堀繁半世紀 ネバリと闘志で不可能を可能にする 昭和三十年は私の人生にとって、記念すべき年である。昭和三十年に守山町はひとまわりスケールをひろげた。野洲郡守山町と小津村、玉津村、河西村、速野村の一町四村が合併し、新生守山町が誕生したのである。町村合併は、地方自治体の財政力を強化し、行政能率を高めるために滋賀県全域にわたって強力に推進されたことだが、守山町もこの合併によって広域化した。町村合併後初の町議選挙は、その成り行きが町民の注目を集めたが、私はこの選挙に初名乗りをあげ当選の栄冠を手にすることができた。このとき、三十五歳。率直に告白すれば、これが政治への病みつきになった。「政治こそ真に男の仕事」―とばかり、商売の方は弟にまかせ、この道一筋。人は生きる証しとして、一生のうちなにかに燃えるというが、私の場合は、これが政治であったわけなのだろう。ある人が私を評して、「商売をやらせば硬軟両派を使い分け、政治をやらせればまたたく間にのし上げてくる」といっている。他人からは「のし上げてくる」とみえるのだろうが、私としては、政治という水がこの身に合っただけだと思っている。昭和三十年といえば、この年十一月に保守合同が成り、自由民主党がはじめて結成された年である。このように政界をはじめ、社会的にも経済的にも戦後の混乱のあとに秩序が生まれた年が、昭和三十年であるが、このとき三十五年ごろからはじまる経済の高度成長が用意されたとみることもできよう。昭和三十年代のはじめは滋賀県は、京阪神と中京の両工業地域にはさまれて、地域開発が急がれていた。湖畔の町、守山町もその例にもれない。琵琶湖の南東部は、見わたすかぎりの水田地帯。とくに野洲川がつくった大デルタ地帯には美田がつらなり、近江平野の穀倉地帯。江州米の主産地として人々は豊かな暮らしを築いてきた。その中心が守山町なのだが、しかし時代は、もう第一次産業にだけ固執していることを許さなくなっていた。滋賀県自体、明日への発展策を、農業県から工業県へ脱皮することに求めていた。とくに名神高速、東海道線、国道八号(中山道)をひかえる守山町は、昔も今も交通の要地。しかも地形は平坦。工業用水も豊富だとなれば工場進出には条件はそろいすぎるほどそろっている。守山町が農業依存から農工総合発展へカジを切りかえたのも当然のことだろう。町議時代の私は、町政のビジョンに従い、多数の工場の誘致に成功し、地域の産業構造を近代化に向かわしめたのであった。一方、議員のかたわら消防団長などという、すこしも気の抜けない仕事もおおせつかった。それが地域住民の意志とあれば、やむをえない。住民の生命と財産を守ることも、私に課せられた義務なのだ、と消防団長に就任したのだが、あまりの忙しさに家業をかえりみる余裕もなく、そのため個人生活は田畑を売りつくし、「井戸べい政治家」を絵に描いたようなことになってしまった。自分の好きな道を突進する私はよいとしても、気の毒なのは、やりくりの苦労がたえない妻はじめ家族の者である。グチひとつこぼさずに、よくついて来てくれる、と内心手を合わせたことも幾度かあった。昭和三十五年の自民党県連の党大会は、私の政治生活にとって、ひとつのモニュメントである。ある新聞は、こう描写している。「衆院選をひかえて宇野宗佑氏の公認問題にからみ堀井繁造氏は、わずか数人の同志とともに六百人を向うにまわして渡り合い、衆寡敵せず宇野氏は無所属で出馬、あの有名な”党の公認より県民の公認”というスローガンをかかげ、公認候補をしりぞけ見事当選させたという。堀井氏は宇野代議士の今日を築いた影の功労者の一人である。」この事件で私の得たものはなにか。それは、なにをやるにも押しと突きとネバリの闘魂をもってあたれば、不可能なことはない、ということだ。以来、これは私のバックボーンとなっている。
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