浄土論註翼解 第7巻の8(8の内) 解義分(長行) 観察体相 衆生体(衆生世間) 仏荘厳功徳成就 観仏利益 決疑問答 |
無量寿経論註翼解 巻七之八 |
【註】問曰。案十地経、菩薩進趣階級、漸有無量功勲、逕多劫数、然後乃得。此云何見阿弥陀仏時、畢竟与上地諸菩薩身等法等耶。SSZ01-332 【註】 (問いて曰く。十地経を案ずるに、菩薩の進趣階級あり、漸く無量の功勲あり、多くの劫数を逕て、然して後に乃し得と。ここに云何が阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地の諸菩薩と身等しく法等しからんや。)SSZ01-332 『十地経』とは『華厳経』の「十地品」これなり。また『十地経』九巻あり。天親菩薩は『十地経論』を造りて解釈する、これなり。「進」は即ち勝進、「趣」は謂く趣向、「階」は即ち階陛、「級」は即ち等級なり。菩薩の進趣、これを宮闕の階級の位の高下に随いて登るの差〈しな〉あるに喩う。必ず高きに登るが下〈ひき〉きよりし、遠くに届〈いた〉るが邇〈ちか〉きよりす。故に「漸有無量功勲」という。義寂の云わく「積善の力、これを名づけて功となす。破悪の用、称して以て勲となす。」「逕」とは歴なり。『十地経』の意は断伏の次第と、発真の妙用と、功力の浅深とに約して四十一の階級を説く。また諸経論に地位を建立すること多少同じからず。『仁王』の五十一位、『瓔珞』の五十二位、『楞厳』の五十七位、『大品』の四十二位なり。『仁王経〈cf.首楞厳義疏注経〉』に云わく「もしこの地位を越えて成仏を得といわば、これ魔の所説なり。これ則ち諸の外道天魔の各自無上覚道を得、地位を説かずというに異す。今、仏法に不思議の功徳ありて、曠劫修行し、因円、果満して、方に究竟を称することを顕す。」故に等級次第を説くなり。また『起信』に云わく「超過の法あることなし。(乃至)みな三阿僧祇劫を経るが故に。」「此云何」の下、彼を執し、これを難ず。謂く。実に超過なし。何為れぞ、等を[リョウ04]〈ふ〉み、上を陵〈しの〉ぐや。RY07-36R 【註】答曰。言畢竟者未言即等也。畢竟不失此等故言等耳。SSZ01-332 【註】 (答えて曰く。畢竟というは、未だ即等といわず。畢竟じてこの等を失わざるが故に等というのみ。)SSZ01-332 即ち今全く上地に等しというにはあらず。畢竟究竟して同等の徳を失わざるが故に「身法等〈身等法等〉」というなり。RY07-36L 【註】問曰。若不即等、復何待言菩薩。但登初地以漸増進自然当与仏等。何仮言与上地菩薩等。SSZ01-332 【註】 (問いて曰く。もし即等ならずんば、また何ぞ菩薩と言うことを待たん。ただし初地に登れば、以て漸く増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ上地の菩薩と等しと言うことを仮らん。)SSZ01-332 謂く。もし即等にあらずんば、何ぞ仏に等しといわずして、労く「等上地菩薩〈上地菩薩と等し〉」というや。RY07-36L 【註】答曰。菩薩於七地中得大寂滅、上不見諸仏可求、下不見衆生可度、欲捨仏道証於実際。爾時若不得十方諸仏神力加勧、即便滅度与二乗無異。SSZ01-332,333 【註】 (答えて曰く。菩薩、七地の中に於いて大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ずして、仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時、もし十方諸仏の神力加勧を得ざれば、即便〈すなわ〉ち滅度して二乗と異なることなし。)SSZ01-332,333 『十地経論』の十に云わく「八地菩薩、寂滅の楽に耽じ、上に菩提の求むべきを見ず、下に衆生の利すべきを見ず。諸仏は七勧して利他に趣かしむ。」今『華厳』の三十八に依りて七勧を明かさば、一には応趣果徳の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「善いかな善いかな。善男子。この忍第一にして諸仏の法に順ず。然るに善男子。我等所有の十力無畏、十八不共諸仏の法は、汝今未だ得ず。汝応にこの法を成就することを欲せんがために、勤めて精進を加して、またこの忍門において放捨することなかるべし。」進求を勧むるが故に。二に愍念衆生の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「また善男子。汝、この寂滅解脱を得んといえども、然るに諸の凡夫、未だ証得すること能わず、種種の煩悩、みな悉く現前し、種種の覚観、常に相い侵害す。汝当にかくの如き衆生を愍念すべし。」勧めて化しむるが故に。三には令憶本誓の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「また善男子。汝当に本所誓の願を憶念すべし。普く大いに一切衆生を饒益し、みな不可思議智恵の門に入ることを得しむべし。」本願を満ずることを勧むるが故に。四には訶同二乗の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「また善男子。この諸の法性、もしは仏の出世、もしは不出世にも、常住して異ならず。諸仏はこの法を得るを以ての故に名づけて如来とするにあらず。一切の二乗もまた能くこの無分別法を得。」双修を勧むるが故に。五には指事令成の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「また善男子。汝、我等が身相の無量の智慧、無量の国土、無量の方便、無量の光明、無量の清浄音声を観ずるに、また量あることなし。汝今宜く応にこの法を成就すべし。」修成を観ずるが故に。六には勿生止足の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「また善男子。汝今たまたまこの一法明を得。所謂る一切の法は生なく、分別なきなり。善男子。如来の法明は、無量の入、無量の作、無量の転、乃至、百千億那由他劫にも知ることを得べからず。汝応に修行し、この法を成就すべし。」遍く修することを勧むるが故に。(「法明」一本に「法門」に作る。)『十地論』に解して云わく「無量入とは法門差別の故に。」「無量転とは上上に依りて差別を断たざるが故に。」謂く。前の二を修し、後後の地の中に究竟位に至る。みな断たざるが故に。七には悉応通達の勧め。『経〈八十華厳〉』に云わく「また善男子。汝、十方無量の国土、無量の衆生、無量の法、種種差別を観じて、悉く応に実の如く、その事に通達すべし。」遍知を勧むるが故に。七勧を説く。RY07-37R,37L- 已に彼の『経〈八十華厳〉』に結して云わく「もし諸仏、この菩薩起智の門を与えざれば、彼の時即ち究竟涅槃に入り、一切利衆生の業を棄捨せん」といえり。また『仁王経〈仁王護国般若波羅蜜多経〉』に云わく「不動地の菩薩、無生忍に住し、体に増減なく、諸の功用を断じ、心心寂滅して身心の相なきこと、猶し虚空の如し。この菩薩、仏心、菩提心、涅槃心、悉みな起こらず。本願に由るが故に、諸仏加持して能く一念の頃にして智業を起こし、双照平等にして、十力智を以て不可説大千世界に遍じて、諸の衆生に随いて普くみな利楽す。」-RY07-37L,38R- (「功用」というは加行の義なり。)RY07-38R また『智論』の十に云わく「七住の菩薩は諸法空にして所有なく生ぜず滅せずと観じ、かくの如く観已わりて一切世界の中に於いて心に著せず六波羅蜜を放捨して涅槃に入らんと欲す。譬えば人の夢中に筏を作り、大河水を渡るに、手足疲労して患厭の想を生じ、中流の中に在りて夢覚め已わりて自ら念言すらく。何許にか河ありて渡るべき者なると。この時、勤心都て放つが如し。菩薩もまたかくの如し。七住の中に立して無生法忍を得、心行みな止め涅槃に入らんと欲す。その時、十方の諸仏、みな光明を放ちて菩薩の身を照らし、右手を以てその頭を摩り語言す。善男子、この心を生ずることなかれ。汝当に汝が本願を念じ衆生を度さんと欲うべし。汝、空を知るといえども衆生は解さず。汝当に諸の功徳を集め、衆生を教化して涅槃に入ることなかるべし。汝、未だ金色身、三十二相、八十種の随形好、無量光明、三十二業を得ず。汝今始めて一の無生の法門を得。便ち大喜することなかれ。この時、菩薩は諸仏の教誨を聞き、還りて本心を生じ六波羅蜜を行じ以て衆生を度す。」また同じき〈『智度論』〉五十に云わく「七地の中に住する時、涅槃を取らんと欲す」と。文に「七住」というは即ち七地なり。『法華の疏記』の四に云わく「住を能住となし、地を所依となす。故に住の名を以てして地に名づく」と。清涼の『釈』に云わく「古訳には十地爲十住故」と。-RY07-38R,38L- 然るに『智論』と註家とは「於七地」といい、『華厳』と『地論』とは「於八地」という。相違云何。曰く。『大論』の『僧侃の疏』に云わく「十地〈十地経論〉には終わりに就きて八地という。智論には実に剋して七地の終心と説けり。」恵影もこれに同じ。七地の満心は八地の創〈はじ〉めなるが故に、七地の終に約して「於七地」という。『撲揚の摂釈』には、八地の始めに就きて「勧は創入のためなり」といえり。『六要』の四に云わく「実相の理地には一塵をも立てず。もしこの位に至りぬれば、その悟窮極す。この義に由るが故に大寂滅という。」乃至、文広ければここに略す。-RY07-38L (『法華の摂釈』に云わく。問う。十地論を案ずるに、云わく。八地の菩薩は寂滅の酒に耽じ、十方諸仏の摩頂七勧す。唯識にまた、於利他中不欲行障と云う。云何が今、任運而行と説くや。七勧と有障と、みな利他にして任運する能わざるに拠る。自利に依るにあらず。自利は実に能く任運に進むが故に。また八地の中に入住出あり。勧は創入のため、任運は後に拠る。)RY07-38L 【註】菩薩若往生安楽見阿弥陀仏即無此難。SSZ01-333 【註】 (菩薩もし安楽に往生すれば阿弥陀仏を見たてまつりて、即ちこの難なし。)SSZ01-333 彼土の菩薩は趣寂の難を免る。これ仏力に由る。「等仏〈cf.自然に当に仏と等しかるべし〉」といわず、「等上地〈上地の諸の菩薩と畢竟じて身等しく法等し〉」という。最も奇妙たり。RY07-39R 【註】是故須言畢竟平等。SSZ01-333 【註】 (この故に須く畢竟平等というべし。)SSZ01-333 【註】復次無量寿経中、阿弥陀如来本願言。設我得仏、他方仏土諸菩薩衆、来生我国、究竟必至一生補処。除其本願自在所化為衆生故、被弘誓鎧積累徳本、度脱一切、遊諸仏国修菩薩行、供養十方諸仏如来、開化恒沙無量衆生、使立無上正真之道。超出常倫諸地之行、現前修習普賢之徳。若不爾者不取正覚。SSZ01-333 【註】 (また次に無量寿経の中に、阿弥陀如来の本願に言わく。設い我仏を得たらんに、他方仏土の諸の菩薩衆、我が国に来生せんに、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願あって自在の所化をもって、衆生のための故に、弘誓の鎧を被〈き〉、徳本を積累し、一切を度脱して、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんを除く。常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん〈を除く〉。もし爾らずんば正覚を取らじと。)SSZ01-333 (「超出」より已下は多種の説あり。今引きて超越証の拠となすが故に、属補処徳なり。然るに憬興の『疏〈述文賛〉』に云わく「常倫とは即ち凡夫の属なるが故に、諸地もまた初劫の地なり」と。この意即ち言わく。三賢一僧祗劫を超出し初地に証入するを補処となすか。経文を検ぶるに所除の菩薩は必ずこれ地上にして願ある故に除く。もし願なき者は必ずこれを摂して補処に至らしむべし。これを以て准知するに、所取の菩薩はまたこれ同位等行の大聖ならん。)RY07-39L 『六要』の四に云わく「問う。二十二の願を引くは、その要、如何。答う。初地已上、七地已還、極楽に生ぜんと願ずる二の要あるべし。謂わく。一には七地の中に於いて実際を証する難を免ぜられんがためなり。二には諸位速疾に超越せんがためなり。その中に超越の益を顕せんがために当願を引くなり。問う。願の意は如何。答う。諸仏土の中に、或いは悉く十地の階位を経て、一より二に至り、乃至、九より十に至る土あり。或いは超昇して直ちに等覚に登り、速に補処に至るあり。如来の因中に、彼の諸土を見て、これを選択する時、諸の菩薩十地の修行の劫数を経歴するを愍みて、諸位を超越して速に補処に至る願を発起したまう。但し除く所は、利他の願あらば暫く自在の利生を施すのみ。ただ意楽に任ず。更に願力の偏あるにあらず」といえり。RY07-39L,40R- 「一生補処」は上巻に解するが如し。「除其」等とは応物普済の意楽を指すなり。「鎧」は堅固無壊の具なり。願力、能く生死の傷、魔怨の軍中に入りて移動せざるに喩う。「度脱一切」は衆生無辺誓願度なり。「遊国修行〈遊諸仏国修菩薩行〉」は法門無尽誓願知なり。「超出諸地〈超出常倫諸地之行〉」は無上菩提誓願証なり。「積累徳本」に煩悩無辺誓願断を含むなり。「超出」等とは、問う。補処の徳とやせん、将〈はた〉所除に約すとやせん。答う。補処の徳を挙ぐ。謂く。仏力に依りて常人所逕の十地に超越するが故に。或いは解す。所除の人に約す。義は両向を兼ね、深く応に遊[ソウ14]すべし。普賢の名義は『円覚の疏』の如し。十大願王は局自の願にあらず。総じて一切菩薩の大願を発す。誰の薩[タ01]かこれを修習せざることあらん。先ず証拠を引きて超越の由となす。もし聖言の本となし、依とすることなくんば、誰の人か肯服せん。-RY07-40R (もし所除の人に約せば文点換わるべし。有智のもの、思択せよ。)RY07-40R 【註】案此経推、彼国菩薩、或可不従一地至一地。SSZ01-333 【註】 (この経を案じて推すに、彼の国の菩薩は或いは一地より一地に至らざるべし。)SSZ01-333 『思益』の一に云わく「もし人、この諸法正性を聞き、勤行精進すれば、これ如説修行と名づく。一地より一地に至らず。」『楞伽』に云わく「初地即ち二地。二地即ち三地」〈cf.妙法蓮華経玄義〉と。また〈『入楞伽経(10巻)』〉云わく「第一義の中にまた次第なし。」また〈『楞伽阿跋多羅宝経』〉云わく「十地を則ち初となし、初を則ち八地となし、第九を則ち七となし、七また八となし、第二を第三となし、第四を第五となし、第三を第六となす。無所有なり、何ぞ次あらん。」『千手経』に云わく「我、この時に於いて始めて初地に住す。一たびこの呪を聞けば第八地に超ゆ。」『楞厳』に云わく「僧祗を歴ずして法身を獲。」『円覚』に云わく「幻を離るれば即ち覚す。また漸次なし。」〈『止観輔行伝弘決』〉「それ次位の来ること聖心より出づ。聖心は本より寂なり。次位、何ぞ施さん。物の根縁に逗〈とど〉まり、階級同異あり。絶位の極聖にあらざらんより、焉ぞ能く諸下を判ぜん。」浄土菩薩は未だ必ずしも歴ざるにあらず。また必ず歴るにあらず。故に「或」の言を置く。円融の辺に約さば諸の位次なし。行布に就かば則ち昇降の差〈しな〉あり。故に前に畢竟等同の義を立つ。これ行布を以てなり。今は円融に就くが故に位を経ず。実には全く相即す。故に二義を挙ぐ。RY07-40L 【註】言十地階次者是釈迦如来於閻浮提一応化道耳。SSZ01-333 【註】 (十地の階次と言うは、これ釈迦如来、閻浮提に於いて一応の化道ならくのみ。)SSZ01-333 言うこころは、十地の階級位次は釈迦の一応身の、閻浮の一応境に於いて、応に随いて説く一化道なり。『六要』の四に云わく「問う。起信論の大意を案ずるが如きは、怯弱の機のために超証の義を示し、懈慢の機の為に歴劫の義を示す。この義趣を説きて、正しく決判して云わく。超過の法あることなきが故に、一切の菩薩はみな三阿僧祇劫を逕るを以てなり。この説の如きならば、超証は方便、経劫は実義なり。而るに今釈の意は、忽に以て矛盾せり、如何。答う。起信論の意は、所判実に爾り。常途の性相は、また以てこれ同じ。ただし性宗の如きは、多く超証を許す。各別の宗旨、異論すべからず。何に況んや今の釈の所判は穢土の超証に亘らず。十地の階次はただこれ釈迦一代の化道なり。これに対して専ら浄土の超証他力の願意を述ぶ。超証の義に於いて、許と許さざると、諍いを成すに及ばず。相違にあらざるか。」また閻浮の化道に於いて超越の証あり。即ち上の所判文等これなり。舎利弗が一聞千悟、高額指鬘が一呼速証等の如し。RY07-40L 【註】他方浄土何必如此。五種不思議中仏法最不可思議。若言菩薩必従一地至一地無超越之理、未敢詳也。SSZ01-333 【註】 (他方の浄土は何ぞ必ずしもかくの如くならん。五種の不思議の中には仏法最も不可思議なり。もし菩薩必ず一地より一地に至りて超越の理なしといわば、未だ敢えて詳らかならざるなり。)SSZ01-333 【註】誓如有樹名曰好堅。是樹地生百歳、乃具一日長高百丈。日日如此、計百歳之長、豈類脩松耶。見松生長日不過寸、聞彼好堅何能不疑。SSZ01-333 【註】 (譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。この樹、地に生ずること百歳にして、乃し具〈そな〉わる。一日に長ずること高さ百丈なるが如し。日日かくの如きなれば、百歳の長〈たけ〉を計るに、あに修松に類せんや。松の生長すること、日に寸に過ぎざるを見るもの、彼の好堅を聞かば、何ぞ能く疑わざらん。)SSZ01-333 (私に謂く。「百歳」の下に「枝葉」の二字を入れるべし。)RY07-41L 喩は『智論』に出づ。巻第十に云わく「譬えば樹あり。名づけて好堅となす。この樹は地中に在りて百歳にして枝葉具足して一日に出生すること高さ百丈なるが如し。(乃至)仏またかくの如し。無量阿僧祇劫、菩薩の地の中に在りて生ず。一日、菩提樹下金剛座處に於いて坐して、実に一切の諸法相を知り仏道を成ずることを得」といえり。『論』には菩薩地に在りて多劫を経歴して一座に成覚するに譬う。今は義に随いて転用して彼の土の菩薩の速やかに上地に至るに喩う。然るに天台〈『妙法蓮華経文句』〉の云わく「好堅は地に処して芽は已に百囲」といえり。「百囲」は大長というなり。「百歳」は久如をいうなり。大地の中に在りて乃ち百年を逕て百囲の芽を具す。もし芽は地を出づれば一日に生長すること高さ百丈なり。あに松の梢の分萌寸長なると同日の譚ならんや。松の長ずるを一地より一地に至る次第漸悟に喩え、好堅を浄土の菩薩の速やかに補処に至るに比す。未だ好堅を見ざる者は松の寸に過ぎざるを執して彼の百丈を疑う。未だ彼の国を知らざる者は十地の階次に累〈かさ〉ねて、この超越を恠〈あや〉ぶむ。疑と恠とは、未見未知の為〈しわざ〉ならんか。『般若の音義』に云わく「諾瞿陀、また尼拘律陀樹といい、此には無節樹という。即ち好堅樹なり」と。然るに無節樹は未だ生長百丈の事を詳らかにせず。疑ごうらくは異樹なるか。「丈」は即ち十尺、「脩」は長なり。「百歳」を一本には「百囲」に作る。RY07-41L,42R 【註】即曰、有人聞釈迦如来証羅漢於一聴制無生於終朝、謂是接誘之言、非称実之説。聞此論事亦当不信。夫非常之言、不入常人之耳。謂之不然、亦其宜也。SSZ01-333 【註】 (即ちここに、人ありて、釈迦如来の羅漢を一聴に証せしめ、無生を終朝に制せしたまえるを聞きて、これ接誘の言にして、称実の説にあらずと謂〈おも〉えり。この論の事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。これを然らずというも、またそれ宜べなり。)SSZ01-333 「曰」は爰なり。「羅漢を一聴に証せしめ」とは、『西域記』の九に云わく「舍利子、馬勝羅漢に遇い、法を聞きて聖を悟り、遂に尊者(目[ケン01]連なり。)のために重述す。聞きて法を悟り遂に初果を証す。徒二百五十人と倶に仏所に至る。(乃至)七日を経て羅漢果を証す。」『宗鏡』の二に云わく「便ち偈を説きて言く。諸法は因縁より生ず。この法、因縁を説く。この法、因縁尽く。大師かくの如く説くと。舍利弗、聞きて即ち初果を獲、転じて目連に教え、再び説きて得道す。」これその類なり。RY07-42L- 「制」とは造なり、正なり、勝なり。「無生」は即ち無生法忍なり。上巻に解けるが如し。「終朝」は暫頃〈しばらく〉の義なり。『詩』に云わく「終朝、緑を采〈つ〉む」と。『註』に云わく「旦より食時に及ぶを終朝となす。」『易』の「訟卦」に「終朝、三たびこれを褫〈うば〉わる。」『抱朴子』に「千里を終朝に超えんと欲すれば、必ず退影の足を仮るべし。」『帰敬儀』に云わく「身子、思わざれば劫を経て退忘に居し、難陀、慮を整え終朝にしてその神を抜く。」これみな久しからずの謂なり。彼の高額屠士央崛摩羅の類の如きなり。『涅槃』会中に、高額、[ソウ14]を捧げて仏を殺さんと欲す。仏、善来と呼びて即時に祝髪して無生忍を得さしむ。」『央崛経』の中に、指鬘、剣を執りて世尊を害さんと欲す。仏、善来と呼びて即身に頓悟して通身汗下、無生忍に契う。諸の大乗経論の中に頓悟無生の類、勝計すべからず。「謂是接誘」等は、頓悟速証の義はこれ即ち如来の、懈怠の衆生を接取誘引の言にして、実教に称符する説にあらずというなり。「此論事」とは、下地・上地「身等法等〈身等しく法等し〉」の事なり。「非常之言」等とは、『老子』に云わく「正の言は反するがごとし。」また〈『老子』〉云わく「下士は道を聞きて大いに笑う」と。『荘子』に云わく「大声は里人の耳に入らず。折揚皇[カ07]する則ば喝〈あい〉然として笑う。この故に高言は衆人の心に止めず」といえり。「謂之不然、亦其宜也〈これを然らずというも、またそれ宜べなり〉。」(準例して解すべし。)-RY07-42L,43R 【論】略説八句示現如来自利利他功徳荘厳次第成就。応知。SSZ01-333 【論】 (略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第成就したまうことを示現す。知るべし。)SSZ01-333 【註】此云何次第。前十七句是荘厳国土功徳成就。既知国土相、応知国土之主。是故次観仏荘厳功徳。彼仏若為荘厳、於何処坐。是故先観座。既知座已、宜知坐主。是故次観仏荘厳身業。既知身業、応知有何声名。是故次観仏荘厳口業。既知名聞、宜知得名所以。是故次観荘厳心業。既知三業具足、応為人天大師堪受化者是誰。是故次観大衆功徳。既知大衆有無量功徳、宜知上首者誰。是故次観上首。上首是仏。既知上首、恐同長幼。是故次観主。既知是主、主有何増上。是故次観荘厳不虚作住持。八句次第成已。SSZ01-333,334 【註】 (これ云何が次第する。前の十七句はこれ荘厳国土功徳成就。既に国土の相を知る、国土の主を知るべし。この故に次に仏の荘厳功徳を観ず。彼の仏いかんが荘厳し、何れの処に於てか坐したまえる。この故に先ず座を観ず。既に座を知り已りぬ、宜しく座の主を知るべし。この故に次に仏の荘厳身業を観ず。既に身業を知る。何の声名あることを知るべし。この故に次に仏の荘厳口業を観ず。既に名聞を知る。宜しく得名の所以を知るべし。この故に次に荘厳心業を観ず。既に三業具足を知る。応に人天の大師となるべきことを。受化に堪えたる者はこれ誰ぞ。この故に次に大衆功徳を観ず。既に大衆に無量の功徳あることを知る。宜しく上首たる者〈ひと〉は誰ぞと知るべし。この故に次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。既に上首を知る。恐らく長幼に同ぜんことを。この故に次に主を観ず。既にこれ主なることを知る。主に何の増上かまします。この故に次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成じ已んぬ。)SSZ01-333,334 起次、識り易し。煩解すべからず。「何声名〈何の声名〉」とは、『唯識〈成唯識論〉』に云わく「語声の分位差別に依りて仮に名句文身を建立す。」名声はこれ口業所属なり。「恐同長幼〈恐らく長幼に同ぜん〉」とは、前に仏を上首となすといえども、なお恐らくは等閑の心を起こして、ただ仏を長となし、大衆を幼となして、増上の敬いなし。故に主の徳を挙げて上信を生ぜしむ。『浄名経〈維摩詰所説経〉』に「正法を執持して諸の長幼を摂す」というは、主に於いて看るべし。前来は如来八種功徳成就訖りぬ。RY07-44R,44L 無量寿経論註翼解 第七 RY07-44L |