浄土論註翼解 第7巻の7(8の内)
解義分(長行)
観察体相
衆生体(衆生世間)
仏荘厳功徳成就
観仏利益
  浄心菩薩
    未証浄心菩薩


無量寿経論註翼解 巻七之七
【論】即見彼仏、未証浄心菩薩、畢竟得証平等法身。与浄心菩薩、与上地諸菩薩、畢竟同得寂滅平等故。SSZ01-331
【論】 (即ち彼の仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を証することを得て、浄心の菩薩と上地の諸の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得るが故に。)SSZ01-331

 総じては八種の荘厳の利益を明かし、別して不虚作住持の益を明かす。RY07-31R

【註】平等法身者、八地已上法性生身菩薩也。SSZ01-331
【註】 (平等法身というは、八地已上の法性生身の菩薩なり。)SSZ01-331

 『大論』七十四に云わく「菩薩に二種あり。一には生死肉身。(人執煩悩を断つも、未だ法執を断たず。即ちこれ三賢の位の分段身菩薩なり。)二には法性生身。(二執を断じ、二空を証す。これ即ち十地位変易身の菩薩なり。)無生忍の法を得、諸の煩悩を断じ、この身を捨て後に法性生身を得。」(また『同〈智度論〉』十六に云わく「二には三界を出で、生ぜず死ぜざる法性生身の菩薩」と)。また「玄義」に『華厳経』を引きて云わく「初地已上、七地已来は、即ちこれ法性生身・変易生身なり」と。これ即ち初地已上は分段身を捨て法性微細の身を獲得す。所証の法に約して法性の身と名づく。因移り、果易るを変易身と名づく。RY07-31L-
 問う。三界の依身を名づけて生身という。何ぞ法性身をなお生身と名づくるや。答う。生身法身を分別する時は実に責むる所の如し。今、地上法身の菩薩に就きて、なお生身の名を立つ。謂く。法性土に於いて微細四塵、頭等の六分を生ず。これを生身と名づく。故に知所証の理を名づけて法性となす。能証の人を名づけて生身となす。然るに経論の判説は、初地已上はみな法性身なるに、今「八地已上」ということは前の七地に揀ぶが故なり。前の七地は真如を証るといえども、なお功用あり。八地已上は寂滅の法を証して、任運にして功用なきが故に「平等法身」というなり。-RY07-31L

【註】寂滅平等者、即此法身菩薩所証寂滅平等之法也。SSZ01-331,332
【註】 (寂滅平等というは、即ちこの法身の菩薩の証りたまう所の寂滅平等の法なり。)SSZ01-331,332

 「寂」は謂く寂静。「滅」は過を離るる義なり。八地已上の所証の真如は寂静湛然として諸相を離るるが故に。彼の虚寂滅亡と譚じて断滅の空に墜つるが如きにはあらず。『呑海集』に八地を説きて云わく。善く清浄道を修し心意識を離れ、無生法忍を得るを加行心となす。住心の中に於いて無相中作加行の障を断じ、不増減の真如を証し、相用煩悩の動為すること能わず。広くは『華厳』「十地品」・『十地経論』の中に説くが如し。ここに[ケイ08]〈むなし〉くすべからず。RY07-32R

【註】以得此寂滅平等法故、名為平等法身。以平等法身菩薩所得故、名為寂滅平等法也。SSZ01-332
【註】 (この寂滅平等の法を得るを以ての故に名づけて平等法身となす。平等法身の菩薩の所得なるを以ての故に名づけて寂滅平等の法となすなり。)SSZ01-332

 身は法に依りて名を得。法は身を以て目〈な〉を建つ。法は即ち所証の理。身は即ち能証の人。次の科に具に説けり。RY07-32R

【註】此菩薩得報生三昧、以三昧神力、能一処一念一時遍十方世界、種種供養一切諸仏及諸仏大会衆海、能於無量世界無仏法僧処、種種示現、種種教化、度脱一切衆生、常作仏事、初無往来想供養想度脱想。是故此身名為平等法身、此法名為寂滅平等法也。SSZ01-332
【註】 (この菩薩、報生三昧を得て、三昧の神力を以て、能く一処にして一念一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏及び諸仏の大会衆海を供養し、能く無量世界の仏法僧なき処に於て、種種に示現し、種種に教化して、一切衆生を度脱す。常に仏事を作して、初めより往来の想、供養の想、度脱の想なし。この故にこの身を名づけて平等法身となし、この法を名づけて寂滅平等の法となすなり。)SSZ01-332

 『大論』の五十に第八地を釈す。『経〈摩訶般若波羅蜜経〉』に言わく「云何が菩薩如幻三昧、この三昧に住し能く一切事を成弁し、また心相を生ぜんや。云何が菩薩常入三昧、菩薩は報生三昧を得んが故に。」『論〈智度論〉』に言く「如幻三昧とは、幻人の一処に住し、所作の幻事遍ねく世界に満つるが如し。(乃至)菩薩もまたかくの如し。この三昧の中に住し、能く十方世界に於いて変化しその中に遍満す。先ず布施等を行じて清浄に充満す。次に説法教化して三悪道を破壊し、然る後に衆生を三乗に安立せしむ。一切、利益すべき所の事、成就せざることなし。この菩薩心は動ぜず、また心相を取らず。常入三昧とは、菩薩、如幻等の三昧を得て、所役の心能く所作の念ありて身を転ず。報生三昧を得れば、人の色を見るに心力を用いざるが如し。この三昧の中に住して、衆生を度し安穏なり。如幻三昧に勝る。自然に事を成じて役用する所なし。人の財を求め、役力して得る者あり、自然に得る者あるが如し」といえり。これを「報生」と名づくることは果報の身に於いて種種の形を現じて任運に生ずるが故に、以て名となす。RY07-32L,33R-
 「能一処〈能く一処にして〉」の下は往来十方の徳なり。「種種」の下は供養諸仏の徳なり。「能於」の下は度脱衆生の徳なり。『大論』の五十に云わく「先に諸の神通を得、今、自在遊戯を得て、能く無量無辺の世界に至る。(乃至)菩薩、この地の中に住して、能く法宝を雨ふらし、衆生の願を満つ。(乃至)何の身を以て何の語を以て何の因縁を以て何の事を以て何の道を以て何の方便を以てすと知りて、而して為に身を受く。乃至、畜生の身を受け而してこれを化度す。」また『起信論』に初地已上の徳を説きて云わく「一念の頃に於て能く十方無余世界に至り、諸仏を供養し、転法輪を請するは、ただ衆生を開導し利益せんがためのみにして、文字に依らず。」前の七地なお爾り。況んや八地已上をや。「供養」「度脱」は上求と下化となり。これ即ち仏事なり。余文解し易し。-RY07-33R,33L

【註】未証浄心菩薩者、初地已上七地已還諸菩薩也。此菩薩亦能現身、若百若千、若万若億、若百千万億無仏国土、施作仏事、要須作心入三昧。乃能非不作心。以作心故名為未得浄心。SSZ01-332
【註】 (未証浄心の菩薩というは、初地已上、七地已還の諸の菩薩なり。この菩薩もまた能く身をもしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億の無仏の国土に現じて、仏事を施作すれども、要ず須く作心して三昧に入るべし。乃ち能く作心せざるにあらず。作心するを以ての故に名づけて未得浄心となす。)SSZ01-332

 『華厳経〈六十華厳〉』に云わく「もし一切所修の功行を捨つれば、八地に入る時を名づけて清浄乗に乗ずとなす。」法蔵の『釈〈探玄記〉』に云わく「八地已上の菩薩の所住を浄土と名づくることを得。一向に三界の事を出づるを以ての故に、四句の一向の義を具足するが故に。謂く一向浄と一向楽と一向無失と一向自在なり。七地已還を未だ浄土と名づけず。一向に三界を出づるにあらざるを以ての故に。縦い願力に由りて出づることを得る者は、四句の一向を具足せざるが故に。謂く無漏の観智に間断あるが故に、失等なきにあらざるなり。」RY07-33L,34R-
 (法蔵の『釈〈探玄記〉』とは、浄土に四種の相対ある中の第二の「一向非一向」の文なり。)RY07-34R
 ここには作心なきを名づけて「浄心」となす。然るに『起信論』に初地を浄心地と名づく。彼は真如を証するに約して名を立つ。今は有作心に約して「未証」というなり。問う。初地已上に無分別智を得。何ぞ「作心」というや。答う。ここに分極あり。彼は已に無分別智を得といえども、もし八地に望めばこれ作意なり。また法相の意に依れば七地已還、第六識に於いて有漏無漏雑起せしむるが故に、有漏の現起には作意あるべし。「若百」等とは『仁王』の説に準ず。初地の菩薩は閻浮の王、百仏土に王たり。二地の菩薩は[トウ01]利の王、千仏土に王たり。三地の菩薩は夜摩王、万仏土に王たり。四地の菩薩は兜率の王、億仏土に王たり。五地の菩薩は化薬王、百億仏土に王たり。六地の菩薩は他化王、千億仏土に王たり。七地の菩薩は初禅王、万億仏土に王たり。「施作仏事〈仏事を施作すれども〉」とは、前の『起信』の説の如し。-RY07-34R,34L

【註】此菩薩願生安楽浄土、即見阿弥陀仏。見阿弥陀仏時、与上地諸菩薩畢竟身等法等。SSZ01-332
【註】 (この菩薩、安楽浄土に生じて、即ち阿弥陀仏を見たてまつらんと願ず。阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と畢竟じて身等しく法等し。)SSZ01-332

 斉しからざるを斉しくするは、これ仏願力なり。『六要』の四に云わく「身等というは、これ相好荘厳等を指すなり。法等というは、所説を指すなり。」私に謂く。「身等」は即ち平等法身、「法等」は即ち寂滅平等の法なり。RY07-34L

【註】龍樹菩薩、婆薮槃頭菩薩輩、願生彼者、当為此耳。SSZ01-332
【註】 (龍樹菩薩、婆藪槃頭菩薩の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、当にこれが為なるべきのみ。)SSZ01-332

 『六要』の四に云わく「問う。天親は賢位、龍樹は聖位なり。彼此何ぞ同じからん。答う。地上・地前の不同ありといえども、分に所得あり。この故に類同す。これを以て撲揚は天親を讃じて云わく。位は明徳に居し、道は極喜に隣りす。また弘決に云わく。天親・龍樹、内鑑冷然なりと。或いは隣近に依り、或いは内鑑に依りて一双となすなり。問う。地上の菩薩の、極楽に生ぜんと願ずる、その義思い難し。然る所以は、浄穢の差別は心の染浄に在り。境に於いて本来、染浄の差なし。初地以上は既に無明を断じて分に法性を顕わし、身は報土に居して任運に自ずから報仏の説法を聞く。所見の境界は報土の儀式なり。何ぞ更に彼の浄土に生ぜんことを願ぜんや。故に探玄記に云わく。十住已去の不退菩薩の所住を名づけて浄土となす。地前なお爾り。地上は何ぞ願ぜん。答う。多義ありといえども、且く一義を出だす。生身に忍を得るは依身を捨つるを以て他方の浄土に生ぜんと願ずるが故なり。これ更に凡夫の願生の如くにはあらざるが故に。大論に云わく。もし無生法忍を得つれば、一切の結使を断じて、死する時にこの肉身を捨つ。涅槃の疏に云わく。分段の質碍は煩悩尽くといえども、必ず須く報を捨つべしと。蓋しこの義なり。」RY07-34L,35R-
 「多義あり」とは、略して四義あり。一に云わく。因位の所作、必ず仏加を被る。加恩を報ぜんがために彼に生じて近侍す。二に云わく。身は報土に居するも、報土は一にあらず。報より報に往く、あに妨害あらん。三に云わく。未だ浄心を証らず。これがために願生す。四に云わく。初地已上同じく真如を証す。その真如を論ずれば広大無辺なり。譬えば一の大闇室の如し。もし一灯二灯を燃やせば、その明、遍ずといえども、猶し暗しとなす。漸く多灯に至れば大明と名づくといえども、あに日光に及ばん。菩薩の所証の智も、地地相望して自ずから階降ありといえども、あに彼の仏の目明の如くなるに比ぶることを得んや。これがために浄土に願生し、仏に親近するなり。以上の四義はみな自行に約す。もし利他に約せば、たとい地上の菩薩は入報の徳を具すといえども、衆生のための故に浄土に願生するに、何ぞ妨げあらんや。「偈」に云う「為度群生彰一心〈群生を度せんがために一心を彰す〉」とは、これなり。これらの義辺は茲に急〈つくす・いそぐ〉せず。常楽台の義は諸を蔽〈おおう・さえる〉すといいつべし。-RY07-35R,35L