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「ぐうぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜、すぴぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜」

 誰も居ない部屋に怠惰な男の間抜けな鼾(いびき)が響く。 
 
 ―――『寝ていた』

 日曜日を語るなら、その一言だけで本当に事足りるのが恐ろしい。
 俺は休日の過ごし方が下手だ。
 なにしろ、こうした学校のない日に睡眠以外の事をした憶えが無い。
 よくよく考えれば、それって物凄いことなんじゃないだろうか…
 今度、美月辺りに上手な休日の過ごし方を教えてもらった方がいいのかもしれない。
 たまにはどこかへ遊びに行くのも―――悪くはないと思う。
 
 だけど、閉めきったカーテンの隙間から射しこむ暖かな真昼の太陽光は、そんな決意を溶かしてしまうのに十分な暖かさで…
 俺はやはり眠りの世界に埋没し続けることをやめなかった。


 気がつけば日付が変わっていた。
 ―――そして俺は、また夢をみる。

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―――殺せ。

―――殺せ。

―――殺せ。

 呻き声と共に死者が動き出す。
 腐った瞳。ガラス玉。

 彼らは死臭を発しながら私に―――黒い悪魔に、群がる。
 私は為すがままに食らい尽くされる。

 痛い。
 痛い。
 痛い。
 
 痛いんだ。

 でも私は逆らわない。逆らえない。
 目玉が刳り貫かれても。
 内臓が無くなっていっても。
 絶えるしかない。彼らの憎悪を受け止めるしかないのだ。
 何故なら―――
 
 彼らを殺したのは私なのだから。


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「おえぇぇ」

 ぬぅ、ここ数日は平凡な目覚めを得られていたのに。
 一体どうしたことか。
 俺って深層意識のどこかで、なんか厄介な悩みでも抱えてる?
 頭を振って目を閉じる。
 ……
 ゾンビどもの虚ろな瞳の像が甦る。 
 くそっ。

「やぁ、おはよう諸君!!」

 多少の空元気を気取ってみる。
 夢見の悪さも、いつものように騒げば吹っ飛ぶと思った。
 ちなみに諸君といっても美月しかいない。

「あ、おはよ」
「むぅ、どうした」

 俺の元気の良さとは対照的に、美月には覇気が無いような気がする。
 向こうもそれなりに空元気のつもりかもしれないが、まがりなりにも幼馴染だ。
 いつもより調子が悪い事くらいは分かる。

「ちょっと風邪気味かも」
「流行ってるらしいな」
「らしいね」

 先週も学年の始まりの時期には珍しく、随分と欠席者が多かった。
 思うに、ここ最近の異常気象による気温の上下が原因じゃないだろうか。
 ここ数日で急激に気温も下がったしな。

「うぅー」
「おいおい、大丈夫か」
「身体がダルいよ…」

 台所とダイニングを行き来する間も足元がフラフラとしている。
 ぬぅ、結構ヤバいんじゃないのか。

「座ってろ。飯はできてるんだろ?運ぶくらいは俺がやる」
「ん、ごめん…」
「気にするな。飯そっち持っていくから」
「食欲な〜い」
「アホ、食え」

 風邪ひいてる時でも飯くらいは食っておかないと抵抗力がつかなくて死ぬぞ。
 台所で既に完成している料理を適当に盛り付けて美月の座っているテーブルへ運ぶ。
 
「ごめんねぇ」
「というか、具合悪いならわざわざ来なくてもいいぞ?」
「ん、なんか習性でね」
「犬かお前は」
「わんわん!」
「はぁ、もういい…」
「くぅ〜ん」

 いつもと立場が逆な事に、内心苦笑しながら、俺も朝食を摂り始める。
 実は、俺も朝のへビィな夢のせいで食欲旺盛とは云いがたい。
 かと云って残すと美月に示しがつかないので半ば無理矢理流し込む。

「ごちそうさま」

 食器を流しにぶちこみ、ダイニングに戻ると美月も遅まきながら食い終わっていた。
 彼女の分の食器も回収し、流しへ。
 美月に先に外に出てるように云って、俺はいつものように戸締り確認。
 鞄を持って玄関を出ると、門に美月が寄りかかっていた。

「待たせたな。いくぞ」
「うぃっす〜」

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「なんか、今日の弘耶って頼もしい」
「そうか?」
「いつもわたしがやってる事を、今日はテキパキとこなすんだもん」

 そう云われると照れるものがあるが。

「今日はもう遅いが、明日から調子が悪かったら遠慮なく休め。俺のことは気にするな」
「そうは云われましてもねぇ」
「じゃあ、云い方を変えよう。倒れられたら俺が困る」
「どう困るの?」
「いろいろと、だ」
  
 多分心配で授業どころじゃないだろうし、俺としても責任を感じねばならないだろうし。
 まさに色々あるが、合えて口には出さない。

「まぁ、そんなに重病でもないから、すぐ治るよ」
「うむ。そう願う」
「へへへー」
「な、なんだ」

 こちらの顔を覗きこんでニタニタと笑う。

「なんか弘耶、優しいね」
「別にそうでもないぞ」
「あんまり長々と風邪もひいてられないけど、機会があったらまたひいてみよっと」
「まぁ、たまになら許す」

 学校が見えてきた。
 そういえば今日は久しぶりにのんびりとした登校だったな。
 美月が風邪だからだろうか。だとしたらなかなかにありがたい
 あんまり長々と風邪もひいていて欲しくないが、たまにならひいて欲しい。
 そう思った。

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「んじゃ、登校前にちょっと部室行ってくるね」
「おう、無理すんなよ」
「わかってるってー」

 くるくると回って健康を主張する美月。
 だが、俺にはその仕草が逆に危なっかしくも見えた。

「無理すんなよ」

 そう繰り返して、校舎のほうに向かった。
 やっぱりというかなんというか、校舎前にはいつもの顔。

「おはようございますっ」
「おはよ」
「聞いてくださいよ、日曜日にですね〜」

 いつぞやのように抱き着いてくる事はなく、スッと横に並んで色々と会話を振ってくる。
 平穏でありがたいのだが、これはこれで寂しい気もする。
 彼女も彼女なりに俺への接し方を考えてるんだろうか。
 最初はとにかく思いっきり近づいてみて、それからゆっくり離れていって自分の居心地の良い場所を探していく。

 ―――ゆっくり離れていく―――

「せんぱーい、聞いてます?」
「おう、聞いてるぞ」

 俺は寂しがってるのか?
 彼女は一時的に懐いているだけ、そりゃあいつか冷めもする。
 そうしたらこの少し気恥ずかしくて少し楽しいこのやり取りも……
 
 ああ、もう、ややこしい!
 深く考えるのはやめにした。

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「おはよう」
「おはようございます」
「今日からまたダルい一週間がはじまる、なんて考えてるんでしょう」
「お、よくわかったな」
「顔に書いてあります」

 ぬぅ、そうなのか。
 比喩表現だと分かってはいたが、俺は袖でゴシゴシと顔を拭った。
 …馬鹿みたいだ。

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 いつものように授業は流れていく。
 話を聞いて、黒板に書かれたことを書き写して、時々向けられる質問に答えて。
 分からなくなったら誰かに泣きついて。
 先週から、いや、去年から…多分もっと前からの繰り返し。
 変わらない授業風景。

 だけど、変調は何の前触れもなく訪れる。

「あー、この問題はよく狙われるから注意するようにね―――」
「むー」
「ちなみにここで間違えやすいのがここの―――」
「むむむー」

 さっぱり分からない。
 珍しく授業の頭から話は聞いていたはずなのに、いつのまにか俺だけ置き去りにされている。
 不思議だ。
 教室の前では疲れ気味の数学教師が熱心に教鞭を振るっている。
 しっかし、足元がフラフラだぞ…
 前から気になってはいたが、やっぱり流行りの風邪か何かだろうかねぇ

「じゃあ次のページ、教科書の9…ビ…ビ…ガフ…ブヅ…アガ……」
「え…」

 ずどん。
 …
 ……
 ………
 

 状況がよく分からなかった。
 今の今まで授業をしていた教師が、チューニングし損ねたラジオみたいな、奇怪な発音を繰り返した。
 そして突然、糸が切れたように―――そう、まさにその形容詞がピッタリくる感じで―――倒れた。
 当然、こんな不測の事態が起きれば、クラス内は騒然と…
 …
 ……
 ………?

 誰も立ちあがらない。
 まるで、今も教師が前に立って授業を続けているかのように、各自がひとりでに『授業』を続けている。

「おいっ!?」
 
 そんな教室の気味悪さも手伝って、俺は倒れた教師の元へ駆け寄った。 
 教師は倒れたまま、床に向かって黒板に字を書く運動をわずかに続けていた。
 緩慢に、ガサガサと、弱々しく。
 ひっくり返された、自走するブリキ製の虫の玩具―――そんな感じだった。
 そして、壊れた虫は、ぜんまいが切れるときのように、ゆっくりと字を書く運動を停止する。
 可笑しいくらいに、玩具と言う形容がぴったりだった。 

「……せ、先生、大丈夫ですかっ?」

 そんな動きを、呆然と眺めているだけの自分に気付き、慌てたように声をあげる。
 少しの間、呼吸を止めていたことに気付いた。同時にドクドクと早鐘のように脈打つ心臓にも気付く。

「先生ッ!?」

 返事はない。
 呼吸を確認しようにも、俺自身、動揺で息が乱れきっていて確認できない。

「ちょっ…誰か保健室に…」

 返事はない。
 思わずその場で立ちあがって愕然とした。
 俺を見つめる――正確には俺のほうを向いている生徒たちの眼。
 腐った瞳。ガラス玉。
 
 ―――朝に見た夢のゾンビ達のような。
 
 死んだ眼。
 教室の生徒の瞳は例外なくその薄気味悪いガラス玉だった。

「ど、どうなって…」

 問いかけても返ってくるのはカリカリとシャープペンを走らせる音だけ。
 気味が悪い。
 …吐き気すらこみ上げてくる。
 倒れた教師の事なんてすっかり忘れていた。
 フラッシュバックする今朝の画像。
 逃げ出したい。
 逃げ出したい。
 逃げ出したい……!!

「うぁ…」

 足が教室の外へ向きかけた時だった。
 
「この人をを運ぶんですね。手伝います」

「あ…」
「どうしました?早く」

 朝聞いたばかりなのに、その声にひどく安心した。
 そのおかげで半ば冷静さを失っていた自我もいくらか戻ってきた。
 …落ち着け。
 目の前に倒れている人間がいる、ほっておけない、でも誰も助けない。
 となると、道は自然と決まってくる。

「悪い、手伝ってくれ。…担架とかないかな」
「保健室にあるかと思いますが、いっそのこと二人で担いでいった方が早いと思います」
「じゃ俺が脇から抱えるから、水森は足を」
「はい」
「んで…これは…一体…?」

 くいっと、顎で教室を示す。
 さっきから変わることなく、『授業』を続けているゾンビ、違う。生徒達。

「…気にしてどうなるものでもないでしょう?」
「くっ…」
 
 予想に反して水森の言葉は冷たかった。
 仕方なく当初の予定通りに、教師の脇を抱え持ち上げる。
 …まるで死んでいるかのように重い。
 教室のドアを足で開け、ゆっくりと保健室へと移動した。

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 保健室には誰も居なかった。
 水森は手馴れた様子で教師をベッドに寝かせ、テキパキとなにやら動いていた。

「とりあえず、容態を診てみます」
「保健の先生とか、呼ばなくていいのか?」
「呼んでも仕方ないと思いますよ」
「…」
「すいません、閉めます」

 そう云うと、音と共に白いカーテンが閉められた。
 容態を診てみますって…そんな、医者でもないのに…
 
「一体…何が、どうなって」
 
 もう何もかもがわからなかった。
 夢であればいい、なんて思うのは楽かもしれない。
 でも今更これが夢だなんて思えるほど気楽な性格はしていない。
 …
 ……
 ………
 しばらくカーテン越しに聞こえる物音をバックに考えを巡らせていたが、当然ながらも納得のいく結論になど辿りつけなかった。

「なぁ、水森。お前は何か知って…」

 カーテン越しに問いかける。
 しかし、聞こえてきたのは俺への返事とは考えにくい水森の声。

「やっぱり、私じゃ…だめ…もう、間に合わな…」

 …何を云ってるんだ?

「助けて先生…たすけてよぉッ!!」 

 ヒステリックな叫びとともにガシャンと物が倒れる音、割れる音が聞こえる。
 わずかに透けるカーテンの向こうに見える水森の影は、いつもの彼女とは別人かと思うほど取り乱していて―――

「水森!?」

 悪いとは思いながらもカーテンを少し開ける。
 飛びこんできたのは血まみれの水森と―――右腕がごっそりと抜け落ちている、教師の身体だった。

「あ…せんせ…い?」
「み、み、水森。こ、これ…一体?」

 どこか焦点のあっていない水森の視点。
 さっき教室で見たガラス玉とまではいかないが、何処か遠くを見る瞳。
 今の言葉も、俺に向けられてではない事は明白だった。
 目の前の光景。
 血。
 保健室のベッドを真っ赤に染める血、そして水森。
 
「せ、説明し…」
 
 舌が回らない。口の中が乾燥しているのが分かる。
 朝までは普通の暮らしを見ていた筈なのに。
 確かに俺はそこに居た筈なのに…
 こちらが説明を求める前に水森の方が口を開いた。いつの間にか焦点は戻っている。

「神條さん…」

 返事をしようとしたが、声が出なかった。
 そんな俺を察してか、こちらにゆっくりと歩いてくる水森。
 真っ赤なその手。
 血。

「あ…」

 血。
 赤。
 死。
 いくつもの単語が頭を去来し、いつか見た映像――― 一面の闇が脳裏に浮かぶ。
 赤い天使。赤い少女。
 バラバラの身体。
 食い潰される何か。

「うあああああああっ!!!」


 ようやく出た声は言葉じゃなく、単なる叫びでしかなかった。
 尋ねるべき事は山ほどあっただろうに。
 道を塞ぐ椅子や机を蹴り飛ばし、逃げるように俺は保健室を出た。
 叫んだ理由もわからずに、水森が追いかけてこないか何度も振りかえりながら、鞄も持たずにそのまま学校を出た。
 日常なんてもの、もう何処かに消えてしまったんだろうか…

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 どこをどう歩いたのか分からなかった。
 時計を見ると三時間程歩き回っていたらしい。
 いいかげん足も疲れたのか、気がつけば朽ちかけたベンチに座っていた。
 街外れの森の奥、忘れ去られた公園。
 誰も居ない、静かな場所。

「…はぁ」

 張り詰めた身体をベンチにあずける。
 大きく息をすると思いの他、全身が疲れていた事が自覚できた。
 耳の痛くなるような静けさ。
 鳥の音も、虫の声も聞こえない。完璧な静寂。 
 自分の手は無意識に制服の内ポケットにのびていた。 
 最後に取り出してから久しかったからか、随分と萎びたそれをとりだすと、口にくわえて火をつける。 

「ふぅ…タバコなんていつ以来だったっけ」

 煙を吸い込むと頭が痺れて―――休まっていくのを感じた。
 …ひどく落ち着く。
 
「あら、こんなところに不良生徒が」
「秋端…か」

 吐き出した煙の向こう側に見える顔。
 今は誰の顔も見たくなかったのに、何故か落ち着いた。

「学校サボって何してるの?」
「ちょっと疲れた、小休止だ…」
「煙草なんて吸うのね」
「昔からな。本格的に参ると無意識に手が伸びる」
「不健康…」
「ほっとけ」

 どうして俺はこんな所で談笑してるんだろう。
 現実逃避か?それなら一人で部屋に篭ってればいい。
 今はもう、人間には出会いたくない。

「でも、昔から弘耶はそうだったから」
「ん…」
「人と話している時もプースカプースカ煙草ばかり」
「それって…」
「独り言」

 くそ。
 だが今は追及する気も起きなかった。
 思考が具現化しない。

「…」
「……」
「何かあったのかしら」
「…」
 
 ありすぎて返答に窮する。
 それはあまりにも突然で、突拍子も無い事で。
 未だに自分でも把握しきれていない。
 
「あったと云えばあったんだが…」
「分けの分からない事なら、得意だけど?」

 そうだった。
 突拍子も無い事なら目の前に専門家がいたじゃないか。

「とんでもなくおかしな事が起こったんだ」
「そう」
「正直、信じられないと思う」
「そう」
「聞いてくれるか?」
「構わないわよ」

 秋端は嫌な顔ひとつせず呟いた。
 そして俺の隣に腰掛けて、付け加えた。

「あ、煙草は止めてね」

 タバコは二十歳になってからね、と指を立てる仕草。
 …自分でも口元が緩むのがわかった。
 どうしてコイツはこんなにも俺を落ち着かせるんだろう。
 すっかり短くなった煙草を揉み消し、俺はゆっくりと口を開いた。
 突然開いた非日常の扉。
 惨劇。
 死霊の瞳。
 付け加えて、俺がたまに見る不可解な夢も。
 話を続けていくうちに、少しずつ彼女の表情が曇っていった。
 多分それは、理解の範疇を超えたことによるものではなく

「どうしてこんなことになってるの…?」

 ということだった。

「なあ、秋端。何か知っているなら教えてくれ…気がどうにかなりそうだ」
「うん…」
「なあ!?」
 
 秋端の肩に掴みかかる。
 思ったよりずっと華奢な身体に驚いた。
 彼女は特に振りほどこうともせず、こちらを見つめて答えた。
 その瞳に血の上った頭も幾分冷える。

「…少し、時間を頂戴。ひとつ、確信の持てないことがあるの」
「ああ。わかった。それと…」

 秋端の肩から手を離し、謝罪する。

「…その、悪い」
「なにが?」
「かなり取り乱してしまった」
「ふふふ、貸しにしておくわ」
「ありがたい」
 
 そう述べたあと、ゆっくりと立ちあがってみた。
 最初の陰鬱な気分はいくらか和らいでいた。
 …秋端のおかげなんだと思う。

「秋端―――君が不審人物でよかったよ」
「なにそれ」
「俺なりの礼だ」
「…どういたしまして」

 多分、彼女が常識的な人間だったら、あんな現実離れした話を聞かせる気にはならない。
 普通とどこか違う言動、気配。
 そんな彼女だったから、心を許して事情を説明する事が出来たんだと、勝手にそう思うことにした。

「じゃあ、また」
「ええ。一応…気をつけて」
「ん?…ああ」

 現実は何も解決していない。
 俺が居るのは未だに悪夢の中、なのか…

「弘耶」
「ん…」
「最初、多分わたし勘違いしていたかもしれなくて。こんなことになるなんて…」
「またよく解らないが、秋端は悪くない」
「でも…」
「気にしなくていい、秋端。」
「…うん」

「これは私自身の大罪なのだから」

「「え?」」

 二つの声が重なった。 
 一つは当然秋端。もう一つは自らの声に驚いた俺の声。
 今の言葉。俺の言葉の筈なのに俺の意思とは無縁だった。
 どこか、『喉の奥からこぼれ出た』感じの言葉…

「今、俺なんか、変な事を…」
「弘耶…あなたやっぱり…」
「あれ、おかしいな、なんか…俺」

 頭が混乱する。
 いくらか晴れていた気持ちはまた暗雲に覆われた。

「…帰る」
 
 俺はそう一言だけ告げて、返事も聞かず公園跡を去った。

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「あれ…」

 家に戻ると、玄関のドアの前に俺のカバンが置いてあるのを見つけた。
 誰が置いていったんだろう。
 順当に考えるに美月だろうが…
 美月。
 美月は今日の話を聞いたらどう思うだろうか。
 やっぱり俺を奇異の目で見るのだろうか…
 考えたくない。
 雑念を振り払うように乱暴にドアを開けた。

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 とんとん、とんとん
 リズム良く包丁がまな板を叩く音が台所に響く。
 はっきり云って全然飯を食う気にはならない。
 でも、昼食も摂っていないし、このまま夕食までパスしたら身体がもたない気がした。
 精神的にも参っているんだ。せめて身体的には万全にしておきたい。
 そう思った末の夕食だった。

 とんとん、とんとん
 人参を刻む。
 うむ、俺の包丁捌きもまだまだ捨てたものではないぞ。
 順調に次々と材料を刻んでいく。
 じゃがいも、大根、
 とんとん、とんとん
 昼までの憂鬱の反動か、なかなか楽しくなってきた。
 次は左手首か。
 ちょっと堅いので一気に切り落とさないとな。
 一度包丁をあてがってから、しっかりト自分の手首に狙いをつけテ…

 ―――死ね。

「……ッ!!!」

 ガチャン
 
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
 
 俺は…俺は? 何を…?
 
 包丁を自分の手にあてがって…切り落とそうと?
 なんで…!? なんで…!!??

 咄嗟に包丁を放り投げたので致命傷には至らなかったが、あてがった時に出来た薄い切り傷から血が滲む。 
 わずかに零れる死の感覚。
 壊れてた日常が今―――具現化した。

「うあああああっ! …うあ…!」

 限界だった。
 心の中に溜まっていたストレス、不安、そんなものが一気に吹き出す。
 胃の中から堪えていたものを吐き出す―――吐きだそうとする。
 何も胃に入っていないため、胃液が逆流して口の中が不快感で満たされる。
 自分の惨めさに、ただ泣きじゃくった。
 子供のように。
 
「ぐっ…あああ…うぅっ…うぐぁ…」

 俺は泣いている。
 俺は笑っている。
 俺の中で誰かが笑っている。
 
 ―――笑っている。

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