浄土論註翼解 第9巻の3(5の内3) 解義分(長行) 利行満足 五功徳門 速得成就阿耨多羅三藐三菩提 |
無量寿経論註翼解 第九之三 |
【論】菩薩如是修五念門行、自利利他速得成就阿耨多羅三藐三菩提故。SSZ01-346 【論】 (菩薩、かくの如く五念門の行を修して自ら利し他を利すれば、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るが故に。)SSZ01-346 菩薩とは即ち五念を修行する善男善女を指す。『瓔珞経〈菩薩瓔珞本業経〉』に云わく「菩薩たる者は仏を得ること久しからず。」故に「速得」という。「速」の一字、我が宗の秘鑰なり。『大経〈無量寿経〉』に「横截五悪」といい、『観経』に「現身得見」といい、『小経』に「皆得不退」という。龍樹〈「易行品」〉は「即入必定」と判ず。『今論』には「速得成就」と説き、鸞師の「易行」「他力」、綽公の師子絃の喩、善導は「頓教一乗海」といい、源信は波利質多華の喩を挙げ、空師は「頓中の頓教」という。宗祖の「横超」「円頓」、我が道、一を以てこれを貫ずといいつべし。RY09-11R- また諸祖の勧帰、その唱に和する者、勝計すべからず。『楽邦文類』、普度の『宝鑑〈蓮宗宝鑑〉』、『帰元直指』、天如の『或問〈浄土或問〉』、『仏祖統紀』『往生集』等、塵のごとく揚がり、霧のごとく繁し。ここに繁わしくせず。三祇を一念に越え、諸聖を片言に斉しくする。明珍を索めざるに得、宝所を弾指に致す。謂つべし。満貫を腰にし、霊鶴に乗じて、揚州に登る者なるか。-RY09-11R 【註】仏所得法名為阿耨多羅三藐三菩提。以得此菩提故名為仏。今言速得阿耨多羅三藐三菩提、是得早作仏也。SSZ01-346 【註】 (仏の得たまう所の法を名づけて阿耨多羅三藐三菩提となす。この菩提を得るを以ての故に名づけて仏となす。今、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得というは、これ早く仏と作ることを得るとなり。)SSZ01-346 阿耨菩提は道の極なるもの。仏ならざれば得ず。得ざれば仏ならず。故に菩提を得る者を名づけて仏となすなり。「速得」と「早作」と、言異なれども意同じ。鏡の頓現の如く、次第を俟たず。卯の頓成に似て、前後あることなし。凡愚の眼を以て常に仏を見たてまつることを得。惑業を断ぜずして、輪回を出づることを得。万行を修せずして、波羅密を得。多劫を歴せずして、疾く解脱を得。あに「早作」にあらずや。RY09-11L 【註】阿名無、耨多羅名上、三藐名正、三名遍、菩提名道、統而訳之名為無上正遍道。SSZ01-346 【註】 (阿を無と名づけ、耨多羅を上と名づけ、三藐を正と名づけ、三を遍と名づけ、菩提を道と名づけ、統べてこれを訳して、名づけて無上正遍道となす。)SSZ01-346 【註】無上者、言此道窮理尽性更無過者。何以言之、以正故。SSZ01-346 【註】 (無上というは、言うこころは、この道、理を窮め性を尽して更に過ぎたるものなし。何を以てかこれをいうとなれば、正を以ての故に。)SSZ01-346 理はこれ真如。寂滅の理性は即ち万法随縁の性なり。徹底決了す。故に「窮尽」という。『仁王経』に云わく「大寂無為金剛蔵、源を窮め性を尽くし妙智存す」と。『大経』に云わく「深諦善念、諸仏法海、窮深尽奥、究其涯底〈深く諦かに善く、諸仏の法海を念じて、深を窮め奥を尽くして、その涯底を究む〉」と、これなり。また『周易』に云わく「理を窮め性を尽くして以て命に至る」と。『本義〈周易本義〉』に云わく「天下の理を窮め、人物の性を尽くして、天道に合す」といえり。今謂く。寂照、理智、不二に通達し、剛柔、所を得、[サク01]を探り、深を釣り、天下の理に通じ、万法の性を窮む。大千界の裏に更に斉しき者なし。あに過ぎたる者あらんや。故に「無上」という。「何以」の下は「無上」の由を述ぶ。RY09-12R 【註】正者聖智也。如法相而知故、称為正智。法性無相故、聖智無知也。SSZ01-346 【註】 (正というは聖智なり。法相の如く而も知るが故に、称して正智となす。法性無相の故に、聖智は無知なり。)SSZ01-346 「如法相知〈如法相而知〉」は、これ如量知。遍く俗諦を観ず。「聖智無知」は、これ如理智。正しく真諦を観ず。理量斉鑑す。これを「正智」という。「法相」「法性」、相は性より起こり、性は相に依り顕るなり。法性と法相と、その意知るべし。RY09-12R 【註】遍有二種。一者聖心、遍知一切法。二者法身、遍満法界、若身若心、無不遍也。SSZ01-346 【註】 (遍に二種あり。一には聖心。遍く一切の法を知る。二には法身。遍く法界に満つ。もしは身、もしは心、遍ねからずということなし。)SSZ01-346 (『華厳疏抄〈華厳経随疏演義抄〉』六に云わく「理に偏邪なし。これを目づけて正となす。法の照らさざるなきを名づけて遍知という。即ち実智窮源の号なり。」)RY09-12L 「遍」または等という。「聖心」は即ち如量智。法相の如く知る。性を尽くすの義なり。「法身」は即ち如理智。法性無相、理を窮むるの謂なり。「聖心」は妙智の遍。「法身」は妙境の遍。鏡智不二にして身心周遍す。故に肇公の云わく「法身は色なくして物に応じて形現わる。般若は知なし。縁に対して照す」〈cf.『華厳経随疏演義抄』〉と、これなり。RY09-12L 【註】道者無碍道也。経言。十方無碍人一道出生死。一道者一無碍道也。無碍者、謂知生死即是涅槃。如是等入不二法門無碍相也。SSZ01-346 【註】 (道というは無碍道なり。経に言わく。十方無碍人、一道より生死を出づといえり。一道というは一無碍道なり。無碍というは、謂く、生死即ちこれ涅槃なりと知るなり。かくの如き等の入不二の法門は、無碍の相なり。)SSZ01-346 (註解所引の『華厳経』は即ち古訳の本なり。)RY09-13R 『八十華厳』の十三に云わく「諸仏世尊はただ一道を以て而も出離を得。」『疏〈華厳経疏 澄観〉』に云わく「仏仏の所乗、同く心性を観じ、万行斉しく修し、始より終に至るまで、更に異径なきが故に一道という。」『抄〈華厳経随疏演義抄〉』に云わく「同観心性とは、即ち正道の一なり。これ唯一の一法性、真を並べざるが故に。万行斉修とは、義は正助を兼ね、千仏同轍、今古不易の一道なり。則ち流類相同じきを一となして、一二三四数の一にあらざることを明かすなり。」また『同経〈華厳経 唐訳〉』に云わく「文殊、法は常に爾り。法王は唯一法、一切無碍人、一道より生死を出づ。一切諸仏身はただこれ一法身、一心、一智恵、力無畏、また然なり」といえり。『疏〈華厳経疏 澄観〉』に云わく「先ず文殊を標することは、その聴受を警〈いまし〉む。法常爾とは、因果、異なく法爾の常規なることを明かす。余は一の相を顕わす。略して四の一を明かす。初の句は法一なり。法常を以ての故に。諸仏もまた常なり。次の句は人一なり。次の句は因一なり。後の偈は果一なり。略してその五を挙ぐ。一には身一。これに二義あり。謂わく、もし所証に約せば、法界を身となす。則ち体同じきを一となす。もし能証を兼ぬれば無[ケイ17]碍智を身となす。即ち相似を一と名づく。下は既に別して心智を明かす。則ち正しく初の意に当たる。然るに体同じて義異なり。二には心一なり。八識心王倶に知るべからざるが故に。三には智恵一なり。四智、三智、二智、一智、みな別なきが故に。四には十力一なり。五には無畏一なり。この五もまた略して諸徳を摂す」といえり。RY09-13R,13L- (刊本に「後偈果」と作る。一の字を脱す。)RY09-13R 無碍道より生死を出離し、不二門に入る。これを阿耨菩提と名づく。また『涅槃』に云わく「一切衆生みな一道に帰す。一道とは即ち大乗なり」といえり。況んや無碍人をや。-RY09-13L- 「生死即涅槃〈生死即是涅槃〉」とは、『維摩経〈維摩詰所説経〉』に「善意菩薩言わく。生死と涅槃とを二となす。もし生死の性を見れば則ち生死なし。縛なく解なく然〈生か?〉らず、滅せず。かくの如く解せば、これを入不二法となす」といえり。-RY09-13L- (『仁王経』云わく「菩薩は未だ成仏せざれば、菩提を以て煩悩となす。」)RY09-13L それ正道は幽寂にして始なく、終なし。妙理は虚玄にして、新にあらず、故にあらず。始なくして而もその始というもの、これを無明生死という。終なくして而もその終を語るものは、即ち種智涅槃なり。無明生死は本よりこれあり。これを名づけて故となす。種智涅槃は因を修め方克す。これを目づけて新となす。新を離れ、故を離る。即新、即故、これを正道という。生死即涅槃と知らば則ち生死に住せず。涅槃即生死と知らば則ち涅槃に住せず。生涅の二処中間に住せず。これ真の無住処の道、即ち無碍道なり。-RY09-13L- 「入不二門〈入不二法門〉」は『維摩』に説くが如し。「不二」というは異なきの謂なり。即ちこれ『経〈涅槃経か?〉』の中の「一実」の義なり。一実の理、妙寂にして、相を離れ、如如平等にして彼此を亡ずるが故に「不二」という。理体を法と名づく。また心の軌たるや、また名づけて法となす。この「不二法」は仏性空如等の義に形対す。門別同じからざるが故に名づけて「門」となす。また能通の人の趣入するを門と名づく。相を捨てて証会するを、これを名づけて「入」となす。この不二門はこれ法界の中の一門の義なり。門別、一なりといえども、妙旨虚融、義在らざることなし。在らざることなきが故に一切の諸法は尽くこれ不二、諸法みな是なり。あに局る所あらん。ただ『維摩』の中に且く三十三人の弁ずる所に約して、以てその異を彰す。弁ずる所異なりと。要接するにただ二。一には遣相門。二相双べ遣るを名づけて不二となす。所留あるにあらず。二には融通門。二法同体なるを名づけて不二となす。-RY09-13L,14R- (『楞伽』云わく「仏の涅槃なく、涅槃の仏なし。」)RY09-14R 「入」にもまた四あり。一には信に就き入を明かす。この不二に於いて信順して違わず。故に名づけて入となす。二には解に就き入を説く。この不二に於いて解観相応する、これを名づけて入となす。三には行に就き入を論ず。定に依り照見明了にして現前に二相の以て中に住すべきを見ざるを入不二と名づく。二相を見ざるは即ちこれ止なり。不二を明了するはこれその観なり。四には証に就き入を弁ず。己情、実に契うこれを名づけて証となす。証を得る時に於いて如の外に心ある能証を見ず。既に心あることなし。寧ぞまた心の外に如の証すべきあらんや。能証を見ざれば妄想行ぜず。所証を見ざれば虚偽起こらず。如は心を離れず。心は如を離れず。如と心と異ならず。これを真に「入不入門」と名づく。不二は即ち無碍の謂なり。-RY09-14R,14L |