息む。(対治悉檀。)あるいは云わく。呪はこれ諸仏の密語。王の先陀婆を索〈もと〉むるが如し。(第一義悉檀の意。)この義となすがが故に、みな翻せず。また『楞厳の疏』に云わく「古より翻ぜず。略して五意あり。一にはこれ諸仏の密語。秘密の法はただ仏と仏とのみ自相解了す。これ余聖の能く通達する所にあらず。二にはこれ総持門。一一の字句に多義を含むが故に。婆伽婆に六種の義を具するが如し。三にはあるいはこれ鬼神王の名。これを呼びて勅して修行の人を守護せしむるを以ての故に。四にはこれ諸仏の密印なり。王の印信、往く所、通ぜざる所なきが如し。幽顕遵奉、仏仏相伝して移易することを得ざるが故に。五には不思議力の加持する所なるが故に。ただし密誦、即ち能く大過を滅し、速やかに聖位に登る。王の洪恩を放ちて大辟咸く赦し、功ある者は次を超えて受職するが如し。これまたかくの如し。故に古よりこのかた解釈せしめず。」-RY06-16R,16L 【註】如禁腫辞云、日出東方乍赤乍黄等句。仮使酉亥行禁不関日出、而腫得差。亦如行帥対陣、但一切歯中誦臨兵闘者皆陣列前行。誦此九字、五兵之所不中。抱朴子謂之要道者也。又苦転筋者、以木瓜対火熨之則愈。復有人、但呼木瓜名亦愈。吾身得其効也。如斯近事世間共知。SSZ01-315 【註】 (腫〈はれもの〉を禁〈まじな〉う辞に、日出東方乍赤乍黄等の句を云うが如き、たとい酉亥に禁を行じて、日出に関〈あずか〉らざれども、腫、差〈い〉ゆることを得。また行帥〈行=つらぬる。帥=つわもの〉の陣〈いくさ〉に対〈むか〉って但一たび歯を切〈くいしば〉る中に臨兵闘者皆陣列前行と誦するがごとし。この九字を誦すれば五兵の中らざる所なり。抱朴子にこれを要道と謂うものなり。また転筋〈こむらがえり〉を苦しむ者は、木瓜を以て火に対〈あて〉て、これを熨〈の〉せば則ち愈ゆ。また人ありて、ただ木瓜の名を呼ぶにもまた愈ゆ。吾が身にその効〈しるし〉を得たり。かくの如き近事、世間に共に知れり。)SSZ01-315 文に三段あり。初の中に、「腫」は主勇の切し、癰なり。然るに呪辞の中に『安楽集』には「等」の字なきなり。「酉亥」とは日入酉、人定亥なり。二の中に「帥」は所類の切、主なり、率なり、統なり、領なり。毛氏が曰く「およそ兵を主る者を称して将帥となす。則ち去声。兵を領する帥師というは則ち入声なり。」一本に師に作る。申之の切し、衆なり。五旅を師となす。二千五百人なり。およそ行軍多きを、これを軍という。次を師という。少なければ則ち旅という。また春秋の兵、累満の衆といえどもみな師と称す。「対陣」とは、両敵互いに対すなり。陣は、音は塵、行列なり。または陳に作る。行伍の列なり。「切」は迫急なり。「歯」は口の断骨なり。九字の中に、一本に在の字あるは非なり。密家に九字護身の決あり。また十字の秘蜜あり。おのおの印契あり。また神呪あり。『抱朴子』の「登渉篇」に云わく「名山に入るには甲子の解除の日を以てし、五色の繒を以ておのおの五寸にして大石の上に懸けば、求むる所必ず得。また曰く。山に入るには宜く六甲秘祝を知るべし。祝に曰く。臨兵闘者皆陳列前行と。およそ九字、常に当に密にこれを祝すべし。避けざる所なし。要道煩わずとは、これこの謂なり」と。抱朴子は、姓は葛、名は洪、字は稚川。丹陽句容の人。自ら抱朴子と号す。著書七十二巻。内篇二十巻、外篇五十二巻。「要道」の語は内篇十七に出でたり。RY06-17R,17L- 「五兵」とは「内篇」の「雑応篇」(十五)に云わく「鄭君が云わく。ただ五兵の名を誦するもまた験あり。刀を大房と名づけ、虚星、これを主る。弓を曲張と名づけ、[テイ04]星これを主る。矢を彷徨と名づけ、[ケイ11]志星これを主る。剣を大傷と名づけ、角星これを主る。弩を遠望と名づけ、張星これを主る。戟を大将軍と名づけ、参星これを主るなり。」また『世本』に「蚩尤、金を以て兵を作る。兵に五あり。一に弓、二に殳〈シュ〉、三に矛、四に戈、五に戟なり。」弓は六材の成す所。幹と角と筋と膠と糸と漆となり。『世本』に「黄帝の臣揮、弓を作る」と。『孫子』に「[スイ02]、弓を作る」と。『山海経』に「少昊、般を生じ始めて弓を為る」と。殳〈シュ〉は、音は殊、兵器なり。竹を積み、これを為〈つく〉る。長〈たけ〉一丈二尺、しかして[ソウ14]なし。矛は、音は謀、[セン17]の如くして三廉なり。また酋矛は長二丈、また夷矛は長二丈四尺、並びに車上に建つ。戈は、音は果、鈎子の戟なり。戟の如くにして横に[ソウ14]を安ず。頭、下に嚮〈む〉かい鈎をなす。戟は、音は棘。両辺に[ソウ14]を横たう。長六寸。中[ソウ14]は七寸半、[ソウ14]を横たう。柄に接する処は長四寸半、並びに広さ寸半。『増韻』に「双枝を戟となし、単枝を戈となす。」-RY06-17L,18R- 三の中に「転筋」とは足の疾なり。「木瓜」、木の状は[ダイ01]の如し。華は春の末に生じて深紅色なり。その実の大なるものは瓜の如く、小なるものは拳の如し。酢、食しつべし。「慰」は、音は畏、火を以て[ゾウ02]を申〈の〉べ、上より下に按ずるなり。俗にはこれを火斗〈ひのし〉という。-RY06-18R 【註】況不可思議境界者乎。滅除薬塗鼓之喩、復是一事。此喩已彰於前。故不重引。SSZ01-315 【註】 (況や不可思議の境界なるものをや。滅除薬をもって鼓に塗る喩、またこれ一事なり。この喩は已に前に彰す。故に重ねて引かず。)SSZ01-315 諸仏の名号は無量功徳の聚衆する所なるが故に一唱すれば善を満つ。単声も徳に溢る。口に誦し耳に聞けば無辺の聖徳、色心に攬入し、声声、薩婆若海に流入す。あに世間の禁辞等に比せんや。薬鼓の喩は上に出づ。知るべし。RY06-18R 【註】有名異法者、 如指指月等名也。SSZ01-315 【註】 (名の法に異なるありというは、指をもって月を指すが如き等の名なり。)SSZ01-315 『大論』の九巻の文の如し。RY06-18R |