堀繁半世紀 からだに流れる湖国のバイタリティー 京都が王侯の地であるならば、近江は天下を制する覇者の地であるといわれる。茫々の昔、近江盆地に、東方の濃尾平野から、あるいは北方の越前から覇者は現れては消えていった。覇者たちは知っていた。「天下を制するためには、近江をおさえねばならない」と。しかし湖国・近江の美しい自然は、常にかわらなかった。比叡、比良の山々を湖面に映した琵琶湖は、それら人間どもの営為を静かに見守っているかのようである。果てしない歴史の変遷と不変の自然−近江人の魂のふるさとはここにある。そして、そこに生まれ育った近江人の気質は、民衆の団結心、粘りッ気というものであろうか。中世に頻発した農民一揆、中世以降めざましい発展を示した商業活動は、近江人の気質をそこに明らかにする。思えば、華やかな歴史の前面に登場する人物は、近江人ならぬ他国の人であった。近江人は時世の波に流されるままかのようにさえみえる。が、歴史というものは、タテ糸を名もなき人々の血で、ヨコ糸を名もなき人々の汗で織られいるのだ、という認識に達するとき、近江人こそが歴史を背負うにふさわしいと観ずるのは、あながち”我田引水”の説ではあるまい。手前勝手を覚悟で敢えていわせていただければ、私を成り立たせているのは、その近江人の血に他ならない。私がこの世に生をうけたのは、大正八年四月二十八日、国内では大正デモクラシー華やかな頃。国外では世界を戦火にまきこんだ第一次世界大戦が前年に終結し、パリ講和会議の開かれた年であった。琵琶湖の南岸に位置する滋賀県・野洲郡・中主町・井口の生まれ故郷は、江州米の主産地、野洲川デルタの中央に位置し、琵琶湖を挟んで対岸には幾百年も続いた自由都市・堅田がある。堅田は泉州堺とともに、日本には二つしかなかった。”自由都市”の一つである。京都と叡山に近いため、いくたびか戦火を浴びながら、頑固に自由都市を守り通した町である。そのエネルギーの根源は民衆の自由への志向。そういう環境に生まれ育ったことが、私を根元的に形成した、といえばおこがましいであろうか・・・・・。父、堀井定右衛門、母、さき。四人兄弟の次男として私は生をうけた。父の職業は大工職。昭和九年、同郡の北里尋常高等小学校卒業。小学校時代は一口でいえば、ケンカに明け暮れた時代であった。常にガキ大将だったので敵も多く、特に上級生などからは決闘を申し込まれたこともなんどかあったと記憶している。今、思い出しても一番記憶に残っているのは、上級生のガキ大将(今でいう番長)との決闘だった。相手は、用意してきたバットをふりかざし、私はとっさに履いていた下駄を脱いで、大立ち廻りを演じたこともあった。この決闘は、「構内一の大ゲンカ」といわれて、学園裏面秘話を飾る一こまである。威張れた話でもないが、現在の私をあらしめてるのには欠かせない幼なかりし日の姿である。私の人生の出帆は、ケンカから、といっても言いすぎではなかろう。それにくらべると、今の子はもう少し荒々しさがあってもいいのでは、と思える。大いにケンカをすすめる。勉強はといえば、これはほんのつけ足し的なもので、人なみにやっていて、成績もクラスの中より上だったという記憶くらいだ。なにしろケンカがメシより好き。”ケンカこそわが命”であった。そういう私を生んだ父は、毎朝五時には起きて「オイ!起きィ」といって、家族を起こすような人だった。父の大工としての腕はまあまあで、特にすぐれた腕の大工というほどでもなかったようだ。彼自身の”ホシタ”と呼ばれるセイロのようなものが今でもわが家に残っている。父は、その当時としては珍しく、生命保険に加入していた。仏壇の中に保険証書が入っているのを、後年、父が死んでしばらくしてから見つけたが、その証書は今だにわが家の仏壇の中にしまってある。それを見るにつけ、自分が死んでも家族の者に迷惑をかけないように、という配慮からだったのだろうか、と感慨におそわれるのである。父は仕事に関しては、職人気質というか、偏屈な人だった。仕事のないときは、農業もやるといった兼業農家でもあったことだし、自分の好きな仕事以外は断わってしまうので、あまり量はこなさなかったようだ。こういう父に反して、母の方は非常に開放的な性格の持主で、サバサバしており、これでうまくバランスのとれた夫婦であったように思える。小学校を十六歳で卒業するとすぐに、京都の室町にある「福井商店」という呉服商に、丁稚奉公にやらされた。思えば、この商人の世界が、ケンカの世界を卒業した私の生きる第二の場所であった。十六歳から十九歳という、多感な時代をそこで過ごしたのである。昼は呉服屋の丁稚をして、夜は「明倫青年学校」に通学した。朝早くからの丁稚奉公、夜の青年学校の軍事教練と、あまりにつらいこの生活から、なんど逃げ出そうと思ったことだろう。しかし、この世界から逃げられないなにものかが私の中にあった。それは責任感とか根気強さとかいう要素も多分にあったに違いない。しかし、私の商人の世界への執着心は、なにはさておいても、その濶達な自由と進取の気概にあったのではなかったか。「近江泥棒、伊勢乞食」と世に言われているが、これは元来「近江旦那に伊勢子正直」というのが、口伝えの間にいつの間にか変わったという説もある。本来のイキな俚言が、どう誤って「近江泥棒」になってしまったものか。それは、ことほどさように、各地方の財宝を吸い上げていった、近江商人のたくましさを物語るものと解するべきであろう。一つ一つの小さな商品が、流通機構を経て、都市生活の中でものすごいバイタリティに転化する過程をみる時、商いほどおもしろいものはないと思った。その過程は、そのまま世の諸々の事象にも通じるのではなかろうか。生みだす力、バイタリティこそがこの世をおもしろくする。私は商売というものに魅かれた。いってみれば近江商人のたぎる血は、十代のころから私の中に脈打っていたのだ。こういう私を見抜いていたのか奉公先の主人は私を非常にかわいがってくれた。それを仲間からねたまれ、意地悪をされて苦労したつらさも、今となっては起伏の多い青春時代の思い出の一コマである。
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