■■育ち合う教育学研究室の活動■■

◇研究テーマに沿った刊行物の発行

◇各種研究会・研究集会・講座の随時開催

◇研究室だより「育研だより」の随時発行

◇地域サークル「どの子も伸びる研究会との連携・協働


 育ち合う教育学研究室の主張

はじめに
 教育を辞書で引いてみますと「ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の涵養などを図り、その人のもつ能力を伸ばそうと試みること。」(大辞泉)とあります。
 河瀬哲也 教育学研究室は、このように説明されている教育を現実の具体的な事実に即して、広く・深く追求し、実践と結んでよりわかりやすいものにしていきます。
 そのために、現在の教育現場(子育て・保育を含め)における諸課題を解決していく具体的なとり組みを学び合うことを主柱にします。そして、学び合う者同士が育ち合うことが自覚できる研究室として活動していきます。

教育とは
 研究室が考える教育について述べるために、辞書の説明内容に少し解釈を加えてみます。教育は意図的な営みである。つまり、目的をもって行うのが教育であり、それを行うためにあらかじめその内容や方法、順序などを考え、計画的にすすめる。働きかけは、「啓発」「教授」「涵養」すること。「啓発」とは、気づいていないことを教えたり示したりして、より高い理解・認識に導くこと、「教授」とは、教えられる者(児童・生徒・学生)に知識・技能を授け、それによって人間や事物・事象に関心をもち、それらの追求意欲を高め、学ぶ者の発達を助けること、「涵養」とは、無理を強いずにゆっくりと養い育てること、となるでしょうか。
 なぜ辞書にこだわるのかといいますと、「ある人間を望ましい姿に変化させる」とありますが、どんな姿が望ましいのかの説明はありません。これでは教育がめざす具体像をイメージすることはできません。さらに、「能力を伸ばそうと試みること」の「試みる」は、どんな結果になるかわからないが、とにかくやってみるという意味が強くあります。「ある人間を望ましい姿に変化させるために」働きかけるのが教育ですが、その結果はわからないけれどとにかくやるのが教育なのだということになってしまいます。めざす具体像、人間の望ましい姿はわからないないけれど、とにかくやるのが教育なのだ、といわれると、「ちょっと待て」といいたくなるのは私一人ではないと思います。
「言葉」の専門家でさえ、教育をわかりやすく説明するのは至難のようです。
 少なくとも教育によって「変化させる」という「人間の望ましい姿」を示さなければ、教育を「意図的な営み」にすることはできません。
 そこで、私自身の実践で検証できることから「教育とは」を考えてみることにします。
 教育という言葉は「教」と「育」からできています。つまり、「教える」ことと「育てる」ことで成り立っています。だからでしょうか、一般的に、教育は「教え」「育て」ること、「教えられ」「育てられる」ことだ、と理解しているようです。
 私の考える教育は、少し違います。基本となる順序が逆なのです。つまり、「育てる」ために「教える」のが教育だと考えているのです。
もともと教育が最も望んでいたのは、「育てる」ことが基本にあったと思うのです。「教える」のは「育てる」ための手段であって目的ではないということです。「教える」こと
だけが教育の目的になれば、それは教育ではなく「教化」に転化します。教化とは、教える者が一方的に「教え」「導き」、道徳的、思想的な影響を与えていくことです。教える者に従順が強いられ、教えられる内容を鵜呑みにさせられ、権力を持つ人にとって望ましい方向に進ませていくことになります。いわば、管理の下に置かれた教育がすすむ道です。
 このように「教える」ことは、教える者から教えられる者へという、いわば、「上から下へ」という強い方向性をもっています。
 「育てる」は、どうでしょう。もちろん「上から下へ」もありますが、諺にある「負うた子に教えられる」のように「下から上に」、あるいは「上も下もなく相互に」という方向性をもちます。
 この「育てる」ことを基本にした「学び合い、育ち合う」教育こそがみんなが求める教育だと考えるのです。「育てる」ために「教える」という行為を担うのが教師だということです。
 実践での検証は後述することにして先に進みます。

現状と課題
 戦後日本教育、とりわけ学力至上主義が唱えられ、競争教育が激しくなる過程で、「上から下へ」の「教える」教育が中心となり、「育てる」ことが忘れられてしまったようです。その結果、教育現場にいろんな問題が引き起こされてきました。
 競争教育は「できる子」「できない子」のレッテル貼り、つまり、断定的な評価をくだしていきます。「できる子」は誤った優越感を持ち、「できない子」は不満や不安を抱え込みストレスをため込んでいきます。「いじめ」問題、暴力・非行、学級崩壊、不登校・登校拒否、引きこもり、殺人、自殺等々子どもたちをめぐる問題が次々と出現し、今もあとを絶ちません。とどまることなく、深化し続ける子どもたちの人格のゆがみに教師や大人たちの理解と指導が及ばないほど深刻な事態になっています。
 しかし、全国学力テストが象徴するように、競争教育は激しくなる一方です。政府・与党の教育政策はこれをいっそう強力にすすめようとしています。
 教師は本来、子どもと正面から向き合って、一人ひとりの子どもの全人格的な発達を保障したいと願っているはずなのですが、あの手この手の管理・統制でがんじがらめの状態です。「おかしい、こんなことでいいはずはない」と競争教育と管理・統制に抗(あらが)っている人は全国にたくさんいますが、押し切られているというのが偽らざるところでしょう。
 原因はともあれ、目の前の子どもたちの否定的な現象は何とかしなければなりません。管理・統制が徹底されている学校現場では、子どもをさらに管理することで否定的な状況を乗り越えようとします。これまで以上の力で管理することが必要になります。つまり、「上から下へ」の教育、すなわち管理教育がさらに徹底されてすすむことになります。
「育てる」という教育の本すじをとかくおき忘れて、上から押しつけるという教え方、短絡的に躾けたり、諭したりすることに力を入れます。そうすることで一時的には効果を上げているようにみえますが、それは、「見た目」の上のことだけであり、子どもたちは、「怖い」「うるさい」から従順なふりをしているに過ぎません。しかし、教える方は、見た目でもいいから効果を上げる「上から下へ」の教えることへの「誘惑」に抗えない実態があります。行政も然り、「上から下へ」を徹底し、現場の多くの管理職も「右に倣(なら)え」の状態になっています。
 国民にとって迷惑なのが政治家のその「上から下」への「教育熱心」です。実は、その本音は「教化」による教育支配、ひいては国民支配にあると思われます。
 教師の教えたがる志向は、以前から根深く、習性になっている面を否定できません。行政は、それをうまく利用して、「教える専門家」になることが「優れた教師」だと評価システムを導入したり、そういう教師づくりのための研修を準備し強制的にそれを受けさせます。その行政を主導するのは政治です。政治家の号令でつくられた教育改革や教育再生などを現場で実現させていくためには、「育てる」教師より「教える」教師が必要だからこうした流れがつくり出されてきたのだといえます。教師の「使命感」だの「教育愛」などともっともらしい言葉を使い、ひたすら「教える」教師づくりをすすめているのです。「特別の教科」としてつくりだそうとしている「道徳科」にも通底しています。

 こうした教育のもとでは、自分の考えで判断し、行動を決めるという人間として生きていくための大切な「力」は育ちません。つまり、「分別」のできない人間が育っていくことになります。道理をわきまえ、自分の考えで判断し、行動を決める「力」をもつ人間は育たないということです。いわば、思考停止状態の人間がつくられていくことになります。「分別」を言い換えれば「自己決定権」といえます。(参照:東上高志・河瀬哲也共編著『育ち合う教育学』序章)
「人を殺してみたかった」とためらうことなく人を殺してしまう高校生や大学生の姿にそれは如実に現れているのではないでしょうか。
 教育がこんな「人間の姿に変化させる」ことを望むはずもありません。しかし、現実はそんな人間をつくり出す役割を担わされている、いや担っている、といっても過言でないと思います。
 研究室は、そんな教育を質的に転換することを強く主張します。

研究内容
 後述するとした実践での検証で、教育の質的転換を考えていきます。
 小学校でこれ以上「荒れ」ようもない子どもたちと出会い「格闘」した日々を記録したのが、拙著『人間になるんだ』(部落問題研究所/1983・84年)上・下巻です。
 ここに登場する子どもたちは、出会った時、すでに「思考停止状態の子ども集団」で、「分別」ができない子どもたちの集まりでした。そうした子どもたちにどれほど力こぶを入れて「教え」ようとしても反抗、反発し、学ぶことから逃走するだけです。管理する力を乗り超えてしまった子ども集団でした。
 この子どもたちが教師や学校に求めているものは何なのかを探ることから実践を始めました。四人の学級担任が、これまでの状況から個々の子どもをとらえ直し、集団を分析します。その上で、子どもたちの願いを導き出し、それを実現するための働きかけをつくり出していきます。どの学級も足並みをそろえて取り組んでいける働きかけでなければなりません。新学年(5年生)を迎える前の数日間の準備を「くずれた集団のたてなおし作戦」としてまとめました。新年度一日目からその作戦を着実に実行していきます。作戦は、子どもたちにすんなりと受け入れられ、一つ一つのとり組みが子どもたち自身のものとなり、子どもたちの姿は日を増すごとに見事に変化していきました。その二年間の過程を記録したのが前掲書です。
 そこでのとり組みに、子どもたちを「育てる」ために「教えて」いるという典型があると考えています。もちろんその過程で子どもが反抗・反発する場面もありますが、育っていく子ども集団の働きかけが問題を解決していきます。教える側からの「育てる」という働きかけは、抵抗なく受け入れられ、子どもたちは自らの力で成長を遂げていくのです。さらに、子どもたちが働きかけ合う姿や変化していく姿が、私たちを育てていきます。
 こうした実践を貫いているのが、人間になるんだシリーズ(一年生編から六年生編)です。
 すぐにでも確かめてもらえると考え、人間になるんだシリーズをとりあげましたが、このような実践を長年積み上げてきたのが「どの子も伸びる研究会」です。多くの成果を上げてきましたし、現在もそれは引き継がれ多くの仲間が実践を続けています。
「どの子も伸びる研究会」の前身は「同和教育における授業と教材研究協議会」(略称同授研)です。同授研は戦後同和教育のとり組みの中で「誕生」しました。どの子も伸びる研究会は同和教育集結を主張して同授研を改称した研究会です。しかし、同授研の実践と研究成果を継承していますから、研究会が創り出してきた実践の一つ一つは戦後同和教育実践のなかで生まれ育ってきたことになります。そしてそれは、現在の教育困難と言われるなかでも継承され、多くの成果を上げているのです。
 その実践の核心は、戦後同和教育実践で培われたものにあります。それは、教育の主体を教師から子どもに転換していったことです。どの子も伸びる研究会は、それを「はじめに子どもありき」という表現で実践の基本を示してきました。
研究室のいう、「教える」教育から「育てるために教える」教育への「質的転換」という主張の原点が、ここにあります。

研究方法
 授業、教材研究、集団づくり(学級づくり)、教師の力量形成、教職員集団づくり、学校経営、父母との共同等々を対象に、それらの実際を分析し、育てる教育実践として総合的にとらえ直し、実践法則を体系化して理論を導き出していきます。

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