「さみぃ」

 そう呟きながら目を覚ます。
 寒さゆえの布団への執着を抑えつけながら這い出ると、とても春とは思えない程の冷気が全身を襲う。
 昨日より更に寒くなっている気がした。
 壁にかかった温度計を見て正確な気温を確認する。記録的に恐ろしい数字だった。
 一時的とはいえ、肌が外気に触れるのを拒否する思考と戦いながら、なんとか着替えを済ませて下に降りる。

「あ、弘耶」
「おはよう、寒いな」
「寒いどころじゃないわね」
「ストーブでも出しておくか?」

 冗談のつもりだったが、ひどく冷たい水で顔を洗っている時、云い過ぎでもないと感じた。
 いつもよりも、水の冷たさが身に凍みる。…食事後の食器洗いが思いやられるな。

「今日は少し早く家を出ようと思ってるんだけど、いいかな?」
「構わないぞ」
「ごめんね、まだ部室の片付けが終わってなくてさ」
「構わないと云っている」

 実は、俺のほうからその提案をするつもりだった。
 その理由はと云えば、昨日のあの少女に他ならない。
 不可思議の言葉と共に俺の前に現れ、そしてすぐに消えたあの少女。
 別にあの言葉に意味なんて無いのかもしれない、少し変な女の子が校内に紛れ込んでいただけだと。
 でも俺はそんな理屈抜きで、ただもう一度逢いたいと、そう思っていた。

「んで、今日の朝食はこれね」
「うそォ!?」

思考の奥深くから戻ってきた俺に、朝食として差し出されたのはトーストされたパン一枚だった。
無論バターなど塗っていない。

「ひどい話だ」
「だって、早く出てもいいって云ったじゃない」

 しかし、早く出てもいいいと云ってから殆ど時間が経っていなかったように思えたぞ。
 俺が同意するにせよ、しないにせよ、最初からパンを出すつもりだったんじゃあるまいか。
 こちらと目を合わせようとしない美月…間違いないな。
 まだ熱いトーストを一気に口に押し込んで、席を立った。

「30秒で食えたぞ、くそっ!」
「あんまり急いで食べると体に悪いよ」
「誰のせいだっ!」

 食器を流し場に投げ込み、軽く水を満たしてから出発の支度をする。
 むぅ、必要以上に急いでいるような気がする。
 軽く戸締りと電気類の電源を確認して玄関に飛び出したとき、家の中より一段と厳しい冷気に襲われた。

「わりぃ…今日休むわ」

 俺は春の寒さにいきなり屈していた。

「走れば暖かくなるよ、さ、行くぞっ!」

 云うや否や、いきなり全力で走り出す美月。
 くそっ、何でアイツはそんなにやる気なんだ。

「ほら弘耶ー! 走れー」
「だぁぁぁぁ!何で朝からこんなに急がなきゃならんのだっ!」

 別に遅刻しそうになっているわけでもないし、体力作りをしているわけでもない。
 走る理由なんてどこにも無い。無駄だ、ああ全く無駄だ。
 無駄はいけないんだぞ、ボランティア団体の人に怒られるぞ。資源は大切にしないといけないんだぞッ!

 心の中でウダウダと愚痴っている間に、既に校門前まで辿り着いていた。
 昨日と同じくしっかり息は切れている。

「ゼェゼェ…あ、明日は絶対ゆっくり行ってやる…」
「ハアハア…ぶ、部室片付いたら、ゆっくり行くわ…」

 息切らすなら走るなよといいたかったが、まだ呼吸が整っていないその状態で云っても
 かなり格好悪いと思ったのでやめておいた。
 昨日と同じように、二人とも沈黙を挟んで体力の回復を試みる。

「ふぅ…」
「ゴメン、よく考えればこんなに急ぐ必要なかったわね」
「もっと早く気付けよ…」
「いや、焦ってあたふたしてる弘耶を見てると面白くてさ」

 おい。

「暇な時にいくらでもあたふたしてやるから、朝くらいはゆっくりさせてくれ」
「努力するよ」

 肯定とも否定とも取れないあやふやな言葉を残し、美月は部室棟へ走っていった。
 アイツ朝から走ってばっかりだな。うむ、健康でよろしい。
 ただし人を巻き込むな。

 何をするでもなく、昇降口前の広場でゆったりと時を過ごす。
 誰も居ない学校はあまりにも静かだった。

 しかし、寒い。
 朝はニュースなんて見てる暇は無かったが、やっぱりこれって異常気象って云うんじゃないだろうか。
 疑惑の瞳を空へと向けた。
 空に広がる灰色の世界。
 俺はしばしの間、何も無い曇り空を、じっと見つめていた。

 その時、世界に白い結晶が舞い降りてきた。

「おいおい、嘘だろ…」
 
 思わず空に向かって手を伸ばす。
 灰色のスクリーンに映える純白のそれは、手の平に落ちてすぐに溶けた。
 その冷たさはこの季節にはひどく不釣合いで、信じられなくて。

 でも、それは確かに四月の雪だった。

「弘耶」
「…君か」
「また逢うことがあれば、こんな素敵なイレギュラーの日に」

 誰かの台詞を読み上げるように彼女は云った。
 無論、俺の理解可能領域には収まりきらなかったが。 

「雪が、綺麗ね」
「ん、あ、ああ…」
「何か不思議そうな顔をしてる」
「いや、だって不思議なんだからしょうがない」
「雪が降っているのが?それとも私の存在かしら?」

 正確には両方とも正解なんだが、今、この時においては後者が正解かもしれない。

「君は、誰だ…?」

 彼女は悲しそうに笑い、云った。

「私は秋端。忘れられた晩秋の切れ端。世界の咎を取り除く存在」
「それが自己紹介?」
「そうね、自己紹介…だったわ」
 
 ええと、つまり肯定ということだな。
 秋端、それが彼女の名前だろうか。
 …綺麗な響きだと思う。
 ちなみに、そのあとの『世界の咎を取り除く存在』というのはさっぱり分からなかった。

「俺の名前は…知ってるよな?」
「ええ。弘耶、でしょ?」
「正解だ。だが残念ながら俺は君に名前を教えた覚えはないんだ」
「そう、じゃあなんでかしらね」

 そう云ってクスクスと笑う彼女。
 俺をからかっているのだろうか。
 どこか無邪気で、綺麗な笑顔。
 
「雪がやむわね」
「あ…」

 空を見上げると、さっきまでは静かに降り注いでいた雪も、もうその勢いをなくしていた。

「ねぇ、弘耶」
「なんだ?」
「いえ…なんでもないわ」
「気になるんで聞きたいんだが」

 俺がそう云うと、彼女は少し考えてから口を開いた。

「雪を見ると思い出すの…」

 そう云って彼女は灰色の空を見上げた。
 とても―――悲しそうに。

「思い出すって、何を…?」
「終局の空を」

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「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「どうしました、朝から随分と難しい顔していますね」
「世の中解らない事だらけだ」
「?」

 それから結局、雪が完全にやむまで二人して空を見上げていた。
 聞くことは沢山あった筈なのに、俺にできたのはただ空を見つめること。
 空に浮かぶ白の斑が、灰色の海に飲み込まれるのを見ているだけだった。
 そして俺が彼女に改めて視線を向けたときには、彼女は消えていた。

「まるで、よくある『学校の怖い話』だな」
「?」
「まぁ、気にするな。世の中には不思議だらけなんだ」
「わたしにとって、あなたの思考が一番不思議ですね」
「水森の一番か、そりゃ光栄だ」

 だが、今朝の少女の思考は俺なんかの到底及ばないレベルの話だった。
 という話をもし水森にしたら、どう切り返されるだろうかと想像しつつ、気だるさと眠さの支配する授業にのぞんだ。

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 やはり、授業中も考えるのは同じ事だった。

 2日連続で出会った不思議な少女。
 初めて会ったのに俺の名前を知っていたこと。
 彼女が云う、いくつかの理解できない単語。
 イレギュラー、咎、そして終局。
 どれも語感からして、決しておめでたい話ではないことは理解できる。
 だけど、それぞれが何を意味し、どう云う返答を求めるのかがさっぱり解らない。
 考えれば考える程に、深みに嵌っていくのが自分でも理解できた。

 とりあえず、もう一度逢ってみたい。
 いつ、どこで、どうすれば逢えるのかも不明だが、意思があればきっと逢えると。
 理由もなくそう思っていた。

 …
 ………
 チャイムの音が俺を思考の狭間から引きずり出した。

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「さっきの時間、何をブツブツ云ってたんですか」
「アインリッヒ伊藤二世の生い立ちとその苦悩の日々に意図された物の数学的読解をな」
「ご苦労様です」
「おう」
「でも今は数学の時間じゃなかったですよ」
「アインリッヒ伊藤二世は音楽家だ」
「音楽の時間でもなかったです」
「それはすまなかった」

 おっと、昨日もこうしていて昼食を買い逃したんだった。
 同じ轍を踏まないように、冗談も早々に切り上げて購買に走る。
 すれ違う教師に何度か注意されながら、全力疾走で購買に辿り着くと、混雑はそれ程でもなかった。
 目的のパンを二つ、三つ持って余裕でレジに並ぶ。

 俺が代金を払い終える頃には、つい今まで疎らだった生徒の数が嘘のように購買は混雑に見舞われていた。
 少し距離を置いたところから、その混雑を眺める。

「勝った…」

 昨日の敗北感を拭い去るように、俺は勝利の味に酔いしれていた。
 いや、別に何の戦いも繰り広げてはいないのだが。
 とにかく、俺は勝ったのだ。

「フハハハハハハハハハッ!」

 高揚した気分のままに、雄叫びをあげながらスキップして教室に戻った。

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「馬鹿ですね」
「うわっ、馬鹿ときたか!」
「すみません。たかが昼食を買うのにあんまり張り切るので、ついつい本音が」
「このヤロゥ…昼食は男のロマンなんだぞ!?」
「初耳です」
「ちぃ、昔は昼食のパンを買うためにどれだけの血が流れたと…」
「流れていないと思います」

 ローマ王朝時代の購買の混み具合について、熱く語っている間に昼休みは終わっていた。
 それが無駄なのか有意義なのかは俺にもわからない。

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「おやすみ」
「おやすみなさい」

 水森と寝る前の挨拶を交わし、机に突っ伏す。
 やはり今日も、午後を過ぎると日差しは暖かなものに変わっていた。
 つまり、太陽は俺達に眠れと云っているってことだ。
 逆らってはならない。だから寝る。

 …
 ……
 ………
 
 「おはよう」
「おはようございます」

 午後の授業は速攻で終わった。
 まぁ、寝ていたんだから体感時間も当然短いわけで。
 ダルい時間をすっとばせたんだから、得した気持ちもある反面、時間を無駄にしたという気持ちもある。

「さて、と」

 ぐっと伸びをして放課後の行動に思いを馳せる。
 とりあえず、何もしないのだけは避けたい。

 これからの予定を考えながら、廊下をぼんやりと歩いてみる。
 うぅむ、何もしないのだけは避けたいとは思ったものの、さしあたってするべきことも無い。
 困った。このままではやっぱり暇を持て余すダメ人間だ。

 …
 ……
 ………

 結論が出ないまま歩きつづけていく内に、廊下の端まで来てしまった。
 目の前には屋上へ上がる階段しかない。
 …屋上か。

 少し考えた挙句、気分転換に屋上で風に吹かれてみることにした。
 殆ど使われていない薄暗い階段をゆっくり上がり、錆付いた鉄の扉に手をかける。
 鍵がかけられていることも考えたが、予想に反して鉄の扉はすんなりと開いた。

 夕焼け。
 そういえばもう夕方だったんだな。
 昼過ぎに見た太陽は暖かに世界を照らす光だったが、いまのそれは世界を紅く染める光に変わっていた。
 悲しみの色。
 黄昏の緋は悲しみの色に見えた。
 それは、今にも柵の向こうへ飛び出そうとしている少女の色と重なったから。

「って…マジかよっ!」

 走っていた。
 彼女が立っている場所と、屋上の入り口までの距離はそう長くなかったが、走っている間の時間ははまるでスローモーションのように、ゆっくりと流れていた。

 彼女のところまで辿り着く。
 彼女が柵に足をかける。
 彼女の手を掴む。
 彼女の足が宙に踊り出す。
 彼女の手を屋上側に引きこむ。

 ドスン!

 彼女が叩きつけられたのは―――わずか数cm下の屋上の床だった。

「……」
「………」

 さて、どうしたものか。
 思わず助けてしまったが…
 今のって…どう考えても自殺未遂だよな。

 教師に知らせるべきか、知らせざるべきか。
 知らせたとして、この子がこってり絞られるだけで何かの解決になるとも限らない。
 だからと云って、俺が何か云って彼女の為になるとは思えない。
 八方塞がりだった。
 俺が悩んでいる間に、彼女のほうが口を開いた。

「……なんで止めたんですか」
「え…」
「もう少しで死ねたのに」
「あ…」

 頭の中で何かが揺れた。
 彼女の思い。
 俺の思い。
 15mの空へ馳せる思い。
 束の間の滑空。
 そしてその先にある、永久の自由。
 
「じゃあ…死のうか」
「え…?」

 そう云って俺は屋上の柵を乗り越え、向こう側の床に立つ。
 30cm下は紅の空。
 
「来いよ」

 そういって彼女に手を伸ばした。
 これで死ねる。
 死ねるんだ。
 この身はグチャグチャに潰れ、解き放たれる。
 自由だ。

 ゆっくりと彼女が近づいてる。
 …遅ェよ。

「早く…ハヤク!!」

 …早く?
 早く…なんなんだ?
 俺は周りの状況を確認した。
 
 ………
 ……
 …!

「…うあああああ!!」

 映った景色は15m下への直通線だった。
 思わず恐怖で声をあげる。
 突然叫び出した俺に、目の前にまで近づいてきていた女の子はキョトンとしていた。

「わ、悪い…た、助けて」

 そう云って手を伸ばすと
 いぶかしげな表情のまま彼女は俺に手を差し出した。

「…助かった」
「あの…」
「ん?」
「何やってるんですか?」

 それはとても真っ当な質問だと思う。
 ついさっき自殺を止めた男が、いきなり死のうかなんて云い出して、その直後に今度は「助けてくれ」
 疑問を持たない子がいたらその子は一生何事にも疑問を抱かず生きていけるに違いない。
 悪徳商法にも宗教勧誘にも引っかかりつづけるだろう。

「何を、と云われるとだな…」

 非常に困る。
 なぜならば…

「俺にも分からん」
「はぁ…」

 おお、呆れてる呆れてる。
 その呆れ顔はやがて笑いを堪えた顔に変わり、やがて堪えきれずに爆発する。

「あはは、あはははは…」

 腹を抱えてその場に崩れ落ちる少女。
 いや、そこまで笑っていただけるならこちらとしても身体を張った甲斐が…って!
 
「笑いすぎだ!」
「だ、だ、だって! あははははははは! 変です!それって絶対変ですよぉ!」
「うるさいなっ…俺だってもう何がなんだかワケわかんねぇんだよ!」

 ついには笑い過ぎでゼェゼェ云い出した彼女。
 そんな彼女が落ち着くのを待っていると、短い夕暮れ時はあっという間に終わっていた。

「なぁ…」
「はい?」
「なんで死のうとしたんだ?」
「あ…」

 ドサクサですっかり忘れ去られていたが、彼女はさっきまで飛び降り自殺を決行しようとしていたのだ。
 蒸し返すのは良くなかったかもしれないが、話くらいは聞いてやった方がいいかもしれない―――そう思って尋ねた。

「えっと…ですね…」

 さっきまで笑い転げていた彼女の表情が翳る。
 その瞳は哀しみの色。

「判らなくなったから…だと思います」
「判らなくなった、って?」
「生きることが」

 俺は絶句した。
 『生きることに判らなくなる』
 見たところ、俺と同い年か一つ下くらいの女の子が、そんな言葉を発する事が不似合いで、俺は何も云えなくなった。

「人生を判るにはまだ早い、なんて思ってるんじゃないですか?」
「あ、ああ…」
「でもね、先輩。そうでもないんですよ」

 そうでもない―――人生を判ることに早いも遅いもない、彼女は恐らくそう云いたいのだろう。

「生きることの終着点が何であるか分かった時って…人生というものを客観的に観られてしまった時って…」

 俺のことを「先輩」と呼んだ少女は空を見て、事も無げに云った。

「死んじゃいたくなるんですよ」
「…」
「……」
「………」

 何か云わなければと頭の中では思っている。
 だけどいくら考えれども、陳腐な慰め言葉すら出てこなかった。
 あまりに軽々しく「死」を口にする少女。
 そんな彼女を不条理に思いながらも、何処かで彼女に共鳴していた。

 訪れる沈黙と夜。
 いくつかの星の瞬きと、煌々と輝く月を抱いて眠る空。
 俺達は、星を見ていた。

「あのさ…」
「はい…?」
「なんていうかさ、よく解らねぇんだけど…命って、人の手で造ろうと思っても作れないものだからさ」
「……」
「だから大切なんだって思う」
「よく、判らないです…」

 俺にも判らない。
 …でも、多分大まかに意味するところはこれだ。

「つまり、まぁ、頑張って生きよう! ……ってことで」
「……」
「悪いな、初対面の男がこんなにでしゃばって。でもな」
「?」
「…一応、な。…心配はしてる」

そう云って、俺は屋上を去るべく立ちあがった。
これ以上関わっても、ただのお節介になりかねない。
あれだけ云っておいて、中途半端かもしれないが…
屋上を出る時、彼女のことが気になって少しだけ振り向いた。

彼女は、まだじっと星を見つめていた。

-----------------------------------------------

…とりあえず帰っては来たものの…
やっぱり一人放って置いて帰って来るべきじゃなかったかな。
少し無責任過ぎたか。
俺が去った後でまた自殺の続きを実行したとも限らないし。
………だぁ、縁起でもない。
彼女はきっとあの後無事に家に帰った。そう信じよう。

……
………
その夜はなかなか寝つけなかった。

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