お墓って何だろう
            −良いお墓とはー

    
 お墓の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
現在の和型といわれるお墓の形は存外新しいものです。
古代、中世と権力者は別として、一般庶民は死後、野辺送りのあと自然石を置くか木の塔婆を
建てるのがせいぜいでした。
近世に入り、武士階級、上層庶民は石造塔婆といえる五平(石碑の横幅が前幅より薄い)の石碑
に種字(梵字)を刻し、その下に戒名を彫り極楽浄土を願うようになりました。
 明治に至るまで一般庶民には石造のお墓は縁の薄いものでした。
もっとも先祖供養・菩提のための石塔はたくさん建立されています。
宝筺印塔、五輪塔、板碑などです。
 現在の角柱墓(前幅と横幅が同寸法)が出現し始めたのは一般庶民も建墓が自由になった明治
時代以降のことです。
 それでも建墓できたのは一部の富裕層のみだったと思われます。
また、現在多く建っている「先祖代々の墓」、「○○家之墓」はあまりみかけません。
あくまで個人個人の墓として前面、側面に戒名が彫りこんであります。
 現在のようなお墓が建ち始めたのは第2次大戦後の事と思われます。
更に拍車をかけたのが、昭和40年代のお墓ブームでしょう。
高度成長期と軌を同じにしています。
 当時、国内産の石材が圧倒的に不足し、製品仕上がりを待って、取り合いになった程です。
そこで海外に石材の供給地を求めました。近くの韓国が最初の供給地となり、韓国の成長とともにコスト
が合わなくなり、現在は中国に墓石の供給の約80%を依存しています。
 お墓は古くからあり、ずっと今のような形ではなかった事を理解されたでしょうか。
お墓とはその時代時代の根本のところに関わりがあると思います。
 明治期以前の村落中心の生活、生態の中では死者の埋葬・葬送儀礼は(村八分の例外であるように)
きわめて重要最大の行事であり、村落全体で行う神聖な儀式でした。
近世の庶民に石のお墓がなかったのはその必要がなかったからで、個々人の葬送の祀りは村全体の行事であり
個人は村の中の一員としてのみ認識されていたからだといえます。
 明治期に入り、国家主義の時代となり天皇制の確立とともにそれを敷衍した家長制が成立してきました。
お墓もまた個人としてでなく、「家」を全面に押し出した形、「先祖代々之墓」「○○家之墓」が増えていったのは
自然でした。
 現在、家族崩壊とともに個の時代といわれますが、お墓もそのことを反映し「個」の強調された「個」の
記録(メモリアル)を強調したお墓が多く建てられるようになってきました。
 いわゆる「デザイン墓」といわれていますが、
このようなお墓を建てられる方は「個」だけでなく「趣味の形」のお墓を子孫に拝ますのでしょうか。
自身の先祖の供養もなく、営々と続いてきた血脈の存続も願わない、自身の命は自身のものとしか認識
していないおごりの墓といえます。
(脱線しますが、このような趣味の墓は八丈島の流人墓にもあります。流人は自身が好きだった「酒とっくり」
とか博打うちは「サイコロ」の形をした墓だそうです。孤島で一人さびしく死んでいった菩提を願ってくれる子孫
を持たない流人達の心のあわれさを表しています。私には今のデザイン墓がかぶってみえます。)
更にはお墓なんか不要として、海や山への散骨、樹木葬まで出現しています。
人が動物と違うのは「先祖」を祀ることだとおもいます。
「祀る」ことが「お墓」なのです。
伊勢神宮は天皇家が何千年祀ってきたからこそ存続してきたし、我々の日本も続いてきたといえます。
お伊勢さんが記念碑(メモリアル)だつたらとうの昔になくなっていたでしょう。
先人の言葉に「家は墓のとうりになり、墓は家のとうりになる」とありますが
「祀り」をわすれたお墓はいずれ絶家墓になるでしょう。
 私の考える「良い墓」とは自身の命をもらった先祖に感謝し、その菩提を弔い、この血脈を
子孫に伝えていく証しとなっているものです。


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