昭和63年(1988年)北里幼稚園発行 「北里の伝統文化に学ぶおはなし」から            

   新堂の樋(しんどうのひ)

            前小田町自治会長 故山 田 喜代造

 私の町には、昔より日野川から取り水をして町内全域に水が流れています。取水口附近は新堂という地名で、本流は町の表を南東に約600米、支流は西北に7本流れています。全長約3.5粁、川巾は本流1.3米、支流は60糎から80糎で、各家庭の表か裏には必ず川が流れ、昔はこの水を利用して、日々の洗濯物から、米・野菜・食器類等を洗い、風呂の排水は川へは流さず畠等に捨てたものです。その時代は、汚れた物を川に捨てると神仏の罰が当るといって川の水を大切にしました。

 朝起きると洗顔からお世話になり1日が始まりました。水は澄みきって美しく、ハエ・オイカワ・ムツ等沢山の小魚がおり、子どもたちが寄っては網や棒切れを持って追いかけ、捕れた魚を友達同士で見せ合い、自慢して楽しみました。今は見かけない、カニ・ゴリ等小石の陰にかくれているのを、そっと手捕みもしました。今はどの川岸もコンクリートになっていますが、昔は土堤で草が生え6月になると蛍が淡い光を出して飛び廻り、草に止まった蛍を捕まえ籠に入れて短い命を奪ったりもしました。夏になると汗や埃で汚れた身体を,何度でも川で洗い,夕方に水につかると今でいうシャワー替りで、そのまま風呂にも入らず遊び疲れて、ぐっすり眠ってしまったことも度々です。

 昭和34年の伊勢湾台風で、日野川が決壊し新しい樋門を造って頂き、今を川は昔通りに流れてはいますが、今日では工場廃水や農薬等により水は汚れ、防火用水と生活用水に使用されています。防火については、消火栓は有りますが、水圧が低く初期消火のみにて、大きな火災になれば、この川の水が頼りです。日々の生活に欠くことのできない大切な水をこれ以上汚さないためにも、全住民が第1日曜日を川掃除の日と定め、各組ごとに区域内を清掃し,先祖の遺産として,末長く美しい川を後世に申し送るため努力しています。


 江戸時代の迩保庄(にほのしょう)付近の古文書絵図には、小田村(現在の小田町)が仁保川(現在の日野川)から用水を取水していることが、はっきりと描かれています。  「2007.2.4水辺空間保全シンポジウム資料より」
 小田町民の暮らしには、日野川の恵みが欠かせないものであったことがわかります。

取水を今の世代に残した小田町取水再開までの歴史 はこちら


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