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因縁の関係。
ホホリ。ドンゴ氏族の人。先祖はカルハ地方に住んでいたが、後にドンゴへ移り住んだ。
その地名をそのまま姓にして名乗ったという。
祖父はクチバガン、父はガンルギ。代々、部族長を務めてきた。
クチバガンはジョーギヤ城城主アハナと仇敵関係にあった。
アハナはヌルハチの親戚筋にあたる、いわゆる「ニングダの貝勒」の一人である。ゆえにニングダ全員がクチバガンの敵となった。
両者は互いに憎しみ合い、殺しあった。
ドンゴはしばしばニングダを攻め、ニングダはハダ部から兵を借りてドンゴを討伐しようとした。
ホホリが26歳になった時、部族長だった兄を失い、若い彼が後継者となったのである。
ホホリ、ヌルハチに屈する。
満洲とは因縁の関係にあったドンゴ氏族が簡単に屈したとは思えない。
とは言うものの、他のニングダ貝勒とヌルハチが敵対関係にあった事がこの時は幸いした。
少なくともドンゴの人々から、ヌルハチはニングダの貝勒と同列には移らなかったはずだ。
ヌルハチが周辺に勢力を拡大するのを見て、さすがにこのままではヤバいという危機感があったのだろう。
ホホリはヌルハチに帰参する。
とはいえ、ホホリが帰参したのではなく、ヌルハチの説得がようやく実ったというべきだろう。
ヌルハチは挙兵した頃から、ホホリの騎兵は精強だと聞いていた。
人材不足だった当時、精強な騎兵は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。
ヌルハチは礼節を持って彼を招こうと働きかけている。
1588年、ヌルハチはハダから娘を貰い受け、祝いの宴が開かれた。
ホホリも30騎を連れお祝いに駆けつけた。おそらく、その席を利用してヌルハチはホホリを説得したのだろう。
彼は地元に帰ると、一族のもの挙げて帰参してきたのである。
苦労が実を結び喜んだヌルハチは長女をホホリの許へ嫁がせ、両者は婚姻関係を結んだ。
しかし、仇敵ニングダのヌルハチに降伏する事を潔しとしない人々もいた。
ホホリにはヌルハチの長女よりも古い付き合いの妻がいた。反対派の人々は彼女を故郷に留め、ホホリがヌルハチと戦う事を求めた。
ヌルハチは討伐しようとせず、自ら反対派のところへ赴いて説得し、ついに反対派の人々も屈したのである。
また、ドンゴ氏族が帰参した事で、それまで様子見をしていた周辺部族にある道筋を開いた。
彼らは相次いでヌルハチの許へ帰参し、戦わずして勢力を大きく拡げたのである。
武功。
八旗の前身にあたる四旗の一つ紅旗にホホリと、彼の騎兵隊は編入された。
彼は紅旗の本隊を統括し、精強な彼の本隊は数多くの功績を挙げた。
東海部をフルガンらと供に遠征し、功績を残している。
ヌルハチに従いウラ部討伐に向かう。
討伐を決意したものの、それでもヌルハチはウラ部長ブジャンタイが悔い改めてくれる事を期待していた。
ためらいのあるヌルハチに代わって、ホホリや皇子たちは奮戦し、ウラを滅ぼしたのである。
最期の五大臣。
天命9(1624)年8月、ホホリは亡くなった。享年64歳であった。
フィオンドン、エイドゥ、アンフィヤンク、フルガンと毎年連続して亡くなった。
そしてホホリの死によって、五大臣は皆、世を去ってしまったのである。
苦楽を供にした仲間の相次ぐ死に、自身も老いたヌルハチの心境はどうだっただろう?
「私と諸大臣は肩を並べ、友の様に親しかった。それなのにどうして誰一人残ってくれない!」
ホホリの訃報を聞いて、泣き崩れ、そう述べた。
結局、ヌルハチは股肱の臣を送るばかりで、古くから親しかった戦友は誰一人彼を送る事が出来なかった。
総括。
五大臣は元々、国政を補佐すると共に、裁判官の役割も担っていた。
やがて征討の際には指揮官として出撃する事も増え、将軍の責を兼ねる様になった。
軍政両方を握る、廷臣において最高のポストとなったのである。
エイドゥは最も早くからヌルハチにつき従い、武勇に優れあまたの戦で功績を挙げた。
フィオンドンは最も忠義に溢れた人であり、歴代皇帝がその忠節を称えた。
ホホリ、アンフィヤンク、フルガンは前者に劣ることなく、微賤の身から起こし困難を乗り越え大業を成し遂げた。
国家を創るという大事業に携わること30年。その功績は五大臣に並ぶものはいないだろう。
ゆえに五大臣に信頼を置き、ヌルハチと五大臣という両輪で国を運営してきた。
しかし、相次いで大臣たちが亡くなり、片輪になってしまった。
後継者も定まらない中、これは大きな痛手だっただろう。
史書には、息子たちが有能であったので、五大臣が没した後は四大貝勒(ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジ)がその任を負ったと記されている。
ヌルハチは、生前、「自分の没後は話し合って運営せよ」と申し付けている。
彼にとって国政とは、五大臣とのやり取りだった。
それでうまくやってこれたので、息子たちにもそうしなさい…と伝えたのだろう。
その後、五大臣は補充される事はなかった。
息子たちがその代わりだったし、何より元勲に並ぶものはいなかったのだから。
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