今月の法話 8月
草原の夜
金子みすゞ 作
ひるまは牛がそこにいて、
青草たべていたところ。
夜ふけて、
月のひかりがあるいてる。
月のひかりのさわるとき、
草はすっすとまたのびる。
あしたもごちそうしてやろと。
ひるま子供がそこにいて、
お花をつんでいたところ。
夜ふけて、
天使がひとりあるいてる。
天使の足のふむところ、
かわりの花がまたひらく、
あしたも子供に見せようと。

無慈悲な心
お盆になると決まって思い出す話に、芥川竜之介の『くもの糸』がある。
腱陀多(かんだた)という大泥棒が地獄の底でうごめいているのを見て、お釈迦様は、いろいろ悪事を働いたこの大泥棒もたった一つだが、クモを助けた善行の報いに、できるならこの地獄の底から救い出してやろうと考えられた。
玉のような白蓮の間から、クモの糸を遥か下にある地獄の底へお下ろしになった。
一方、地獄の底の地の池で外の罪人と浮いたり沈んだりしていた腱陀多は、銀色に細く光るクモの糸が、人目にかかるのを恐れるように自分の上へ垂れてくるのを見つけた。この糸にすがって登っていけば、地獄から抜け出せるだろうと、両手でしっかりとつかみながら、上へ上へと登りはじめた。
しかし、地獄と極楽との間は、何万里となくあるだけに容易に上へは出られない。腱陀多もくたびれて一休みしながら、遥か目の下を見下ろした。 ところが、数限りない罪人が、まるでアリの行列のように上へ上へ登ってくるではないか。 自分一人でさえ切れそうなこの細いクモの糸が、どうしてその重みに堪えることができよう。
そこで、腱陀多は大声で「こら、罪人ども、このクモの糸はおれのものだぞ。下りろ、下りろ」とわめいた。そのとたん、今まで、なんともなかったクモの糸が、急に腱陀多のぶら下がっている所から、プツリと音をたてて切れた。
一部始終をご覧になっていたお釈迦様は悲しそうなお顔をなさった。 自分ばかり、地獄から抜け出そうとする腱陀多の無慈悲な心が、その心、相当な罰を受けて元の地獄へ落ちてしまったのが浅ましく思われたのだろう。
今日ほど、生命のいとおしさが忘れ去られている時代はない。 それは優しさの通らない社会であり、子供や若者たちの魂の響き合わない世界である。
無慈悲とは、辞書によれば「思いやりのないこと・むごいこと」とある。毎日のように入ってくる暗い・むごいニュースには、相手に対する思いやりはない。 なぜ人の命が”軽く”なり犯罪が起きるのか。 それは、私たち一人ひとりが「自分」を大切にして生きていないからではないか。 一つの命が成り立つためには、他の無数の生命が、それを支えている。
わが生命もまた、他の生命を支えているのだという考えが、人間の誠実さを生み、優しさをつくるのではないか。
「草原の夜」の詩のように、美しい行為は美しい行為を生むということを信じたい。
JA滋賀県中央会 同和対策室 発行 「やさしさ・ふれあい」より 引用

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