「…朝か」
 
 目覚ましが鳴るよりも早く目が覚めた。
 手の平を見ると、少し汗を書いている事に気付く。
 昨日はあれから何も言葉を交わさず別れてしまった。
 確かに、あれ以上会話をする必要もなかったのだが、このワケの判らない不穏な気持ちを紛らわすために、誰かと言葉で繋がっていたかった。
 『この世界に住む人々はやがてその活動を停止する』
 そんな突拍子もない言葉を信じている自分が滑稽に思えてしかたない。
 
「くそっ」

 早く学校へ行って誰かと喋ろう、そう決めて布団を抜け出した。
 
「やぁ、おはよう!」

 階下に居るはずの美月に大声で朝の挨拶をくれてやる。
 さぁ来い、今ならどんな罵倒も許そう。
 とにかく俺は騒ぎたかった。
 
「おはようございます」

 期待とは裏腹に、返ってきたのは妙に丁寧な美月の返答だった。
 って、違う。
 
「水森?」
「はい、水森です」

 なんで彼女がこの家に?
 俺の疑問に先回りするように水森が答える
 
「美月は風邪だそうです。だから私が代わりに、と電話を貰ったので」
「……なるほど」

 先週は風邪なんて素振り、ちっとも見せなかったのにな。
 
「ったく、無理しやがって」
「心配ですか?」
「多少な」

 ………なんて日常的な会話なんだろう。
 昨日はあれほどまでに非日常のさなかにいたのに。
 
「食事、作ってみました。どうぞ召し上がって下さい」
「おぅ」

 メニューはフレンチトーストとハムエッグ、そしてコーンスープだった。
 和食類が得意な美月に対して、水森は洋食派のようだ。
 いつもよりも少しだけ時間をかけて朝食を取る。
 
「ごちそうさま」
「いかがでした?」
「美味かったよ。お世辞抜きで」
「そうですか」

 よかった、とばかりに嬉しそうに微笑む水森。
 うむぅ……不自然なくらいに穏やかな朝だ。
 
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「戸締り完了、行こうか」
「はい」

 玄関の鍵をかけて通学路をゆっくりと歩く。
 美月との登校時と違って、朝から全速力で走るようなこともない。
 
「なぁ、水森」
「はい?」
「水森の笑顔って、なんかいいよな」
「……」
「心が落ち着く」
「練習、しましたから。まだそんなに上手くはないですけれど」
「そいつは偉いな」
 
 子どもにするように、頭を撫でると水森はくすぐったそうに身をよじらせる。
 
「んん…恥かしいです」
「俺もだ」

 ハハ、と笑う。
 そんな俺を水森は興味深そうに覗きこんだ。
 
「ん、どうした?」
「神條さんはなんで、そんなに楽しそうに笑えるんでしょう」
「へ?」
「わたしには、できません」
「どういうことだ?」
「……すいません、なんでもないです」

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 校門が見えてくる。
 なんだ、こんなにゆっくり歩いても十分間に合う時間じゃないか。
 なんで俺達は毎日あんなにも走っていたんだろう。
 
「ああー、着いた着いた」
「……」
「どうした、水森」

 振りかえると、俺の数歩後ろで立ち止まっている水森が居た。

「いえ…なんでも」
「そっか」

 そう云われると何にも突っ込めないんだよなぁ…
 本人に聞かれないように、そっと呟いて俺はまた歩き出した。
 
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 教室に着いて、二人揃って鞄を置く。
 いつもなら水森が先に来ていて俺に挨拶をしてくれるが、一緒に登校してきたので今朝はそれがない。
 生活のリズムが微妙にズレたような不思議な感覚だった。
 
「おはようございます?」
「え?」

 こちらの心中を悟ったのか、あらためて水森が挨拶をしてくる。
 
「おはよう、水森」
 
 ……馬鹿らしい行為だったが、それでもその馬鹿馬鹿しい動作が何故か楽しかった。
 日常の営み。
 それが壊れてしまうなんて考えもせずに。

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 いつものように授業は流れていく。
 話を聞いて、黒板に書かれたことを書き写して、時々向けられる質問に答えて。
 分からなくなったら誰かに泣きついて。
 先週から、いや、去年から…多分もっと前からの繰り返し。
 変わらない授業風景。

 だけど、変調は何の前触れもなく訪れる。


「あー、この問題はよく狙われるから注意するようにね―――」
「むー」
「ちなみにここで間違えやすいのがここの―――」
「むむむー」

 さっぱり分からない。
 珍しく授業の頭から話は聞いていたはずなのに、いつのまにか俺だけ置き去りにされている。
 不思議だ。
 教室の前では疲れ気味の数学教師が熱心に教鞭を振るっている。
 しっかし、足元がフラフラだぞ・・・
 前から気になってはいたが、やっぱり流行りの風邪か何かだろうかねぇ

「じゃあ次のページ、教科書のビビガフ…ブヅ…アガ…ズァ」
「え…」

 ずどん。
 
 目の前で数学教師が人間の声とは思えない、ノイズのような声を出してを倒れた。
 その光景を目にした途端、さっきまで忘れていた―――忘れようとしていた昨日の話が頭に蘇る。
 『永久機関』の話、この世界の人々の話、寿命の話……やがて皆朽ち果てるという話。
 
「うあ……」
「神條さん」
「うああああああああああああああああああ!」

 全ては本当で、でも全ては嘘で。
 全ては真実で、でも全ては虚構で。
 
 忘れようとしていた、気にしないようにしていた。
 心のどこかではそんな事ありえないと思っていた。
 非日常が流れ込んでくる。
 俺が必死に縋ろうとしていた日常を全て押し流していく。
 消えていく。
 俺が信じていた何もかもが見えなくなっていく。
 
 俺はその場から逃げ出した。
 後ろから俺を呼ぶ声がしたが、今はそんなもの気にしている余裕はなかった。
 
 
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 俺は何処にいるんだろう。
 視界に入るものは緑。
 今にも崩れそうなベンチが俺の体重を支えている。
 なんだ、ここは…例の場所か。
 
「落ち着け…俺」

 自分に言い聞かせるように呟く。
 混乱したら負けだ。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け……
 心の中でなんども呟く。

「神條さん」
「……!!」
「やっぱりここでしたか…」
「驚いたよ、水森か…」

 昨日のように、水森は俺の隣に座る。
 古びたベンチが軋むのが感じられた。
 
「……神條さん」
「ん?」
「全てを知りたいですか?」
「え…?」
「あなたのこと、わたしのこと、全てを知る気があるのなら…」
「………」

 俺の返事を待たずに、水森は立ちあがって森の方へと歩き始めた。
 
「全てを知る気があるのならついてきてください」
「……」

 まるではじめから選択肢なんてなかったかのように。
 そうすることが遺伝子に刻まれていたかのように。
 俺は彼女の後を追った。
 
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 木々の間をすり抜けながらほんの少しだけの距離を歩くと、目の前に古びた大きな建物が現れた。

「ここは…?」
「昨日お話ししましたよね。『永久機関』の研究施設。それがここです」
「…ここが?」

 頷いて、正面のドアを手で開いて入ろうとする水森を慌てて呼びとめた。
 
「おいおい!入っていいのかよ!?」

 彼女は俺のそんな心配も無視して建物の中に入ってしまった。
 
「…マジか」
 
 仕方なく俺もゴリゴリ音のするドアを押し開いて中へと入りこんだ。

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 中は予想したとおりの廃墟だった。
 整然とした建物の造りや、時々落ちている実験器具らしきものが、かろうじてここが『研究施設』ことを物語っている。
 
「水森…どこへ行くんだ?」
「ここの中枢。データベースなどがある部屋ですね」
「遠いのか?」
「心配されなくても、同じ建物の中ですから」
「そっか…」
「なにか?」
「いや……」

 さっきから―――正確にはもっと前から感じていたが―――胸がやたらとムカムカする。
 指先が痺れる。気温は寒いくらいなのに汗が滲み出してくる。
 ……自分の身体に異常が起こっているのは確かだった。
 水森に云うべきなのだろうか?
 でも余計な心配はさせたくないし……
 考えている間にも、水森は暗い廊下をどんどん先へ進んでいく。
 まるでこの建物の構造を知っているかのように、迷いなく。

「なぁ、水森?」
「はい」

 俺はそんな疑問をぶつけてみた。
 
「お前、この建物に何度か来たことがあるのか?」
「はい」

 わずかの躊躇いもない即答だった。
 俺がさらに踏み込んだ質問をしようとしたのを予測してか、
 
「わたしはここで働いていました」
「え…?」
「そういうことです。100年前、わたしはここで永久機関の研究をしていました」

 呆然としている俺を尻目に、水森は一際大きな両開きの扉の前に立ち、俺の方を一瞥してからゆっくりと扉を開けた。
 暗闇になれていた俺の目に、光が飛び込んでくる。 

「どうぞ。真実はこの向こうです」
「…」

 俺は覚悟を決めて、ゆっくりと足を踏み入れた。

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 扉の向こうはこの施設で今まで見てきた他のどの部屋よりも片付いていた。
 電気は通っているし、向こうを見ればパソコンまで稼動しているのが見える。

「ここがこの施設の中枢、データルームとでも呼べばいいのでしょうか。そんな部屋です」 

 水森はまるで自分の部屋のように部屋を歩き回り、稼動中のパソコンに何事か打ちこみはじめる。
 
「ちょ、ちょっと…俺は全然話についていってないんだが…」
「ついてきてください」
「な、な…」
「…少し言葉で説明しましょうか」
「頼む」

 俺がそう答えると、彼女はくいくいと手招きをして俺を一人がけのソファーに座らせた。
 そしてどこからか取り出したのか、妙なコードを俺の頭や腕にクリップのようなもので付け始める。
 
「あの…水森さん。全然言葉で説明していませんが」
「細かい人ですね」
「だぁ、そういう問題じゃないっ!」
「動かないで下さい、コードがずれます」
「く、くすぐったいって!」

 そんな場違いにも思えるやりとりをしていると、ふと頭に学校での日々が過る。
 数日前のことなのに、もうその記憶はひどく遠い所にあるように思えた。
 
「永久機関―――その一部を担う『永久脳』の概念。これを利用すると、ヒトの記憶をデータ化することでバックアップする事が可能となります」

 どうやら水森先生の講義が始まったらしい。
 俺は暴れるのをやめてその話に耳を傾けた。
 
「つまり、例えばある人が死んだとしても記憶のバックアップを取ってあれば再生が可能だと言う事です。もちろん肉体は永久機関による”ニセモノ”だという条件付ですが」
「それは便利だ」

 何を落ち着いている、何を納得しているんだ。
 現実をよく見ろ神條弘耶。目の前にあるのは非常識の代表格みたいな事象だぞ?
 
「神條さん、あなたと同じ名前の科学者が居ました」

 俺は大きく深呼吸をした。
 ああ……覚悟してやるさ。
 何が常識で何が非常識なのか。何が現実で何が虚実なのか。
 そんな考え、忘れてしまえ。
 彼女が、水森が目の前でこうして俺に語り掛けている。
 それが現実。
 それは俺が認識する世界を留める鎖。

 俺はもう一度大きく深呼吸をした。
 
「あなたはその科学者の記憶と知識のデータを受け継いだ存在」

 水森はそこまで云ってから、話を続けるのをやめてパソコンに向かった。
 
「…見てもらったほうが早いですね」
「え?」
「これから、”科学者である神條弘耶”に関わったある人の記憶を見てもらいます。そうした方が全てを把握しやすいと思いますから」
「そ、そんなことができるのか?」
「はい」
「……このコードから?」
「はい」
「……怖いな」
「わたしがずっと傍についてます」
「ありがとう」
「いえ…」

 水森は照れたように俯き、ソファーに座った俺に顔を近づけた。
 いつかの森での口付けを思い出して、頭に血が上っていくのを感じた。

「きっと、わたしは…」
「…」
「……なんでもないです」

 何かを云おうとした、だが云おうとしたその言葉は口に出してはいけない。
 そんな様子だった。

「……わたしに、全てを裏切る勇気があればよかったのに」

 聞こえないくらいの声でそう呟いて、水森はキーボードに指を伸ばした。
 
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