存覚(光玄)の生涯 存覚は浄土真宗本願寺の第三代覚如の長子、正応三年(1290)六月四日に誕生。 童名は光日麿、諱は光玄、京都常楽寺の開基である。 1303年(14)、奈良興福寺に学び、東大寺で出家受戒し、興親と名のる。後に比叡山で諸教を研磨し、青蓮院慈道の門人となって、名を光玄と改める。 1307年、祖父覚恵の命により房号を尊覚と称したが、後に存覚と変えた。 当時、大谷廟堂(本願寺)の留守職は、存覚の祖父覚恵が覚信尼公から継承されていたが、1301年頃、覚恵と弟唯善の間で留守職をめぐって諍いが始まった。 1306年、唯善は病中の覚恵に大谷廟堂の鍵の譲与を強要し、そのため覚恵は大谷を離れ、翌年没する。 覚如をはじめ常陸鹿島・下野高田・三河和田の門徒は、何度も検非違使や青蓮院へ訴訟・折衝をくりかえし、ようやく唯善に勝訴したが、1309年、唯善は親鸞の影像と遺骨をもって鎌倉常葉に逃れた。 1310年、覚如は留守職に就任し、存覚も大谷に帰った。 存覚は覚如の教化活動を助けて、ともに各地の門徒を訪ねているが、1311年に越前を訪れたときには、存覚は覚如に代わって大町如道に「教行信証」を講述し、1314年には存覚(25歳)は病弱な覚如から大谷の管領を譲られた。 1320年、存覚は了源(仏光寺第七世)から指導を求められ、覚如の指示によって了源を指導し、聖教数十帖を与えた。 1322年、存覚は覚如から義絶される。存覚と了源(仏光寺第七世)との親交が深まったことに原因があったかもしれない。 義絶によって、存覚は大谷を離れ、近江瓜生津、奥州、山科の了源の寺に移り住み、奥州・関東の門徒に和解斡旋を依頼し、各地の門徒は覚如に義絶を解くように求めたが、1338年まで16年にわたって覚如の許しを得ることはできなかった。 その間、存覚は、了源が山科に興正寺を建立すると、落慶法要で導師をつとめ、了源が興正寺を山科から渋谷に移して仏光寺と改称すると、存覚は仏光寺の落慶法要でも導師をつとめた。 また、了源の求めによって「浄土真要鈔」「諸神本懐集」「持名鈔」「女人往生聞書」を著わしている。 そのほか、備後に滞在中、明光のために「顕名鈔」を著わし、法華宗と対論して「決智鈔」「法華問答」「報恩記」「至道抄」「選択註解抄」を著わしている。 1338年、存覚は瓜生津愚咄の斡旋によって、覚如から義絶をとかれたが、本願寺寺務職の継職者からは除外された。 1342年、覚如は再び存覚を義絶し、各地の門徒から義絶を解くよう、何度も要請を受け、1350年になって、ようやく義絶を解く。この年、覚如は80歳、翌1351年に81歳で没している。 その後、本願寺第四代善如の求めによって「嘆徳文」「浄典目録」を著わし、1360年(存覚71歳)に「教行信証六要鈔」を著わしている。 1373年2月28日没、84歳。 「今ははや 一夜の夢と なりにけり ゆきゝ数多の 仮の宿宿」 参考 『真宗年表』大谷大学編、 『本廟物語』藤島達朗著、 『本願寺の歴史』名畑崇著、『仏教大辞彙』龍谷大学編纂 |