堀繁半世紀

私の戦争体験
昭和十二年に日中戦争勃発。当時、私は十九歳だった。四つちがいの兄(長男)が出征したので、やむなく家業の手伝いに帰るはめとなった。続々と先輩たちが出征していってしまうので、私は十九歳の若さで、「北里青年団」の支部長、副団長として、入隊までの二年間あまりをリーダーシップをとることとなった。生来、統率権を握ることの好きな私は、若さにまかせて喜び勇んで駈けずり回っていた。思えば血の気の多い青年時代だった。昭和十四年には「琵琶湖祭り」の聖火継走青年に選ばれて、琵琶湖のほとりを、聖火をかかげて五里近く走ったものだ。この聖火ランナーに選ばれることは、当時としては非常に名誉なことだったが、私は意気揚々と気負いすぎるほどに走ったことを憶えている。この間、青年団副団長として、当時改築中だった「近江神宮」の造営に奉仕し、高松宮殿下に、団員一同おほめのことばをいただいたのも、私の青春時代の思い出だ。昭和十四年の六、七月頃、微兵検査で甲種合格となった。甲種合格は、同期生四十五人中五人だったと記憶している。からだには自信はあり余るほどあった。昭和十五年一月十日入営。北支那派遣軍、片山部隊に野砲兵として配属された。大阪から船で下関まで行って、下関から天津へ上陸したのだが、船中では、天津に着くまで十日間、船酔いのためにフラフラで飲まず食わず。持参のかつお節一本をかじって、どうにかこうにか天津までたどりついた有様だった。琵琶湖では、船にも乗ったことがあったのだが、冬の玄界灘の荒波には、さすがの私も対抗する手段もなく、船の中では甲種合格の兵隊が一番弱い兵隊になってしまったわけである。われながら情けない、若き日の予期せぬ出来事であった。当時、北支には、蒋介石政府の正規軍、毛沢東の率いる八路軍(中共軍)、山西省の軍閥・閻錫山の兵が蟠踞して、日本軍と戦闘を交えていた。その中でも八路軍がいちばん強かったものだ。八路軍は常に奇襲戦法で日本軍を悩ませたが、それは、今のベトナムでの民族解放戦線とアメリカ軍との戦いに似ている。北支は極寒の地。冬期は零下四十度という寒さが続く。寒さに耐えるため、防寒服に身を固めるのだが、それでも寒風に吹きさらされていると、頬や口もとがバリバリに引きつってしまう。しかし、小便がそのまま凍ってしまうといわれるのは、それはウソ。地面にたまったものがすぐ凍る程度である。昭和十六年に入って野砲兵から、北支・山西省の大原憲兵分隊に補助憲兵として派遣された。同年十二月八日、太平洋戦争始まる。開戦の前々日に、北京までなにも知らされないで出動、開戦と同時に北京のアメリカ祖界の接収を行った。来るべきものがいよいよ来た。大戦争になると思ったけれど、まだ、実感として死を覚悟することはなかった。その後、ますます戦線は拡大していった。昭和十九年、予備役になり、伍長に任官。一応現地除隊、即刻再召集された。当時の北支戦線の戦況は、昼はアメリカ空軍が爆撃していき、夜は日本軍お得意の夜間行軍で進撃するといった状況で、昼間爆撃で殺された戦友の死体の上を、それと気づかずに行軍して、後で非常にいやな思いをしたこともあった。そこは川っぷちの湿地帯だったので、足もとがグニャグニャしても別におかしいとも思わなかったのだが・・・・・。今にして思えば、きっと屍累々としたなかを歩いていたのだろう。当時の憲兵の任務として、更衣兵というのがあった。これは、支那服を着て支那人に変装し、中国語をしゃべって敵状を偵察する、最前線の危険な任務だったが、私はその危険な軍務を十八年に内地に帰るまで、北中支を縦横に走りまわってやりとげた。昭和十八年十一月、由良要塞司令部付きとなって、内地帰還し、軍曹に任官。命令受領ならびに連絡要員、準尉の職務代行など、激しく厳しい軍務がつづいた。長男の兄が、十六年にコロンバンガラン島で戦死したので、内地勤務となったのを機会に、戦死した長兄の嫁を親類のすすめもあってもらうこととなる。妻の名は、はな。