―――diverge

 ちらちらと舞う白い結晶。
 黒いキャンパスから舞い降りる、雪。
 それも、とんでもなく季節外れの。

 俺は、空を見上げていた。
 
 雪が夜の世界を彩る。
 何処までも広がる、幻想の宇宙。

 風の音が聞こえる。
 泣いているかのようなその音は、俺の耳元を通り過ぎ、また何処か遠くへ。
 
 足元を見る。眼下にはコンクリートの地面が広がっていた。
 この建物は外から見るよりもずっと高かったようだ。
 屋上のフェンスの向こう側にこうして立ってみると、それがはっきりと判る。
 ここから落ちれば、間違いなく―――死ねる。
 
 大丈夫、何も心配することはない。
 
 隣―――そう、隣には少女が立っている。
 その顔ははっきりと判らないけれど、泣いている様にも、微笑っているようにも見えた。
 微笑みをたたえたその唇がゆっくりと動く。
  
「ピピピピピピ」

 ―――え?
 
「ピピピピピピピピピピピ」

 女神のような微笑み。その唇が紡ぎ出す言葉。
 それは安らぎの言葉。 
 ……だった筈で。

「ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ」


 漸く、俺はそれが夢であることを認識した。

 
 ………
 ……
 …

 カチッ

 雛の鳴き声みたいな目覚ましの音を止める。
 重たい頭を持ち上げて、アラーム付の時計を確認すると、セットした時間より五分ばかり早かった。
 微妙に損をした気分になる。
 そんな些細な不満を布団にぶつけて跳ね飛ばす。
 五分、か。

「折角だから、今日はゆっくり飯でも食うかね」

 自分を納得させるように一人呟いた。
 損して始まる朝よりも、得をして始まる朝のほうが良いに決まってる。
 飯をゆっくり食える、即ち胃に負担をかけることなく、消化もいい。だから健康的。
 つまり老後も元気。年をとっても元気なお爺ちゃんとして余生を過ごす。
 輝かしい未来が待っている。

「オーケー、問題は無い」

 そう結論が出たところで着替えをはじめる。
 パジャマは着ていないので、制服を着ればそれだけで着替えは完了する。
 勿論、その日の気温に合わせて中に着る服を調整したりするが。

「ふぁあああ…」

 まだ覚醒していない頭を動かそうと、何か思考のネタを探す。
 目覚めたばかりで空っぽの頭に残っている事柄は、たった一つしか存在しなかった。

 ―――夢を、見た。

 雪の降る夢だった。
 冷たい風が吹いていた。
 俺は何処か高い建物の上に立っていた。
 隣に誰かが居た。
 そんな夢を見た

 ―――それだけだ。
 残っているのはその事実だけ。
 それ以上は何も無い。
 いちいち夢を見るごとに、その内容から何かを分析していたら、昼寝もできやしない。
 だから―――

 グゥ、と腹の音が鳴り、思考はそこで中断した。

 「腹減ったな…」
 
 大分古くなった階段のギシギシと軋む音を聞きながら、俺は頬にいつもよりも少し冷たい風を感じていた。
 さっき見た夢の中で感じたような風だった。
 連鎖的に、少女のあの泣き笑いのような表情が頭をかすめた。
 
―――ピピピピピピピピ

 雛の鳴き声にかき消された、その言葉の内容が少しだけ気になった。
 本当に、少しだけ。

 ………
 ……
 …

「おはよう弘耶」
「ん?」
「おはようってば!」
 
 ダイニングから雑音が聞こえる。

「…やべ、テレビ点けっぱなしになってた」

 昨日はよっぽど疲れていたのか、テレビを消す余裕も無かったらしい。 
 
「もしもーし、弘耶さーん?」

 テレビはなおも俺に話かける。
 
朝から軽くボケてみたかったが、向こうの表情が心底不快を表していることに気付いた。

「すまん、TVと間違えてみるというボケだ」

 あっさり謝った。
 朝から生傷を作るのは避けたかったからである。 
 不幸にもこのダイニングには、殺傷能力の高い品が十分に揃えられている。
 命は惜しい。
 
「長い付き合いだし、もうそんなボケ聞き飽きたわよ…」
「そうだな、母さん」

 殺気。 

「寝ぼけてるみたいだし、冷水ぶっかけていいかな?」
「藤堂美月様、俺の幼馴染。美人でお美しくて綺麗な美女でございます。おっと、しかもお若い!」

 …語彙が貧困だな、俺は。

「よぉし、目は覚めているみたいね」

 危機は去ったようだ。

「起きて早々、そう云うボケはやめてね」
「朝の体操代わりじゃないか」
「はぁ…これから先が思いやられるわ…」
「ん、これから先?」

 そう云うとまた美月の表情が不快を示す。

「もしかして、今日から新学年って事も忘れてた?」
「忘れてた」
「……」
 
 無言で棚からコップを取りだし、水を汲むべくキッチンへ歩き出す美月を引き止める。

「だぁぁぁぁぁ!! 忘れてない忘れてない! ていうか今、思い出した! 急ぐぞ、俺は急ぐ!」
「じゃあ、顔洗ってちゃんと目を覚ます! そしてさっさと食事!」
「はい…」

 のそのそと洗面所へ向かう背中に檄が飛ぶ。

「ああ遅い! 早くしないと、時間なくなるわよ!」
「うむ。新学年早々の遅刻はマズイな」
「そうよ、クラス分けとか確認しなきゃいけないんだから、急いで!」
「御意」 

 洗面所で蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗うと、意識が覚醒していくのがわかった。
 鏡を見ながら軽く寝癖を直し、ダイニングへ戻る。
 さっきまでは何も無かったテーブルの上に鮮やかな料理が並んでいた。

「用意完了。んじゃ、食べましょっか」
「おう、いつも悪いな」
「ん…いや、まぁ別に今更だよ」

 気がつけば父親と母親とも居ない生活。いつからそうだったのかは覚えていない。
 物心ついた時から、一人でこの家で暮らしていた。
 母親は誰で、父親は何処へ行ったのか。
 それを示すようなものは紙切れ一つないし、別にそれでいいと思っている。
 温もりを知らないという事は、それが無い時の寂しさをも知らなくて云いという事だ。
 だから、別に親がどうだとか、そんなのはどうでもいい。

「お前には感謝してる。なんだ、まぁ…ありがとな」
「ん? なんか妙に愁傷だね」
「たまには礼くらい云ってもバチは当たらないだろ」

 これもいつからだったか忘れたが―――いつの間にか生活の中に組み込まれていたが。
 幼馴染・美月がこうやって合鍵を使って家に上がり、朝食を作っていてくれる。
 時々(機嫌のいい時がその主だ)は夕食さえも作りに来てくれる時もあって、本当にありがたい。
 独りに慣れたとはいえ、さすがに自分で3食フルに作る気力とレパートリーはないからだ。

「そうね、たまには感謝されてもバチは当たらないよね」
「ああ」
「でも、好きでやってるんだから気にする必要はないよ」

 もちろん料理をするのがね、と付け加えて自分の食器を片付け始める。
 俺もそれに従って食器を運んだ。

「そういや、料理の腕あがってるよな」
「そりゃ毎日作りつづけてるからね、主婦なみよ」
「全くだ。人んちで新聞広告を血走った眼で見つめる様は、まさにイイ年したおばさん…がぁっ!?」

 頭に鈍い痛み。痛みの方向を振りかえると、サラダの食器を振り下ろした姿勢の美月が居た。
 フルスイングだ。
 …ものすごく痛い。
 手加減をしないところがこいつの怖いところなんだ…
 こうやって殴られた回数は数え切れないし、何回か殺されかけたことすらあった気がする。

 それでも感謝はしているのだ…一応。
 
 食器を全部運び終わったところで、登校に間に合う範囲内の時間ギリギリになった。
 そろそろ出発しないとまずい。
 キッチンで悠々と洗い物に取り組もうとしている美月に声をかけた。

「おい、洗うのは俺が後でやっておくから、そろそろ行こうぜ」
「え、もうそんな時間?じゃゴメンね、よろしく」
「おう」

 二人そろって狭いキッチンから這い出し、食卓に投げ出してあったカバンを掴み上げて、一直線に玄関へと流れ出す。

「おい、忘れ物ないな?」
「私はないわよ。弘耶は?」
「あっても知らん」
「はぁ…」
「忘れ物は忘れてこそ忘れ物足りえるのだ。違うか?」
「はいはい、行くよ」

 2、3度ノブを回して施錠の確認をしてから、先に歩き出した美月を追いかけた。

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「意外に余裕だったな」
「うん、全然間に合ったね」
 遅れ気味だと思って早足で歩いて来たのだが、朝の予鈴がなるまでには随分余裕があった。
美月に洗い物くらいしてもらっておいてもよかったかもしれない。

 無意味にたむろする人波をかき分け、正面玄関に掲示されているクラス分けの表を確認すると、下駄箱脇の人の少ないスペースに移動する。
 後ろを確認すると美月もしっかりついて来ていた。

「えーと、弘耶は2−Cだったっけ?」
「ああ、美月は2−Aだったな」

 別にお互い残念そうな顔もせずに、自分のクラスには誰がいるとか、担任は誰だとか確認しあう。
 まぁ毎日顔を合わせてるワケだし、さすがにクラスぐらいは分かれた方が気が楽だと思っている。

 下駄箱で靴を履き替えて、教室のある2階まで途中すれ違う友人たちに挨拶を交わしながらゆっくり歩く。
 やがて2−A、美月の教室の前まできたところで立ち止まる。

「んじゃね。」
「おう」
「あ、弘耶。今日はあたし別に用事もないけど、夕飯どうす…んぐっ!?」
 
 云いかけた口を慌てて塞いだ。

「馬鹿、たまにとはいえ、女の子家に上げて飯作ってもらってるだなんて、誰かに知られたら恥ずかしいって、いつも云ってるだろ?」
「んん〜? 人に作ってもらっておいて、よくそういうこと云えるわねぇ?」
「ああ、だから感謝してるから!」
「ふんだ! もう作ってやらないから!」
「それは困るっ!」
「でも料理くらい出来るでしょ?」
「いや、前にお前が風邪で休んでた時は、氷に醤油かけて食ってた」
「え…」
「いや、コショウだったかな?」
「こ、コショウって…料理は?」
「作れるには作れるが、面倒だからな」

 唖然としている美月に俺は続ける。

「おい、なに変な顔をしているんだ。氷も美味いぞ?調味料をかける事で、どんな味にでもなる。
バリエーションなら天下一品なんだ。ケチャップ、マヨネーズ、マーガリンにサラダ油、何でも来いだぞ。
「ごめん、気持ち悪くなるからもうやめて」
「ちなみに一番不味かったのはソースでな」
「やめて! 夕食はちゃんと作るからっ!」
「残念だ」

 勝った。
 ありがたく今日の夕飯はいただこう。
 ちなみに一番美味かったのは砂糖。それなりに救い様のある味だった。
 そして一番不味かったソースだが、あの濃い味が氷によって薄まってゆく最悪のハーモニーは今でも覚えている。

「どうしたの?顔色悪いよ?」
「なんでもない。もうチャイムが鳴る。さらばだ」
「はいはい、じゃね」

 身を翻して自分の教室へと向かった。
 長話しすぎたか。時計の針はもう鐘を鳴らす一歩手前だった。

 これから一年間世話になると思しき教室に入り、黒板に書かれた注意書きを見る。
 
 ―――先に来たものから適当な席につくべし―――
 
 …座席は特に決まっていないらしい。
 見ると、それぞれが思い思いの席に陣取って会話を展開している。
 以前から仲の良い者同士で既にグループを形成している人、仲間とクラスが別れたのか座席でボーっとしている人、
 新しい友人を探している人と様々だったが、俺は睡眠優先の座席を目指した。
 睡眠優先―――即ち窓際で、且つ後部の座席を陣取ろうと試みる。
 友人はそこの席から近いヤツを見繕えばいい。
 そう思い、その席を確保すべく向かった俺の計画は、早くも崩れ去る事となった。

 「ちぇ、先客かよ」

 窓際最後尾。通称”特等席”はもう既にリザーブ済みだった。
 女の子…だな。揃えられた前髪、割と上品な顔立ち、肩を悠に越えるくらいの割と長めの黒髪…
 人形細工のように整ったその外見は冷たそうな印象を与えた。
 俺の呟きが聞こえたのか、ゆっくりとこちらを向く。

「あ…」
「え、な、なんだ?」
「いえ…」

 むぅ、なんか今驚いてなかったか。
 もしかして俺は有名人なのか?なんかもう悪評が広まっているのか!?
 そんな内心の不安を押し殺しつつ、とりあえず特等席の隣の席に鞄を置き、ナワバリを誇示する。

「あれ…そういえば」

 普通、後部座席というのは人気が集まるものである。
 どうしてチャイムが鳴る直前のこの時間に、この席だけまだ誰も主がいないのだろうか。

 少なくとも去年は後部座席を巡って血で血を洗う戦いが繰り広げられていたと思う。
 確かあれは柴崎だったか、席替えの際に窓から落ちて病院送りになった。
 それに谷山は席替え中、飛んできた机に頭を割られて36針ほど縫った筈だ。

 そんな後部座席がこんなギリギリの時間まで空いているのはおかしい。
 現に最後尾の列はここ意外全部埋まっているし、
 最後尾でなくとも、他の後部席はほとんど持ち主がいる。
 …何故ここだけが空いているんだ。

「まさか」
「?」

 この隣の席に座っている女の子が、何か1癖2癖抱えているんじゃあるまいな。
 授業中に屁を連発するとか、鼻から食物を摂取するとか、フナの発酵したものが好物で鞄に常備してるとか…そういう類なのか?

「あの」
「な、なんだっ!?」

 思わず飛びのいてしまった。当然彼女は怪訝な顔をする。
 しまった。事を荒立てるとまずい。
 下手に彼女を怒らせると、宇宙船に連れ込まれて改造される(ような気がする)
 俺は、冷静に彼女を刺激しないように事の収拾に入った。

「いや、なんでもないんだが」
「そうですか」
「ほ、本当に何でもないぞ」
「席に着かないんですか?」
「いや、まぁ、な。ちょっと待ってくれ」
「チャイム鳴りますよ」

 予鈴はもう既に鳴っている。
 もうホームルーム開始までもそんなに時間は残されていないはずだ。
 とりあえず、改造されないように適当な理由を考える。

「な、なんか臭くないか?」
「え?」

 しまった!!
 云った後で気が付いた。
 彼女はフナの発酵したもの(世間一般的に鮒鮨と呼ばれている)を鞄に常備している(はずだ)
 だから、そのことに言及してはいけなかったのだ。
 後悔してももう遅い。彼女は露骨に眉をしかめてこちらを睨み付ける。

「気づいてなかったんですか?」
「ゴメン! 気付いてないから! 何も知らないから! 改造は勘弁してくれ!!」
「改造って…何を云ってるんですか。机の中、掃除した方がいいですよ」

 え…?
 依然怪訝な顔をしたままの彼女が、つかつかとこちらに歩み寄ってきて机を掴んだかと思うと、それを少し傾けて俺に中を示した。

「年代物です、棄ててきた方がいいかと思いますが」

 と、彼女が紹介してくれたのは机の中に巣食った菌類達だった。
 例えるならば、地獄絵図。
 この机の先代のキープ品だろう。
 確かにかなりの年代モノのようで、よくよく見れば焼きソバやパンなど不気味な斑点は浮かんでいるし、パックの牛乳は完全に成分が分離している。
  
 それを自らの眼で見止めた途端、彼奴らが発する強烈な臭いも認識できた。
 なるほど、普通の人間はこんな机に座りたいとは思わない。

「鈍感ですか?」
「そうかもしれない」

 人気座席をゲットできた事の代償はなかなかに重かったようだ。
  俺は始業のチャイムが鳴り響く中、臭い机を引きずりながら新しいものと取り替えるべく、すごすごと用務員室へ向かった。

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キーンコーンカーンコーン

「ぐぉおお…」

 机を取り替え終わった頃には初ホームルームは終了してしまっていた。
 焦った俺は、その内容を聞き出すべく、例の宇宙人の…いや、宇宙人はもういいか。
 とにかく、隣の席の少女に声をかけた。

「ええ、特に目立った連絡事項みたいなものはありませんでしたよ」
「そうか、よかった」
「これから始業式です。学年が上がったから整列する場所も変わったので注意が必要だそうですが」
「…」

 彼女はそう云って俺から目を逸らし、フッと笑いながら云った。 
 
「まぁ、特に重要でもないですね」 

 いや、超重要だと思う。

「…そういうのを聞いてたんだが」
「そうだったんですか」

 教室の生徒がわらわらと移動し始めているのはそのせいだったらしい。
 とりあえず体育館へ行った方がいいだろう。

「じゃ、さっさと移動しようぜ、えぇと」

 彼女を呼ぼうとして気付く。そういえばまだ名前を聞いていなかった。
 俺が尋ねるよりも先に彼女が口を開いた

「水森です。水森綾」
「そうか、俺は」
「神條弘耶さん。さっきの自己紹介の時にいなかったから有名ですよ」

 なるほど。ホームルームの時に自己紹介の場が設けられていたらしい。
 居なかったにせよ、いや居なかったからこそ、そこで俺の痴態も多分クローズアップされたんだろう。
 俺の第一印象は「カビ臭い男」か……
 少し落ち込みかけたが、会話が中断されていることを思い出し、再び水森に尋ねた。

「んで移動だ、体育館での並び方を教えてくれ」
「秘密にしておきます」
「はぁ?」
「秘密にしておきますよ」

 フッと笑いつつ、なかなか困った事を云う水森。
 ひょっとしてそれは意地悪なのか?
 俺、早くもいじめられてる?

「いや、それは困る。下級生の列にでも並んだらマズイだろう」
「目立てますよ」
「嫌だ」
「一躍ヒーローです」
「嫌だ」

 というか、どちらかというとヒーローよりは一話限定のザコ怪獣に近い目立ち方だと思う。

「思ってたより聞き分けないんですね」
「……思っていたより性格悪いんですね」

 彼女の口調を真似して云い返してみた。
 すると、不機嫌そうに口を尖らせて反論してきた。

「云っておきますが、冗談ですよ」
「随分と強情な冗談だったな」
「ツッコミに屈したら負けですから」
「そうなのか」
「……行きましょうか」

 時計を見た。あまり無駄話をしている余裕はない。

「そうだな、行くか」

---------------------

 俺達が体育館に着いた頃には、もうほとんど整列は済んでいるようだった。
 やや耳障りな喧騒と、むせ返るような空気、熱気といってもいいかもしれない。
 人が集まる場所独特の不快感を押さえつつ、その空間に身を投じる。
 水森に先導してもらって目立たないように列の後方に滑り込んだ。
 特に見咎められてはいない模様だったので、そう大した遅刻ではないのだろう。
 辺りの様子を伺いつつほどなく始業式が始まった。

 …退屈だ。
 壇上では、校長が語尾の音を上げる特徴的な話し方で延々と春先の心構えについて語っている。
 面白くもなんともない。
 まぁ、校長の数少ない活躍の場だから張り切る気持ちもわからないでもないんだが。
 しかしもっと盛り上がる式のプログラムはないものか。

 ―――例えば、始業式の代わりに生物室にて鮒の解剖を行うとか。
 
 鮮血飛び交う生物室、響き渡るは鮒の悲鳴(鮒が悲鳴をあげるのかは知らない)
 そして、解剖された鮒は暗黒神ゴンデラスに生贄として捧げられ、生徒一同は呪詛を唱えながら今年一年の学力向上を暗黒神に祈願するのだ。

―――アンジャバダ・シャバダバダ・セイセキ・アガーレ・カンニングー
―――カンニング・カンニングー・カエダマ・ジュケーン

 …嫌すぎる。

 ―――少しバイオレンスにしてみてはどうだろうか。
 
 校長の体内に埋め込まれたメダル。
 それを入手した一名のみに新学期を始める権利が与えられる。
 無論、メダルは一つしかないので生徒は互いに妨害しあいながら、血で血を洗うレースに…
 
―――ミッフィー…メダルを渡すんだ

―――やめて…! 恋人のあなたと戦いたくない!

―――やめてくれ! そんな事を云われると…決心が鈍るじゃないか…

―――カイル…

 …誰だお前ら。
 
 …
 ……
 ………
 校長の退屈な話は続き、そして俺の妄想もまた続く。

 ―――ハゲ頭の校長。

 ボンデージを着こんだ肢体はひどく妖艶で、見るもの全てを青ざめさせる。
 SM嬢も裸足で逃げ出すその衣装から、はみ出している脂ぎったその腹は、近寄るだけで吐き気をもよおしそうだ。
 
―――うふーン、ワシの靴を己の舌で綺麗にしたものだけがこの学校に残ってよいのじゃー

―――ああ〜、校長先生〜

―――うふーん、ワシは校長ではない。女王様とお呼びなさァイ

―――女王様〜

 …吐き気がこみ上げてきたので、慌てて妄想を中止した。
 しかし、無常にもハゲ頭の校長は壇上にて訳の判らない話を延々と続ける。
 …当分終わりそうにない。
 妄想にも飽きたので思考を中断し、校長の演説を子守唄に(非常に不本意ではあるが)しばし眠ることにした。

………
……


「次は、校長の新曲初披露のライブです。生徒職員、起立」
「な、何ィッ!?」

 耳をすましてみたが、激しいギターのイントロも甲高いシャウトも聞こえてはこない。
 代わりに美月の顔がすぐ目の前に在った。
 ・・・なんでコイツが居るんだ。

「ん、なんだ」
「始業式、終わってるよ」
「ここはC組の列だぞ。さっさと自分の列に」
「みんな退場しかけてるのに寝てるから起こしてあげたのよ」
「んぁ…」

 寝てたらしい。とするとさっきの偽アナウンスは美月だったのか。
 ふと周りを見廻すと、ぞろぞろと人の波が動いている。…危うく体育館に一人取り残されるところだったな。
 とりあえず美月に礼を云い、自分の組の列に合流した。

 始業式の後はホームルームのみで下校となった。
 しかしそれも特に目立った注意事項もなく、
 新しい学年においての心構えとか、授業の時間割発表だとかその程度のことを担任がざっと喋り終えたところで、
 チャイムと共にあっさり終わりを告げた。

「じゃあな」
「はい、さようなら」

 水森をはじめクラスの友人たちに一方的な挨拶をしてから教室を出る。
 
 うむ、始業式の日は例外なく午前までに終わるので非常にありがたいな。
 午後からの行動に想いを馳せる。
 ………
 ……
 …
 ―――やることないぞ、俺。
 意外な盲点だった。


---------------------


 午後の暇な時間を少しでも先送りするように、
 大通りから外れた並木道を独り、当てもなく歩いていた。
 違うな。当ても無くじゃない。
 俺の意識はある場所を目指していた。

 視界に過る鮮やかな色彩。
 周りをゆっくり見渡すと、あたりはすっかり春の様相を呈していた。 
 香る花、木々の色。


 並木道から少し横にそれる。
 入り組んだ木々が天然の道になっていて、迷路のようなその木陰を進んでいくうちに
 子供の頃に憧れた森の探検みたいで、どこか気分が昂揚する。
 そんな自分の幼さに苦笑しながらしばしの冒険を楽しみながら歩いた。
 ……
 視界が開けた。

 そこは俺の好きな場所。
 公園の跡地と云えばいいんだろうか。古びた木のベンチに錆びたブランコ。
 いつからか人々に忘れられ、そのまま時を止めたこの場所。
 そんな印象を受けるこの場所。いつからかは判らないけど、
 何時の間にかこの場所が俺の頭の中にはあって、そしてその時から好きだった。
 ここに居ると、自分を取り巻く時も止まるような気がして、忙しすぎる日々の流れからこの間だけ逸脱できるような気がして。
 だから、この場所が好きだった。

 暖かい春先の風が頬をなでる。くすぐったいような、清々しいような感覚。
 もう冬の面影はどこにもない。
 絶え間なく続くような寒さの中で、必死に生きる生命にだけ祝福を与える冬。
 そんな性格が俺は少し好きで。だから少しだけ寂しかった。

 ここでは周りを気にする必要も無い。
 少しでもこの場所と同化していたくて、なんとなくその場で仰向けに倒れこんでみた。

どごっ

「ぐぁっ!?」
 
 痛い。
 晩秋には色を変えた落ち葉が、絨毯のように敷き詰められていて柔らかなベッドになる。
 だが今の季節は、もうただの土の床だ。硬い。

 それでも春の陽光を吸い込んだ土は暖かく、そして優しかった。
 眼を瞑れば、そのまま深い眠りの底に落ち込んでしまいそうで。
 そしてきわめて魅力的なその誘惑に抗える術も無く、
 素直に瞼を下ろした。

 閉じかけた瞳に誰かが映っていたような気がした。


 ………
 ……
 …

 空には星が瞬いていた。

「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 超寝ていた。
 時刻は七時を過ぎている。多分美月の怒りゲージは全開だろう。
 今帰ったら確実に殺されるという恐怖と、今帰らねばもっと恐ろしいことになるという、二重の恐怖に支配されながらも、俺は家へ向けて走っていた。

 そして

「何してたの…?」

「健康的に森林浴しながらの睡眠、簡略して云えばゴロ寝だ」
「死にたい?」
「すみません」

 ヤバイ、殺し文句が直球だ。
 …相当怒っている。下手な冗談は即、死に繋がるだろう。

「何、あたしはお手伝いさんなの? 合鍵使って家に入って、遅く帰宅してくる旦那さんを出迎えて戸締り確認して、それから帰宅?はぁ…泣きたくなるわ!」

 健気な台詞の割には、ものすごく恐ろしい―――例えるならば鬼のような形相なのだが。
 そうつまらないことを考えてる間にも美月の説教は続いており、俺はただひたすら謝罪で返す。

「いや、だから、スマン!」
「アンタ、いつもそれね」
「いやいやいやいや、悪かった! これからある程度のことは自分でやるよ。あまりお前に迷惑はかけない。苦痛だと思ったら帰っていいから」
「ん、まぁ、苦痛ではないけど」
「いや、感謝はしてるんだ」
「……」
「………?」

 沈黙が怖い。
 考えるような仕草をしながらも、次の瞬間には包丁片手に襲ってくるんじゃないか。
 逃げ出したくなる恐怖を抑えるのに必死だった。
 そして、再び美月が口を開いた時、意外な言葉が聞こえてきた。

「朝云ってくれたよね、感謝してるって」
「んぁ、ああ」
「それが嬉しかったから許してあげるよ」
「そ、そうなのか」
「素の一言がね、嬉しかった」
「いや、ありがとう。感謝する」
「はいはい、分かったからご飯ね」
「おう!」

 その日の夕食は、ソースのかかった茶碗山盛りの氷だった。

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