特集 −朱家の落日ー(1)

 不定期刊「桃花」第一回のテーマは「億兆離心」です。
 明史本紀熹宗末尾には次の様な事が書かれています。
 
 
明は嘉靖帝より綱紀が日に日に緩み始め、万暦帝の頃には荒廃を極めてしまった。
 それはあらゆる面で優れた君主といえども建て直し難い状況であった。
 それを次いだ天啓帝は愚かで意思が弱く、客氏や魏忠賢が権力を奪い、
 身内ばかりを優遇し敵対者を厳しく弾圧した。
 忠良の士が酷い目に遭い、こうして天下の心は全て帝国から離れてしまった。
 これでは明が亡ばないでほしいと思ったところで、どうする事ができようか

 
 明の万暦期は北虜南倭が解決し、まずまずの出だしでした。
 しかし明の命脈は回復する事なく滅亡へと転がり落ちていきます。
 今回の特集では万暦から天啓まで3代の皇帝を採り上げ、帝国が崩壊に至るその経緯を紹介してみたいと思います。


 万暦、皇帝不在の時代

 神宗万暦帝は1563年に生まれ、1573年に即位した。わずか10歳の幼帝の登場である。
 その後、1620年まで実に47年の長きに渡って明を統治する事になる。
 それは漢の武帝以来の在位期間であった。

 しかしその長い在位の半分以上、皇帝は内廷に引き篭もり、廷臣たちとは会おうとしなかった。
 度重なる廷臣たちの請願を無視して、役人に欠員が生じても補充せず、軍備を強化せず、また裁判も行われなかった。
 一方で自分と一族が贅沢をする為、あるいは度重なる戦で生じた戦費を補うため、国民は今まで以上に税金を払わねばならなかった。
 やがて皇位継承問題が激化し、皇太子暗殺未遂という異常事態に至って、ようやく皇帝はそれを収拾すべく公に姿を見せる事になるのである。
 実に約25年ぶりの事だったと伝えられている。
 明史では神宗末尾に論者が"明は万暦時代に滅んだ"というのはどうして間違っていると言えるか?と厳しいコメントをつけている。
 万暦帝は中国歴代皇帝の中でも長い治世を誇ったが、それは単に長いだけで国にとっては実に不幸な事だったと言える。


明の中興

 とは言うものの万暦の出だしは順風満帆だった。
 名宰相と呼ばれる張居正が登場し、税制を見直し事で赤字財政を克服し、倉には物資が溢れた。
 外においては東北部に李成梁や名将戚継光を配して北方の守りを固め、ここに外患も収まった。
 新帝として即位した万暦帝は幼少から賢く思いやりのある子であったと言われている。
 父親の隆慶帝が宮中で馬を馳せていた所、彼は「陛下は天下の主なのに何という態度ですか?」と諌めた。
 皇后が病で倒れたとき、実母では無い皇后をよく見舞い、経書について質問された時はよどみなく答えたと言われている。
 聡明な彼がそのまま大きくなれば明は黄金期を迎えたかもしれない。
 即位まもなく、万暦帝の名を通して廷臣に自重を促す詔を出している。
 「近頃、士大夫は勉強を怠り、ベテランを無用とバカにしてつまらない者を立派だともてはやす。
 朝廷ではライバルへ懲罰をもって攻撃し、あるいは抑える為に恩を着せるなど、下らない事に権力が行使されている。
 しかし敢えてこれを許そう。諸臣はこれまでの過ちを反省し、共に生まれ変わって政治を行おう。
 だが、もし再び弊害に溺れ、公に背いて私事に励む者がいればそれは絶対に許さない」
 まさに先代までの混乱は終結し、清廉な新しい時代が始まろうとしていた。   


張居正の死

 張居正の功績については、先代閣臣の成果が彼の時に実ったと言う人もいる。
 その基盤を固めるために宦官と手を結び、敵対者を厳しく処罰する権力の亡者であったと批判する人もいる。
 先の皇帝たちが虚飾に溺れた為、国家財政は危機を迎えていた。
 それを建て直す事が急務であったのだ。
 足を引っ張ろうとする者を全て払いのける必要があったのかもしれない。
 それによって彼は背中を気にする事なく、自分のやるべき事に専念できたのである。
 無論、敵対者の恨みは消える事なく、彼の死と同時にそれは一気に噴出した。
 「張居正は父親が死んだのに喪に服さなかった不孝者」と批判が沸き起こった。

 
万暦10(1582)年6月張居正が亡くなるとまず、彼と手を結んでいた宦官のトップ馮保が左遷される。
 幼い頃の賢かった万暦帝は、張居正馮保の厳しい英才教育にすっかり嫌気をさしていたのではないだろうか?
 あるいは張居正は口先では「徳の高い聖君となりなさい」と言いながら、当の本人は政界の汚泥にまみれていた。
 ……その矛盾に反発していたのかもしれない。
 一説には張居正が賄賂で得た金が膨大であり、それを狙ったという話もある。
 幼い頃の英知に優れた皇帝が、なぜその後にあんな無責任な人物になってしまったのか。
 興味は尽きないが、知る術もないのでこのくらいにしたい。
 とにかく万暦帝は張居正を庇う事はなかった。
 
明けて万暦11(1583)年3月張居正は生前の官位を剥奪され、翌年には彼の罪が天下に公布され財産は没収。彼の一家は崩壊した。
 張居正の死とともに20歳となった万暦帝の親政が始まるが、彼はその後、すっかり政務を放棄してしまった。
 冒頭で、張居正の功績に疑問を投げかける人も多いと述べた。それは何故か?
 彼は税制を改めたが、地方の有力者の猛反発に遭い、結局実行には移せなかった。
 また李成梁は女真族の懐柔に成功したが、彼が手を結んだヌルハチは彼の手に負える人物ではなかった。
 豊かな倉を見て、万暦帝は「明は安泰だ」と勘違いしたのかもしれない。
 しかしそれはかりそめに過ぎず、ここからが正念場であったと言える。
 ヌルハチ
張居正が官位を剥奪された同年5月兵を挙げている。張居正の死と共に明の中興は夢と消えてしまった。


停滞する政務

 明史神宗本紀を見ていると、「不報」という言葉をよく見る。
 その文字から官僚のため息が聞こえてくる様だ。
 吏部が全国で守備隊が不足していると願い出ているが、答えはない。
 閣臣は裁判官が不足しているので裁判が進まず囚人が裁判も受けられずに獄中で次々亡くなっていると願い出たが、無視。
 万暦31(1603)年には諸大臣が文華門前に伏せて善政をしく様願い出ているが、逆に厳しく責められている。
 万暦38(1610)年陳足国が「戦費が不足しているので陛下の資産を回してほしい」と願い出たが相手にされていない。
 この万暦期は官僚の補充がされなかったと言われている。

 大学士を例にとってみると2名しかいない時代もあるが先帝の代も2、3名で回しており、決して少ないわけではない。
 ただ万暦35(1607)年に入れ替えが行われているが、これは酷い。
 2名は就任してまもなく亡くなり、1名が辞退。葉廷機と葉向高が残ったのだが、葉廷機は病気療養で結局一度もその任に就かなかった。
 本来は5、6名で回すべき大学士職を葉向高一人で6年も続けている。

 やがて疲れきったのであろうか、次々と官僚が去っていく。
 「自去」という言葉が相次ぐのは実に空しい。明は外患や天災で亡んだのでは無く、皇帝の無為によって亡んだのだと痛感させられる。
  また、中央政界の対立もあったのだろう。
 万暦37(1609)年に大学士葉向高が諸臣互いに批判し合っているので戒めてほしいと願い出て無視されている。
 さらに東林書院の問題も絡んで批判の応酬が続いており、そういったいがみ合いに嫌気がさしたのかもしれない。
 南京の各道御史が出した苦言はもっともであろう。
 
「内閣は空っぽで政務は廃れている。陛下は内廷に籠もる事20余年。未だに大臣と会おうとしない。
  天下には滅亡の憂いが溢れている」
 
 大臣、官僚は憂いて去り、皇帝は未だに自己を省みる気配はない。全く救いがないではないか。
 彼が政務を改めたのは自身が病気になった時だけであった。「これからは真面目にしますから、早く元気にして下さい」という所であろう。
 万暦43年5月宮城に張差なる男が侵入し、あろう事か皇太子の暗殺を試みる事件が起こった。
 これは反皇太子派による謀略であるという議論が起こり、ここに至ってようやく万暦帝は廷臣と謁見するのである。
 が、その後も放置した様で晩年の万暦47(1619)年、百官が伏して朝政を視ることを請うたが顧みられる事はついになかった。

 特に官僚が何度も諌めたのが礦税(コウゼイ)であろう。
 万暦24(1596)年7月、河南、山東などで鉱山の再開を宣言し、廷臣たちは皆それを諌めたが聞き入れられなかった。
 なぜ、鉱山の再開が良くないのか?
 一定の銀が必ずしも産出されるわけでもないのに、鉱山に掛けられる税金(礦税)は決まっていた。
 その不足分は近隣の住民が補わねばならなかった。住民はたまったものではない。
 10月には廷臣の反対を押し切って、宦官を各地に派遣し徴税させる事にしたのである。
 当の宦官は権力をかさにきて横暴に振る舞い、礦税と称し必要以上に住民から搾り取り、余計な部分は自らの懐へ入れた。
 したがって住民の怨嗟は爆発し各地で民衆暴動が起こる様になり、役所は焼かれ、役人が殺される事件が相次ぐ。

 万暦帝の息子たちが結婚するにあたって国家予算から銀2400万両が支出された。
 戸部(財務省)が財政難だと言うと、「天下はもっと儲けているはずだから厳しく調べろ」と命じた。
 万暦28(1600)年には都周辺の各省で天災が起こり、住民は飢え、暮らしていけず盗賊になる者が次々と現れた。
 廷臣は代わる代わる礦税を廃止する様に奏上しているが、ここでも無視されてしまう。
 住民の貧困はこの頃から始まり、後の李自成の乱へ繋がっていく。
 万暦帝が病気になった際、一度中止が宣言されたが、実際に鉱山の再開を停止したのは万暦33(1605)年10月の事である。
 ちなみにこの年、皇帝の懐に入る国家予算うちの半分を戸部(財務)、工部(建設)へ回す決定がなされている。
 いかに多くの部分の予算を皇帝一人が占めていたか、憶測できるエピソードである。


相次ぐ戦乱
 
 万暦帝が政治を顧みず、さらに礦税を課して国民を苦しめた事を上記で述べた。
 その上に国民を苦しめたのが、相次ぐ戦乱でかさんだ戦費である。
 万暦期1600年前後は日本で言うと、秀吉や家康が活躍した戦国時代の末期である。
 秀吉が朝鮮へ出兵した事はご存知であろう。万暦20(1592)年5月、朝鮮からの救援要請を受けて援軍を派兵する事となった。
 同じ年3月、北方でモンゴル人の副総兵官ボハイが巡撫都御史薫馨らを殺して兵を挙げた。
 遼東は同時に2つの有事を処理せねばならなくなった。
 6月、政府軍がボハイ討伐に兵を集結し、9月にはほぼ平定。12月に終結宣言を全国に向けて行った。
 朝鮮における戦闘は翌21(1593)年に総兵官李如松が朝鮮の都の奪回に成功したが、碧蹄館で敗北。
 日本側も補給が危うくなった為に撤退し、一進一退の状況で終結となった。
 明としては得ることのない戦争であり、一方でヌルハチは躍進のチャンスを手に入れた。
 関心の薄れた女真族をヌルハチは次々とその旗の下へ併合していくのである。

 この辺りから国情がおかしくなり始めた。
 「山東や河南、徐州などで盗賊の類が湧き出ている。役人が仕事を弄び、朝廷の命令をきちんと実行しないからだ。
 今から後は賊を減らす為にも民を大事にし、役人は立派な人物を推薦せよ」
 治安が悪くなり、戦費などで激減した国家財政を補填するために例の礦税が登場する。

 万暦24(1596)年楊方亭を日本へ派遣し話し合いがもたれたが決裂。翌年、秀吉は再び朝鮮へと出兵。
 明軍は楊鎬を経略に任じ援軍を送ったが敗北を重ね、李如松が伏兵に遭い戦死するに至って楊鎬は解任された。
 その後、代わって万世徳を経略に任じ、朝鮮側の名将李舜臣の命を捨ててまでの奮戦もあってようやく撃退に成功したのである。
 さらに万暦25(1597)年7月、南方にて播州宣慰使の楊應龍が反旗を翻す。
 明は南北2つの戦場で戦わねばならなくなった。
 先の兵部侍郎(国防次官)李化龍を中心に討伐軍が編成され、軍高官が戦死しながらも万暦28(1600)年ようやく楊應龍を自害に追い込んだ。
 だが楊應龍は少数民族苗族の出身と言われ、彼が亡くなった後も苗族の反乱は貴州を中心に続く。
 
 万暦31年には呉洪が、同年10月には楊思敬などが騒ぎを起こし、地方高官を殺害するケースも起こっている。
 さらに副首都である南京で決起しようとする者も現れる始末である。
 万暦35年には武徳成が反乱を起こし、少数民族系の阿克なる者も登場し、雲南が戦火に覆われた。
 このように南方での反乱が目立つ。悪政の結果、住民の怒りが限界に達したのだろう。
 万暦36(1608)年8月、雲南の統治に誤りがあったとして巡撫陳用賓、総兵官沐叡両名に死刑とし、事態の沈静化を図っている。
 
 かくして戦乱が相次ぎ、万暦末期、最大の宿敵が登場する。
 後金を打ち立てたヌルハチは明に宣戦布告。万暦46(1618)年、撫順を攻略し千総の王命印が戦死。救援に駆けつけた張承胤も陣没した。
 朝廷は強いショックを受け、先の朝鮮戦役の敗将楊鎬を再び起用し、遼東経略に任じた。
 翌年2月、大軍を擁した明軍は各個撃破される形でサルフにおいて激突するが、結果は明軍の大敗に終わる。
 4月には開原が陥落、総兵官馬林が戦死。同月、楊鎬に代わって大理寺丞の熊廷弼(ユウテイヒツ)が兵部右侍郎に就任。遼東経略を任された。
 この様な危機的状況の最中にも関わらず、皇帝は政治に無関心であった。
 度重なる戦闘を切り抜けて、どうせ今回もそのうち何とかなるだろうと思ったのであろうか?
 政治に関心を持つよう、軍備の強化に許可を下さるよう、百官は伏して願い出るが聞き入れられる事はついになかった。
 かく言う臣下たちも皇太子問題で紛糾しており、すでに足元まで火がついていた事に気がつかなかった様だ。
 度重なる戦費は農民にさらなる増税という負担でのしかかってくる。
万暦の終焉

 万暦48(1620)年4月、万暦帝が倒れる。
 7月、英国公張惟賢、大学士方従哲ほか大臣が弘徳殿に召集される。
 「みな職務に精励せよ」そう言い残して、万暦帝は崩御したと言われている。享年58歳であった。
 皇帝の死と共に万暦期に設けられた諸税や賦役が廃止されたが、財政難は覆しがたい状況であった。
 負担に耐えかねた民衆が反乱を起こし、その鎮圧にまた戦費がかかり、その負担は民衆へ…最悪の泥沼へと踏み込んでいくのである。
  神宗が即位して間もない頃は政治が安定し、国勢は盛んになる兆しもみられた。
  しかしやがて、皇帝は内廷の奥に籠もり、政務はぐずぐずしていつまでも決まらない状況となり、
  綱紀は廃頽してしまい、君臣の隔たりは大きくなった。
  つまらない人間が馬を賭け走らせる様に権力を求め、名節の士は仇敵と呼ばれ、派閥が乱れ立つ。
  廷臣は互いにいがみ合い、こらえきれずにわめき合い、批判し合う。
  その様をみて皇帝は誰を信じてよいか分からず様々な人間が入り混じり、再び国勢が振るう事なく、切り裂かれ潰えていく。
  論者が「明の滅亡は、神宗の代で既に亡んだ」と言うのが、どうして正しくないと言えようか。
 明史、神宗・光宗の末尾にはそうコメントが寄せられている

<その2へ>