この人物に注目1
  
エイドゥ (1562〜1621)
 
ヌルハチに惚れこみ、旗揚げした時から最期まで付き従った勇将。五大臣の一人。

   幼い頃に両親を失う。  

     エイドゥ。長白山部ニオプル氏族の人で、アリンアパガンの代に英?峪へ移り住んだ様だ。父親をドゥリンアバドゥルという。
    幼い頃、両親は仇敵に殺され、エイドゥは隣村に匿われて何とか助かった。
    13歳の時、親の仇を討ったと言われている。
    彼には叔母がおり、彼女はギヤムフ村の長ムトゥンアの元へ嫁いでいた。身寄りの無い彼は叔母を頼ってギヤムフへ移り住んだ。
    ムトゥンアにはハスフという子供がいたが、2歳年下のハスフとエイドゥはまるで兄弟の様に仲が良かった。
    両親を殺される不幸があったものの、叔母家族の下で幸せに暮らしていた様である。

  
   ヌルハチとの出会い。

     それから6年経ったある日のことである。
    ヌルハチがギヤムフ村を訪れる…と言っても彼は追われる身であった。
    祖父と父親をグレ城で失い、ニカンワイランらによって殺されそうになる所を命からがら逃げ出して来た。その際に立ち寄ったのがギヤムフ村である。
    ムトゥンアはヌルハチを宿泊させた。こうしてエイドゥはヌルハチと出会うことになる。
    2人は語り合い、エイドゥは「この人はただ者ではない」と感じたという。
    若さに押されるところもあったのだろう。エイドゥはヌルハチに付いて行く事を決意した。
      
      叔母は当然、反対する。
    親を失い、一族や周辺の者から命を狙われている。
    後ろ盾もなく、現にこうして逃亡の身で、どうやってこれから挽回するというのか。
    そんな人について行くのは自殺行為だと、おそらく反対したのだろう。
    心配する叔母に、エイドゥはこう述べた。
    「英傑がこの世に生まれてきたのです。平凡な人生で終わると思いますか?だから、自分は彼について行くのです。
     誓っておばさんを心配させません。」
    翌日、彼はヌルハチに従って家を出た。
    この時、ヌルハチは22歳。エイドゥは19歳であった。

  バトゥル(英雄)の称号。

    ヌルハチは一族の者から、暗殺されそうになった。矢が家に飛んでくる事もしばしばであったという。
    彼が兄弟の様に付き合ったハスフもヌルハチ一族の陰謀で暗殺されている。
    ヌルハチは自ら遺体を回収に向かい、ハスフを手厚く葬った。
    そういった悲劇にもめげずエイドゥは左右を守り、やがてそういった嫌がらせも下火になっていく。
    ヌルハチはいよいよ挙兵し、仇敵ニカンワイランを討つことを宣言する。
    城攻めでは真っ先に登り、重い弓を引いて敵を倒し、俊敏に各所を転戦した。
      この戦いで信任されたエイドゥは21歳にして、バルダ城攻略を命じられる。
  
     ところが城を前にして河が増水し渡る事が出来なかった。
    そこで兵士同士を縄で結び合って、魚が連なって泳ぐ様に隊列を組んで渡りきったのである。
    折りしも日も暮れた頃であった。
    まさか攻めてくると思っていない城兵は突然の攻撃に驚いた。
    エイドゥは率先して先陣に立ち、塀を乗り越えていく。
    矢が太ももを貫いたものの、彼はそれを折り、力衰えることなく奮戦した。
    城を落として戻ってきたエイドゥを、ヌルハチ自身がわざわざ出迎え、労をねぎらった。
    体には50以上の傷を作ったが、それでも奮戦した彼をヌルハチは「バトゥル」と呼んで称えた。
      ジャイにコジェなる暴れ者がいた。
    彼が馬9頭を盗んだ際、その評判にエイドゥが怯むはずもない。
    単騎で彼は追いかけ、コジェを倒し馬を取り戻したという話も残っている。
    エイドゥは、まさに並ぶ者のない勇者だった。

 

   
   各地を転戦する。

      九部連合が攻めてきた際、エイドゥは100騎を率いて囮になり、その挑発にのって来た敵将ブジャイらを撃破。
    九部連合に加わっていたナイン部をガガイ、アンフィヤングらと供に攻め、部長セオウェンセクシを斬り捨て、ナイン部を平定している。
    また後年、フルン諸部を弱体化させたヌルハチは東海方面の攻略に乗り出す。
    エイドゥは諸将と供に東海方面を転戦し、住民を多く移住させている。
    1611年には、東海フルハ地方の拠点ジャグダ城を3日包囲した末に占領し、これによって周囲の人々は皆、満洲に帰参したという。
 
      1615年、ヌルハチは八旗制を定めると同時に五大臣(ダラハシャ)制度を発表した。
    ヌルハチを補佐する五大臣の一人にエイドゥが選ばれた事は言うまでも無い。

  
   明との戦い。

      1619年、明の経略楊鎬は20万の大軍を持って後金へ攻め入った。
    エイドゥはダイシャンらに従って出陣している。3月1日の午後、軍はダラン岡に到着。
    ダイシャンはまだヌルハチ本隊が到着していないので、軍を留めて待とうと提案。
    これに対し、ホンタイジが「現在、ジャイフィヤンでは人々が城を建築中である。急いでこれを守るべきだ。弱気を見せてどうするか?」と反対した。
    エイドゥもそれに賛成し、「四貝勒(ホンタイジの事)の言うとおりだ!」と大声で述べた。
    ダイシャンは軍を進め、ジャイフィヤンへ到着した時には、すでに警備隊と明軍との間で戦闘が始まっていた。
    仮に待っていたら、多勢に無勢で負けていた事だろう。
    やがてヌルハチ本隊もジャイフィヤンへ到着し、明軍を打ち破った。
    その後、馬林を尚間崖で破り、劉挺をアブダリ岡で撃滅した。エイドゥは常に先陣で戦ったという。

  
   エイドゥ、息子を失う。

      エイドゥが歴戦の勇士である事は前述した点でご理解いただけたかと思う。
    では次に、エイドゥの人となりについて紹介してみたい。
      エイドゥの次男ダチの悲劇である。
    ダチは武勇は父親に比べ劣ったものの、ヌルハチはダチを宮中で養子同然に可愛がった。
    成人になると、ヌルハチは彼に娘を嫁がせた。
    大ハーンに可愛がられ、ついには皇族の列に並び、次第にダチは増長する様になった。しかも実力も無しに、である。
    ヌルハチの子供たちに対しても礼を欠く行動をとるダチを見て、エイドゥはずいぶん心を痛めた様である。
      ある日、エイドゥは決意した。息子たちを宴会をすると称して集合させた。
    酒が皆につがれた、その時。エイドゥは立ち上がり、ダチを捕らえる様に命じた。
    息子たちは突然のことでどうしていいか分からない。
    エイドゥは刀を抜いて、こう言った。
    「どこに我が子を殺す親がいるだろうか?しかし思うに、この子は傲慢で、今の今まで改めようとしない。
     (このまま放置すれば)後日、国家と我が家に迷惑をかけるだろう。これに反対する者はいっしょに斬る!」
    出来れば殺したくはないが、このまま放置すれば一族が滅ぼされかねない。まさに苦渋の決断であった。
    ダチを連れて部屋に入り、覆いかぶさる様にして刺し殺したという。
    理由は何であれ、エイドゥはヌルハチの可愛がっていたダチを殺してしまった。
    死も覚悟してエイドゥはヌルハチの元へ謝罪に赴いた。
    ヌルハチはエイドゥからその話を聞き驚き、随分泣いたという。
    そしてヌルハチはため息交じりで言う。「国を思う事、エイドゥには誰も及ばない」。
    栄光に満ちたエイドゥの人生において、唯一の悲劇であった。
    
       エイドゥは国に仇為すとなれば、身内でも容赦しない。
    自分の育ったギヤムフの人々がハダ部と結託して寝返った時の事だ。
    彼自ら討伐に赴き、首謀者バガン親子5名を殺害して、ヌルハチに詫びている。
    情に厚い人だったが、いざと言う時は情に流されない冷徹さを持っていたのかもしれない。  

   
   エイドゥ没する。

      エイドゥは左翼総兵官、一等大臣などを歴任。100人分の俸禄を賜った。遼陽陥落の後には第一區、廷臣としては最上級に上り詰めている。
    しかし、エイドゥは万事控えめであったという。数え切れない敵を倒し、数え切れない恩賞を受けた。
    そのたびにエイドゥは部下で功績のあった者に分け与え、一人で独占する様な事はなかったという。
    ヌルハチもそれを知っているからこそ、なおの事優遇したのである。
    第一區を授かったのと同年(1621年)6月、エイドゥは亡くなった。享年60歳であった。
    19歳の時、彼はヌルハチを見て凡人ではないと感じた。
    彼の読みは正しかった。ヌルハチは数多くの困難を乗り越え、ついには満洲の覇者となった。
    およそ40年の付き合いになるエイドゥの死に、ヌルハチは大変ショックを受け、3日に渡って泣き続けたという。
       身を棄てて戦場を駆け回り、息子さえも失ったその生き様を、後に順治帝はこう評している。
    順治11(1654)年、エイドゥの功績を称えて碑文が作られる事となり、そこに彫られる文言を皇帝自ら執筆した。
    彼の武勲を詳細に書き記し、そして「己を棄てて忠勇に励み、徹頭徹尾、国土を守り切り開く事に勤め上げた」。
 
       なお、余談ではあるがエイドゥの子供たちも、またエイドゥの様な生き方をした。
    戦においては先陣で戦い、5男は子供と供に戦死、また七男も征討中に命を落としている。
    

 


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