浄土論註翼解 第7巻の5(8の内) 解義分(長行) 観察体相 衆生体(衆生世間) 仏荘厳功徳成就 第一座功徳 第二身業功徳 第三口業功徳 第四心業功徳 |
無量寿経論註翼解 巻七之五 |
【註】衆生体者、SSZ01-329 【註】 (衆生体というは、)SSZ01-329 【註】此分中有二重。一者観仏、二者観菩薩。SSZ01-329 【註】 (この分の中に二重あり。一には観仏、二には観菩薩なり。)SSZ01-329 【註】観仏者、SSZ01-329 【註】 (観仏というは、)SSZ01-329 【論】云何観仏荘厳功徳成就。観仏荘厳功徳成就者、有八種相。応知。SSZ01-329 【論】 (云何が仏の荘厳功徳成就を観ずる。仏の荘厳功徳成就を観ずというは、八種の相あり。知るべし。)SSZ01-329 【註】此観義已彰前偈。SSZ01-329 【註】 (この観の義は已に前の偈に彰れたり。)SSZ01-329 【論】何等八種。一者荘厳座功徳成就、二者荘厳身業功徳成就、三者荘厳口業功徳成就、四者荘厳心業功徳成就、五者荘厳衆功徳成就、六者荘厳上首功徳成就、七者荘厳主功徳成就、八者荘厳不虚作住持功徳成就。SSZ01-329 【論】 (何等か八種なる。一には荘厳座功徳成就、二には荘厳身業功徳成就、三には荘厳口業功徳成就、四には荘厳心業功徳成就、五には荘厳衆功徳成就、六には荘厳上首功徳成就、七には荘厳主功徳成就、八には荘厳不虚作住持功徳成就なり。)SSZ01-329 【論】何者荘厳座功徳成就。偈言無量大宝王 微妙浄華台故。SSZ01-329 【論】 (何者か荘厳座功徳成就なる。偈に無量大宝王、微妙浄華台といえるが故に。)SSZ01-329 【註】若欲観座、当依観無量寿経。SSZ01-329 【註】 (もし座を観ぜんと欲せば、当に観無量寿経に依るべし。)SSZ01-329 【論】何者荘厳身業功徳成就。偈言相好光一尋、色像超群生故。SSZ01-329 【論】 (何者か荘厳身業功徳成就なる。偈に相好光一尋、色像超群生といえるが故に。)SSZ01-329 【註】 若欲観仏身、当依観無量寿経。SSZ01-329 【註】 (もし仏身を観ぜんと欲せば、当に観無量寿経に依るべし。)SSZ01-329 【論】何者荘厳口業功徳成就。偈言如来微妙声、梵響聞十方故。SSZ01-329 【論】 (何者か荘厳口業功徳成就なる。偈に如来微妙声、梵響聞十方といえるが故に。)SSZ01-329 ただ論文のみを挙げて釈義の辞はなし。自下ここに倣え。RY07-22R 【論】何者荘厳心業功徳成就。偈言同地水火風、虚空無分別故。無分別者、無分別心故。SSZ01-329 【論】 (何者か荘厳心業功徳成就なる。偈に同地水火風、虚空無分別といえるが故に。無分別というは分別の心なきが故に。)SSZ01-329 【註】凡夫衆生、身口意三業以造罪、輪転三界無有窮已。是故諸仏菩薩荘厳身口意三業、用治衆生虚誑三業也。SSZ01-329 【註】 (凡夫衆生は身口意の三業に罪を造るを以て、三界に輪転して窮まり已むことあることなし。この故に諸仏菩薩、身口意の三業を荘厳して用て衆生の虚誑の三業を治したまう。)SSZ01-329 自下の一段は通じて三業を明かす。上の身口の中に釈文なきことは、ここに束〈つか〉ねて明かすが故に。「凡夫衆生」は能趣の人。「三業造罪〈身口意の三業に罪を造るを以て〉」は所趣の因なり。「輪転三界」は所趣の果なり。衆生の名は広く十界に通ず。凡夫の称は狭く六趣に局る。四生に簡異するが故に「凡夫衆生」という。或いは解すらく。「凡」は皆なり、概なり。「夫」は発語の端と。義浅ければ取らず。四大和合して仮に五根を生ず。これを身業となす。七処触突して忽ち音声を発す。これを口業となす。六塵を分別す。これを意業となす。業は造作の義なり。三業の所造は総じて十種あり。千非万慝はこの十を出でず。これに反するは十善なり。凡夫はただ悪なるが故に「造罪」という。「窮已」は止息の意なり。「是故」の下は正しく仏の三業の、凡夫の三業を治することを明かす。「是故」は上を承くるの辞なり。「虚誑」とは、三業本より空なるを、これを「虚」となし、空にして妄りに有る、これを「誑」となす。古に謂く。妄苦は本空にして、得て而も覚えず。宜なるかな、仏の荘厳したまうこと。RY07-22L,23R 【註】云何用治、SSZ01-329 【註】 (云何が用て治すとならば、)SSZ01-329 三業の治相は共に所観の境なり。RY07-R,L 【註】衆生、以身見故、受三塗身、卑賤身、醜陋身、八難身、流転身。SSZ01-329,330 【註】 (衆生、身見を以ての故に、三塗の身・卑賤の身・醜陋の身・八難の身・流転の身を受く。)SSZ01-329,330 謂く。名色陰界入の中に於いて、妄りに身ありと計して、強ちに主宰を立て、恒に我見を起こす。これを身見となす。問う。何ぞ身見を以て身業の本となすや。曰く。身見は苦を縁じて我我所と計す。所計はこれ身なり。故に身の本となす。問う。身見は即ちこれ内転門の惑にして、正しく業を造らず。外転門に由りて正しく悪業を結んで三途身を受く。何ぞ身見を以て身業の本となすや。曰く。我を計するが故に貪等の煩悩を起こし、貪等に由るが故に、正しく諸業を造る。本を尋ぬれば身見なり。これを以て偏に挙ぐ。また身見は泛〈ひろ〉く三業に通ずべし。今、身の名に就き、且く身の本となす。身見はこれ因、三途等は果なり。『[リョウ05]厳〈大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経か?〉』の七趣をこれに配してこれをいわば、「三途」は知りぬべし、「卑賤」は人間に配し、「醜陋」は修羅に配し、「流転」は天仙に配す。あるが解すらく。「三途」「八難」は「卑賤」「醜陋」「流転」に通ず。八難は法数に出づ。RY07-23R,23L 【註】如是等衆生、見阿弥陀如来相好光明身者、如上種種身業繋縛、皆得解脱、入如来家、畢竟得平等身業。SSZ01-330 【註】 (かくの如き等の衆生、阿弥陀如来の相好光明の身を見たてまつる者は、上の如きの種種の身業の繋縛、みな解脱することを得て、如来の家に入り、畢竟じて平等の身業を得るなり。)SSZ01-330 文に三段あり。初に仏身を見ることを示す。二に「如上」の下は虚誑の身を離る。三に「入如」の下は荘厳身を得。「入如来家」とは大義門に入るなり。証会を入となし、三途・八難・卑賤等を離るるが故に「平等身業」なり。RY07-23L 【註】衆生以[キョウ02]慢故、誹謗正法、毀呰賢聖、捐斥尊長。(尊者君父師也。長者有徳之人及兄党也。)如是之人、応受抜舌苦、[イン01][ア01]苦、言教不行苦、無名聞苦。SSZ01-330 【註】 (衆生は[キョウ02]慢を以ての故に、正法を誹謗し、賢聖を毀呰し、尊長を捐斥す。〈尊とは君父師なり。長とは有徳の人及び兄党なり。〉かくの如きの人、応に抜舌の苦、[イン01][ア01]の苦、言教不行の苦、無名聞の苦を受くべし。)SSZ01-330 初は因、後は果なり。三道宛爾たり。『瑜伽〈瑜伽師地論〉』に云わく「心に染汚を懐き、随いて栄誉を恃む。形相疎誕なるが故に名づけて[キョウ02]となす。」「他の下劣に於いて己を勝となすといい、心をして高挙せしめるが故に名づけて慢となす。」(七九の異あり。『倶舎』等の如し。)問う。何ぞ[キョウ02]慢を以て口業の本となすや。曰く。口業の罪最も重きは謗法なり。[キョウ02]己・慢他して賢聖を毀呰し、正法を誹謗す。故に別してこれを挙ぐ。且く重きに従うのみ。問う。謗法は意に属す。何ぞ口業となすや。曰く。能謗は意なりといえども、発語は口に属す。問う。謗は邪見に依る。何ぞ慢に由るというや。曰く。慢は痴の摂なり。痴より邪見を生ずるが故に矛盾なし。問う。上巻に謗法の往生を許さず。今何ぞ許すや。曰く。如来の名・説法の音声を聞きて、邪を翻し正に帰するが故に。「捐」は棄なり。「斥」は黜なり。一本に「[ビ02]」に作る。[ビ02]は卑なり。斥の字義優る故に旧本に復す。RY07-24R,24L- 註に「君父師」とは、三者は応に重んずべし。故に「尊」というなり。欒共子が云わく(晋の太夫。名は成。謚して共という。)「民は三に生〈な〉る。これに事うること一の如し。父はこれを生む。師はこれを教う。君はこれを食〈やしな〉(養なり。)う。父あらざれば生〈な〉さず。食あらざれば長〈そだ〉たず。教あらざれば知らず、生の族や。故に一らこれに事う。ただそれ在る所、則ち死を致す」〈『群書治要 晋語』〉と。「党」は類なり。-RY07-24L- 「応受」等とは、『法華〈妙法蓮華経〉』に云わく「[キョウ02]慢・懈怠にして我見を計する者はこの経を説くことなかれ(乃至)それかくの如きの経典を誹謗することあらば(乃至)もし人となることを得れども、諸根は暗鈍にして[ザ01]陋、攣躄、盲聾、背傴にして、言説する所あれども人は信受せず。(乃至)聾盲、[イン01][ア01]、貧窮、諸衰を以て自ら荘厳す」と。彼の彭城の嵩は、舌、口中に爛れ、唐の恵眺は血を流して語〈ものい〉わず、或いは臨終に牛声を出だすが如きの類は、これ謗法の報なるのみ。-RY07-24L (嵩の事は『釋籤』の三に出づ。恵眺は『宗鏡』の九十三に出づ。)RY07-24L 【註】如是等種種諸苦衆生、聞阿弥陀如来至徳名号説法音声、如上種種口業繋縛、皆得解脱、入如来家、畢竟得平等口業。SSZ01-330 【註】 (かくの如き等の種種の諸苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞きたてまつれば、上のごときの種種の口業の繋縛、みな解脱を得て、如来の家に入り、畢竟じて平等の口業を得。)SSZ01-330 文に三段あり。上に准じて知るべし。問う。名は不相応行の摂なり。何ぞ口業に属すや。曰く。註に仏の口業を解して云わく「妙声遐〈はる〉かに布きて、聞く者をして忍を悟らしめん。」また云わく「既に身業を知る。何の声名かあることを知るべし。この故に次に仏の荘厳口業を観ず」と。故に知りぬ。弥陀は久しく口の過を絶す。故に諸仏は嘆じ、衆生は称念す。果中に因を説くが故に、名号を以て口業の徳に属す。説法を口業に属することは当体に従う故に。音声は口より出づるが故に。RY07-25R 【註】衆生以邪見故、心生分別。若有若無、若非若是、若好若醜、若善若悪、若彼若此、有如此等種種分別。以分別故、長淪三有、受種種分別苦、取捨苦、長寝大夜、無有出期。SSZ01-330 【註】 (衆生、邪見を以ての故に心に分別を生ず。もしは有、もしは無、もしは非、もしは是、もしは好、もしは醜、もしは善、もしは悪、もしは彼、もしは此、かくの如き等の種種の分別あり。分別を以ての故に長〈とこしなえ〉に三有に淪〈しず〉みて、種種の分別の苦、取捨の苦を受け、長に大夜に寝ねて、出期あることなし。)SSZ01-330 外道邪人は四諦因果の法を了せず、邪心に推度してこの理なしといい、善根を断滅す。これを邪見と名づく。有無是非はこれ四邪見なり。この四見に由りて百非六十二見を起こす。己が所計を執して互いに好醜善悪彼此を諍うなり。また好醜等は共に心に分別するの相なり。分別取捨はみな沈淪の基なり。『円覚』に云わく「種種の取捨はみなこれ輪回」と。『楞厳〈大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経〉』に云わく「汝暫く心を挙げて塵労先ず起こる」といえり。沈淪息まざるが故に「長寝」という。RY07-25L 【註】是衆生、若遇阿弥陀如来平等光照、若聞阿弥陀如来平等意業、是等衆生、如上種種意業繋縛、皆得解脱、入如来家、畢竟得平等意業。SSZ01-330 【註】 (この衆生、もし阿弥陀如来の平等の光照に遇いたてまつり、もし阿弥陀如来の平等の意業を聞きたてまつれば、これらの衆生、上の如く種種の意業の繋縛、みな解脱を得て、如来の家に入り畢竟じて平等の意業を得。)SSZ01-330 仏光はこれ色なり。本を論ずればこれ智なるが故に光照を以て仏の意業となす。彼の仏の心光は常にこの人を照らすが故に意縛を脱す。「聞意業〈阿弥陀如来の平等の意業を聞き〉」とは心業の功徳を聞きて信知するが故に。問う。意は色法を離る。何ぞ荘厳となすや。曰く。無知にして知、知にして無知なるはこれ心の荘厳なり。問う。相好身を見、説法の声を聞き平等の光に遇うを彼土の益とやせん、此土の益とやせん。答う。ただこれ如来の三業にかくの如きの徳あることを釈成して、以て観想に備え、未だ必ずしも彼此の両土を分別せず。もし強いていわば、則ちあるいは観成の位、あるいは獲信の時、及以び臨終の見仏聞法、あるいは得生の後、応に随いて知るべし。RY07-26R 【註】問曰。心是覚知相。云何可得同地水火風、無分別耶。SSZ01-330 【註】 (問いて曰く。心はこれ覚知の相なり。云何が地・水・火・風に同じく分別なきことを得べきや。)SSZ01-330 心は神解を義となす。一切の諸法を能く覚し、能く知るが故に。既に覚知あり。分別なきにあらず。RY07-26R 【註】答曰。心雖知相入実相則無知也。SSZ01-330 【註】 (答えて曰く。心は知の相なりといえども、実相に入れば則ち無知なり。)SSZ01-330 慈雲〈遵式〉の『肇論註』に云わく「実は謂く真実。相は即ち相状。真実即ち相、乃ち無相なり。これまた二釈あり。一には真心は本〈もと〉諸相を絶す。絶相の真なるが故に実相と称す。二には万法の相寂なる、即ち真実の相なり。然るにこの二釈、前は直ちに法体に就きて相を論ず。後は委しく諸法に就きて実を推す。実は体相本真なるに由るが故に諸法みな実なることを得。また法に即して実を見るに由りて、方に法法全く真なりと知る。」然るに心と実相と体同じて義異なり。法界を円照し、万法を覚了するは心なり、照なり、智なり。冲虚妙粋にして相なく朕〈きざ〉しなきものは実相なり、寂なり、理なり。心照を以ていわば、則ち知なり。実相を以ていわば則ち理知なり。知の無知なれば、無知にして断無にあらず。無知の知なれば、知にして常知にあらず。寂照・理知、互融相即して未だ始めより嘗て異ならず。これ真の意業の荘厳なり。RY07-26R,26L 【註】譬如蛇性雖曲入竹筒則直。SSZ01-330 【註】 (譬えば蛇の性は曲れりといえども、竹筒に入るれば則ち直きが如し。)SSZ01-330 語は『占察経』・『大論』の九十二に出でたり。RY07-26L 【註】又如人身若針刺若蜂螫(式亦反)則有覚知。若石蛭(之一反)[タン03]若甘刀割則無覚知。SSZ01-330 【註】 (また人の身の、もしは針をもって刺し、もしは蜂の螫〈さ〉すには則ち覚知あり。もしは石蛭の[タン03]〈す〉い、もしは甘刀をもって割〈さ〉すには則ち覚知なきが如し。)SSZ01-330 【註 割注】螫=式亦反。蛭=之一反。SSZ01-330 蜂は、毒は尾にあり。垂穎は蜂の如きなるが故に、これを「蜂」という。「螫」は虫の毒を行ずるなり。「蛭」は水虫なり。「刀」は到なり。斬伐してその所に到るなり。「甘」は意を快くするなり。言うこころは、最利なり。RY07-27R 【註】如是等有知無知在于因縁。若在因縁則非知非無知也。SSZ01-330 【註】 (かくの如き等の有知・無知は因縁に在り。もし因縁に在らば則ち知にあらず、無知にあらざるなり。)SSZ01-330 喩に就きてこれをいわば、知と無知とは鍼蜂・蛭刀の致すなり。知と無知とは彼よりす。身に於いては何ぞ干〈あずか〉らん。法に約してこれを顕わさば、真諦を縁ずれば則ち無知なり。俗諦を縁ずれば則ち有知なり。真俗の境に随いて知・無知あり。実には二倶に干〈あずか〉らず。RY07-27R 【註】問曰。心入実相可令無知。云何得有一切種智耶。SSZ01-330 【註】 (問いて曰く。心、実相に入らば無知ならしむべし。云何が一切種智あることを得ん。)SSZ01-330 種は事別を義となす。仏の智恵は事別の諸法に於いて知らざる所なし。故に「一切種智」という。問の意、看るべし。RY07-27R 【註】答曰。凡心有知、則有所不知。聖心無知故、無所不知。無知而知知即無知也。SSZ01-330 【註】 (答えて曰く。凡心は有知なれば、則ち知らざる所あり。聖心は無知なるが故にて知らざる所なし。無知にして知れば、知は即ち無知なり。)SSZ01-330 (智光の『疏』に云わく「無知というは取相の知なし。諸法無相を以ての故に智また無知なり。」私に謂く。無知とは取相の知なし。而して知とは無相の知あり。)RY07-27L 分別妄智は二心並ばず。これを濁水橋を過ぐるに喩う。『大乗義章』に云わく「前六(前六識なり。)心と境とは別体にして作念すべきこと難し。方に知りぬ。作念各別の故に六を別に起こして一時なることを得ず」といえり。眼見する則んば耳聞等なきが如きは分別あるがためなり。仏智は無念なり。無念にして照らせば、知らざる所なし。天鼓の声の自然なるが如く、摩尼宝の自ずから雨ふらすに似たり。無念にして照らせば念念に照らすといえども全く無念なり。『般若無知論』に云わく「それ所知あらば、則ち知らざる所あり。(鎮澄の『解』に云わく「妄識有知を以ての故に知らざる所あり。眼識は色を知るも、声を知らざる等の如し。」)聖心は無知なるを以ての故に知らざる所なし。不知の知を乃し一切知という。故に経に云わく。聖心は知る所なく、知らざる所なしと。信なるかなや。これを以て聖人はその心を虚にして、而してその照を実にす。終日知りて、而して未だ嘗て知らざるなり。故に能く耀を黙して光を韜〈かく〉す。虚心玄に鑑る。智を閉ざし、聡を塞いで、而して独覚冥冥たるものなり。」委しくは彼の論に出でたり。須いる者は往検せよ。RY07-27L 【註】問曰。既言無知故無所不知。若無所不知者、豈不是知種種法耶。既知種種之法、復云何言無所分別耶。SSZ01-330,331 【註】 (問いて曰く。既に無知の故に知らざ所なしという。もし知らざる所なくんば、あにこれ種種の法を知らざらんや。既に種種の法を知らば、また云何が分別する所なしといわんや。)SSZ01-330,331 【註】答曰。諸法種種相皆如幻化。然幻化象馬、非無長頸鼻手足異。而智者観之、豈言定有象馬分別之耶。SSZ01-331 【註】 (答えて曰く。諸法種種の相はみな幻化のごとし。然るに幻化の象馬、長頸鼻手足の異なきにあらず。而るに智者これを観て、あに定めて象馬ありといいて、これを分別せんや。)SSZ01-331 『大品〈摩訶般若波羅蜜経〉』に云わく「諸法は幻の如く、焔の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、揵闥婆城の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化の如し」と。今、首尾を挙げて中間の八を収む。『大論』の六に云わく「諸法の相は空なりといえども、また可見と不可見とを分別することあり。譬えば幻化の象馬及び種種の諸物の如し。実なしと知るといえども、然るに色は見つべく、声は聞くべし。六情と相対して相錯乱せず。諸法もまたかくの如し。」『楞厳の疏』に云わく「虚偽に仮託して妄りに情名を設く。これを称して幻という。無にして忽有、畢竟じて体なし。これを称して化という」と。法合して解し易し。RY07-28R,28L |