堀繁半世紀

琵琶湖大橋秘話
群青の湖面を見事に載断する白い線―琵琶湖の景観は琵琶大橋の竣工で一変した。景観が一変したばかりではなく、大橋は滋賀県を一つに結びつけ、交通、産業に新しい可能性を切り開いた。昭和三十六年十月、町議会議長に就任。守山町百年来の夢だった琵琶湖大橋の建設推進に、今井町長を授けて全力を傾ける。琵琶湖に橋をかけようとする考えは、昔からあった。それは「対岸にみえる町へ、このまままっすぐ歩いていけたら、どれくらい早いだろう」という素朴な願いだったろう。しかし現代の琵琶湖大橋は、守山町と対岸の堅田はもちろんのこと、滋賀県全体にはかり知れない利益を与えるものである。先祖からの夢―これを実現すべく私は必死だった。今井守山町長ととも、県庁へ日参し、まず、当時の桂木副知事を説得した。だが難関は、谷口知事である。守山町民の大部分が過ぎる知事選では谷口知事を支援せず、反対派の服部氏の二選を支持していたといういきさつがあり、架橋に難色を示す谷口知事であったのだ。しかし、桂木副知事、今井町長、私たち守山町議会議員の連日の昼夜をわかたない陳情によって、ついに谷口知事も折れる日が来た。琵琶湖大橋はこうして、三十六年に着工され、通路延長二五八六m、橋の延長一三五〇m、幅七m、十四億円の巨費を投じて昭和三十八年完成された。度量の大きな谷口知事にむくいるに、昭和三十八年の知事選では、守山町をあげて谷口知事の二選を支持したことは、もちろんであった。いずれにしても琵琶湖大橋は、守山町と堅田町の町民をはじめとする、地域住民全体の力が結集されて誘致、完成されたもので、これによって守山町は、市にも必敵する県下一の大町としての基礎を築いたといえよう。それが、昭和四十五年県下七番目の市に守山町が、昇格することにつながってゆくのである。そして、琵琶湖大橋のほとりにそそり立つ、現在県下一の高層ホテル、レイク・ビワ・ホテルは、観光地としての滋賀県の新しい可能性を暗示している。私の政治への志向は、一時、休養の時期をむかえる。守山町議会議長、滋賀県町村議会議長会会長を最後に、私は一切の公職からしりぞく。昭和三十六年の守山町の町議選には、再出馬を断念してテコでも動かなかった。なぜ、再出馬を断念したか。それにはいろいろわけがある。理由のひとつは、先に行われた町長選では今までのイキサツから今井前町長の三選を支持していたのが、コト志と違いこれに破れたことである。さらにもうひとつの理由は、先きの県議選に打って出ようとしたところ、守山町の前助役太田重義氏とかち合い、旧知のこの人を押しのけてまで出ようという気にはならなかったことである。結局、二人とも県議選出馬を断念するという結果になったが。ともかくそうしたことから「ままよ!!ここいらでちょっと一ぷく」という心境になったのである。人はその当時の私を、「やろうと思えばトコトンまでやり通すが、退くときたの転身ぶりもあざやか」と評している。が、人間、出所進退を明らかにすることは、最も大切なことで、私のこの態度などは、その意味でいえば、ごく当り前のことだろう。男が男であるゆえんは、「これだ」と思えば、ふまれようがけられようが初志を貫徹する闘志にあるといえる。闘志がない男は、姿かたちは男でも、実は男ではない。私が政治から一時、退いたのも、実は、この闘志の裏がえしだったのだ。そういうわけで、私は「ここいらで、しばらく商売に身を入れて、つぎの政治活動の資金でもかせいでおこうか」と、弟まかせにしていた家業に精を出すことにした。よくしたもので、家業に精を出すと、商売のカンがみるみるもどってくる。ふとん屋も繁盛し、スクラップの方も順調にのび、業界でも一方の雄と呼ばれるまでになった。この間、県金属組合の組合長もつとめ、日本シェークプルーフ株式会社の協力工場も持つに至った。現在では長男の隆彦が立派に家業を継いでいてくれるので、一安心というところである。そんな私に、最近、「遊ばせておくのはおしい、捲土重来を期して登壇を願うや切」という政界出馬の要請がある。私とても、まだまだ、この愛する郷土をよりいっそう明るく豊かにするために、し残したことは多い。新生守山市に奉仕するために、私に残された半生を捧げたい気持ちでいっぱいである。幸い自民党の公認も得られ、身内に政治への志向が、再び、ふっふっとたぎって来るのを感じている昨今である。