この人物に注目2
  フィオンドン
 (1564〜1620)
 
直言の人として知られ、国に過ちあればためらいなく発言した。帝業を補佐する事、功績最高と称えられている。

   直言の人。  

       フィオンドン。スワン部グワルチャ氏族出身。
    フィオンドンは部族長の息子であった。父ソルゴが住民500戸を引き連れヌルハチに帰参した。
    当然、息子フィオンドンも父に従い、こうしてヌルハチの旗下に入った。
    エイドゥはヌルハチに出会った時点から心酔していた。ゆえに寡黙に従うタイプだったと思われる。
    これに対し、フィオンドンは父親の決断に流されて臣下に入った人である。部族長の息子という面もあった。
    ヌルハチを絶対と思っていないからこそ、思ったことを口にした。
       とは言え決して傲慢ではなく、正しいと思う事を率直に発言し行動する人であった。
    彼の姉の夫ドゥエイチンバガンが謀反を企てた際は、自ら捕らえ罰している。

  
   
武勲。

      東海ワルカ部討伐で彼は数多くの武勲を挙げ、満洲の支配域を拡大する事に貢献した。
     またイエヘ部の攻撃に苦戦するハダ部が援軍を頼んできた際は、ガガイと供に出兵している。
     しかしハダ部が寝返り、2人は危うくイエヘ部に売り飛ばされる所であったが、フィオンドンはこの謀議を聞きつけ、危機を脱している。
     ワルカ部フィオ城主ツェムテヘが移住を要請した際には、彼も住民の護衛として参加している。
     護衛の行列をウラ部のブジャンタイが襲い掛かるがこれも撃退した。
       東海ウェジ部討伐には、バヤラと供に遠征に参加し、ヘシヘ地方を平定。2千名の住民を捕まえている。その後も東海方面平定に尽力した。
     ヌルハチに付き従いウラ部を滅ぼしている。
     
     
       ヌルハチが遠征する際は常に付き従い補佐した。
     敵に遭えば誰よりも率先して先頭に立ち、かくして戦を勝利へ導いた。
     城を攻めれば必ず落とし、先頭に立って敵の先陣を挫き、向かう度に敵を従わせた。
        彼の戦いぶりを清史はそう記している。

  
   
イエヘ滅亡。

      ヌルハチによる撫順攻撃を受けて、総兵官張承胤は救援に駆けつけた。
    張承胤は塹壕を掘り、そして大砲を盛んに撃ってきた。フィオンドンの馬は轟音に驚き脇へ逃げてしまった。
    周りの将兵もフィオンドンの動きに習って後ろへ下がってしまう。
    フィオンドンは慌てて馬を回し、大声で前進を呼びかけた。
    彼の号令で我を取り戻した全軍は突撃を開始し、かくして勝利を収めたという。
    
       この後、サルフでも勝利を収め、遼東地方の明の防衛力はずいぶん弱まった。
    今までは明の介入を恐れて、手を出せなかったイエヘ部をいよいよ平定する機会が訪れた。
    女真族にあって最後まで抵抗を続けたイエヘ部である。そう簡単に降伏するはずもない。
    城の守りは固く、上からは火矢、石、木片などが次々と落とされ、兵士を苦しめた。
    さすがのヌルハチも抵抗の苛烈さに、一時撤退を命令する。
    ところがフィオンドンは納得しない。「今、城に肉薄している。どうして退く事ができようか!」。
    再びヌルハチは撤退を命令する。フィオンドンは言い返す。「今、城は落ちようとしている。絶対退くな!」。
    この時の両者の言い合いは、傍から見ればさぞかし胃の痛い光景だったに違いない。
    しかし、この機会を逃すまいとフィオンドンは必死に城を攻め、ついに陥落させた。
    城主キンダイシに投降を呼びかけるヌルハチに対し、フィオンドンはキンダイシを厳しく問い詰め、ついにキンダイシを捕らえたのである。
    かくして仇敵イエヘ部は滅亡した。

 
   
股肱の臣。

      フィオンドンは忠直諫言の人であった。反論すれば命も危ない時代にあって、彼の様な存在は貴重だった。
    国家に過ちあれば、そのたびに強く諌めて少しもひるむ所がなかったという。
    ゆえにヌルハチも彼を重用し、政務を補佐させた。
    八旗を作った際は彼を?黄旗のグーサエジエンに任命すると供に、五大臣にも任命されている。
    
      天命5(1620)年、フィオンドンに最後の時が訪れた。
    彼が危篤状態になった時、天変地異が起こったと清史には記されている。
    太陽が西に向かい、雲が沸き起こり、突然嵐になったかと思えば瞬く間に晴れ上がったという。
    かくして彼は息をひきとった。享年57歳であった。
    五大臣の中で、彼が真っ先に亡くなってしまった。ヌルハチのショックは大きいものであった。
    一族の葬式にも足を運ぼうとしなかったヌルハチが、この時は行くと言ってきかなかった。
    息子たちは「もう日も暮れますから…」と反対したが、彼はそれを押し切った。ヌルハチは言う。
    「フィオンドンは、我が股肱の臣である。旗揚げから、喜びも苦しみも分かち合ってきた。
     今、彼の死にさしあたり、どうして悲しまずにおられようか」
    ヌルハチはフィオンドン宅を弔問し、深夜まで嘆き悲しんだという。
      同年9月、ヌルハチは弟ムルガチの墓参りに訪れた。
    その際、シュルガチの墓にも訪れ、酒を捧げ、生前の彼をを思い出し泣いたと記されている。 
    
    
 

  第一功臣。

    歴代皇帝が彼の功績をこう称え、臣下に彼を学べと訓辞した。
   
 
    天聡6(1633)年、ホンタイジは彼を直義公に追封した。
   崇徳元(1636)年、ヌルハチの太廟が作られたが左右にはエイドゥとフィオンドンが双璧として祀られている。
   ホンタイジも当然、生前のフィオンドンを知っており、当時を思い出してこう述べている。
   「フィオンドンは悪人を見つければ、まず先に本人を叱りつけ、後に弾劾した。
   善い者を見つければ、まず教え込み、そして後に推薦した。
   ゆえに彼が弾劾した者は怨んだりしない、彼が推薦した者は奢り高ぶったりしない。
   朕は未だに諸臣の中から、彼の様に諭してから挙げてくる者を聞いた事が無い」
        
   順治帝は順治16(1659)年、詔の中でこう評している。
   「フィオンドンは太祖に仕え、国家の大計を補佐した。広大な領地を開き、建国の功績は元勲の中で第一であろう。
   その功績は後の代まで及ぶべきだが、まだ充分報いているとは言えない。
   子孫を三等公に進爵させることを命じる」
 
    康熙帝は康熙9(1670)年、フィオンドンの碑文に自ら文章を送っている。
   「その功績は諸臣の中でトップレベルであり、当代元勲の第一位である」
     
   雍正帝はホンタイジの与えた直義公の贈名に「信勇」を加えることを命じ、乾隆帝は子孫を一等公に進爵させた。

 
 
 

    

   権力者は、寛容な態度をみせて人々から評価を得る。
     直言の士を褒め称えることは、自身の器量の大きさを示す事にもなった。
       上記の様に皇帝が次々と褒めるのは、単に偉業を称えたというだけではない。
     ひねくれた考え方かもしれないが、彼は皇帝の格好の宣伝材料となった。

 


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