紅い夢。
 目の前には血のような――血そのものだったかもしれない。ただ唯一の紅。
 
 私は、悪魔。
 幾重にも折り重なるヒトの亡骸。
 その頂上に私はいる。
 声が聞こえる。
 地の底から聞こえる。絶望と憎悪の声。

−ああ、罪深きわが身よ。
 血を啜り、肉を食らい。自らの欲望の為に刻みつづける悪魔よ。
 その呪われし身体を、死臭漂う身体をもちいて、その身を躍らせて−

 ―――を――せ
 
 ―――を殺せ。

 ――――――殺せッ――――――

 血の赤。
 赤と白。
 黒と白。
 まだ地の底から声はまだ響く。
 何十と、何百と。聞き取れる言葉は唯ひとつ。

―――殺せッ―――

 景色が変わる。 

 黒い天使と白い天使。
 白かった天使。
 赤い天使と潰れたトマト。

 少女。赤の少女。
 人殺し。
 罪人。
 彼女の餌は、ヒトの屍骸。

 ………
 ……
 …


「うぇ…」
 
 ……なんで俺はこんな夢を見ますか?
 
 最近ホラー映画でも見たか?
 爽やかな目覚めを奨励するとは思えぬ夢。
 意味不明ではあったが昨日の夢の方がまだ後味は良かったぞ…
 くそぅ、折角の夢なんだから、良い夢を見せてくれてもいいじゃないか。
 夢の内容はいちいち気にしないといっても、やっぱり後味が良いか悪いかは朝の気分に関わる。
 今日の夜はエロ本を30冊ほど読みふけってから寝るか。
 そうすればエロエロでアッハーンないい夢が見られるかもしれない。
 むっひょっひょ
 そんな青少年らしい考えを浮かべながら、まるで昨日のリプレイのように同じ動作で着替えを済ませ、階下へ。
 やはり昨日より少し冷たい風だった。
 ―――今日はあの少女の顔は浮かんでこなかったけれども。

「おはよう」
「おう、おはよう」

 ダイニングには美月の姿。
 昨日あれほど怒っていたのに、何事も無かったかのように朝食を並べている。

「どうやら気は済んだらしいな」
「美味しかったでしょ、昨日の夕食」
「どこがだ…」

 思い出してまた吐きそうになった。
 昨日の夜は悪夢だったとしか云いようがない。
 苦しむ俺を目の前にして、とても楽しそうだった美月の顔だけが記憶に残っている。

「最後の方、感動で泣いてたじゃない」
「食い終わりかける頃に、お前が『お代わり沢山あるよー』とか云いながら、また たんまりと茶碗によそってくれたからな」
「気が利いてるでしょ」
「まったくだ」

 ご機嫌な美月を残し、洗面所で洗顔と身だしなみを整える。
 …氷にソースって身体に悪いんじゃないだろうか。
 心なしか疲労しているように見える顔に少し不安を覚えた。

「ちょっと昨日今日と冷えるね」
「ここ数日暖かい日が続いてたのにな」
「暖かいとすぐ弘耶は寝るから、このくらいが丁度いいわよ」
「否定はしない」

 朝食を摂りながら、何気ない会話を交わす。
 『暖かいとすぐ寝るから』と云うのは昨日のことを指した皮肉なのかもしれないが、蒸し返すこともないのであえて触れずにおく。

「洗い物はどうする?」
「大丈夫だ、俺がやっておく」
「うん、わかった」

キッチンに食器だけ運んで水に浸けておく。
それが終わると二手に分かれて一応の戸締り確認。
カバンを掴んで玄関を出ると、外で先に美月が待っていた。

「うし、行くぞ」
「いちいち気合入れなくてもいいけど」
「ウリャアア! 行くぞぉ!」
「…恥ずかしくない?」
「恥ずかしいな」

 周りをよく見るとご近所の皆様の失笑を買っている。
 …少しはしゃぎ過ぎたか。
 俺は取り繕ろうように愛想笑いを浮かべながら、他人のように早足で逃げ去る美月を追いかけた。

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 俺が追いつきそうになると、変に張り合ってスピードを上げる美月と、競争紛いのことをしているうちに学校の正門 前に着いてしまった。

「しまった。チャイムが鳴るまでだいぶ時間があるぞ…」
「誰のせいよ」
「誰のせいだ」

 不毛だった。
 しかもお互い息を切らしてゼェゼェ云っているから更に格好悪い。
 少しの時間、沈黙して呼吸を整える。

「で、どうするか」
「あたしは部室の整理でもしてこようかと」
「んぁ?」
「いや、もうすぐ新入部員も入ってくることだしさ。片付けとかないと」
「なるほど」

 そういえばそんな時期か。
 確かに散らかした部室を新入部員に晒すわけにはいかないだろう。
 俺は部室棟へ向かう美月を見送りながら、彼女が何の部活だったか覚えていないことに気がついた。
 …まぁどうでもいいんだが。

 美月が見えなくなった後、一人正門前で誰か友人が来るのでも待つことにした。

 風が冷たい。
 今、この季節は春。
 しかし、この寒さは冬のそれと云ってもいい。
 もう数日続けば、TVやなんかで異常気象とかワイワイやり始めるかな。
 空を見ながら呆けていると、目の前に誰かが立った気がした。
 視線を地上に戻すと、そこには少女が立っていた。

「…」
「…?」

 沈黙。
 冷たい風が二人の間を通りぬける。
 その冷たさが二人の距離でもあるような気がした。

「ずいぶん早いのね。わたしも人の事云えないけど」

 そう云って空を見上げる少女。
 …まぁ、確かに早く登校したつもりだが。
 でも彼女はなんでその事について言及するのだろうか。
 記憶の中を探っても、目の前の彼女についての情報は見当たらない。
 要するに初対面なのだ。

「…」
「……」
「………・?」

 意味の判らない沈黙に俺が首を傾げると、彼女は呆れたように云い捨てた。

「気にしないで。私の独り言だもの」
「むぅ」

 そういわれると、こっちもそれ以上言及できない。
 だが、その『独り言』とやらは、明らかにこっちを見て云わなかったか?
 
「…はじめまして、と云っておくわね」
「あ、ああ。はじめまして」

 ともすれば、吐き出される息さえ白くなるような、そんな寒さ。
 この空間に流れる冷気が、俺たち二人の距離を更に遠いものにしているように思えた。
 
「寒い、わね」
「ああ。すごく寒い」
「雪…降らないかしら」
「…流石にそれは無理だろう」

 突拍子もない事を云い出す娘だ、と思った。
 今はもう四月。
 常識的に考えて、今降る雪は十分過ぎるほどに季節外れだ。
 
「夢がない人ね」
「夢があるないの問題じゃないだろ…」

 からかうように微笑む彼女の笑顔は、透明なガラスのようだった。
 奇麗で、哀しく光る、そんなガラス細工。
 
「―――弘耶」
「え?」

「また逢いましょう」 

 俺はその瞬間、確かに彼女を見つめていた。
 瞬きすら許さないくらい、俺は彼女を見つめていた筈だった。
 だけど、水面に浮かんだ波紋がやがて消えていくように、月が白んだ空に消えるように。
 いつの間にか、彼女は俺の視界から抜け落ちていた。

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「白昼夢、じゃないよなぁ…」

 結局あのあと、周辺を探してみたが彼女は見つからなかった。
 …夢だったのかもしれない。
 確かに彼女と話しているときは不思議な浮遊感に包まれていたし
 会話の内容もどこか掴み所のない話だったし、夢だと考えればかなり簡単な話なんだと思う。
 でも、普通あんなところで意識が飛ぶわけない。
 それに、俺は確かに意思を持って会話していたし、夢で終わらせるにもまた無理がある話だ。

『…また逢いましょう。―――弘耶』

 彼女は確かに俺の名前を呼んだ。
 でも、俺は彼女の名前を知らない。当たり前だ、今初めて逢ったんだから。
 どうして彼女は俺の名前を知っていたのか。
 どうして俺は彼女の名前を知らないのか。
 どうして俺は―――彼女の名前を忘れているのか。

 …忘れて、いる?

「おはようございます」
「のわっ!?」

 考えながら自然と教室まで来てしまっていたらしい。
 目の前には水森がいつものように涼しい顔で座っていた。

「お、おはよう水森」

 とりあえず、考えていた事を横において、水森に挨拶を返す。

「今日から普通授業の開始ですね」
「ああ、そうだったっけか」

 ちなみに何の予習もしていない。

「ま、特に気張ることもないし、楽にやるさ」
「そうでしょうね」
「なんだ、俺が授業を真面目に受けないことを予想してたみたいな口振りだな」
「違うんですか」
「違わない」
「そうですか」

 彼女はそう投げやりに返事をしたあと、担任が来たことを確認して、何事もなかったかのように前を向いた。
 俺ってそんなに不真面目に見えたのか…

 そして、授業が始まった。
 去年とさして変わりもなく、さっきの宣言通り
 適当に要点だけノートに写して、あとはボーっとして楽に過ごしていた。
 うむ、退屈だ。

 …
 ……
 ………

「よぉぉぉぉぉし! 昼飯だ!」
「騒ぎすぎです」
「授業があまりに退屈だったんでな」
「そうですか。」

 くっ、相変わらずな返答だ。

「…まぁ、確かに退屈でしたけどね」
「って、珍しく肯定的じゃないか」
「別に否定的なことばかり云うわけじゃないですから」
「そうだったのか」
「なんですか、そのまるで私が無口で根暗で世界に絶望したようなどん底人間であるような口振りは」
「いや、そこまで云ってない」
「あれ…」

 ……なんだ、その当てが外れたような顔は。

「とにかくです」

 彼女はキッとこちらを見据えたかと思うと、反論口調で続けた。

「よく私のことを万年低血圧とか、ツッコミ専用機とか呼ぶ人がいますが、それってすごく失礼なことだと思うんです」

 上手い表現だ、と思ったが口には出さないことにした。

「私はただ、あまり饒舌に喋るのが得意でないだけで、それで…」

 十分饒舌だと思ったが、口には出さないことにした。

「まぁ、要するに暗い女だと思われるのが嫌だ、と」
「そうです、要するに暗い女と思われるのが嫌なんです」
「んじゃ笑ってくれよ、ニコッと」
「え」
「水森の笑顔って可愛いと思うぞ」
「な、なななななな、何をバカなことを」

 お、新しい表情のパターン。

「うむ、その照れた表情も良いな」
「ご、ご、ご、ご飯じゃなかったんですか! 早く購買に行かないと何も買えませんよ」
「水森のご飯をもらうからいい」
「よくないです、さっさと行ってください!」
「んんー。じゃ、そうするか」
「そ、そうしてください」

 水森にグイッと背中を押されるようにして俺は教室を出た。
 とりあえず、水森をからかうと普段の彼女らしからぬ可愛い反応が見られることが分かった。
 うむ、覚えておこう。 

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 購買は戦場だった。
 人の波が押し合いへし合い、我先にと各人、自分の求めた昼食を手にするべく奔走する。
 …確実に乗り遅れた。
 こういう時は、一つしか道は無い。俺は覚悟を決めた。

「どりゃああああああ!!!!」

 雄たけびを上げながら、俺は人の群れの中に飛び蹴りをかました。
 意表を突かれた敵集団は微少ながらも混乱を見せる。チャンスだ。

「だりゃああああああああ!!!!!」

 足元に倒れていた生徒を適当にふん掴み、振り回す。
 一人、二人、三人…次々に俺の周りの奴らはダウンしていく。
 もう、すでに勝敗は決していた。
 敵集団が取り落とした昼食の中からめぼしい物をいくつか見繕い、レジへ持っていく。

「アンタ、なかなかやるねぇ…」

 感心する購買のおばちゃんに、俺はこう尋ねた。

「いつまでこんな無意味な戦いが続くんだ…?」
「そりゃあ、てめぇが死ぬまでさ」
「フッ…違いない」

 いつのまにか口調まで変わってるおばちゃんに、やきそばパンとコロッケサンドの代金を払い、俺は血の匂い漂う戦場を後にした。
 次の戦場へ、向かうために。

 …
 ……
 ………って

「んな事できるわけねぇだろ…」

 妄想から現実に返ってきた俺は、未だに減らない購買の混雑を見つめていた。
 実力行使に出られない以上、購買で昼食を買うのは不可能だろう。
 つまり、昼飯は諦めねばならないことになる。
 ………・
 嫌だ。

「どりゃああああああ!!!!」」

俺は生徒の群れに突進した。

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「常識的に考えてそれは無茶というものです」
「そうだな…」

 返り討ちに遭い、ボコボコにされた俺は、結局何も得ることなく教室に戻っていた。
 目の前では水森が黙々と昼食を摂っている。

「良ければどうぞ」
「いや、それ魚の骨」

 俗に云う残飯だ。
 というか、女の子がそんなものを差し出すな。

「これはどうでしょうか」
「それ弁当のフタ」

 食い物じゃない。

「では、これをどうぞ」
「いや、それふりかけの袋」
「ご心配なく、中身入ってますから」
「…食え、と?」

 コクリと頷く。
 …本気か。

「何も食べないのは体に毒ですよ」
「気持ちだけありがたく頂いておこう」
「強情ですね」
「それはちょっと無茶な言いがかりだと思うんだが…」

 …睨むなよ。
 ふりかけで腹を満たせというのは流石に厳しい。
 それを云っただけで睨まれる理不尽さに腹を立てて、こっちも向こうを睨み返していると、やがて彼女も根負けしたらしい。
 ため息をついて、自分の弁当箱からおにぎりを一つ取り出した。

「中身は塩鮭ですが、要ります?」
「すごく欲しい」

 おにぎり一個でも腹は満たされないが、
 それでもふりかけよりは相当に有り難い。
 水森に何度も感謝の言葉を述べながら、俺はささやかな昼食にありついた。
 ぐぬぅ…惨めだ。
 水森をからかって遊んでいるようで、実は水森に遊ばれているような気がする。
 それくらいに惨めな昼食だった。

---------------------


 午後の授業は午前のそれに比べて、いっそう退屈だ。
 特にすることもないのでふと窓の外を見る。
 眩しい日差し。
 朝の寒さが嘘のように、辺りは春の陽光に包まれていた。

 水森を確認すると、彼女も眠そうに授業を聞いていた。
 周りの生徒も春の誘惑に負けて、次々に授業から脱落している。
 俺も意地を張ることはない。
 心地よい温もりに包まれながら、眠りの世界へと落ちていった。

---------------------


 ………
 ……
 …

「おはようございます」
「のわっ、おはよう」

 水森に起こされて、不意に目が覚めた。
 朝も同じやり取りをしたような気がしたが、気のせいだろう。

「んんー、よく寝たな」
「ですね」
「クラスのほとんどが寝てたんじゃないか?」
「担当の先生は半泣きで帰っていったそうです」
「それは可哀想なことをした」
「ですね」

 云いながら、鞄に荷物を詰めて席を立った。
 荷物といっても、教科書類は重いので持って帰らない。
 だから予習もやらない。自然の摂理だ。

 さて…
 
 「おぅおぅ、水森よっ!」
「…なんですか」

 威勢良く声をかけてみたが、彼女の反応はいたってあっさりとしたものだった。
 おかげでこっちの勢いまで削がれてしまう。

「くすん、ミナちゃんったらヒドイ…」
「…」

 可愛くすすり泣く真似をしてみたが一向に相手にはされない。

「……だから、何の用で?」
「お、おぅ、実はだな」
「早く云って下さい」
「一緒に帰らないか?」
「さようなら」

 云うなり、俺の横を早足ですたすたと通りすぎていく。
 取り付く島などこれっぽちもありゃしない。

「ちょっと待ちたまえぇ!」

 慌てて駆け寄り、その肩を掴んで引きとめる。
 別に嫌なら引きとめる必要はないが、こちらとしても男としての意地がある。
 我ながら、すごく無意味な意地ではあると思うが。

「いやぁ、折角新しいクラスで一緒になった上に、席まで隣ではないか! これを運命と云わずしてなんと云うんだね?」
「神條さんが勝手に隣に座っただけでしょう」
「その通りだ!」

 会話、終了。

「…」
「……」
「さようなら」
「ぬぅぅ〜」

 次の引きとめ手段が思い浮かばぬ内に、水森は足早に教室を出ていった。


 春先とは云え、まだ日は短い。
 することもなく帰宅し、家のベッドで横になっていると、あっという間に夜は訪れる。
 適当な時間帯を見計らって一人で適当なインスタント食品の夕食を食う。
 満腹になったら風呂に入り、髪を乾かして部屋に戻ると、またすることが無くなった。
 …春休みの間はほとんど美月が夜ギリギリまで家にいたから、割と退屈を感じることは少なかった気がする。
 だからこんなに静かな夜は久しぶりだった。

 久しぶりに退屈な夜、か。
 最近は、なにかにつけて少し美月に甘え過ぎだったかとも思う。
 もう俺もそう子供じゃないし、いつまでも世話になっているわけにはいかない。
 ……少し、自分のするべきことを考えてみるのもいいかもしれない。

 趣味でもいい、部活でもいい、それ以外の何かでも。
 『生きている証明』が欲しい…と云うと、少し大袈裟かもしれない。
 だけど、その考えも決して嘘ではないと、何故かそう思った。

 ………って。

「…悩みすぎだな、俺。」

 たまに静かだと、すぐこれだ。
 別に焦ることは無い。人生はまだまだ長いんだ。
 証明なんて、余命幾許もないジジイみたいな事考えてどうする。
 そう言い聞かせて、考えを打ち切った。

 気分を入れ替えるために窓の外を見ると、強い風が吹いていた。
 少しだけ窓を開けて、流れ込む空気の冷たさに驚いて慌てて閉める。
 …明日もまた寒くなりそうだな。
 ぼんやりとそう考えながら、俺は布団にもぐりこみ、目を閉じた。

―――また逢うことがあれば、こんな素敵なイレギュラーの日に―――


 何処かで聞いた、聞いた事のない言葉が頭の中を過った。



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