光栄寺 西方寺 常行寺 浄光寺 宗善寺 大念寺 長善寺 寶泉寺 (アイウエオ順)
(下記データは、1999年7月現在のものです。)
紫雲山 光栄寺(こうえいじ)「浄土真宗本願寺派」
(現在本堂等改築中です)
仏像 | 本尊 阿弥陀如来 木像 西暦1650年(慶安3年11月2日) |
創建 | 1539年 (天文8年) |
改築 改修等 |
1650年(慶安3年)現在地に移転。本堂建築 1798年(寛政10年)改築 1999年(平成11年)改築 |
檀家数 | 38戸 |
定例行事 | 修正会、春秋永代経、報恩講、盆会、御汁講、御茶講、和賛講 日曜学校朝起会、仏壮仏如例会 |
歴史 伝記等 |
天文8年(1539)釈民祐清が小字石橋に草庵を結び、浄土真宗の教えを広めると共に、寺子屋を開いて村民の教育に従事したのが開基とされている。 慶安3年(1650年)現在地に移転、本堂建立7代目祐清は宗学者として聞こえ徳化よく郷党に及んだ。 |
その他 | 現住職 廣瀬正秀氏 |
仏像 | 本尊 阿弥陀如来三尊 観音菩薩・勢至菩薩 脇立 |
創建 | 開基不詳 |
改築 改修等 |
1991年(平成3年)本堂改築 |
檀家数 | 24戸(うち小田町内9戸) 日吉野、西本郷、益田、東川各町 |
定例行事 | 春季・秋季永代経、報恩講 |
歴史 伝記等 |
古伝によると興善寺(天台宗)なり、往古 小田大明神最初の鎮座地。 西方寺境内三角にして三間四面の宝形造の堂は根本小田大明神本堂なり、佛殿と名付く(小田神社の神宮寺)。 本尊御図子は往古の神輿を2つに切って、その1つを使用したものと伝えられている。 西方寺が興善寺と号していたのは永正年間(1504〜1517年)に起こった岡山城の戦乱によって荒れ果てたころ、その後永禄2年(1559年)時の住持 了圓坊 小堂を建て保つ。元和年中(1615〜1623年)了西 真宗 錦職寺末寺となり、時の門主11代慈養上人より西方寺の寺号を贈る。 |
その他 | 現住職 今井自教氏 |
仏像 | 本尊 阿弥陀如来 |
創建 | 1542年 (天文11年) 末山 起立覚(木辺派の寺院となった年 開基は不明 |
改築 改修等 |
1996年(平成8年)本堂屋根葺き替え及び修復 1998年(平成10年)本堂内陣修復 |
檀家数 | 25戸 |
定例行事 | 春季・秋季永代経、報恩講、おみがき、御汁講、御茶番(尼講) |
歴史 伝記等 |
資料が無く不明 |
その他 | 現住職 中村正雄氏 |
仏像 | 本尊 阿弥陀如来 立像 |
創建 | 1652年 (承応元年)空誉上人改基 |
改築 改修等 |
1983年(昭和58年)庫裡改修 1986年(昭和61年)本堂屋根葺替 1992年(平成3年)地蔵堂改修 |
檀家数 | 18戸 |
定例行事 | 修正会、涅槃会、御忌会、灌仏会、孟蘭盆会、施餓鬼会、十夜会、 春秋彼岸会 |
歴史 伝記等 |
不詳 |
その他 | 現住職 板倉利光氏 |
仏像 | 本尊 阿弥陀如来 木像 |
創建 | 1554年 (天文23年) |
改築 改修等 |
1661年(昭和36年)9月27日 台風15号(伊勢湾台風)で日野川が決壊。 同年12月8日の朝失火により、本堂・庫裡を全焼 応急工事請負の平和建設鰍フ人夫が寄寓。 |
檀家数 | 18戸 |
定例行事 | 修正会(1月1日)、除地講(1月10日)、春秋永代経(3月、8月)、 春秋彼岸会、(3月、9月)、孟蘭盆会(8月15日)、報恩講(11月)、 歳暮勤行(12月31日) |
歴史 伝記等 |
1697年(元禄10年)5代将軍綱吉から、現境内、田、畑、宅の除地を受ける。 1710年(宝永7年)本尊の木仏、寺号を許される。 |
その他 | 現住職 出水 明氏 |
仏像 | 本尊 阿弥陀如来座像 地蔵大菩薩座像 |
創建 | 1685年 (貞享2年)根蓮社善誉秀達大徳 貞享年間に開基 |
改築 改修等 |
1977年(昭和52年) 堂宇大改修 |
檀家数 | 0戸 |
定例行事 | 初地蔵会(1月)、地蔵盆会(8月) |
歴史 伝記等 |
善誉秀達大徳は寺田儀右衛門の人、念仏を信奉し所有田三反二畝をもって分家し、比地に草庵を結び、念仏三昧に日を送る |
その他 | 現住職 板倉利光氏 |
仏像 | 本尊 阿弥陀如来(来迎仏) 木像 |
創建 | 1673年 (延宝元年) |
改築 改修等 |
1992年(平成4年) 本堂及び庫裡を改築 |
檀家数 | 23戸 |
定例行事 | 修正会(1月1日)、春秋彼岸会、御忌(ぎょき)会、孟蘭盆施餓鬼(うらぼんせがき)会、十日十夜会 その他 汁法要(毎月1回)、別時念仏会(毎週土曜) |
歴史伝記等 | 創建当時、小田町内三崎佐太郎家先祖の菩提所として、いわゆる個人の持ち寺として創建されましたが、後に浄土宗に返還され、浄厳院末寺となり、門末解体後、知恩院末寺として現在に至っています。 |
その他 | 現住職 池上良慶氏 |
一般的には一村一ヶ寺というのが寺の存在であったようですが、そこから考えると八ヶ寺ものお寺が一つの村に集中していることは、どう考えても不思議です。
ここでは、その謎について迫ります。
昔(明治維新以前)は、その村の人たちがお金を出し合ったり、あるいはお坊さんの勧進によって集められた浄財によって普請されるお寺と、当時その村の権力者や高貴な貴族、武士などによって建てられるいわゆる個人持ちのお寺とに、大きく分けて二種類の建て方があったようです。
そこで、この数の多さについてご住職の方々に次のような仮説をたてていただきました。
(仮説)
いずれにしても大切なこと、忘れてはいけないことは、それだけ小田町の人々には昔から先祖を大切にするという深い信仰心があったということです。
発見!なんと、周辺の町にもよく似た例がありました。
・近江八幡市加茂町(九ヶ寺)
調査にご協力いただきました各お寺住職の方々、本当にありがとうございました。