6.明との衝突
      〜サルフ前夜〜

 明とヌルハチの関係


     ヌルハチにとって(というより女真族にとって)明は、はっきり言えば金づるだったと言える。
  馬や人参、毛皮を買ってくれる取引相手だった。
  馬は兵器だったし、人参は精力剤として用いられ重宝されていた。
  しかし馬はやがて必要なくなり、人参は生もの故、買い手市場でかなり安く買い叩かれた。
  しばしば女真族は明領に入り、荒らしまわって
「もっと買え」という脅迫した。
  
     かつての土木の変も、きっかけは馬の取引を巡る対立であった。
  ヌルハチ自身、兵を率いて開原へ向かい、高値で買い取る様に脅しをかけている。
  逆に言えば、取引相手がいなくなっては困るのだ。
  商売が出来ないという事は、指導者として失格でもあった。
  土木の変の際、明は狡猾な策略を用いてエセン一派の排除を行った。
  エセンは戦には勝ったものの、取引相手としては外され、人々の支持を失い殺害されている。
  こう考えれば、ヌルハチが明と戦うのはあくまで脅すためではなかったか?本気で倒す気は無かったと思える。
 
      また、明は地域の調停役だった。
  1609年2月、ヌルハチは明に苦情を申し立てている。
  朝鮮と満洲の国境地帯は、人参のよく取れる地域だった。
  国境地帯という微妙な土地柄もあり、当然、朝鮮の人々も採取にやって来ていた。
  ヌルハチは「我々は隣接しているが、カルカ地方は我が領土である。朝鮮はここを我が物にしている。どうか調査をお願いします」と申し立てたのである。
  明はそれを受理して、朝鮮側に住民を収める様、諭している。
 
  
      いずれにせよ明は大切な(便利な)存在であった。
   それなのに、ヌルハチは叛旗を翻す。ヌルハチと明の関係はこの頃から急速に悪化する。
   

 ■国境問題



      1608年、ヌルハチと明との間で国境線が確定した。
   国境線の代わりに石を置き、その周囲に守備隊を配備したという。
   ヌルハチも領土を拡大するにつれ、明と隣接することも多くなり、資源の豊富な国境沿いを見逃すことが出来なくなったのだろう。

      これより以前、遼東を牛耳っていた李成梁は国境外に大規模な開拓を行った。
   大変肥沃な土地であった様で、地上の楽園ともいえる大成功となった。
   漢人が多く移住し暮らしていたのだが、ヌルハチは領土を拡大するにつれ、その土地は我々のものだと主張した。
   何度か交渉を重ねた末、代わりに金銭を支払う事で合意したのだが、李成梁は後に土地から住民を強制移住させている。
   これが明中央で問題となり、李成梁は解任される事となる。
      この問題が中央でクローズアップされた事で、当然ヌルハチそのものへの注目が集まっただろう。
 
      次第に領土を拡大し、明への要求も増えてくるヌルハチを次第に疎ましく感じる様になっていた。
   ヌルハチの力を削ぐために、かつて敵対関係にあったイエヘ部へ肩入れをする事になる。
   しかしイエヘ部の行動は明らかに道義を欠いている所が多々あった。
   ゆえにヌルハチはイエヘへの敵意を深め、それを取り締まらない明に対しても敵意を持つ様になった。
   明は協力する相手を間違えたと思う。



  明との関係悪化

       1613年、ヌルハチは自ら撫順へ赴いている。
    イエヘ部に逃亡したウラ部のブジャンタイの身柄引き渡しを巡って、イエヘとヌルハチは対立。
    戦闘は避けられないものとなり、「イエヘを討つが、それに対し明に含む所はない」と弁明する為だった様である。
    余談だが、遊撃の李永芳に書簡を渡して帰ったのだが、後に李永芳はヌルハチに寝返る事となる。この頃から何らかの関係を築いたのだろう。
    さておき。
    ヌルハチの弁明は聞き入れられず、イエヘに明は援軍を派遣し、ヌルハチはイエヘ攻撃を断念した。
    ヌルハチの目には、「明が敵に回った」と映った。
 

       翌年、明はイエヘを攻撃しようとした件を激しく攻め立てる。
    都督の蕭伯芝なる者を派遣して、ヌルハチに暴言を浴びせた。だが、都督などという役職は全くデタラメであった。
     「私はお前の事は知っている。お前は遼陽のごろつき蕭伯芝ではないか!
      お前を殺す事もできるが、そんな事をしても恥を残すだけだ。
      帰って巡撫に告げよ、"ウソをつくな"と」。
    適当な役人を送り込み、挑発させ、暴発を招こうとしたのか?
    それとも単に適当なヤツを送り、形式的に非難しただけなのか?
    ともかくヌルハチは明の挑発に乗らなかった。
    だが明の不快感を感じ取り、関係修復を模索する動きもこの頃、見られている。
 
 
 

       
それが完全に決裂するのは、広寧総兵官張承胤が国境問題を破棄した事に起因する。
    張承胤は柴河、三岔、撫安の三地方を明に返却する様、ヌルハチに要求。当然、ヌルハチはこれを拒否した。
    すると今度は、その地方で育てた穀物の刈り取りを禁じた。
       さすがにヌルハチも我慢の限界に来た様だ。
    同時期、各駐屯地に穀物の備蓄を命じている。準備とみるべきだろう。
    加えて、将兵を慰撫し、また戦に向けて指揮官らに兵法を学ぶ様指示している。



    七大恨


 
       ヌルハチが大ハーンに即位して3年後(1618年)4月、ヌルハチはついに明に対し宣戦布告する。
    明の非道を七つ上げ、天に報告したという。七大恨といい、各地にばら撒かれた様である。
     ・祖父と父親を誤って殺害したこと。
     ・明は満洲領内(イエヘ部内だが)に兵を駐屯させていること。
     ・国境を決めたのに守らないこと。
     ・勝手に国境線を破り、さらに三地方の割譲を要求したこと。
     ・下級官吏を高官と偽って、我等を辱めたこと。
     ・ハダ部の滅亡に明が介入し、我々にはハダを滅ぼすことを認めなかったのに、イエヘにはそれを認めたこと。
     ・イエヘの再三の非道な行いの背後には明がいること。
    などを掲げたという。
    結局はこじれた国境問題と、明がイエヘにばかり肩を入れる事が許せなかったのだと思われる。
    ヌルハチの怒りの背景には、明に対する激しい嫉妬が伺える。
    自分たちは明の言う事を聞いているのに、明は悪いイエヘばかり可愛がる。
    それが我慢できず、ついに暴発するに至った。

       明との戦いは、正直ヌルハチも恐ろしかったのではないだろうか?
    女真族は明にしばしば反乱を起こすが、結局のところ、圧倒的な力と大砲の技術で粉砕されている。
    加えて、戦を挑むことで、明との交易を失うことになる。
    それはヌルハチ自身の求心力を失うことにつながりかねない。
    だから周りの反対も強かったと思われる。
    それを納得させるために、この七大恨が作られたのだろう。

 

    撫順攻略!

 

        七大恨を天に捧げると、ヌルハチは2万の兵を率いて出発した。
     途中で4旗に分け、一方を東州へ向かわせ、残り4旗はヌルハチ自身が指揮を執り撫順へ向かった。
     4月15日撫順に到着し、城を包囲した。
     本来なら戦闘に入るところだが、守備していた李永芳はヌルハチに諭されてあっさり降伏する。
     馬上で互いに挨拶したとされており、おそらくこの投降は元から仕組まれていたのであろう。
     李永芳の寝返り工作が成功していたからこそ、明との戦闘に踏み切ったとも思える。
     兵たちに略奪・暴行を禁じてから、ヌルハチは撫順に入城。

        一方、東州に向かった部隊も大勝利し、ギヤバンに戻って両部隊は合流した。
     撫順失陥を受けて、広寧総兵官張承胤は1万の兵を率いて後金軍を追う。
     ヌルハチも転戦して、両軍は激突する。
     4月21日、張承胤は塹壕を堀り、大砲を敷いて転戦してきた後金軍を待ち構えた。
     大砲は女真族が最も苦手とするものであった。だが、ここで僥倖がおこる。
     西から強い風が吹き、砂を巻き上げ視界を奪った。明軍の混乱に乗じて後金軍は突撃。
      張承胤は斬られ、遼陽副将頗廷相や海州参将蒲世芳ら参謀50名も重なり合う様にして戦死。
     数え切れないほどの鎧や武器を得、初戦は後金軍の大勝利となった。

        撫順攻撃は最初から出来レースだった。
     その後、攻撃してきた明軍は僅か後金軍の半分の兵力だった。初戦は圧倒的有利で戦ったのである。
     初めから勝てると分かって、この攻撃を仕掛けたと思われる。
        この勝利の後、ヌルハチは明へ捕虜3名と供に七大恨を送りつけている。
     七大恨を送りつけたのは単に恨み言を示したのではなく、そこから自分たちの思いを汲み取れという事だった。
     単なる脅迫というより、明側から何らかの接触がある事を期待したのではないだろうか。
     思うにヌルハチは初戦に勝利して、明から引き出そうと考えたのではないか?
     本来は、これで区切りをつけるつもりだったのではないかと、自分は考える。

        ところが、明の回答はゼロだった。
     約1ヶ月後の6月に返された明の答えは、捕虜を全部返せという内容だけだった。
     ヌルハチは拒否した。
     この後も数回接触がもたれているが、結局落としどころは見つからなかった。
     あるいはここで交渉がうまくいけば、明の滅亡も回避できたのかもしれない。
 
        7月には清河城を攻撃。鄒儲賢は城に立て篭もり抵抗したが、あえなく敗れ去った。
     彼を含む1万の兵士が戦死したとされている。城を潰して軍は撤退した。
        同じ頃、明の将軍賀世賢がトンギャ砦を急襲。婦女子を含む住民100名あまりを殺害した。
        9月には李如柏(李成梁の子)が木和地を襲い、屯田兵70名を殺害している。
     後金軍の大勝利に比べ、明の反撃は近隣住民を襲って虐殺したというレベルの話にすぎない。
     中央の怒りを恐れて、とりあえず弱いものを狙い勝利を取り繕ったと見るべきだろう。
     あるいは、明軍は組織的な兵力が整っておらず、結局1万あまりの中途半端な兵力で相手せざるを得なかったのかもしれない。
 
        天命4年(1619年)1月、明の抵抗は弱まったと考え、ヌルハチは仇敵イエヘ部討伐を決意する。
     息子ダイシャンをジャカ関に派遣して明軍の侵入に備える一方、自身はイエヘ城へ向かった。
     しかし結局は明軍の介入を許してしまい、イエヘ討伐を断念して撤退している。
        ヌルハチにとって明軍はまだまだ手ごわい印象があり、彼らのもつ大砲は恐るべき脅威だった。
     イエヘ部の兵力もまだまだ充実しており、両者を相手に回す事を避けたのだろう。
     

 撫順失陥と、その後の大敗は明に相当なショックを与えた。
これは本気で叩かねばならない。ヌルハチの懸念していた明軍の本格投入が始まったのである。
楊鎬を総司令官に任命し、兵20万を動員し、さらに朝鮮やイエヘ部にも出兵を要請。
4方から包囲する形でヌルハチに迫ってきたのである。
かくしてサルフの戦いが始まるのであった。


    


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