戦艦大和



戦艦大和の性能、武装(新造時)
満載排水量7万2809トン
公試排水量6万9100トン
全長263メートル、垂線間長244メートル、吃水線長256メートル
最大幅 38.9メートル、吃水線幅36.9メートル
吃水 前部10.4メートル、後部10.4メートル
最大速力27.46ノット
航続距離7200海里(16ノット)
主砲46センチ3連装砲塔3基(9門)、45口径、最大仰角45度、最大射程4万メートル
副砲15.5センチ3連装砲塔4基(12門)、55口径、最大仰角55度
高角砲12.7センチ2連装6基(12門)
探照灯150センチメートル8基(探照距離8000メートル)
機銃25ミリ3連装8基(24門)、13ミリ連装2基(4門)
馬力軸馬力前進15万馬力、後進4万5000馬力
カタパルト2基、搭載航空機7機(水上偵察機3機、水上観測機4機)
測距儀艦橋15メートル1基、主砲塔15メートル3基、 後部指揮所10メートル1基、副砲塔8メートル4基
機関艦政本部式蒸気タービン4基4軸、回転数225(毎分)、蒸気圧力25kg/平方センチメートル、蒸気温度325度
推進器3枚翼、直径5メートル、21.7t
費用当時1億4287万円(現在に換算すると約2604億762万円、大和一隻分の費用で東海道新幹線全線が完成できる)
燃料搭載量満載搭載量6400トン(駆逐艦3隻分の重さ!)
内火艇水雷艇2隻、将官艇1隻、11メートル内火艇1隻、 12メートルランチ4隻、8メートルランチ1隻、9メートルカッター4隻
乗組員2800人

戦艦大和の最終時の武装
主砲 46センチ3連装砲塔3基(9門)
副砲 15.5センチ3連装砲塔2基(6門)
高角砲 12.7センチ2連装12基(24門)
機銃 25ミリ3連装44基(132門)、13ミリ連装8基(16門)


戦艦大和の特徴

●46センチ主砲・・・正式名称94式45口径46センチ砲。当時世界最大の主砲。射程距離は実に42キロメートルというもので、砲弾は、長さ約2メートル、 重さは1.46トンという巨大さであった。一発撃つのに使う火薬の量は330キロ。撃ちだされた砲弾は、時速2,808Km(秒速780m)という速さで飛び出し、砲身の内側に刻まれたライフルにより、 1分間に60回転しながら飛んでいき、 遙か水平線の彼方の敵艦を攻撃する事ができた。

これだけの大口径の主砲は後にも先にも大和型戦艦のみであった。 3連装の砲塔一基の重さは2510トンで駆逐艦一隻分の重さにあたる。砲身長は、20.7メートル(45口径・46センチの45倍)もあり、1門あたり165トンにも及んだ。 しかし大和はその生涯で主砲は合計311発しか撃てなかった。 使用された46センチ砲弾は、対艦用の91式徹甲弾、そして対航空機用の零式通常弾、 3式通常弾の3種類で、徹甲弾は、目標の手前で着水してもそのまま水中を直進して艦腹に当たるような工夫がされていた。

しかし、どんな砲身でも寿命があり、戦艦大和の主砲は1発撃つたびに砲身内に焼く3300気圧がかかるため、 約200発で砲齢が尽きることとなっていた。


靖国神社に展示されている戦艦大和の主砲弾(右端)左の戦艦三笠の主砲弾と比較すると巨大さが窺える。

●防御・・・大和の艦体は舷側は厚さ41センチ、そして甲板は厚さ23センチ、砲塔は65センチという甲鉄で覆われ、 20キロ位先から打ち込まれる大和なみの砲弾や200キロ爆弾による急降下爆撃にも十分耐えられる防御であった。 また魚雷防御の為、舷側に大きくバルジを張りだした。
また、艦体全体に鋼鉄のアーマーを張ると艦の重量が増加してしまうことから、大和においては、 弾薬倉庫、機関部、砲塔部等の重要な部分をすっぽり覆ってしまうという集中防御方式が取り入れられた。 更にそれ以外の居住区等部分は、できるだけ細かく仕切られて(1,147個)防水区画を作り、爆撃や浸水から身を守った。 また、煙突の通路は防御を張れないことから、大和は直径18センチの穴が無数に開いた「蜂の巣甲鈑」と呼ばれる装甲が設置され、 排気を遮断することなく防御が可能となった。

●球状艦首・・・大和は巨大戦艦であるが、全長に比較して幅が異常に広い。これは、巨大な主砲を 装備するため、防御や安定性を追求した結果である。幅が広ければ、当然速度が遅くなる。したがって、造波抵抗を軽減し、速力を増す ための球状艦首(バルバス・バウ)となっている。

●大きさ・・・長さ263メートルというと東京駅位の長さに匹敵し、いわば鋼鉄製の東京駅が海に浮かんだようなもの。 しかし、排水量に比較すると、「小さい」戦艦であった。46センチ主砲を装備した上で、いかにコンパクトにするかでかなりの苦心があったという。

●居住区・・・冷暖房完備、エレベーター付で当時の技術の粋を集めた装備がなされ、居住区は広く、兵員の寝起きに大抵の軍艦が釣床(ハンモック)を使用していたところ を大和では寝台を使用していた。居住区一人当たりの床面積は3.2uで、駆逐艦の3倍以上の広さである。したがって、他艦の乗組員からは 「大和ホテル」と呼ばれていた。同型艦の武蔵は、「武蔵御殿」と呼ばれていた。

●建造予算・・・建造与算が帝国議会を通過したのは昭和11年12月で、実際の建造予算は1億4287万円であったが、 計上予算はその8割の9800万円とされた。大和の建造は軍極秘で帝国議会に対しても、排水量35000tの戦艦と 架空の駆逐艦3隻と潜水艦1隻を建造するとして計上して予算要求されたものである。

●艦内通信・・・軍艦の艦内通信は、主に電話で、大和は直通電話491本 を有し、外部電話回線1本も装備されていた。艦内が広く、また防毒の観点から伝声管については146本と少なめで、他に空気伝送管も14本装備されていた。

●烹炊所・・・大和の烹炊所は上甲板に設備され、6斗炊き蒸気釜6個、6斗炊き副食釜2個が設備されていた。 1つの釜で500人分の炊飯が可能であった。なお、栄養価は1人2800〜3000カロリー、1日6合(米7:麦3)、 野菜300g、肉180g、魚150gと決められていた。

●同型艦・・・大和は、大和型戦艦の一番艦でネームシップであった。同型艦としては、武蔵、信濃の二隻が建造され、信濃については、航空母艦に改造された。


戦艦大和の生涯

戦艦「大和」は、艦隊決戦の切り札となるべく、昭和12年11月4日に呉海軍工廠において起工された。大和は対米英開戦直後の 昭和16年12月16日に海軍に引き渡されて竣工、第一戦隊に編入された。昭和17年2月には、これまで12年間にわたり連合艦隊の旗艦を務めた「長門」から旗艦の地位を譲り受け山本五十六長官の 将旗を掲げる事となった。

太平洋戦争が始まり、日本は破竹の進撃を続けたわけであるが、その間大和は瀬戸内海の柱島基地において訓練に励んでいた。その後 太平洋戦争の天王山とも呼ばれるミッドウェイ海戦に参加した。昭和17年6月5日に海戦が始まったが、南雲艦隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻の航空母艦を失い、大敗北 となった。その時大和は戦場から300海里も離れており、応援のすべもなく、柱島基地に帰投した。

昭和18年8月、戦場はソロモン海域に移り、大和も南方戦線の最大拠点であるトラック島に進出した。その後戦局は悪化していき、昭和 18年2月に大和は旗艦の座を二号艦の「武蔵」に譲ることとなった。その間大和はトラック島と日本を何度か往復したが、出撃の機会は訪れなかった。昭和18年12月に大和は米潜水艦スケートの 雷撃を受け、魚雷1本が右舷に命中、初めて損傷を被り、呉海軍工廠にて修理と共に高角砲、機銃の増設等の改装工事が行われた。

修理を終えた大和はリンガ泊地に進出し、米軍のサイパン侵攻に備えた。そして昭和19年6月11日から米機動部隊によるサイパン空襲が 行われたことから救援に行き、昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦となる。この時初めて大和の主砲は実戦で火を噴いたのである。目標は敵艦船ではなく、敵艦載機で27発(3斉射)を撃ったにすぎなかった。

その後大和は、昭和19年10月23日のレイテ沖海戦に参加した。24日大和はシブヤン海域において米艦載機の攻撃を受け、主砲31発を発射するが、 爆弾一発が命中した。翌25日、サマール沖で偶然敵護衛空母艦隊に出くわし、敵空母に向かって3式通常弾24発、徹甲弾100発の主砲を発射し、敵空母に損傷を与えた。これが水上艦船に対する最初で最後の大和 の主砲攻撃となった。この海戦において日本海軍は「武蔵」他多数の艦船を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。

大和はその後日本に戻ったが、昭和20年4月1日に米軍が沖縄上陸した事から水上特攻部隊として出撃し、生還を望まない攻撃に出発した。大和は昭和20年4月6 日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く沈没したのである。この時の 主砲は27発しか発射されなかった。


水上特攻・・・大和の最後

昭和20年4月5日13:59発令(電令作第603号)
第1遊撃部隊「大和、信濃、第二水雷隊(矢矧及び駆逐艦6隻)」は海上特攻として 8日藜明沖縄島に突入を目途とし急速出撃を準備すべし。

昭和20年4月5日15:00発令(電令作第607号)
1 帝国海軍部隊および第6航空軍は6日以降全力をあげて沖縄周辺敵艦船を攻撃せんとす。
2 陸軍第8飛行師団は協力攻撃を実施、第32軍は7日より総攻撃を開始し、 敵上陸部隊の掃滅を企図す。
3 海上特攻隊は7日黎明時豊後水道出撃、8日黎明時沖縄西方海面に突入、 敵水上艦艇ならびに輸送船団を攻撃撃滅すべし。

昭和20年4月6日連合艦隊指令長官訓示
帝国海軍部隊は陸軍と協力空海陸の全力をあげて沖縄島周辺の 敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。 皇国の興廃はまさに此の一挙にあり。 ここに海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは、 帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに、 此の光栄を後に伝えんとするに外ならず。 各隊はその特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅し もって皇国無窮の礎を確立すべし。

海上特攻の出撃艦船
旗艦 戦艦大和(燃料登載4,000屯)指揮官 伊藤整一中将
第2水雷隊 旗艦 矢矧(燃料登載1,300屯)
第17駆逐隊 雪風(590屯)磯風(600屯)浜風(600屯)
第21駆逐隊 朝霜(600屯)霞(550屯)初霜(500屯)
第41駆逐隊 冬月(900屯)涼月(600屯)


4月6日
・15:20〜徳山を出撃
・19:50〜西水道通過
・20:00〜対潜水艦警戒のためジグザグ航行開始

4月7日
・06:00〜海上特攻隊大隈海峡通過。第3警戒航行序列。敵潜水艦警戒のため水上偵察機1機発進
・06:30〜零式艦上戦闘機5機が上空警戒
・10:00〜零式艦上戦闘機10機が上空警戒
・06:57〜第21駆逐隊「朝霜」が機関故障のため離脱(離脱後行方不明、沈没と推定)
・08:40〜敵機7機を発見するも攻撃せず。(坊の岬沖速度18ノット)
・10:16〜敵機2機が水上特攻隊を発見接触、緊急通信を発しているのを傍受
・10:17〜大和主砲で対空射撃するも命中せず、敵機は射程外から接触
・11:14〜敵機8機に対し大和、矢矧が対空射撃
・11:35〜大和の電探が70km付近に敵大編隊が接近したことを探知
・12:28〜敵大型爆撃機(B-25)発見
・12:29〜米艦載機20数機発見
・12:32〜米艦載機約150機来襲。雲の合間から急降下爆撃を敢行。「大和」砲撃開始、速度24ノットにてジグザグ航行
・12:40〜米艦載機約200機来襲。大和、矢矧を主目標として攻撃開始
・12:41〜「大和」後部電探室等に爆弾2発命中
・12:45〜「大和」魚雷1本左舷に命中、「浜風」航行不能
・12:46〜「矢矧」航行不能
・12:48〜「浜風」沈没、「冬月」ロケット弾命中
・13:08〜「涼風」火災
・13:25〜「霞」航行不能、大和被弾のため「初霜」に通信代行を命ず。
・13:30〜米艦載機約150機(第二次攻撃隊)が来襲、攻撃開始
・13:35〜「大和」魚雷3本命中
・13:44〜「大和」魚雷2本命中により左舷側に5度傾斜
・13:56〜「磯風」浸水速力低下
・14:02〜「大和」爆弾3発命中
・14:05〜「矢矧」沈没
・14:07〜「大和」魚雷1本命中
・14:12〜「大和」魚雷2本命中により左舷側に15度傾斜、速度12ノットに低下。主砲、副砲、高角砲使用不能
・14:17〜「大和」魚雷1本命中により、速度7ノットに低下。
・14:23〜「大和」左舷側に35度傾斜。総員退艦命令。ほぼ横転した状態で前部砲塔等の誘爆により沈没。火柱は上空6,000mまで立ち上がり、鹿児島から目視。 北緯30度22分 東経128度4分 乗組員2,498名戦死
・14:25〜米艦載機攻撃終了
・14:45〜「冬月「雪風」「初霜」「涼月」が生存者救助
・16:57〜「霞」航行不能により砲撃処分
・22:40〜「磯風」航行不能により砲撃処分

4月8日
・08:45〜15:00〜駆逐艦4隻「冬月」「雪風」「初霜」「涼月」が佐世保に帰投
冬月=小破(約2週間を要する損傷)
雪風=小破(約1週間を要する損傷)
涼月=大破(約3月を要する損傷)
初霜=艦船被害なし


「大和」の最後:九州坊ノ岬沖

2002.3.7更新


大和は水上特攻の際、片道分の燃料しか搭載していなかったのか?

戦艦大和は、沖縄に集結する敵水上艦艇、輸送船団を撃滅すべく、昭和20年4月6日午後3時20分、柱島基地から出撃した。生還を期しない水上特攻部隊の旗艦として僚艦9隻(軽巡矢矧、駆逐艦雪風、浜風、磯風、朝霜 、霞、初霜、冬月、涼月)と共に。制空権は敵にあり、大和が沖縄に到着するまでに敵航空機に撃沈される事は必至であり、作戦というより「大和の死に場所」を求めた特攻隊の美名を冠した出撃であった。

この出撃の際、大和は「片道分の燃料しか搭載していなかった」と言われている。当時連合艦隊参謀長より発せられた作戦計画は、搭載燃料2000トン以内というもので、大和が沖縄を往復する為には4000トンの燃料が必要な ので、この作戦通りであれば、片道分の燃料しか搭載していなかった事になる。

当時基地の重油タンクは殆どが空で、訓練もできない状態であった。軍令部からの作戦命令も水上特攻である事と重油の枯渇により片道分の燃料としたのである。しかし、実際は往復できるだけの4000トンを搭載して出撃した 可能性が大である。現場である軍需部の独自の判断で当時「武士の情けを知らないような事はできない。」との事で軍令部の指示した2000トンは帳簿から出したが、それ以外の2000トンは空タンクに残っている重油を手押しポンプ で揚げて搭載したとの事である。

(1997.4.27更新)


このように命令に反するとわかりつつも、参謀ではなく一個人の大佐として往復燃料を搭載すべく尽力したのは、 連合艦隊参謀小林儀作海軍大佐であり、同氏は、戦後次のような手記を残している。燃料が往復分 搭載された確たる文書は存在しないものの、同氏の以下手記を読むと、切々たる思いと確かに往復分の 燃料が搭載された事実が伝わってくる。

元連合艦隊参謀海軍大佐小林儀作氏の手記「戦艦大和の沖縄突入作戦について」

戦後刊行された幾多の戦記書には戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦の時は、 燃料は沖縄に着く迄に必要なものだけ積んで、内地に帰還するに必要な燃料は積まなかった。 『片道航海』『武人の情けを知らぬ無情の海軍』として世人の謗りを受けているのですが、 この作戦の時の燃料補給は、片道分だけではなく、 往復に必要な分を搭載した事実を明らかにして世人の誤解を解きたいと考えます。

私は昭和17年11月軍令部々員兼大本営海軍参謀に任命され勤務して参りましたが、 昭和19年3月聯合艦隊司令長官古賀大将以下幕僚の大半が戦死し、 聯合艦隊司令部が殆ど壊滅しました為、 その再建のために昭和19年4月30日聯合艦隊参謀に補せられ、 旗艦大淀に乗艦し、主として補給の業務を担当しておりました。

ご存じの様に昭和19年6月19日発動しました『あ号作戦』 (サイパン作戦又はマリアナ海戦)及び同年10月24日発動した 『捷号作戦』(レイテ作戦)も敗北に終わり、大半の艦艇は損傷し、 艦隊を以てする作戦は終了しました。残存の軍艦は、 敵の空襲を避けるための迷彩を施し、軍港々外その他に避泊して居た時に 『天号作戦』即ち戦艦大和以下を以てする沖縄突入作戦が考えられました。

聯合艦隊司令部の首脳者は、本作戦に関し、軍令部と種々協議しましたが、 軍令部は本作戦に関し極めて消極的でありました。即ち、 『現在日本国内の燃料貯蔵量は極端に逼迫しており、 物資輸送する船艇につける護衛艦の燃料も十分とは云い難い状況にある。 従って燃料は極端に節約しなければばらない。又、 本作戦を考えてみると敵の制空圏下にあるため、その下での艦隊行動は極めて危険である。 又、たとえ沖縄に突入し得たりとするも、その生還は期し難い。 強いて本作戦を強行する場合に於いては、燃料を片道分しか渡せない』との強硬意見である。

早速聯合艦隊司令部では作戦会議(幕僚全部出席し主務事項以外の事でも意見を述べる) が開催され、活発な意見が開陳されました。
 ・敵の制空圏下、又、敵潜水艦の跳撃しておる海面での艦隊行動は、 無謀であり沖縄突入は難しい。無理な作戦である。
 ・港内に避泊して徒に敵機の襲撃を待つよりも日本海軍の名誉にかけて沖縄に突入せしめ、 その最後を飾らしめるのが武人の本懐である。

等の種々論議がかわされましたが、 唯『たとえ生還の算がなしとは云え燃料は片道分しか渡さないと云うのは武人の情にあらず』 と大半の幕僚は本作戦に反対意見を開陳しました。聯合艦隊司令部首脳は、種々苦慮された様です。 即ち、『本作戦の成功の算は極めて少ない。併しながら、今海軍部内全般に亘り 【海軍航空部隊はじめ全軍特攻として死闘を続けているのに水上部隊のみ生き残って 拱手傍観して居る。皇国存亡のとき、之をしない法があるか。】 等の気分が横溢している事も考えられた結果、聯合艦隊首脳部は本作戦を決行することに決定し、 昭和20年3月20日大海指令命令作戦が発令されました。

本作戦命令を第二艦隊司令長官伊藤整一中将に伝達の為、 聯合艦隊参謀長草鹿竜之介中将が軍艦大和に行かれることになったので、 私は補給関係の援助をする為に是非一緒に行かせてほしいと随行をお願いし、 艦隊付属の飛行艇で瀬戸内海の柱島に行き、 4月2日停泊中の軍艦大和に乗艦しました。

大和乗艦後、直ちに幕僚室に行き、 第二艦隊機関参謀松岡茂大佐に会い、 『今回の出撃の為の燃料補給は聯合艦隊参謀である小林大佐が直接行うから一任してほしい』 と告げ、その了解をとりつけた後、直ちに高速艇を用意して呉鎮守府に行き、 幕僚室に居る呉鎮守府機関参謀今井和夫中佐に会いました。

「おい、今井君。今貴様の所では帳簿外の重油は幾許あるか。 私は元海軍省軍需局に勤務して居た時、出撃準備計画を担当して居り、 又軍令部参謀もして居たので、全海軍の重油タンクの状況はよく知って居る。 呉鎮守府傘下は一番重油タンクが多いので、相当タンク内に残って居る筈だ。 これらの未報告の帳簿外の重油が4〜5万屯はあると思っているがどうか。 無理かも知れないが、この帳簿外の重油の一部を俺に呉れ。」

「小林さん、一体どうしたのですか。藪から棒のお話、訳がよく解りません。 勿論帳簿外の重油は相当量残って居ります。事情を説明して下さい。」

と云う次第で、私は大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦の決定迄の経緯を詳しく説明し、 「たとえ生還の算少ないとは云え、 燃料は片道分だけしか渡さないと云うことは武人の情けにあらず。往復の燃料を搭載して快く出撃せしめたい。今回無理を云って聯合艦隊参謀長に随行して来た私の目的は、唯この一点だけである。 聯合艦隊参謀と云う公職で頼むのではなく、小林大佐一個人の懇願なのだ。」

と話たる所、今井参謀も之を快諾す。

実施方法は次の通りにする。
1 各艦に往復燃料を補給する。然し聯合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されているので、片道分は帳簿外燃料より補給す。(タンクの底の重油は在庫として報告してない。之等を手押しポンプで集めれば、沢山となる。これが帳簿外重油)
2 補給船には往復燃料を搭載する様に命令する。上司報告(求められた時のみ)には片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて余分を逆に吸い取らしたが、出撃に間に合わないのでその様にした

依って直ぐ今井参謀と一緒に上司である呉鎮守府先任参謀井上憲一大佐、 参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本少将に報告して承認を得る。 直ちに高速艇に飛び乗り、柱島停泊中の大和の帰艦し、 松岡第二艦隊参謀長及び先任参謀山本祐二大佐に詳細報告せる所、 非常に喜んでもらへえた。今井参謀は直ちに呉海軍軍需部長に命令を出し、 各艦に重油搭載を命ず。重油搭載は呉及び徳山(駆逐艦の大部)で行われましたが、 各艦の重油搭載量は次の通りです。

旗艦大和4000屯
第二水雷戦隊旗艦矢矧1300屯
第4駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊 満載
  合計10500屯

第二艦隊(大和、矢矧、駆逐艦8隻)は、昭和20年4月6日1520、 瀬戸内出撃し、豊後水道を通り鹿児島沖を西行し、 次で南下し沖縄沖に向かったのですが、4月6日21時、 豊後水道で敵潜水艦に発見され、その後敵機の追従を受け、 4月7日正午頃から敵飛行機の大攻撃を受け、部隊の殆どは壊滅致しました。

本作戦に於いて駆逐艦が4隻生還している。駆逐艦はタンクの容量が少なく、 航続距離も出ない艦であるが、無事生還して居る。 片道分の重油では生還は出来ない。往復燃料を搭載したことの何よりの証拠である。 これは正式に残っている文書は全然なく、戦後刊行物、 幾多の戦記書に『片道航海』『無情の海軍』との謗りを受けておりますが、 事実は以上の通りであります。之が証人たる今井参謀及び松岡参謀も今は世に居ない。 生き残れる唯一の証人として私が以上の事実を申し上げた次第であります。

元連合艦隊参謀海軍大佐小林儀作氏の手記より (2004.1.2更新)


戦艦大和歴代艦長
昭和16年9月5日着任 艤装委員長・宮里秀徳大佐
昭和16年11月1日着任 艦長・高柳儀八大佐
昭和17年12月17日着任 艦長・松田千秋大佐
昭和18年9月7日着任 艦長・大野竹二大佐
昭和19年1月25日着任 艦長・森下信衛大佐
昭和19年12月25日着任 艦長・有賀幸作大佐

戦艦大和の主要行動年表

開戦前
・昭和12年11月4日〜起工・呉海軍工廠
・昭和15年8月8日〜進水

昭和16年
・9月5日〜艤装委員長宮里秀徳大佐着任
・11月1日〜艦長高柳儀八大佐着任
・12月7日〜徳山湾沖において公試。主砲斉射9発
・12月8日〜公試終了により呉回航
・12月16日〜竣工。連合艦隊第一戦隊編入(呉鎮守府籍)

昭和17年
・2月12日〜連合艦隊旗艦となる。連合艦隊司令長官山本五十六
・3月23日〜出動訓練及び対空実験射撃主砲斉射9発
・3月30日〜出動訓練主砲斉射9発
・5月29日〜ミッドウェイ海戦参加のため柱島泊地出港
・6月5日〜ミッドウェイ海戦参加
・6月14日〜柱島泊地帰投
・8月5日〜2番艦「武蔵」竣工
・8月17日〜ソロモン方面作戦支援のため柱島泊地出港
・8月28日〜トラック島到着
・12月17日〜艦長松田千秋大佐着任

昭和18年
・2月11日〜連合艦隊旗艦を武蔵へ
・4月18日〜主砲射撃訓練主砲斉射9発
・5月8日〜トラック島出港
・5月13日〜柱島泊地到着
・5月21日〜呉海軍工廠入渠
・7月12日〜呉海軍工廠入渠
・8月16日〜呉出港、トラック島へ
・8月23日〜トラック島到着
・9月7日〜艦長大野竹二大佐着任
・10月17日〜トラック島出港、ブラウン環礁へ
・10月19日〜ブラウン環礁到着
・10月23日〜ブラウン環礁発、トラック島へ
・10月26日〜トラック島到着
・12月12日〜トラック島出港、横須賀へ
・12月17日〜横須賀到着
・12月20日〜横須賀出港、トラック島へ
・12月25日〜トラック島北方で米潜水艦「スケート」の雷撃を受け、右舷3番砲塔付近に魚雷1発が命中し、3番砲塔上部火薬庫に浸水。損害軽微によりトラック島へ。

昭和19年
・1月10日〜トラック島発
・1月16日〜呉到着
・1月25日〜艦長森下信衛大佐着任
・1月28日〜損害調査のため呉海軍工廠に入渠
・2月25日〜修理及び改装のため呉海軍工廠に入渠
・4月10日〜機銃増設等の改装工事完了
・4月21日〜呉出港、マニラへ
・4月26日〜マニラ到着
・4月28日〜マニラ発、リンガ泊地へ
・5月1日〜リンガ泊地到着
・5月11日〜リンガ泊地発、タウイタウイへ
・5月14日〜タウイタウイ到着
・6月2日〜主砲編弾射撃訓練練主砲斉射18発
・6月10日〜ビアク島砲撃参加のためタウイタウイ出撃
・6月12日〜バチャン到着
・6月13日〜バチャン出港、マリアナ沖海戦参加のため北上
・6月19日〜マリアナ沖海戦参加
・6月20日〜米機動部隊艦載機と交戦。3式通常弾射撃主砲斉射27発


・6月22日〜沖縄中城湾到着
・6月23日〜沖縄中城湾発、柱島経由で呉へ
・6月28日〜呉到着
・7月8日〜呉発。中城湾経由でリンガ泊地へ
・7月16日〜リンガ泊地到着
・10月18日〜リンガ泊地発、ブルネイへ
・10月20日〜ブルネイ到着
・10月22日〜レイテ沖海戦参加のためブルネイを出撃
・10月23日〜パラワン水道において、第2艦隊旗艦「愛宕」沈没により、第2艦隊旗艦となる。(司令長官:栗田健男中将)
・10月24日〜シブヤン海海戦。米艦載機の攻撃により爆弾1発命中。3式通常弾射撃主砲斉射31発武蔵沈没  
・10月25日〜サマール沖海戦。米護衛空母群に対して3式通常弾射撃24発、徹甲弾100発発射主砲斉射124発
・10月26日〜米艦載機の攻撃により爆弾1発命中。3式通常弾射撃14発、徹甲弾4発発射主砲斉射18発
・10月28日〜ブルネイに帰投
・11月15日〜第1戦隊解隊により第2艦隊編入
・11月16日〜ブルネイ発。米軍機の攻撃を受け、交戦。主砲斉射30発
・11月24日〜呉到着。修理のため呉海軍工廠に入渠
・11月25日〜艦長有賀幸作着任
・12月23日〜第2艦隊司令長官伊藤整一中将着任

昭和20年
・1月1日〜第2艦隊第1戦隊に編入
・2月10日〜第2艦隊第1航空戦隊編入
・3月19日〜呉付近において米艦載機と交戦
・4月5日〜沖縄特攻作戦命令を受け、徳山沖において燃料4,000トン搭載
・4月6日〜軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻とともに徳山沖を出撃。沖縄へ
・4月7日〜米艦載機386機の攻撃を受け、爆弾6発・魚雷10本が命中し、午後2時23分、 九州坊ノ岬沖90海里付近において沈没。伊藤長官、有賀艦長、乗組員2,498名が戦死主砲斉射27発
・8月15日〜終戦
・8月31日〜大和除籍


戦艦大和関係NEWS

2002年3月4日付きのニューヨーク・タイムズによると、 戦艦大和を撃沈した元海軍飛行士ハーバード・ホーク氏(86歳)の訃報を伝えた。 同氏は、1945年4月7日、米海軍航空母艦「ヨークタウン」乗り組みの戦闘機パイロット (飛行隊長)として、沖縄に出撃した日本海軍の戦艦「大和」攻撃に参加した。 「大和」舷側下部の装甲が薄い部分を魚雷で攻撃するよう僚機に指示し、 艦載機の猛攻で大被害を受けながらも浮かんでいた「大和」にとどめを刺した。


日本海軍は、時がたてば人々の記憶から消え去る。しかし戦艦大和は、長く日本民族の心の底に残るであろう。

大和ほど巨大で、強力な戦艦はそれまでなく、その後も出現しない。文字通り空前絶後のくろがねの城。

日本民族の血と汗と技術の結晶として、圧倒的な敵の矢面に立ち、全力をふるって戦い、ついに刀折れ矢尽きて倒れた。その最後の悲しさと雄々しさが 「サムライ」であり、日本民族の琴線にふれるのであろう・・・。(文春文庫「ドキュメント戦艦大和」より)

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。 日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、 真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。 今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」(『戦艦大和ノ最期』より著者吉田満)


「船の科学館」(東京お台場)という博物館に展示されている戦艦大和。 東宝映画「連合艦隊」の特撮シーンに使われたもので実物の20分の1の大きさ で作られています。約13メートルの大きさで、 模型の中では、大和ミュージアムの10分の1の模型の次に大きなものではないでしょうか。


戦艦大和艦歌(坂井保郎 詞)

遠すめらぎの 畏くも
肇めたまいし 大大和
永久に栄ゆる 日の本の
神武の正気 今ここに
こりてぞ成れる 浮きつ城

しこの御楯と 畏みて
たおれて止まぬ 尽忠の
大和ますらお 数二千
心を磨き わざを練り
断乎と守れ 太平洋

ああ悠久に 伝うべき
八紘為宇の 大理想
行くてをはばむ 敵あらば
無敵の巨砲 雷と吼え
撃ちてし止まん 大和砲