無量寿経論註翼解 第8巻の2(7の内2)
解義分(長行)
浄入願心
   願心荘厳
   入一法句


無量寿経論註翼解 巻八之二
【註】已下是解義中第四重。名為浄入願心。SSZ01-336
【註】 (已下はこれ解義の中の第四重なり、名づけて浄入願心となす。)SSZ01-336

【註】浄入願心者、SSZ01-336
【註】 (浄入願心というは、)SSZ01-336

 『六要』の三に云わく「浄は三種の荘厳、その体無漏なり。即ちこれ果浄なり。入という意は、因位の願心に酬入する義なり。願心は即ちこれ四十八願の体、また無漏なり。即ちこれ因浄なり。六八の願心はその因浄なるが故に、三種の荘厳は、その果また浄し」といえり。もし分を配して解せば、文に三段あり。初には三種の荘厳は願心に由りて成ずることを明かし、次には三種の荘厳は一法句に入ることを明かし、後には一法句より二種の世間を生ずることを明かす。「浄」は即ち清浄句、「入」は即ち一法句に入るなり。「願心」は六八の本誓、三種の荘厳は願に由りて成ずるが故に。逆次に展転して三段の文に配す。故に章の目〈な〉は「浄入願心」というなり。RY08-08L-
 (「浄」字は『六要抄』と義異なり。学者思択せよ。彼は事に約し、今は理に就く。彼は字を統べ合釈し、これは字を分けて離釈す。『六要抄』の義を穏当とすべし。)RY08-08L
 問う。下に「入一法句」という。何ぞ浄入理心といわざるや。答う。願といえば即ち周きが故に。(願に由りて成仏す。仏の自性は法性法身なり。法性法身より方便身を生ず。方便身より三種の荘厳を現ず。この故に総じて「浄入願心」と名づくるのみ。)また智光の分文に依らば、入願・入理の両科となすべきなり。彼の『疏』の五に云わく「浄入願心は即ち分けて二となす。一には因果相成。二には入一法句」といえり。「入」に能所あり。初科は三厳を(これ果なり)能入となし、願心を(これ因なり)所入となす。能所不二なるはこれ因果相成なり。次の科は三厳と願心とを(因果)能入となす。一法句の理を所入となすなり。第四重の文、二科条然たり。今科は古に依る。それ願というは希求を義とす。希求の功は方便法身に在り。願は何よりか起こる。法性より来たる。故に『経』に云わく「その心寂静(乃至)荘厳仏国」といえり。上の句は法性なり。下の句は願心なり。『註』に「法性に随順して法本に乖かず」というは、これなり。この三段の文は展転相成す。謂く。三厳は何より起こる。願心より成ず(初科)。願は何よりか起こる。一法句より生ず(次科)。一法句は何をか生ず。三厳を生ず(後科)。それ諸法の心より成じて余の境界なし。故に一法句は三荘厳を生ず。理と願と相融して始めより差なし。故に前に三厳・願心を能入となし、一法句を所入となすなり。-RY08-08L,R09

【論】又向説観察荘厳仏土功徳成就、荘厳仏功徳成就、荘厳菩薩功徳成就。此三種成就、願心荘厳。応知。SSZ01-336
【註】 (また向〈さき〉に、観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを説く。この三種の成就は、願心をもって荘厳せり。知るべし。)SSZ01-336

【註】応知者、応知此三種荘厳成就由本四十八願等清浄願心之所荘厳、因浄故果浄、非無因他因有也。SSZ01-336
【註】 (応知というは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄願心の荘厳する所なるに由りて、因浄きが故に果浄し、無因、他因の有にあらずということを知るべしとなり。)SSZ01-336

 願に修行を兼ぬ。願は行力を得て能く自在なるが故に。地上の発願、志、所著なきが故に「清浄」という。元照のいわゆる無相の大願、無住の妙行、無得の聖果とは、これなり。『六要』の四に云わく「因浄等とは、これ外道所執の妄計を破す。無因というは、五見の中に於いて、これ邪見を指す。他因有とは戒禁取なり。」『三論玄』(嘉祥)に云わく「云何なるか無因有果なる。答えて曰く。また外道あり。万物を窮推し、由籍する所なきが故に無因という。而も現に諸法を覩る。当に有果を知るべし。(乃至)云何なるをか名づけて邪因邪果となす。答えて曰く。ある外道の云わく。大自在天は能く万物を生ず。万物もし滅すれば、本の天に還帰す。故に自在天という。もし瞋れば、四生みな苦とは、自在天もし喜ばば、則ち六道咸く楽しむ」といえり。これ無因他因の計なり。今、この過を離るるが故に非有という。因浄ければ果浄し。毫髪の差〈たが〉いなし。故に無因にはあらず。また因ありといえども、自他混ずるにあらず。無明を智恵の因となす如きにはあらず。故に他因にあらず。RY08-09L,10R

【論】略説入一法句故。SSZ01-336
【論】 (略して入一法句を説くが故に。)SSZ01-336

 純一独明にして、二なく、三なき、これを一という。真一は無一にして二を待つの一に匪〈あら〉ず。『宗鏡』の三十二に云わく「無二の真心を一法界となす。これ算数にあらず。一というは、謂く、如理虚融平等不二なるが故に称して一となす。」この一法界は諸法の軌となす。故に「法」という。「句」は一法を詮ずるが故に。『六要』の四に云わく「一法の二字は所詮の法体なり。句の一字は能詮の名字なり」と。玄一の『小本の疏』に云わく「真如一理の句なるが故に一法句といい、また清浄真如を詮ずるを清浄句といえり。」また『宝積経』に云わく「第一義句は即ちこれ如来非句の句なり。句清浄の故に、この義を以ての故に諸菩薩等は一切句清浄の智を得。これに由りて能く無辺理趣陀羅尼門に入る。(乃至)彼の一切句はこれ滅尽の句。もし滅尽の句は即ち真如の句。もし真如の句は即ち究竟の句なり」等と。また『無量義経』に云わく「無量義とは、一法より生ず。その一法は即ち無相なり。かくの如きの無相は無相不相、不相無相なるを名づけて実相となす」といえり。今の一法句とその理同じ。RY08-10R,10L

【註】上国土荘厳十七句、如来荘厳八句、菩薩荘厳四句為広。入一法句為略。SSZ01-336
【註】 (上の国土荘厳の十七句と、如来荘厳の八句と、菩薩荘厳の四句とを広となし、一法句に入るを略となす。)SSZ01-336

 『大論』の八十二に云わく「略とは諸法一切空無相無作と知る。広は諸法種種別相を分別するなり」といえり。義はこれに類同す。二十九句はただ一句に入る故に略となすなり。RY08-10L

【註】何故示現広略相入、SSZ01-336
【註】 (何が故ぞ広略相入を示現するとならば、)SSZ01-336

【註】諸仏菩薩有二種法身。一者法性法身、二者方便法身。由法性法身生方便法身、由方便法身出法性法身。此二法身異而不可分、一而不可同。SSZ01-336
【註】 (諸仏菩薩に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて方便法身を生じ、方便法身に由りて法性法身を出だす。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。)SSZ01-336

 『智光の疏』に云わく「龍猛は二種の仏を説く。一には法性生身仏、二には衆生に随いて身を現ずる仏なり。(『大論』の第九に「一には法性身、二には父母生身」と。第三十三に「一には法性生身、二には随世間身」と。第三十四には「一には法性生身仏、二には随衆生優劣現化仏」と。第九十九に「一には法身、二には色身。法身はこれ真仏なり。色身は世諦のための故にあり。」)即ち本迹を以て二の法身となす。法性法身に由りて方便法身を生ずるは、本を以て迹を垂る。方便法身に由りて法性法身を出だすは、即ち迹を以て本を顕す」と。また『瓔珞経』に云わく「一には果極法身。二には応化法身。その応化法身は影の形に随うが如し。果身常なるを以ての故に応身もまた常なり。」また〈『菩薩瓔珞本業経』〉云わく「初地より仏地に至り、おのおの二種の法身あり。(一に法性身、二に応化法身。)第一義諦法流水の中に於いて、実性より智を生ずるが故に、実智を法身となす。法を自体に名づけ集蔵を身となす。一切衆生の善根、この実智法身を感ずるが故に、法身は能く無量の法身を現応す。所謂、一切世界国土身、一切衆生身、一切仏身、一切菩薩身、みな悉く能く不可思議身を現ず」といえり。RY08-11R,11L-
 問う。二の法身に於いて三身を該ぬべきや。答う。法性法身は法身智身を摂す。方便法身は応身化身を該ぬ。『梁の摂論』に云わく「如如(法身)と及び如如智(報身)を名づけて法身となす」〈cf.『五教章』〉。この二の法身は、仏地には極満し、菩薩は分満す。故に標して「仏菩薩」というなり。-RY08-11L-
 「異一〈異にして分つべからず。一にして同ずべからず〉」等とは、これを水波に喩う。波の静かなるは水なり。水の動くは波なり。一にあらず、異にあらず。准例して解すべし。法性を以ての故に一法句に入り、方便を以ての故に二十九を出だす。これを一といわんと欲すれば、則ち体用歴然たり。これを異といわんと欲すれば、則ち法体融通す。一異有無等の過非を離る、これを以て広略相入して適〈はじ〉めより爽〈たが〉うことなし。-RY08-11L

【註】是故広略相入、統以法名。SSZ01-336,337
【註】 (この故に広略相入して、統べて法を以て名づく。)SSZ01-336,337

 「法の名」とは即ち法身の名なり。RY08-11L

【註】菩薩若不知広略相入、則不能自利利他。SSZ01-337
【註】 (菩薩もし広略相入を知らざるときんば、則ち自利利他すること能わず。)SSZ01-337

 「大論に云わく。もし諸法実相を観ずる則ば大悲心弱し。もし可度の衆生を観ずる則ば実相観弱し。悲智平等の時、菩薩の正位に入る」〈cf.『観経疏伝通記』〉といえり。故に知りぬ。法性を見るが故に実相に安住して自利の義成ず。方便を観ずるが故に仏の国土を浄め衆生を教化して、利他の能満つ。もし相入を知らざれば、二利ここに欠く。RY08-12R

【論】一法句者謂清浄句。清浄句者謂真実智慧無為法身故。SSZ01-337
【論】 (一法句というは、謂く清浄句なり。清浄句というは、謂く真実智慧無為法身なるが故に。)SSZ01-337

【註】此三句展転相入。依何義名之為法。以清浄故。依何義名為清浄。以真実智慧無為法身故。SSZ01-337
【註】 (この三句は展転して相入す。何なる義に依りて、これを名づけて法となす。清浄なるを以ての故に。何の義に依りて、名づけて清浄となす。真実智慧無為法身なるを以ての故に。)SSZ01-337

 『六要』の四に問わく「真実智恵無為法身はこれ一法となすや、別法となすや。答う。相宗の意に依らば、これ別法となす。能証の智、所証の理、各別となすが故に。性宗の意に依らば、これ一法となす。理智不二の極談なるが故に。」RY08-12L

【註】真実智慧者、実相智慧也。実相無相故、真智無知也。無為法身者、法性身也。法性寂滅故、法身無相也。無相故能無不相。是故相好荘厳即法身也。無知故能無不知。是故一切種智、即真実智慧也。SSZ01-337
【註】 (真実智慧というは、実相の智慧なり。実相は無相なるが故に真智は無知なり。無為法身というは法性身なり。法性寂滅の故に法身無相なり。無相なるが故に能く相ならざることなし。この故に相好荘厳、即ち法身なり。無知なるが故に能く知らずということなし。この故に一切種智、即ち真実の智慧なり。)SSZ01-337

 (『経〈妙法蓮華経〉』に云わく「微妙浄法身具相三十二」等。)RY08-12L
 「実相」とは前に已に解するが如し。「無為」とは『華厳の疏〈大方広仏華厳経疏〉』に云わく「為は作なり。作は即ち生滅なり。寂寞、沖虚、湛然、常住にして造作する所なきが故に無為と名づく。また瑜伽に云わく。生滅することなく、因縁に繋属せざる、これを無為と名づく。」即ち法性法身なり。「無知而知〈無知なるが故に能く知らずということなし〉」「無相而相〈無相なるが故に能く相ならざることなし〉」は前に解釈するが如し。寂にして常照、これを智恵という。照にして常に寂なる、これを無為という。理智冥合し、寂照不二なるが故に、相好即ち法身。種智全く真智なり。法性と方便と広略相入す。余文解し易し。RY08-13R

【註】以真実而目智慧、明智慧非作非非作也。以無為而標法身、明法身非色非非色也。非于非者豈非非之能是乎。蓋無非之曰是也。自是無待復非是也。非是非非百非之所不喩。SSZ01-337
【註】 (真実を以て智慧に目〈な〉づくることは、智慧は作に非ず、非作に非ざることを明かすなり。無為を以て法身を標〈あらわ〉すことは、法身は色に非ず、非色に非ざることを明かすなり。非を非するもの、あに非を非するの能、是ならんや。蓋し非を無する、これを是と曰わばなり。自ずから是にして待なし、また是に非ず。是に非ず、非に非ず。百非の喩〈さと〉さざる所なり。)SSZ01-337

 (真智は無知なるが故に作にあらず。知らざることなきが故に非作にあらず。法身は無相の故に色にあらず。相ならざることなきが故に非色にあらず。)RY08-13L
 「目」は名なり。「標」は表なり。実相の真智は始覚作得の智にあらざるが故に「非作」という。本覚自如の智にあらざるが故に「非非作」という。無為の法身は方便法身の色にあらざるが故に「非色」という。法性法身の非色にあらざるが故に「非非色」という。二を非するの智は始本一致の真智なり。故に「真実智恵」という。二を非するの身は本迹不二の妙体なり。故に「無為法身」という。RY08-13L-
 「非于非」の下は迹を払いて真を顕す。「非于非者」の上の非は能非、下の非は所非なり。所非は即ち前の両非なり。「能是乎」の「能」はこれ能非なり。「是乎」とは、いうこころは是にあらずとなり。それ是は必ず非に対し、非は必ず是に対す。是非の域は妄識の計執、翳眼の空華なり。既に清浄という。あに是非を容れんや。故に非を非するの能非はこれ是非相対の非にして、是というべからずというなり。これは非の執を払いて百非も非する能わざるの妙を顕すなり。「蓋」より下は、意の謂く。もし能所の両非なくして、始めてこれを是といはば、これ自爾の是にして相対の非なし。およそ是というものは、必ず非に対して立つ。既に所対の非なし。あに是といわんや。故にまた是にあらず。これ是の計を払いて、千是も是する能わざるの妙を彰すなり。既に是非の域を逃〈のが〉る故に「非是非非」という。「百非」とは、『起信の疏記〈起信論疏筆削記〉』に云わく「これ一異有無等の四字の上に於いてこれを明かす。謂く。一と非一と亦一亦非一と、非一非非一とを一の四句となす。異等もこれに例して共に十六を成ず。また過・現・未来におのおの十六ありて、四十八を成ず。また已起と未起とおのおの四十八、共に九十六を成ず。根本の四を并せて都て百非を成ず。然るに過は無量なりといえども、総じてこれを言わば、一異等の四を出でず。この故にこれを約して以て百非を明かす。」「喩」は暁なり、比なり。-RY08-13L,14R

【註】是故言清浄句。清浄句者、謂真実智慧無為法身也。SSZ01-337
【註】 (この故に清浄句という。清浄句というは、謂わく真実智慧無為法身なりと。)SSZ01-337