この人物に注目7
  李成梁
 (1526〜1618)
 
遼東地方を20年に渡って支配した人。希代の名将と当時は称えられたが、実態は粉飾されたものが多かった。

   大器晩成。  

     李成梁。字は汝契。先祖李英は朝鮮から移り住んできたというから、朝鮮族だと思われる(女真族という説もあり)。
    李英が鉄嶺衛の指揮僉事に任命されて以来、その職を世襲してきたという。
    しかし李成梁の頃には一家も没落し、職を継ぐことも出来なかったのである。
    ゆえに結局、40歳を過ぎてもプータロー状態で悶々とした日々を送っていた。
    彼は賢くまた武勇にも優れていた。その才能を当地を訪れた巡按御史が見出し、彼を都へ連れて行った。
    ようやく彼は僉事職を継ぐ事ができ、ここからは今までが何だったのかというくらい、とんとん拍子で出世していく。

    やがては遼東地方の実力者へのし上がった。

 
   
先鋒軍。

     彼の軍隊が強かった秘訣は、募兵制で集めた私兵集団にある。
    各地で腕っ節の良い若者を集めて、彼らに食事を振る舞い金銭を与えた。
    李成梁の許へ行けば生活が出来るというので、武芸に自信のある若者が次々と集まった。
    士気の奮わぬ軍戸(正規兵)に比べれば、野心溢れる彼らほど頼りになる者はいなかっただろう。
      この手法は明代最高の軍人戚継光も用い、自分の私兵集団を率いて南に北に駆け回り、武勲を重ねている。
        
    
     李成梁はこの私兵集団を「先鋒」と呼び、この精強な先鋒軍の活躍が李成梁に大出世をもたらした。
    しかし精強ゆえに無駄な浪費を極力避け様とした。
    モンゴル兵など強い敵にはあえて戦わず、敵が退いてから襲い掛かる。
    勝てると分かったら、火器などを用いて圧倒的戦力でなぎ倒したという。

      当時の遼東は過酷なものであった。
    当時、明と交易をする時は許可証を必要とした。
    明との交易は女真族に莫大な利益をもたらすが、その許可書の数は限られていた。
    女真族同士がそれを奪い合い、また殺し合った。
    さらに彼らはしばしば豊かな明領へ入り略奪を行い、また有利に交易を行うため、しばしば当局を恫喝した。
    モンゴルではトゥマン、ヘシタン、ブェインダイジュらが精強。
    女真族ではワンカオ、ワンウタイ、イエヘ部のヤンギヌ兄弟らが力を誇っていた。
    彼らとの戦いで、この10年間に総兵官殷尚質、楊照、王治道ら3司令官が相次いで戦死している。
    遼東の職に就くことが、いかに危険であるか察せられる話だ。
 
      しかし、こういう騒乱の状況であったからこそ、李成梁は勇躍する機会を得たのである。
    では次に彼の栄えある武勲を紹介したい。
     

    栄えある武勲。

    
         記録では隆慶元年にまず最初の功績を挙げ副総兵官に昇進。
     以来20年以上、李成梁は毎年の様に戦い続けた。
     そして毎年の様に出世し、俸禄を増やしていくのである。 
     隆慶4(1566)年、総兵官の王治道が戦死したのに代わって彼が都督僉事となり、遼東の守りについた。
     北虜の激しかった時代である。
     北方ではモンゴル人の侵入が相次ぎ、明軍が敗れることも多々あった。
     先代の嘉靖帝は「夷狄」という言葉そのものを嫌ったという。  
     それほど、北からの侵入に悩まされた。
     遼東地方においても同じである。前述した通り、守備する者にとっては過酷な土地であった。
     しかし、それを20年に渡って維持してきたのだから、やはり李成梁は大した人だったのだろう。
     この争いの絶えぬ土地で、李成梁は水を得た魚の如く、武勲を積み重ねていくのである。
 
 
 
  
       万暦2(1574)年には建州女真のワンカオを追い詰め、ハダ部の手でこれを殺害させた。これによって左都督に昇進。
     翌年にはモンゴル兵2万を叩いて、太子太保の職を授かった。
     万暦6(1578)年には、族長9名を討ち、千名を殺害し、千頭の馬を獲得した。
     大勝利によって、彼はついに爵位を与えられ、寧遠伯に封じられたのである。
     万暦10(1582)年、遼東を20年来苦しめたというスバカイを討ち取った。
     都を悪魔が討ち取られた事に沸き立ち、帝は大変喜び、彼のために都へ豪邸を用意させたという。
     まさに常勝将軍と呼べる赫赫たる武勲を挙げている。
     なおこの年、ワンカオの子、アタイをグレ城に追い込め城を焼き、アタイを討ち取った。
     ヌルハチの祖父と父はこの時、戦闘に巻き込まれて亡くなったのである。
     成梁は非を認め謝罪し、賠償を行っている。
     ヌルハチに便宜を図ったことが、後に明を苦しめる事になったのは皮肉であろう。
     その後もイエヘ部を屈服させるなど、功績を残していた。
     殆ど彼一人の功績で北方問題を片付けてしまった。

   李成梁、偽りの報告で告発される。

       明史には彼の武勲が延々と書き連ねられているが、現在ではそのうち幾つかは偽りであると考えられている。
     万暦17(1589)年は、ヌルハチが満洲5部を統一した年である。
     李成梁にとってもこの年は、重要な年となった。
     3月義州に侵入したモンゴル兵を討伐に向かった把総朱永壽が戦死。軍は壊滅。
     9月には、3万の兵が再び侵入。備禦李有年、把総馮文昇ら成梁の部下が戦死、先鋒軍も数百名を失った。
     成梁の勝利は、彼の私兵集団先鋒軍に支えられていた。歴戦の勇士をこの戦いでいっぺんに失ったのである。
     彼の衝撃は大きかったはずだ。
     そして立て続けの敗北に焦ったのだろう。
     翌年2月、李成梁は伏兵に遭い兵1千名を失ったが、280名を倒したと嘘の報告をした。
     結局、モンゴル兵は明領奥深くまで入り略奪を行った。先鋒軍を失った成梁は為すすべがなかった。

       しかし、こう立て続けに戦勝報告ばかり来ると、誰かが疑いをもつのも当然だろう。
     万暦19(1591)年3月李成梁の報告を調査していた給事侯先春がその結果を提出した。「功績欲しさにみだりに殺した」と。
     侯先春が槍玉にあげたのは、先述した嘘の報告の件である。
     彼が調べたところ、殺害された280名は難民であった。略奪を恐れて逃げてきた人々を副将李寧らに命じて殺害したのである。
     さらに死んだのは千名どころでなく、数千名であった。その大敗北を成梁も総督も誰も報告しなかった。
     
       巡按御史(監察官)胡克儉。字を共之。万暦14年に進士に及第し、清廉な性格ゆえに御史に任じられた。
     当時の金で功績を捏造し、官級を私物化する風潮を嫌い、それを正す様、帝に奏上している。
     今回の事件は克儉の担当地域(山東・遼東)で起こった。
     当然、自身の性格からして、これは無視できない事態であった。
     克儉は李成梁が出した報告は殆どデタラメだと弾劾。数多く政府を騙していると批判した。
       ところが、中央は李成梁支持に傾いていた。
     大臣らは克儉を嫌い、中には彼を「賊の仲間」と謗る者、克儉は誇大妄想と言う者などが現れた。
     しかし、克儉は発言を止めようとしない。ひたすら成梁を罰せよと願い出た。
     結局、克儉は故郷へ帰る様命じられ、追放されてしまうのである。
     30年後にようやく中央への復帰を許される。が、すぐに宦官党の力が強まり、彼は老衰を理由にまた免職されるのである。
 
       克儉を追放したとはいえ、李成梁は落ち着かない日々を過ごした。
     間もなく、あの侯先春が都へ戻り、成梁を厳しく批判した。やがて「帝も次第に揺れ始めている…」と成梁の耳に入った。
     これ以上、批判が続けば命も危ない…。彼は一計を案ずる。批判を交わすために自ら病気の悪化を理由に辞職を申し出た。
     同年11月、帝は御史鶴鳴言の提案を支持して解任を決定した。
     本来なら死罪も当然だが、結局、特に罰せられることはなかった。 
       翌年(1592)、寧夏でタタール部のボハイが反乱を起こす。
     御史梅国驍ェ李成梁を用いてこれに当たらせる事を提案したが、王徳完らの反対で登用される事はなかった。
     かくして李成梁は表舞台から姿を消す事になる。

   

   指揮官が相次いで交代する。

       成梁が去って後の遼東運営は惨憺たるものであった。
     20年という成梁時代の長さが新参の指揮官には足かせとなった。現地の古参の部下を、いきなり動かせるほど簡単ではなかった。
     それに加えて、先鋒軍として活躍した李寧、李平胡、孫守廉らがすっかりダメになっていた。
     登用された当初は、皆武勲を狙う腕っ節のいい若者たちであった。
     それが次第に功績を重ねるにつれ出世し、富貴を得るともっぱら城に籠もる様になった。
     まして彼らも、もう年である。彼らに頼ること自体、無理な事であろう。
      さらに連中は民衆から税を搾り取る事に夢中で、人も馬も尽きていた。
     李成梁、最大の罪はここにある。
     彼は部下の育て方を間違い、単に肥えさせただけだった。これが一つ目の罪である。
     そして、後継を育てていなかった。これが二つ目の罪である。
     結局、功を為し、豊かな生活を実現させただけで終わった。目先の利益に目を奪われ、先のこと、国のことを何も考えていなかった。
     明軍はヌルハチに対して、情けないくらい敗退する。
     その原因は、まさにここにあるといえよう。
 
      成梁が去って10年。司令官は8名が入れ替わり、防衛はますます緩んでしまった。
     この交代の多さに、成梁後のやりにくさがうかがえよう。      

   安定した時代。

       総兵官馬林は清廉な人で、遼東で財をむさぼった極悪宦官高淮との折り合いが悪く、それ故に解任された。
     万暦29(1601)年8月、大学士沈一貫の提案で成梁が再び遼東へ赴く事になった。
     とはいえ、彼はもう76歳の老人である。戦場を駆け巡るなど不可能であった。
     しかし一貫が言うには、「老いたとはいえ、兵の指揮を執るのはまだまだ大丈夫である」との事だった。
     かつての様な戦闘は収まっていたのだから、確かに一貫の言う楽観論も妥当かもしれない。
     だが遼東の指揮官は何をしなければならないのか、防衛第一の考えが欠落しているとしか言い様がない。
     当時の遼東では開原、広寧で市場が開かれ、諸部族も争いより利を生む事に奔走した。
     野蛮さが失せ、むしろ成梁によしみを付けて、利益を増やす事に熱心だったのである。
     ゆえに成梁が復帰してから8年。特に争いもなく、別に何をしたわけではないが、何もなかったので太傳の名誉職を贈られた。

      かの悪徳宦官高淮といっしょになって李成梁は、財産を増やす事に夢中になった。
     「麒麟も老いれば駄馬にも劣る」とは、まさにこの事だろう。
     朝貢で利益を作りたいヌルハチからも、賄賂を嬉々として受け取っていた事であろう。
     しかし、ヌルハチは単に財産を増やしたいわけではなかった。
     国力の増大こそ彼の目的であり、そのための資金稼ぎであった。
     お金に狂奔する成梁にそれが分かるはずもなかった。

   再び弾劾される。

       ヌルハチは間もなく、その牙を向けた。
     明が開拓している土地は我々のものだと凄んだのである。
     安定した時期ですっかり堕落し、この状況を壊したくないと思った成梁は彼に賠償金を払う事で、目をつぶらせた。
     しかし、それでもヌルハチは納得しそうにないので、住民を追い出し従わない者を殺してしまったのである。
    
       時代は万暦初期に遡る。成梁は兵部次郎(国防次官)の汪道昆が視察に訪れた時のことである。
     成梁は狐山へ道昆を連れて行き、この土地を開拓する様提案した。
     開拓出来る肥沃な土地が8百里に渡って広がっており、農牧の利益は増大するだろうと述べた。
     道昆は都に帰ってそれを報告。すぐに許可が降りた。
     参将2名を派遣し土地を守らせ、住民が移り住み開拓が始まった。
     成梁の目論み通り、土地は発展し、人々はこぞって移り住んだ。まさに楽土であったという。憧れて移民した人の数6万4千戸にまで膨れ上がったという。
       
       そして現在に戻る。ヌルハチはこの土地を要求した。
     成梁は都督、巡撫らと相談し、この土地を守るのは困難との結論に達した。
     土地を放棄して住民を内地へ収容する事にしたが、楽土を離れることに多くの人が抵抗した。
     そこで大軍を用いて追い立てた。家を焼き払い、従わない者は容赦なく殺した。
     あろう事か、この人々を賊に寝返った連中と報告し、それを逮捕した功績で褒章を受けたのである。
       愚かな目論見はすぐバレた。兵科給事中宋一韓が「何も考えずに土地を放棄した」と弾劾。
     調査に当たった巡按御史の熊廷弼も一韓の言を支持した。彼らは成梁を厳しく罰せよと述べた。
       しかし、当時の万暦帝はもはや金銭の奴隷だった。
     金をもたらす李成梁らに、平素から目をかけていた。
     結局、彼は降格はおろか何も罰せられる事もなく、長寿を全うして亡くなった。享年90歳。

      

   安定した時代。

       前半、成梁が遼東を守る事22年。大きな戦勝報告は10回あり、帝はそのつど太廟へ赴き、先祖へ勝利を報告した。
     彼の戦功は国家が建国されてから2百年。彼ほどの者はいなかったという。まさに偉大な英雄が世に登場したという雰囲気だったのだろう。
     彼は勝利するたびに出世した。彼の一族も高い階級に就き、召使でさえ富貴を実現したという。
     李成梁の周辺はもちろん、何故か中央の官僚も僥倖に恵まれた。
     廷臣はその慶事のおこぼれに預かり出世し、またボーナスが支給された。
      あるいは廷臣が成梁の報告を利用して、「空前絶後の大勝利」と持ち上げ英雄化し、そういう雰囲気に仕向けたのかもしれない。
     とにかく辺境で功績あれば、みんなが得するのである。戦えば勝つ…まさに成梁様々と言ったところであろう。
     しかし、戦果といえば戚継光も負けてはいない。
      では、なぜ彼一人が人気者になったのだろうか?
      
      成梁は単に出世するだけに飽き足らず、財をむさぼった。出世するに従い傲慢となり、行動も大胆になった。
     軍資金を懐に入れ、塩税など国家に納めるべきものを秘匿し、市場から上がる利益をピンハネした。
     遼東の商人の利益はことごとく成梁のところへ流れたと言われるほど、えげつのないものだったのだろう。
     彼は贅沢したかったのはもちろんだが、処世術の為にも金は必要だった。
     当時は宦官や言官の言葉次第で何とでもなったのである。
     中央と仲良くしなければ、いつ罰せられるか分からない。それを防ぐには金が必要だった…とも考えられる。良い方に解釈すれば、だが。
    
       そこで得た利益を、成梁は権勢家に注ぎ込み、中央の有力者と結託した。
      官僚・宦官・地方の知事らで賄賂に満足した者はいないという貪欲さで、彼の賄賂を受け取り続けた。
      そして前述したボーナスの連続である。さぞかし楽しかったであろう。
      官僚にとっては夢の様な、当代は乱痴気騒ぎであったと記されている。そうやって彼らは国庫を貪り続けたのである。
        
        その戦功も怪しいものである。辺境だから確かめる人もいない。
      適当に取り繕えば、功績と認められるのだ。数多い戦功も幾つかは捏造されたものであろう。
      彼の戦い方は次の様だったと批判されている。
      敵が侵入すれば住民を町から追い出し、兵士は成り行きを見守る。何もない城を残し、敵が諦めて帰ったところで後ろから攻めた。
      あるいは敗北すれば、一般市民を殺害し、その首を敵のものと偽った。
      
       こういったデタラメを行っても、誰も何も言わなかった。日ごろの賄賂が効いたのである。
      閣僚も、知事も敗北をもみ消してきた。誰かが逆らい批判を口にすれば、阻止し追放するので、どうする事も出来ない。
      あるいは敗戦があっても現場指揮官が罰せられるのみで、成梁は不問にされた。
      
       この様に、現実とはかけ離れた遼東像が作られていった。
      成梁は金を持って中央を腐らせ、内部においては維持・養成を怠った。
      しかし、これは成梁だけの責任ではない。
      目先の利益に目を奪われ、彼を利用して得をするなど恥知らず以外の何者でもない。
      
       しかし、確かに彼の功績は立派なものもある。
      初期は皆、必死になって城壁をよじ登り、河を渡り、夜間に行軍して敵を打ち破った。
      戦死した部隊長も少なくない。
      
       自分は彼を武人だとは思えない。
      同時代に活躍した戚継光はま強攻策を用いて海賊を倒し、その後、融和策を用いて原因を正した。
      貿易を解禁することで、密貿易商人を無くし、非合法な連中を減らしたのである。継光らは戦をなくすことに勤めた。
       比べて成梁はただ倒すだけで、原因まで治そうとしなかった。
      敵は討たれて、それを恨み、また挙兵する。その悪循環が毎年続いた。繰り返される戦功の原因はそこにあった。
      彼が優秀であったことは間違いないが、それは軍人・政治家というより、商人であったと思う。
      開拓地を提案した下りはまさに彼の才能が充分に発揮された瞬間であろう。
      戦争という商売で、ひたすら彼は自己の栄達を追い求めたのである。
      ゆえにその種である争い自体を無くそうという所までは考えなかったのかもしれない。 
      
       
      
      
      

 


<トップに戻る>

※当ページの背景・バーデザインのweb素材は中華素材屋様の作品を拝借しております。当サイトからの使用は一切お止めください