この人物に注目6
  シュルガチ
 (1564〜1611)
 
ヌルハチの同母弟。ヌルハチと行動を共にし、権力はヌルハチに匹敵した様だがやがて対立し、鬱々とした中で亡くなった。

   同母弟。  

     荘親王シュルガチ(舒爾哈齊)。顯祖タクシの三男。ヌルハチの同母弟である。
    幼くして母親を失い、継母はヌルハチをいじめたという。おそらくシュルガチも前妻の子ゆえに同じ様な扱いを受けたことであろう。
    父親も継母の影響を受け冷遇したというから、従って、シュルガチにとって頼れる身内は兄だけだったと思われる。
 
     実の弟という事もあって、ヌルハチもシュルガチを大事にし権力を分け合ったと思われる。
    シュルガチは、自分の子飼いの部下を処刑されかけるという事件が後に起こっている。
    詳しくは後述するが、これはヌルハチの指揮が及ばない、自身の幕僚団を抱えていたという事を意味する。
     ヌルハチとは別に居をかまえ、自分の領民もいたという。
    おそらくヌルハチとシュルガチの関係は正帝と副帝の様なものだったのではないだろうか?
    ヌルハチも当初は、我が弟可愛さにそれだけの力を与えたのかもしれないが、後にこれが亀裂を生むこととなった。
    

   フィオの戦い。

     1607年、ウラ部の支配下にあったフィオ城の城主ツェムテヘが彼らの暴虐に嫌気を指して、「ヌルハチに保護下に加えてほしい」と申し出た。
    ヌルハチはシュルガチに、住民を満洲領内へ移動させる様に命じた。
    彼は自分の部下ナチブ、チャンジュを随伴している。
    加えて、王子
チュエンとダイシャン、そしてフィオンドン、ヤングリ、フルガンら諸将を従え兵3千名でフィオ城へ向かった。
    夜間に身を潜める様にして兵を進んでいた時のことである。
    軍旗上空を何かが光輝いた。光は部隊を追う様についてくる。
    その怪奇現象を見て、シュルガチは大変動揺した。
    光が悪い知らせをもたらすというのは当時信じられた様で、ホイファ部が滅亡する時も流れ星が毎日降り注いだと記されている。
    「オレは兄上に従って、何度も戦場を駆け巡ってきたが、こんなものは見た事がない。
     これは良い報せではないなぁ」
    シュルガチはこの光を不吉な前兆だと考え、今回は兵を退く事を提案した。
    チュエン、ダイシャンは勝手に退けば父に怒られると反対した。
    結局、シュルガチは不安が拭えぬまま、諸将に押される形で進軍を続けた。
 
     結局、ウラ兵と接触する事なく無事にフィオ城に到着。
    住民ら5百世帯を収容し、先方をフルガンに守らせ、撤退を開始する。
    ウラ部のブジャンタイは住民を抱えて動きにくい帰路を狙って待ち構えていたのである。
    1万の敵兵が待ち構えている事を察したフルガンは住民を安全なところへ移動し、本隊の到着を待った。
    本隊が到着すると僅か兵3千と不利ではあったが、諸将は奮戦した。
    結果は満洲の大勝利で、ウラ部の指揮官らを捕らえ、数え切れない馬や鎧を獲得した。
 
     この時、当のシュルガチは何をしていたのか?
    彼は先ほどの光が、まだ頭から離れなかった。3千で1万に勝てるはずもない。あの光はやはり悪い報せだったと思った。
    彼は500名の手勢を山頂にとどめて、動こうとしなかった。
    加えて自分の部下であったチャンジュ、ナチブら百名の兵士も彼に従って動こうとしない。
    そうしている間にチュエンは前進し、山を駆け巡って、敵を撃破していった。

     この空前の大勝利となったウラ部との戦いで、ヌルハチは彼に「ダルハンバトゥル」の称号を贈った。
    しかし、現実は違った。彼は何も功績を残していない。
    やがてそれにヌルハチも気づき、これ以降は彼に兵を指揮させる事はなかった。
 
     ある意味、あの光は不吉なものだったかもしれない。
    シュルガチはそれを信じて、結局自ら不幸を呼び込んでしまった。
    この一戦でシュルガチの栄光は終わったといえる。
    
    
     

   オレを殺すのと同じ。

      フィオでの一戦は単にシュルガチが不興を買っただけに終わらない。
     ヌルハチは生粋の武人であり、常に先陣で戦った勇者である。
     敵を前にして戦わないのは、最も彼の嫌うところであった。
     シュルガチは兄弟ということもあり助かったが、彼の部下チャンジュ、ナジブは処罰の対象となった。
     両名は動かず戦わなかったという事で、ヌルハチはそれは罪であり、死に値すると断罪した。
     シュルガチは「2人を殺すのは、オレを殺すのも同じだ!」と抗議した。
     抗議を受けて、ヌルハチは今回は大目にみて許した。
     チャンジュには罰金を課し、ナチブから田畑を奪った。
     
      この後、シュルガチに兵を任せなかったという。
     戦には向かない
臆病者と映ったからかもしれないが、それならばもっと以前からはっきりしているだろう。
     おそらくは、これを機会に権力の二分化を解消しようとしたのだろう。
     加えるなら、彼が「自分の部下だ」と猛烈に抗議した事が、現状をはっきりしてしまった。
     シュルガチが独自の権力を作っている事を疎ましく思い、今回の失態を理由にその権力を剥いだと考えるべきだろう。

   鬱々とした日々

      まだ40代と働き盛りなのに、やる事がない。ヌルハチは何もさせてくれない。
     シュルガチは自分の家で鬱々とした日々を送っていた。
     ある日、その不満を長男のアルトゥンアと三男のジャサクトゥに漏らした。
     息子たちは「これからどうやって暮らせばよいのか?」と言い、「放っておかれるなら、いっその事好きにやればいい」と父親に薦めた。
     シュルガチは息子たちの薦めに従って、領民ともにヘチェムへ引っ越した。自立の動きを見せたのである。
      彼の勝手な行動にヌルハチは激怒した。
     シュルガチから全財産を没収し、そそのかした2人の息子を処刑した。
     ヌルハチの厳しい態度に、もはや抵抗する力もなくシュルガチは帰ってきてヌルハチに詫びた。
     やはり実の弟を殺すこともできず、財産を戻してシュルガチを許した様である。
      
       とはいえ2人の息子を失い、その落胆は大きかったものだろう。
     1611年8月、シュルガチは失意の中で亡くなった。
     病死という事であるが、一説にはヌルハチが暗殺したという説もある。
     また移転についても、ヌルハチの対明強硬姿勢に危機感を感じて、そこから逃げ出したという説もある。

       シュルガチの息子は他にアミン、ドゥリン、ジルガラン、フィヤングがいた。彼らはみな爵位を得た。
     アミンは活躍し、後に四大貝勒の一人となった。ヌルハチの子供以外で4人に入ったのは彼だけである。
     ジルガランはドルゴン派を粛清したことで有名だろう。
     幼くして即位した順治帝を、ジルガランとドルゴンが摂政王として皇帝を支える事になる。
     権力を巡る両者の暗闘が始まるが、それはまだ先の話である。  
 


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