ピピピピピピピ…

 雛が呼んでる。
 ―――いや、雛はもういいか。
 目覚まし―――そう、目覚ましの音が聞こえる。
 そろそろ起きないと。

ピピピピピピピピ…

 頭が痛い。体が重い。
 油断すると、すぐに深い眠りの底へ舞い戻ってしまいそうだった。

ピピピピピピ、カチッ

 覚悟を決めて目覚ましを止めた。
 のそのそと布団から這い出ると、部屋に充満した冷気が一気に襲い掛かってくる。
 
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「おはよう、弘耶」
「おはふぁぁぁ」

 欠伸の割り込みによって、朝の挨拶は謎の生物の呻き声へと変わってしまった。

「んー、どうしたの。…寝不足?」
「どうやらそうらしいな」
「また遅くまで漫画とか読んでたんでしょ」
「そんなところだふぁぁぁ」

 
 昨日、あの少女の安否を確かめに行くかどうか、夜中まで散々悩んだ挙句のこの寝不足だ。
 何度学校へ戻ろうとしたことか。でも、もし学校まで戻ったとして、そこでもし見たものが悲惨な結末であったとしたら―――俺が一度遭遇しておきながら、止めることのできなかったものの結果であったとしたら。
 怖かった。だから戻らなかった。
 此処に居るのは、とんでもなく卑怯で矮小な自分だった。

「どうしたの、眉なんかひそめちゃってさ」
「寝不足だからな」

 美月から逃げるように洗面所へ移動する。
 顔を洗うと、頭痛も憂鬱な気分も少しだけマシになった。

「もう部室も片付いたから、ゆっくり食べようね」

 そう云って美月がテーブルの上にに朝食を並べる。
 なるほど、確かにメニューはゆっくり食べるのに適した日本の朝食だった。

「んじゃ、いただきます」
「はい、どうぞ」
 
 まず、鮭の切り身と大根サラダを口の中に押し込み、味噌汁で喉の奥へ押しやる。
 間髪入れずに、茶碗を持って一気に御飯をかきこむ。喉に詰まった分はお茶で流し込み、完食。
 うむ、ベストタイムだ。

「弘耶、ご飯食べるの、早くない?」
「そうか?」
「私の気のせいかなぁ…」
「ちゃんと味わって食べてる。上手かったぞ」
「ならいいけどね」

 当然、今日の朝食は急いで食った。
 だが、急ぐ理由は昨日とは少し違っている。
 彼女の安否を早く確認したくて。昨日までの心配が無駄であったと早く確認したくて。
 やはり俺は臆病だった。

「おし、いっちょ気合入れて学校行こうか」
「なんか、今日は朝から眠そうだったり、妙にアグレッシブだったり。変な弘耶ね…」

 そうか、俺はアグレッシブだったりすると変なのか…
 少し複雑な気分になりながら、いつもの手順で出発の段取りを済ませる。
 最後に玄関の鍵を閉めたとき、中から扉を叩く音がした。

「こらぁ! 人がまだ家の中に居るのに鍵閉めてどうすんのよ!」
「うわっ、いたのか!」
「いたのか、じゃないっ!!」

 慌てて鍵を開けてノブを回すと、中から怒りと呆れの入り混じった形相の美月が出てきた。

「ていうか、鍵なんて中からでも開けられたんじゃないか?」
「そう云う問題じゃないでしょっ! …ったく、まだ夢の中なんじゃないの?」
「微妙な所だな」

 適当に返事をして、通学路を歩き出す。勿論少し早足で。

「人は、起きながらにして夢を見ているんだ」
「はぁ?」
「…ちょっとカッコイイこと云ってみた」
「…大丈夫?」

 余計なお世話だ。

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学校に着いた。
 急いだつもりでも昨日よりは少し遅い時間らしい、登校してくる生徒の姿がポツポツと見える。
 ………
 ……
 …
 特に何かが起こっている様子はない。やはり取り越し苦労だったか…
 その時だった。

「先輩っ!」

どさっ

 俺の背中に何かがおぶさってくるのを感じた。
 鼻腔をくすぐる甘い香り。女の子の香りだった。

「だ、誰だっ!」

 緊張で神経を張り詰めていたところへの突然の襲撃。
 …正直言って滅茶苦茶ビビった。
 思わず背中に乗った物体を本気で振り落としてしまった。

「ぎゃうわんっ」

どごっ

 犬の断末魔のような声(そんなもの俺は聞いたこと無いが)をあげて物体は地面と衝突した。
 大丈夫だろうかか、かなりいい音がしたが…

「いたたた…」
「す、すまん。いきなりだったもんで驚いて、って……」

 その物体。もとい少女の姿を確認して心底驚いた。
 その少女は、昨日屋上で出会った少女。そう、自殺しようとしていた少女…
 昨日は日も落ちていて確認できなかったが、袖についた校章は銅色、つまり一年生の色だった。

「驚かせてすみませんでした。加減がわからなかったもので…」
「いや、別に構わないが」

 加減ってなんだ。まさか絞め落とすつもりだったのか?
 怖い疑問を振り払い、それよりも更に根底にある別の質問を投げかけた。 

「…もういいのか?」
「あ…えぇと」

 すこし言葉につまり、彼女は少しだけ表情を曇らせる。そこに昨日の彼女が重なった。
 哀しみ色の瞳。吸い込まれそうな絶望の色。

「わたしは、大丈夫です」

 顔を上げて彼女はそう云った。
 大丈夫―――もう昨日のようなことはしないということだろうか。
 あまり表情を見ても大丈夫とは云い難いが、本人がそう云ってる以上、こちらが余計に心配しても仕方ない。
 
「大丈夫、ならいいんだけどな」
「いえ、昨日はありがとうございました」
「俺は別に何にもしてないよ」

 しいて云うなら何を血迷ったか飛び降りようとして一人漫才を繰り広げただけだ。
 しかも、昨日の夜彼女に何を話したかは正確には覚えていなかったりする。
 だが、それでも少しでも救いになったのなら、俺としても嬉しく思える。

「おかしかったですねぇ…昨日の先輩」
「ぐぬぬぬ…」

 昨日の間抜けさ満載だった一連の挙動を改めて思い出し、彼女から眼を背ける。

「始めて本物の漫才を生で見ました」
「…俺としては必死だったんだがな」
「さすがですっ、たとえ人を笑わせるための漫才でも全身全霊で望むんですね」

 悪気は無いのだろう。
 心底嬉しそうに語る彼女に悪意はない。
 だから、思い出し笑いまでしているのは見逃そう。

「本当に面白かったです。…そのおかげでちょっと吹っ切れました」
「ならいいけどな…」
 
 観念して俺は通りすがりの漫才師に甘んじた。
 俺の言葉を聞いてにっこり笑う彼女。
 …つられて俺も頬が緩むのを感じた。
 彼女は制服をぱんぱんと払って身だしなみを整えると、気を付けの姿勢をして改まって云った。

「わたし、1年B組の佐久間莉依といいます」
「ああ、俺は神條弘耶。2年C組」

 今更な自己紹介だと思ったが、それもいいと思った。
 今はもう、目の前にいる少女は悲しみの面影もない、朗々とした後輩だった。

「神條先輩、好きですっ! 付き合ってください!」

 ひしっ
 …
 ……
 ………え?

「なああああああああああああっ!!!!???」
「えええええええええええええええええ!!!!???」

 気を利かせて、遠くで話を聞かないようにしていた美月が急にこちらに猛ダッシュしてくる。
 っていうか、ちょっと待て。
 好きって。なんでだ!? 付き合えって。なんでそうなるんだっ!?
 昨日出会ったばかりで、彼女はまがりなりにも自殺しようとしていて、それで俺はちょっと自殺未遂して、んで説教して…
 
 だぁぁぁぁぁぁぁ!! わからんっ!! なんでそうなるんだぁぁぁぁ!!

「ダメですか?」
「ダメっていうか、そうじゃなくて、なんというか、だぁぁぁぁぁぁ!!」

 返答に窮し、混乱は一層濃さを増していく。
 美月がこちらを見る目が冷たい。
 …なんで、俺の人生はこんなにも喜劇と混乱に事欠かないのだろう。
 ……引いていた頭痛がぶり返した。

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「はあ、はあ、はあ…」
「おはようございます?」
「お、お、おは、おは…はあはあ」
「苦しいなら、無理に云わなくてもいいですよ」

 結局、返答に詰まった俺はその場から逃げ出した。
 返事を求めるために追いかけてくる彼女−−1年B組・佐久間莉依さんと、そして何故か一緒に追ってくる2年A組・藤堂美月さんを振り切るために校内を上へ下へ、東へ西へ、チャイムが鳴るまで走り回った。

「朝からマラソンですか」
「マラソンというか、鬼ごっこだな」
「ご苦労様です」
「おう」

 やっと呼吸も戻ってきた頃には、一時限開始のチャイムが鳴り響いていた。
 俺に休息の暇は無いのか…
 いや、授業中を休息の場とすればよいのだ。それが俺の正しい授業の受け方だ。疲れているから仕方ないのだ。
 ちなみに、疲れていなくても休息するのだろうという突っ込みは却下だ。
 ぐぅ…すぅ

 そうして午前のひとときは終了した。

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「飯だっ!」

 そう云うが早いか、俺は教室を飛び出して購買へと向かった。
 途中で何人か跳ね飛ばしたような気がするが気にしないことにする。
 目的のパンを買いこみ、すぐさま離脱。
 もはや俺は完全にこの購買での戦い方をマスターしていた。
 
「すごい、すごいぞ俺!」

 内心、あまり自慢にはならないのではないだろうかと思ったが。
 それでも意気揚々とパンを抱えて教室に戻ろうとする俺の前に、一つの影が立ちはだかった。

「先輩っ!」
「でぁああああああ!!」  

 今朝の少女−−−佐久間さんだった
 思わずのけぞり迎撃体制を取る。
 なんだ、またチャイムが鳴るまで鬼ごっこなのかっ!?
 背を向け、ダッシュの体制を取る俺を彼女が慌てて呼び止める。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
「んぁ?」
「謝りたいんです、今朝のこと!」

 とりあえずダッシュの体制を崩し、彼女のほうに向きなおる。 

「あの、今朝はちょっと早まりすぎました。ごめんなさい」
「はぁ、さいですか」

 早まったとか、そういう問題じゃないような気がするんだが。
 まぁ、この際置いておく。

「え、えーと、まずはお友達からということでいいですかっ?」

 『いいですかっ?』と小首を傾げてこちらの反応を伺う彼女。
 あ…可愛い。
 
 って。
 違う違う違うちがーうっ!! 
 
「いや、『いいですか?』じゃなくてだな…」
「だ、だめなんですかぁ…」

 が〜ん、と口で云いながら数歩のけぞる彼女。
 かなり面白いリアクションをする子だな、と思った。

「ダメとも云ってないっ!だからぁ、なんで昨日会ったばかりなのに、好きとか付き合うとかそういう感情になるんだよ?」
「まずはお友達からでいいって云っていますよ?」
「それは言葉のアヤっ!」
「ぶぅ〜」

 そう云って頬を膨らませる。表情が多彩な子だな、と思った。

「う〜ん、でも一目惚れっていうのもあるじゃないですか」
「いや、まぁ、それはそうなんだが」

 俺って、一目惚れされるような絶世の美男子だったのか。
 今まで気付かなかったぞ。そうかそうか。

「でも俺、一目惚れされるとか、そういうタイプじゃないぞ?」

 見栄を張っていたかったが、口は正直だった。

「ええ、確かに特別格好いいわけじゃないですけど〜」
「ぐさっ!」

 この子も正直だった。…ちょっぴり傷ついた。

「ああ、もういいからっ。理由もなくわたしは先輩が好きなんです。そういうことにしておいてくださいっ」
「な、投げやりだな」
「先輩が、なかなか友達からっていうのを認めてくれないからですよ〜」
「まだ認めた覚えは…もぐぁ」

 云いかけた言葉は口に当てられた佐久間さんの手によって封じ込められた。

「もうあれこれ云いっこなしですっ!」
「むがごがごが…むー! むー!」
「わたし、いつかは先輩と中庭でシート広げて手作りお弁当食べたりするんですっ! それが夢なんですっ! ええ、そうですとも! だからお友達からくらい、いいですよね? ね?」

 俺の口を塞いだまま、思いっきり顔をこちらに近づけて懇願する彼女。
 口を塞いだままなので、返事などできるはずもない。
 違う。返事以前に息ができない。
 …すごく苦しい。

「わたしが食べさせてあげたりなんかして、『あーん』ってやるんですよ〜キャッ!」

 息ができないせいで、脳に酸素が届かなくなっているのがはっきりとわかる。
 少しづつ意識が薄れていく。ああ、そうか。…俺は死ぬのか…
 って、おい。
 
「ぶはぁ!!」
「きゃあ! なんですか先輩!」
「なんですかじゃないっ、息ができなくなるほど強く口を塞ぐなっ!変なところで死を悟ってしまったじゃないか!」
「あ…ご、ごめんなさいっ」

 ぺこっ、と全身を使って謝罪の意を表現する佐久間さん。うぅむ、いい子なんだろうけど…なぁ…
 とにかく、このまま返事を有耶無耶にしておいては、またいつ命を狙われるか分からない。

「わかった、とりあえずお友達からだ。いいな」
「あ、ありがとうございますっ! きゃ〜〜やった〜嬉しいっ! 嬉しいぃ〜〜!!」
 
 その場でピョンピョン飛びまわりながら喜ぶ彼女。
 忘れていたが、まだこの辺りは通る生徒の数も少なくない。
 いい見世物だった。

「頼むから落ち着いてくれ…かなり面白い見物対象として扱われているぞ…」
「あ、そうなんですか?」

 気付かなかったという表情をする彼女。実際気付いてなかったのだろう。
 ……どっと疲れが押し寄せてきた。
 そろそろ退散したほうがいいだろう。というか退散したい。
 
「んじゃまぁ、佐久間さん。友達からってことでよろしく頼むわ」
「はいっ、わかりました!」

 ぐっ、と胸元で両手を握る。決意の表明だろうか。
 だが何の決意かは疲れるので考えないことにする。
 
「あぁっと! 友達なんですからわたしのことはあだ名で呼んでくださいよ〜」
「どんな?」
「りえりえ」
「嫌だ」
「ああん! 別に先輩がりえりえって呼ばれるわけじゃないですから〜」

 それでも嫌だ。
 俺が『りえりえ』というメルヘンチックでファンシーな単語を口にすること自体がかなり厳しい。
 『りえりえ〜』と叫びながら佐久間さんの元へ駆け寄ったりした日には俺のクールでドライなイメージが崩れかねない。

「それはかなり恥ずかしいので他の呼び名を考えてくれ」
「ひっくり返して『えりえり』とか」
「嫌だ」
「ぶぅぅぅ〜」

 膨れる彼女。
 この調子だと、イマイチ他人行儀な『佐久間さん』じゃ納得しないだろうな…
 俺はある程度覚悟を決めて妥協案を出した。
 
「莉依ちゃん、じゃダメか」
「あ、なんか付き合い初めの恋人同士みたいで可愛いですねっ」
「そ、そうか?」
「いいですっ、じゃあそれで呼んでください」
「わかった」
「…………」
「…………」

 って。
 ……もしかして今ここで呼んでみろ、と?
 彼女を見るとニコニコしながらこちらを見ている。
 なるほど、彼女は間違いなく呼ばれるのを待っているわけだな。
 ……な、名前くらい簡単に呼べるさ。楽勝だ楽勝。
 腹に力をこめて俺はその言葉を絞り出した。

「り、り、り、り」

 どこが楽勝なんだ。 

「り?」
「り、莉依ちゃん?」
「はぁいっ!」
「…はぁ…」

 …俺がドモるのを楽しんでなかったか、コイツ。
 なんか、完全に向こうのペースにはまっている気がした。
 
「じゃ、俺は教室に戻るよ」
「はいっ、わたしも戻ります。それじゃ!」

 くるっと身を翻すと佐久間さん…じゃなかった。
 莉依ちゃんは自分の教室の方向へと去っていった。ときどきこちらを振り返っては手を振る。
 …かなり恥ずかしいからやめて欲しかったが、それを彼女に伝えるべく大声を出すのも、また恥ずかしいのでやめた。
 
 ………
 ……
 …
 行ったか。
 まったく、嵐のようなひとときだったな。
 
 昼飯を食べ忘れるくらいに。

---------------------------------


「ぐぁぁぁぁぁ〜腹減ったぁ〜」
「情けない声出さないで下さい。もう授業始まってますよ」

 昼食を摂っていないことに気付いたあと、慌てて教室に帰って飯を食おうとしたがもう遅かった。
 パンの包みを開けようかと手をかけた瞬間に、チャイムが無常にも授業開始を告げた。
 せめて、包みを開けた瞬間なら無理やりにでも口に放りこめたものを…
 
「あはぁぁぁぁん〜腹減ったあ〜」
「もう、恥ずかしいですね…」
「なんでお前が恥ずかしがるんだ」
「隣人として、です」
「そうか…」

 もう冗談を云う気力もなかった。
 よくよく考えれば朝飯も急いでかき込んだので、全然食べた感じがしない。
 つまり実質二食抜いてるようなものなのだ。
 
「ぐぬぬぬ…いつ飢え死にしてもおかしくないぞ」
「それは云い過ぎだと思います」
「そうかもしれない…」

 飢え死にしないにせよ、この状態は危険だ。
 俺は空腹からくる眩暈と戦いながら、授業の終わりを切に願った。

----------------------------------

「終わったっ! 終わったぜぇぇ!」
「お疲れ様です」

 長く苦しい午後の授業を終え、解放された喜びを噛み締める時間ももどかしく、急いで昼に買っておいたパンを口に放りこむ。
 …う、美味い。
 学校の購買で130円のメロンパンがこんなにも美味いものだったとは。
 何故か、目頭が熱くなっていくのを感じていた。

「たかが130円の涙ですか」
「それを云うな」

 くそぅ、思いっきり感動に水を差された。
 確かに正論は正論ではあるのだが、何故か悔しかった。
 そして、その正論を口にした水森の言葉尻に刺を感じた。

「……水森?」
「はい」
「ひょっとして、腹減ってる?」
「減っていません」
「ひょっとして、眠い?」
「授業中にぐっすり寝ました」

 空腹でイライラしているわけでも、寝不足で機嫌が悪いわけでもないようだ。
 じゃあ何故こんなにも俺を見る視線が冷たいのだろう。
 
「……なんか怒ってる?」
「いいえ」
「怒ってるだろ?」

 云いながら、ぐいっと顔を彼女に近づけると彼女は急に慌て出した。
 互いの呼吸も感じられそうな距離。
 すぐ目の前に、少し赤くなった彼女の顔があった。

「べ、別にっ…」
「なんか俺、悪いことしたっけか。それなら謝るけど…」

 これ以上顔を近づけられては敵わんと判断したのか、水森は観念したように口を開く。

「えと、あの…ま、待ってたんです。昼…ご飯。一緒に」
「んぁ…」

 そういえば昼は莉依ちゃんに振り回されていて、教室に戻って飯を食うどころではなかった。
 あ…ひょっとして、待っててくれたのか…?

「そうか、もしかして待ってて…」
「も、もういいですっ。わ、私帰るので! さようなら」
「って、おい!」

 止める間もなく、凄い勢いで彼女は教室を出ていった。
 むぅ、待っててくれたとしたら彼女には悪いことをしてしまったかもしれない。
 でもそんなに照れなくてもいいと思うのだが… 

---------------------

 ………
 ……
 …
 気がつけば教室には俺一人しか取り残されていなかった。
 うぅむ、帰るか。
 食い終わったパンの空袋を教室の隅のごみ箱に捨て、そのまま下校すべく教室を出た。

 夕暮れの帰り道。いつもの並木道。
 町を染める緋色が目に少しだけ眩しい。
 穏やかな春の季節。人々が出会いの季節と呼ぶこの季節。  
 それなのに、この夕焼けの色は悲しくて。

 季節といえば…俺は昨日一昨日と学校の正門で出逢った少女―――秋端という名の少女を思い出した。
 今日の朝は莉依ちゃんのことで忙しくてそれどころじゃなかったが、あの謎めいた少女はどうしてるんだろう。
 彼女の云った言葉の意味は、結局何一つ解ってない。

「……また逢えるといいんだが…」
「それは、私のこと?」

 ………声が聞こえた。すぐ隣で聞こえた聞き覚えのある声。
 そう、それは確かに今頭の中にあった少女のものだった。

「いつの間に隣にいたんだ?」
「さっきからずっと、よ」
「…全然気付かなかった」
「まだまだね」

 何がまだまだなのかは知らないが、秋端は挑発的にクスッと笑う。
 少し早い彼女の歩く速度にあわせて並木道を歩く。
 並んで歩いている間、彼女の横顔を見つめてみる。

「………」
「何?」

 朝の寒空以外で彼女と逢うのは初めてだったからかもしれない。
 その笑顔は、昨日までよりも少し暖かで柔らかな印象を受けた。
 その笑顔は、夕日の紅と重なって、ひどく美しかった。
 …ひどく、儚かった。
 
「…綺麗だな、と思ってな」
「誉めても何も出ないわ」
「いや、夕焼けが」
「…そう」

 …あ、ちょっと怒ったか?  
 俺としては日常的なジョークのつもりだったんだが。
 普段から馴れ合っている友人達と違って、リアクションが乏しいので非常に困る。

「んでさ、秋端はどうしてここにいたんだ?」
「特に用はないけど」
「そ、そうなのか」

 また何か勿体つけた言葉が出てくるのだろうかと思って期待していた俺としては、少し拍子抜けした感じだった。

「あえて云うなら、そうね…」
「云うなら?」

 彼女は立ち止まり、俺の眼を見つめ、笑顔のような泣き顔のような…そんな顔でポツリと云った。

「此処に貴方がいたから」

 そう云い終えた彼女は、俺から視線を外し、また歩き出した。
 さっきよりも少し足早に。
 夕焼けはいつしか夜の闇へと変わっていた。

 いつの間にか、長い並木道を抜けていたことに気付く。
 結局さっきの言葉以来、何も会話は無かった。
 
「あ、俺は家こっちだけど」
「そう、ならここまでね」
「そうか」
「さよなら」

 さよなら。
 そうあっさりと云った彼女の言葉に引っ掛かりを覚えて、俺は尋ねた。

「…もう、逢えないのか?」
「面白い事を聞くのね」
「そうか?」

 俺としては別に面白いことのつもりで聞いたんじゃない。
 むしろ、かなり真面目に云った方に分類される。
 そんな俺の心中に気付いているのかいないのか、彼女は続けた。

「…まだ逢いたいと思ってるなら、いつだって、どこでだって逢える」
「…そっか。ならよかった」

 心底そう思った。
 確かに彼女が最初に云っていた不可解な言葉の意味が知りたいというのもあったかもしれない。
 だけど、この不思議な彼女と個人的にもっと話をしてみたいと、そう思った。
 探求すべき興味の対象は、彼女の言葉から彼女自身へと移っていた。

「それじゃ、俺はこっちだから」
「そう、ならここまでね」

 さっきと同じ言葉でやり直す。
 少し呆れた様子を見せながらも、彼女にそれに付き合ってくれた。

「そうか、じゃあな」
「うん…またね」

 その言葉と同時に互いに反対の方向へ歩き出した。
 『またね』の一言が不思議に嬉しかった。
 
-----------------------------

 どさっ

 飯と風呂を適当に済ませてベッドに倒れこんだ。
 心配事は無くなったにせよ、基本的に寝不足なのには変わりなかった。
 学校でも色々あったし、基本的にドタバタした一日だったな…
 莉依ちゃん、か…
 昨日はあれだけ悲しい表情をしていたのに。

『死んじゃいたくなるんですよ』
 
 そう云った彼女の口調は軽いものだったけれど、その瞳は確かに悲しい決意の色をしていた。
 多分、止めなかったら本当に飛び降りていたんだと思う。
 …本気で自殺しようとしていたのに、一日で立ち直れるもんなのだろうか。
 俺には解らないけど。
 彼女が立ち直って、もうそれに触れられたくないなら…それでいいか。
 
 そう俺は結論を出して、改めて寝る体制に入った。

『神條先輩、好きですっ! 付き合ってください!』
 
 …また明日も頭痛に悩まされる、そんな気がした。

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